化粧女王を探す長い旅 by 大王

2005-10-03 早良郡日記

[早良郡風景]昭和46年9月2日飯盛山〜叶が嶽〜拾六町〜野方〜壱岐神社

橋本集落から

画像の説明 橋本は、水路で囲まれた美しい集落で、水路は神社の前にも通っていた。当時は柵も、コンクリートで水路と道路が判然と区別されていなかったので、石が通路に渡してあった。画像の説明 橋本から十郎川に向かう道筋には、人家がほとんどなく、誰にもあうことがなく水田の中をゆくことができた。

 水田ごしに博多湾に浮かぶ島が、まるで水田から立つ山のようにみえている。

夏の飯盛山

画像の説明 飯盛山は夏の光をあびている姿。このころの夏は、いまよりももっとぎらぎらしていて、暑かったような気がする。

画像の説明

 夏草が茂る風景の中を自転車で走っていると、草のにおいがたちこめる場所に出て、あせをぬぐうと、飯盛山がみえた。

境界があいまいな緑色

画像の説明 水田以外は、雑草や林が茂っている。そこには水があるかもしれないし。塚や石碑が立っているかもしれない。 子供にとってはなぞに満ちたあいまいな場所だった。

画像の説明 自転車で長い距離を走った。農道を延々とゆくと、筑肥線の線路を越えて、生き松原の神社に出た。

 壱岐村の範囲はとても広大で、大部分は水田だったが、北部には神社がある。かつては一面の松林で、この神社も松林の中にあったはずだが、そのときはすでに松枯れの被害が広がり始めていたと思う。

 赤く枯れた松が拝殿の両側に残っていた。

土手道をゆく

画像の説明 室見川の土手道も、かつては、こうだった。このときすでに室見川の土手道は開削されて道路になりつつあったので、その当時をしのぶための代役として、十郎川にその面影を求めて自転車で撮影にいったときが、この写真だ。

画像の説明 この時間のことはとても鮮明に覚えている。遠景に飯盛山を入れて撮影した。飯盛山は早良郡のどこからでも見える郷土の山だった。 はるかに続く、土手道を歩くのは、とても楽しかった。十郎川の土手に、松が1本枯れている場所があり、そこには石があった。

塚があった

画像の説明 丸い自然石の塚には、江戸時代の年号が刻んであった。 誰かの墓石かもしれない。この当時、墓の場所とはかけはなれたところに、一人墓石をつくり眠っている人は、どんな人なのか、石の裏側をみればよかったが、詩のために年号だけを記録して、そのばを去った。

画像の説明 目印に植えたに違いない一本松もこのときに枯れて、やがて道路の改修工事のときに、石も別な場所に移転されたと思う。

 なぞの塚の存在は、ながく心にとどまっていて、今もあのときの風景とともに思い出す。

美しかった田園風景

画像の説明 ドイツとかを旅すると思うのだが、都市と田園、人家がある場所と農村が判然と区別されていて、今も美しい。

 この当時の日本も「市街地調整区域」という制度が完璧に機能していて、農村地帯や田園には、人家が無秩序にたつことがなかったのだ。

画像の説明 田園が延々と広がっている。それをみているだけで、人間の存在を知ることができるし、なによりも景色は美しい。

 自転車で出て、いろいろな水田の中の道を自在に走り、畑で休み、川をみて日が暮れて家に戻る。

 休日はだたそれだけに明け暮れた時期もある。石碑や地蔵を見て、何百年も前から、この土地を耕していた人の記録を知るのも楽しかった。

二の堰の風景

画像の説明 室見川には中流から下流域に3つの堰があった。ここは小田部橋そばにある2の堰。砂浜もあり、水深が浅いせいもあり、学校から遊泳許可がでていた唯一の場所だった。

 鮠を釣る人。近景に壱岐の若八幡神社。遠景に橋本の吉野神社の森をながめることができる。飯盛山も背振山地も一望できる橋からの風景は、いまも同じ場所からみることができる


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