化粧女王を探す長い旅 by 大王

2005-10-01 早良郡日記

[早良郡風景]昭和46年12月30日、小田部〜吉野神社〜若宮神社〜山王神社

農村の山羊

画像の説明 飯盛山にしょっちゅう通っていたので、金武村大字飯盛付近の農村にいた山羊とはすっかり顔なじみになった。 とはいっても、山羊はわれわれのことなんて、ちっとも思っていなかったろうけど。顔なじみだなんて。

画像の説明 ひたすら雑草を食べていた。山羊は、刈り入れが終わったあとの田圃で雑草などを食べて終日すごしていた。

養豚場と養鶏場

画像の説明 山羊の背後は、養鶏場か養豚場だったと思う。早良郡の集落には、ありふれた風景だった。画像の説明 廃神社の社殿。神社が廃止されることなんてあるんだろうか。ほんとうに廃神社だったのかどうかは、実のところよくわからない。

壱岐村の若八幡神社

画像の説明 水田の中にある神社で、農道をたどるか、田圃の中を歩いてゆかないと、鳥居の前にたどりつけなかった。

画像の説明 正月を前にして、しめ縄が新品になっていて、すがすがしかった。

橋本の吉野神社

画像の説明 橋本の神社は、中には末社もあり巨大だ。神社の森の正面は室見川の土手からになっている。集落を抜けて正面に出る通路もあった。

画像の説明 川べりから、こんもりと見える森は、誰も人が訪れないせいもあるけど、ひっそりとしていた。

橋本の町を背景に

画像の説明 神社に通じる農道に立つ。背後には、橋本の集落が見える。画像の説明 遮蔽物がなにもないので、とてもよく見通せるが、徒歩でゆくと10分少々は、かかる。田園が続き、ほかには集落はない。

手作り掲示板

画像の説明 早良郡原村大字小田部の教善寺の山門前に、爺様2人。本堂は、江戸時代末期の建築だったというが、この後の立て替えで姿を消した。画像の説明 爺様2人の町内の道路はまだ未舗装だが、車は増加してたらしい。 2人は、「徐行」の手書き看板を作り、町内各地に貼って回った。その記念写真のようだ。川には柵が無い。

記念写真

画像の説明 いまでいうとボランティアということか。電柱とかに貼るのも、善意なので、容赦されていたのだろう。看板貼ってくれ!と行政に陳情するより、自分らでまずやったということなのか。

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2005-10-02 早良郡日記

[早良郡風景]昭和46年4月室住団地から室見川

室住団地と飯盛山

画像の説明 雨雲が垂れ込める中、室住団地ごしに飯盛山をはじめとする山を写した。画像の説明 室住団地のあたりも、かつては水田で、室見川堤防に沿って、自然林の森があった。

雨あがりの飯盛山

画像の説明 この光景は記憶にないのでカメラを共有していた弟が撮影したものかもしれない。

画像の説明 雨が途切れて雲間から薄日が差していた。

公園化直前の室見川河川敷

画像の説明 河川敷にブルドーザが入っていた。かつては河川敷は、雑草や月見草などが茂っていて、どこから川面になっているか判然としていなかった。このあたり唯一のコンクリート橋の橋本橋の周囲に砂煙があがっている、未舗装道路が堤防上に開通していたので、自動車が通過する砂塵だとおもわれる。

画像の説明 川はこのように流れていて、とても美しかった。遠景に見えるのは、対岸の若八幡神社の森だとおもうので、これは団地側の堤防から写したものだろう。

夏は月見草が茂っていた

画像の説明 水田以外には、人家もほとんどない。人間が住む集落よりも圧倒的に水田と畑が多かった早良郡のありふれた光景だった。

画像の説明 拾六町方向を望む。壱岐から拾六町まで、田んぼの中の農道のようなところを歩いていった。

川ごしに叶が嶽を望む

画像の説明 昭和43年以前の風景は撮影していないので、ちょっと残念だ。画像の説明 団地もなにもなく、春になると蓮華と菜の花の海になり、ピンクと黄色のじゅうたんがどこまでも広がっていて、それはきれいだった。

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2005-10-03 早良郡日記

[早良郡風景]昭和46年9月2日飯盛山〜叶が嶽〜拾六町〜野方〜壱岐神社

橋本集落から

画像の説明 橋本は、水路で囲まれた美しい集落で、水路は神社の前にも通っていた。当時は柵も、コンクリートで水路と道路が判然と区別されていなかったので、石が通路に渡してあった。画像の説明 橋本から十郎川に向かう道筋には、人家がほとんどなく、誰にもあうことがなく水田の中をゆくことができた。

 水田ごしに博多湾に浮かぶ島が、まるで水田から立つ山のようにみえている。

夏の飯盛山

画像の説明 飯盛山は夏の光をあびている姿。このころの夏は、いまよりももっとぎらぎらしていて、暑かったような気がする。

画像の説明

 夏草が茂る風景の中を自転車で走っていると、草のにおいがたちこめる場所に出て、あせをぬぐうと、飯盛山がみえた。

境界があいまいな緑色

画像の説明 水田以外は、雑草や林が茂っている。そこには水があるかもしれないし。塚や石碑が立っているかもしれない。 子供にとってはなぞに満ちたあいまいな場所だった。

画像の説明 自転車で長い距離を走った。農道を延々とゆくと、筑肥線の線路を越えて、生き松原の神社に出た。

 壱岐村の範囲はとても広大で、大部分は水田だったが、北部には神社がある。かつては一面の松林で、この神社も松林の中にあったはずだが、そのときはすでに松枯れの被害が広がり始めていたと思う。

 赤く枯れた松が拝殿の両側に残っていた。

土手道をゆく

画像の説明 室見川の土手道も、かつては、こうだった。このときすでに室見川の土手道は開削されて道路になりつつあったので、その当時をしのぶための代役として、十郎川にその面影を求めて自転車で撮影にいったときが、この写真だ。

画像の説明 この時間のことはとても鮮明に覚えている。遠景に飯盛山を入れて撮影した。飯盛山は早良郡のどこからでも見える郷土の山だった。 はるかに続く、土手道を歩くのは、とても楽しかった。十郎川の土手に、松が1本枯れている場所があり、そこには石があった。

塚があった

画像の説明 丸い自然石の塚には、江戸時代の年号が刻んであった。 誰かの墓石かもしれない。この当時、墓の場所とはかけはなれたところに、一人墓石をつくり眠っている人は、どんな人なのか、石の裏側をみればよかったが、詩のために年号だけを記録して、そのばを去った。

画像の説明 目印に植えたに違いない一本松もこのときに枯れて、やがて道路の改修工事のときに、石も別な場所に移転されたと思う。

 なぞの塚の存在は、ながく心にとどまっていて、今もあのときの風景とともに思い出す。

美しかった田園風景

画像の説明 ドイツとかを旅すると思うのだが、都市と田園、人家がある場所と農村が判然と区別されていて、今も美しい。

 この当時の日本も「市街地調整区域」という制度が完璧に機能していて、農村地帯や田園には、人家が無秩序にたつことがなかったのだ。

画像の説明 田園が延々と広がっている。それをみているだけで、人間の存在を知ることができるし、なによりも景色は美しい。

 自転車で出て、いろいろな水田の中の道を自在に走り、畑で休み、川をみて日が暮れて家に戻る。

 休日はだたそれだけに明け暮れた時期もある。石碑や地蔵を見て、何百年も前から、この土地を耕していた人の記録を知るのも楽しかった。

二の堰の風景

画像の説明 室見川には中流から下流域に3つの堰があった。ここは小田部橋そばにある2の堰。砂浜もあり、水深が浅いせいもあり、学校から遊泳許可がでていた唯一の場所だった。

 鮠を釣る人。近景に壱岐の若八幡神社。遠景に橋本の吉野神社の森をながめることができる。飯盛山も背振山地も一望できる橋からの風景は、いまも同じ場所からみることができる

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2005-10-04 早良郡日記

[早良郡風景]昭和47年正月吉野神社〜若八幡神社〜山王神社〜橋本

荒れた山王神社

画像の説明 野方の集落のはずれだったと思う。集落を見下ろす高台にあった山王神社。早良郡内のどの神社も、つつましいながら、大切にされていたと思うが、ここは、訪れた当時はひときわ荒れていた。画像の説明 農道から、飯盛山を望む。農村の里山であった飯盛山は、このように、茶わんにご飯を持ったような形状をしている。山の北側から見ない限り、おおむねこのように見えていた。

橋本方向を望む

画像の説明 若八幡神社から遠く、橋本方向を望む。さらに背後には背振山地が見える。

画像の説明 いつもひっそりとしていた若八幡神社。集落から外れている神社なので、人影があることはほとんとなかった。

冬枯れの田園風景

画像の説明 正月は、一面このように田畑がむき出しの状態になる、春にレンゲ草や菜の花がさくまでの間は、とても荒涼としている。雲の切れ間から陽が差している。

画像の説明 撮影順がわからないのだが、これは橋本の吉野神社だろうか。飯盛への経路は、常に、壱岐の若八幡神社から橋本の吉野神社を経て向かうのが定例になっていた。

境内の末社

画像の説明 吉野神社境内の末社だと思う。神社の境内にはさまざまな末社があり、大きなところほど、その数が多かった。

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2005-10-05 早良郡日記

[早良郡風景]昭和49年4月?羽根戸

木造橋だった小田部橋

画像の説明 小田部橋は、最初は橋脚部分まで含めて完全に木造橋だった。自動車が途中ですれ違うための、橋のふくらみが設けられていた。

 その後、橋脚部分だけがコンクリート製に変更された。欄干が低いので、川を覗き込んでいたり、自転車で通過するときには、転落するのではないかと気になった。

画像の説明 飯盛神社前の水田。田植え前は、どの田圃もレンゲ草や菜の花でうまっていた。レンゲ草の水田は見通しがきくので中にはいってよく遊んだ。

飯盛山北側の肥坪

画像の説明 肥壷。肥えたご。どんべんだご。とかいっていた人糞を肥料化するためのためます。落ちたら大変なことになった。

 早良郡の水田には、いたるところ、こえたごがあった。画像の説明 飯盛神社の拝殿。たくさんの絵馬が奉納されていた。肖像画もあった。気軽に拝殿にあがり、長い時間絵馬をながめていた。

 神社以外に、興味はあまりなかった。神社の中で過ごしていると、300年くらいの時間を、ずっと過ごして来た、土地の歴史と一体化できるので、幸福な時間だった。

知恵の水に通じる階段

画像の説明 菩薩が池のまわりに並んでいる不思議な場所に通じる階段。飯盛神社側からもいけるのだが、この階段からいったほうが、神秘的で好きだった。

画像の説明 飯盛神社の狛犬にまたがってみた。今はできないだろうが、当時は、誰もいない場所だったので、こういうこともできた。敬愛していた農村の神社が、現在は初詣客でごったがえしているので、驚く。正月に行っても、土地の人以外の参拝は皆無だったと思う。

能舞台

画像の説明 自転車ごと失礼した。自転車は、自分のからだの一部のようだったし、ここ、飯盛神社にもっとも頻繁に参拝するときの欠かせない相棒だったし。


2005-10-06 早良郡日記

[早良郡風景]昭和49年4月卒業祝いに飯盛の集落にでかけた

田園の中の樹木

画像の説明 田園の中には孤立した樹木がある。たいていそこには、祠や地蔵、ときとしては墓地があった。

 かんかん照りの田園の中にあって、日陰がある場所でもあった。画像の説明 春は、土筆が生えていて、たくさん摘んで佃煮にしたりしたが、すぐに成長するので、隣のスギナになってしまう。

棕櫚のある風景

画像の説明 山の端にある飯盛の集落は段々畑になっているところもあった。

画像の説明 4月なので耕運機で田んぼを耕す人もいる。中央の樹木は棕櫚の木で、早良郡の農村には、かならず植えられていた植物だ。たかいものは15メートルくらいあり、夕暮れや早朝に、トンビなどの鳥が群れをなして周回していることもあった。

文珠堂の前

画像の説明 蜜柑の木にくもの巣があり、そこに菜の花をちぎって乗せた。

画像の説明 飯盛山のふもとにある文珠堂の前提には八重桜が咲いていた。神社とは違い、日当たりもよく、自転車で疲れた体を休めるにはよい場所だった。

十三仏像と知恵の水

画像の説明 今とは違って、十三仏は、のどかな光景だった。泉が中央にわいていて、池のようになった周囲に並んでいる。画像の説明 石仏の顔面は、かなり摩滅しているものもある。いつの時代に誰が彫ったものか、わからない。

文殊堂に通じる階段

画像の説明 文殊堂に通じる石段は、40段くらいあっただろうか。木立に囲まれた石段をのぼりきると、別世界のように穏やかな空間が広がっていた。

画像の説明 下の田んぼには、蓮華草と狐花とよんでいた黄色の花が咲いていて、紋白蝶が舞っていた。しゃがむと草のにおいがした。

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2005-10-07 早良郡日記

[早良郡風景]昭和49年7月28羽根戸〜飯盛山

みんな同じところに案内

画像の説明 遠方の知人でも、親戚でも、連れてゆくところはみんな同じところにしていた。文殊堂もそのうちのひとつで、感動してくれたかどうかは疑問です。画像の説明  十三仏の泉も、定番スポットでした。能舞台も、この時期までは、なんの建物か分からないところでした。

棕櫚のある風景と飯盛山への道

画像の説明 一番好きな植物は棕櫚でしたね。かつては棕櫚縄とかを綯うときの必要な植物だったのでしょうが、最近はまったく不要になったせいか、家を新築するついでに切り倒すことが増え、姿を消してゆきます。

画像の説明 夏草に覆われた道をどこまでのゆくと、その先に飯盛山がある。自分にとっては最高の場面で、友達や自分自身をそこにたたせて撮影を強要した記憶があります。

早良郡の道

画像の説明 早良郡の道は、どこもこのような感じでした。人家よりも延々と続く水田です。画像の説明 橋本の集落は美しい水路に囲まれていて、水路には鯉が泳ぎ、水路の上に出窓などがありました。

 きっと島原のように湧き水が豊富だったのでしょう。水郷みたいでした。現在は、子供が転落したりする危険を回避するために、鉄柵で包囲されていたり水路工事が施されて水を楽しむという光景はなくなっています。


2005-10-08 早良郡日記

[早良郡風景]昭和49年7月室見川

進む宅地開発

画像の説明 早良郡はこの年から急激な宅地開発が始まった。

画像の説明 野方から叶が嶽に向かう山麓の宅地開発が始まり、国道202号の建設も進み、かつては糸島郡との境界となっていた、飯盛山〜叶が嶽〜長垂山は、道路によって寸断されてゆく。

 室見川の護岸工事も進んだ。すでに河川敷の公園化も進み、月見草がしげっていた河川敷には芝が植えられた。


2005-10-09 早良郡日記

[早良郡風景]昭和51年1月2室見川、小田部

室見川の土手と小田部の寺院

画像の説明護岸工事が進み、土手に茂っていた笹はすべて刈り取られた。橋本橋から室見の河口付近まで、土手の道はびっしりと笹に覆われていたが、この時期には、すべて伐採されてすっかり見通しがよくなっていた。

 背後には、小田部橋が見えているが、そのさらに背後を注意深くみると、国道202号のために建設中の小田部大橋のコンクリート橋脚が見える。

 沿線には郊外型飲食店の建設も進んでいる。

画像の説明 江戸時代末期の建設とのいわれた本堂が見えている。小田部の教善寺の山門もかなりの歳月を経た木製だった。


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