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英語でさるく 那須省一のブログ

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再び "out of this world"!

 参院選で自公政権が目標としていた議席に達せず、石破首相が退陣の危機にあえいでいるようだ。参政党というこれまで耳にしたことのない政党が躍進するなど、国政に激震が走っている。かといって日本の政治が根底から新しくなるわけではなく、既存政党に取って代わる政治が実現するかは全くの未知数。当選を果たした議員たちの一喜一憂には何の感慨も持ち得ない。これも日本の政治の貧困か。いや、我々有権者の不作為の結果と憂うべき問題かもしれない。
 参政党のことは何も知らないし、興味もないが、仄聞(そくぶん)したところによると、「日本人ファースト」を掲げる党首の言動は米国のトランプ大統領を彷彿とさせるものがあるらしい。参院選の大躍進で表舞台に登場したことで党の真価が問われていくことになろう。距離を置いて注目していきたい。
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 苦境にあるのは石破首相だけではないようだ。米国でもトランプ大統領がスキャンダルの沈静化に躍起となっている。スキャンダルの震源地は親友だったと言われる実業家のジェフリー・エプスタイン氏(故人)。彼は未成年者に対する性犯罪で起訴された人物だが、大統領はかつて署名入りの「下品な手紙」を送るなどの親密さだったとか。大統領はエプスタイン氏は過去の人物であり、彼との親しさを真っ向から否定しているが、米メディアは二人の関係がのっぴきならないものだったのではないかと疑っているようだ。確かに今後、新たな疑惑が浮かび上がれば、大統領にとって命取りになる可能性だって否定できない。
 米国発のYouTubeを眺めていると、トランプ大統領の政治生命の終焉(?)を予告したようなものが目白押しだ。眉唾ものが大半かもしれないが、ぜひそうなって欲しいものだと願いたくなる。果たして・・・。
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 個人的にも「夏休み」に入った私は基本、午前中はパソコンに向かい、あれこれ調べたり、ブログの文章を練ったりと、「書斎」にこもったような時間を過ごし、午後になると、散策を兼ねた買い物に出ている。「書斎」にこもってもテレビはつけていることが多い。ケーブルテレビで生中継されている大リーグの試合を見るためだ。そんなに根を詰めて見ているわけではないが、大谷の打席だけは手を止めて見守っている。胸のすくようなホームラン見たさだ。
 火曜日朝はそんな一発を見ることができた。自身が投手としも先発したホーム球場でのミネソタツインズ戦。初回にソロホームランを浴びたが、その裏の攻撃で見事、逆転の35号ツーランホーマーをセンター後方のバックスクリーン(和製英語:英語ではcenter field screen またはbatter’s eye screen)に放った。打球が飛ぶとほぼ同時に向こうのアナウンサーが “He is out of this world. One of a kind.”(大谷はこの世界のものとは思えない=とびきり素晴らしい。他に類のない人間だ)と絶叫していた。最大級の誉め言葉だろう。
 ドジャースはナリーグ西地区の首位の座にはあるものの、このところ、負けが込んでいた。大谷の投打にわたる活躍でこの日は連敗をストップさせた。Thank goodness!

ただただ暑い!

 このところの暑さには参ってしまう。サウナにでも入ったような暑さだ。私はとある中学校の勤務を終えるとすぐに電車で数駅離れた高校に向かうのだが、駅へは徒歩で20分程度。普段はどうということもない距離なのだが、今はこれがなかなかの苦行。私は常時ハンチングをかぶって歩いているが、頭の中はぼおーっと霞がかかったような感覚になる。教壇に立ち、生徒にこの猛暑について語っているときに思い出したことがある。嗚呼あの時はもっと暑かったと・・・。
 それはアフリカ・スーダンでの取材。1980年代末、まだ南スーダンが分離独立する前のスーダンを取材で訪れた。首都ハルツーム。とある一軒のホテルに投宿した。当時はこの国はまだ熾烈なスーダン内戦の渦中にあった。ただし、テロ事件はそう日常茶飯事ではなく、取材活動で恐怖を覚えた記憶はない。イスラム過激派が台頭する以前であり、アフリカ取材はまだのどかさがあったと言えば言い過ぎか。
 ホテルを朝出て、情報省に向かう。目的は何だったのか今となってはよく覚えていない。とにかく情報省に向かって歩いていると、暑さが尋常ではないことに気づく。たまらない。歩き続けることができない。それで迷うことなくホテルに引き返す。部屋に戻り、ぱぱっと衣服を脱ぎ、シャワールームに駆け込み、シャワーを浴びる。お湯はいらない。水で十分。涼しくなったところで再び衣服を身につけ、情報省に向かう。だが、途中でまたホテルに引き返したくなる。シャワーを浴びたくなる。とにかく身体がハルツーム特有の暑さに慣れるまでは大変だった。駐在していた南隣のケニア・ナイロビは赤道直下とはいえ、高地にあるから、木陰に入るとからっとした涼気さえ味わえたのとは大きな違いだった。
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 新聞を読んでいてAI(人口知能)に関する記事が出ていない日はないのではないか。そう思えるほど、連日、どこかの面でAIの活字が踊っている。購読している読売新聞に興味深い記事が出ていた。米グーグル社の検索に異変が見られるという見出しの記事で、検索結果をAIが要約して表示する機能により、利用者がその基になる情報を提供しているウェブサイトへのアクセスが激減しているのだという。
 以下に冒頭部分をそのまま紹介しておきたい。――グーグルは昨年8月、「AIによる概要」という検索の新機能を日本で開始した。例えば「ハンバーガー 健康 影響」と検索すると、「ハンバーガーは高カロリー、高脂肪の傾向があり、食べ過ぎると肥満や生活習慣病のリスクを高める可能性がある」といった回答がページ上部に大きく表示される。回答は、関連するサイトの情報をAIが要約して生成したものだ。――
 この新たな展開で参照元のサイトまでアクセスする人が減ることから「ゼロクリック検索」とも呼ばれているという。グーグルがサイトとの共存関係を破壊するような行動に出た背景には、チャットGPTなど対話型AIサービスの普及があり、危機感を抱いているらしい。実は私自身、グーグルよりもチャットGPTの方を重宝するようになっているからグーグルの焦りは理解できる。携帯電話(スマホ)自体の利便性も一昔前には想像できないほどの進化をみせているが、それを支えるAIの進化はアナログ人間の私にはついていけない。

『カフネ』を読み終えて

 とある英文の文章を読んでいて、sea glass という見慣れない語に出くわした。筆者が浜辺を歩いていて、時々遭遇するものらしい。「海のガラス?」。普通の英和辞典には載っていないので、ネットで検索してみると、海や湖の海岸に漂着したガラスの破片のことで、長い年月をかけて波や砂によって角が取れ、表面が磨かれて曇りガラスのようになり、独特の味わいがあることから、こう呼ばれるようになったとか。「浜辺の宝石」との異名も。
 人工物の海中投棄は海洋汚染につながり、深刻な問題だが、このような「副産物」もあるのか。面白がってばかりはいられないだろうが、海遊びの新たな楽しみになるのかなとも思った。海と言えば、今夏は游ぐ機会があるのかしらん。
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 時々のぞいている小さな書店。最近では向田邦子のエッセイ本『海苔と卵と朝めし』や夢野久作の文庫本を購入して読んだ。読み終えたばかりの作品は『カフネ』(講談社・2024年刊行)というタイトルの小説。著者は阿部暁子。この小説で初めて知った作家だ。
 奥付には「岩手県出身、在住。2008年『屋上ボーイズ』で第17回ロマン大賞を受賞しデビュー」とあり、以下数冊の著書のタイトルが付記してある。これだけではどういう人物だかは分からない。もちろん、これ以上の情報が欲しければ、ネットでグーグルすれば何か分かるだろう。ただ、今回は密やかな読後感に浸りたくて何も検索しなかった。
 まず、淡々とした文章に引き込まれるように読んだ。たまに時系列に戸惑うことがあったが、作品の魅力を減じるものではなかった。推理小説のような側面もあったが、なんとなくそうしたジャンルにこだわることなく読み進めた。読み終えた今思うことはこういう作品は現代だから書かれえたのであり、一昔前だったら、相当の抵抗を感じる読者がいたのではなかろうかと感じたことだ。いや、私の思い過ごしかもしれない。私が時代についていけなくなっていることを物語っているのかもしれない。
 物語は不妊治療の甲斐なく死産に終わり、打ちのめされる四十歳過ぎの女性、その女性の一回り年下で姉思いの心優しい弟、その弟の元婚約者の女性という三人を中心に展開する。読者はこの弟と元婚約者の関係は普通予想するような男女の関係ではないのではという疑念を抱きながら読み進めることになる。この弟がある日突然死するのだが、事件性はあるのか、ないのか。両親や姉、さらには結婚するには至らなかった元婚約者にまで遺産を相続したいという遺言書を残していたことからミステリーが深まっていく。
 ネタバレになるかもしれないが、実にあっけなく早世した弟は同性愛者だった。女性を愛することができなかったのかまではともかく、愛し合っていた会社の男の同僚も登場する。かといって同性愛だけが主要なテーマの物語ではなく、性的な描写は皆無に近い。むしろ、家族の関係、夫婦の関係、介護や子育てなどの問題がちりばめられている。特に貧困にあえぎながらも死に物狂いで子育てに奔走するシングルマザーとけなげな子供たちのエピソードは読み手の心を打つ。それでも私の印象に残ったのは同性愛や同性愛者の苦悶がさりげなく普通の光景として描かれていたことだった。そういう時代なのだろう。

懐かしきトウモロコシ

 前回の項で「2025年6月時点での気がかりなことは何と言ってもイスラエルとイランの交戦か」と書いた。まだよく分からない点は多々あるが、どうやら両国の戦闘が激化する最悪の事態は回避された模様だ。認めたくはないが、トランプ米大統領が決断を下した米軍による軍事介入、すなわちイラン領内の核施設攻撃が功を奏したようだ。彼のことだから、これからは大真面目で自分はノーベル平和賞を受賞するに値するとことあるごとに宣うことになるのだろうか。絵空事であって欲しいと願う。
 それはともかく、おそらくあの名作 “1984” (邦訳『1984年』)を書いた英作家のジョージ・オーウェル氏でも想像できなかったであろう奇妙きてれつな展開を我々は目にしている。トランプ氏はイランの核施設を完璧に破壊したとして、イランに対話路線を歩むよう求めた。これを受け、イスラエルは「勝利」を宣言したが、不思議なことに核施設に重大な被害を受けたことは間違いないイランも「勝利」を主張し続けている。その背景にはイランは米軍の攻撃の前に濃縮ウランを「非公開の場所」に移送していたのだという主張がある。だから、米軍の攻撃は徒労に終わったというわけだが、トランプ氏側はこれを真っ向から否定している。真相はやがて明らかになるだろう。
 それにしても、核開発という一大プロジェクトの根幹に大打撃を加えられたイランが米国にそれ相応の仕返しに出ないことも意外に思える。確かに、イランは精鋭軍事組織「革命防衛隊」がカタールにある米空軍基地をミサイルで報復攻撃してはいる。しかし、これにしても事前通告がなされており、死傷者は出ていない。トランプ氏はSNSで人的被害がなかったことについて、イランに謝意を表明したとも報じられている。何というのどかさ! ウクライナの人々が耐え続けている辛苦を思わざるを得ない。
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 暑い夏の到来で八百屋さんに足繁く通うようになった。お目当てはもちろん、スイカ。スーパーでも買えるが、私はよくのぞいている八百屋さんのスイカが一番信頼がおけるので、そこで切り売りされているスイカを一日おきに買い求めている。昨日もその八百屋さんをのぞいた。そうしたらトウモロコシが目に入った。遙か昔、田舎の実家でもトウモロコシを栽培していた。お袋がかまどで蒸したトウモロコシを頬張ったことを記憶している。大好物とまでは言わないが、郷愁をそそられる果物(穀物)だ。
 客が少なかったこともあり、いつも気さくに質問しているおばちゃんに「このトウモロコシどうやって料理するのですか?」と尋ねた。彼女は「蒸すんですけど、面倒だったら、電子レンジでチンしても食べられますよ」と言う。「え、チンするだけで食べられるんですか」「ええ、(500Wなら)2分40秒ぐらいかな。房を取って水でよく洗って、ラップで包んでチンするんですよ」。彼女の言葉を聞いていて、最初は買うつもりはなかったが、一つ買ってスイカとともに持ち帰った。
 土曜日。洗濯を済ませたお昼時、ランチの代わりにトウモロコシをチンした。マヨネーズをかけてかじりついてみた。美味い! 知らなんだ。こんなに簡単にトウモロコシが食べられるなんて! この後、ガスコンロであぶれば、焼きトウモロコシができるのかな?

元凶はT氏?

 仕事で結構忙しい日々が続いている。高校では期末テストの時期となり、採点作業に追われた。もう何度も書いているかもしれないが、まさか古希を過ぎてこれほど忙しい日々を過ごすことになるとは・・・。夏休みが待たれる。今夏も海外の旅は考えていない。気楽な独り身の暮らし。どこか静かな海に出かけ、のんびり海水浴と読書の時間を持ちたいと考え始めているが、どうなることやら。
 それにしても、我が身のことだけを考えていていいのだろうか。世界はとんでもない危機的状況に直面しつつあるようだ。最近はあまり熱心にそうした情勢をフォローしておらず、間違ったことを書きそうでスルーしたくなるが、このブログは個人的な備忘録でもあり、折々の思いはやはりきちんと記しておきたい。
 2025年6月時点での気がかりなことは何と言ってもイスラエルとイランの交戦か。一昔前ならこのような激しいロケット攻撃、その応酬のミサイル攻撃が世界が見つめる中、連日繰り返されるとは想像しづらかったのではないかと思う。イスラエルの後ろ盾は米国だが、これまでの米政権だったら、今回のような武力攻撃は容認しなかったではないか。もう一つ意外に感じたのは、イランには存外、頼れる友好国がいなかったのかという思いだ。アラブ民族ではないイランがかくも孤立無援の国だったとは思わなかった。
 トランプ米大統領は米軍の軍事介入を真剣に考慮しているとも伝えられる。イスラエルは支配下におくガザ地区のパレスチナ住民にも無慈悲の砲撃を続けており、イスラエルのこのところの「傍若無人ぶり」は理解に苦しむ。イスラエルにとって仇敵とするイランの核武装は何としても阻止したいということは分かる。しかし、いずれアラブ諸国の中に核武装に走る国は出てくるかもしれない。そうした国をそのつど攻撃するわけにはいかないだろう。イスラエルの戦略が私には見えない。
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 ミスタープロ野球の長嶋茂雄氏が今月初めに死去した。職場でスマホの画面を開いてその速報を目にした時、思わず声が出た。「巨人大鵬卵焼き」世代の一人である私にとって「巨人」を代表するのは間違いなく、長嶋さんだった。私が長嶋さんと最も「接近」したのは、監督就任後に成績不振で解任された直後に彼がどういう事情があったか知らないが、ナイロビを訪問した時。私は当時、読売新聞社のナイロビ支局に赴任していた。たまたまナイロビ市内の高級ホテルのカジノをのぞいていた長嶋さんを至近距離で目撃したが、当然のことながら彼は何人もの取り巻きに囲まれており、おいそれと近づける雰囲気ではなかった。
 長嶋さんの訃報に接し、思い出したことがあった。彼が現役を引退した1974年10月14の試合直後のセレモニーで語った「私はきょう引退をいたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉。今も語り草になっているあのスピーチを私は留学先の米国で聞いた。長嶋さんのファンだった今は亡き長兄がカセットテープに録音して送ってくれたのだ。今とは違い、当時はこうした出来事に海を越えて触れるのは大変なことだった。大学の寮で有り難くテープに耳を傾けたことを覚えている。長兄が黄泉の国で憧れの人と出会うことなどありうるのだろうか。

カーソル復活!

 I’m completing a middle-grade novel. (私は今ミドルグレイドの小説を書き終えようとしている)という文章に出くわした。とっさに頭に浮かんだのは a middle-grade novel とは「平均的なレベルの小説」すなわちハイレベルではないが、そこそこの内容を伴った小説というように解釈した。念頭にあったのはhigh-grade(高級な)という表現。ハイグレイドでなくミドルグレイドと解釈したのだ。もっとも書き手が自分が今手がけている作品をこのように卑下して表現するとは思えないので、おそらく違うのだろうとも思った。調べてみると、これはその小説を読むであろう読者の年齢層を想定しているということを知った。
 ネットではa middle grade book を literature intended for children between the age of 8 and 12 と紹介していた。小学校3年生から中学校1年生ぐらいの年齢層の子供たちをターゲットにした書籍だろうか。8歳ならまだ思春期にも達していない子供たちだ。そうした読者層にアピールする作品を作るのは大人の読者を念頭にした作品を作るのとはだいぶ趣が異なるのだろう。middle grade を調べる延長線上で teenager を改めてチェック。こちらは「13歳から19歳まで」の10代の少年少女と説明されていた。
                  ◇
 毎日向き合っているパソコンが突然制御不能になった。カーソルと呼ぶのだろうか、矢印のようなポインターが画面から忽然と消えてしまったのだ。カーソルがないと何もできない。パソコンの電源を落とすことすらできない。二三日格闘したが何の変化も起きなかった。最後の手段は以前にお世話になったことのあるパソコンに詳しい方に電話を入れて助けを請うた。それが昨日(金曜日)。私はマウスは使用せず、キーボードの下にあるタッチパッドを触って操作している。彼は持参したマウスでいろいろチェックしていたが、マウスも機能不全。どうもパソコン内部の基板そのものが故障したのではという見立てだった。
 古いパソコンを取り出し、このブログをスクロールして確認すると、私は今のパソコンを2020年8月に購入している。世界最軽量という触れ込みだった。そこそこの値だったと記憶している。ブログを読み返すと、私は2020年代はこのパソコンで乗り切りたいと意気込んでいる。まだ5年しか使っていない。神様がそろそろ買い換えの時期だとおっしゃっているのだろうか。それなら致し方ない。それでも念のため、メーカーに電話してお伺いをたてよう。本来なら電話で直接あれこれ伺いたいのだが、昨今では電話でそうした相談窓口に到達するのは至難の業に思えてならない。何とかスマホでリモート相談することが可能になった。これが実に便利でスムーズにやり取りできた。スマホのリモート相談恐るべし。
 カーソルが復活した方法は以下の通り。キーボードの一番上にF1からF2、F3・・というキーがある。私のパソコンではF4のキー上に小さなマウスのマークが見える。ボードの最下部のFnと書いてあるキーを押しながらF4を押した。カーソルが出てこない。やけくそ気味に何度も何度も押し続けた。それでも何の変化も起きず、あきらめ気分になり、ネットで探した修理屋さんに持ち込んで相談しようと思っていると、あら不思議、消えた時と同様、忽然とカーソルの矢印が再び姿を現わした。感動ものである。それで今こうやってパソコンに向かい、この項を打っている次第だ。神様に感謝!

グギ・ワ・ジオンゴ氏のこと

20250601-1748749829.jpg 土曜日。朝刊の社会面の下の方にふと目をやると、死亡記事が出ていた。グギ・ワ・ジオンゴ氏。享年87歳。名前の後に「ケニア出身作家」と記されている。ケニアではいやアフリカではよく知られた作家だが、日本では知っている人はまれだろう。
 記事によると、グギ氏は米ジョージア州で死去。死因は不明だが、人工透析を受けていた。1938年英植民地だったケニアで生まれ、ウガンダの大学在学中に創作活動を始めた。代表作は独立前のケニアの様子を描いた『一粒の麦』。現地語で書いた戯曲などで、母国の暗部を暴露したとして命を狙われ亡命生活に。ノーベル文学賞候補として名前が挙がったとも。
 『一粒の麦』は私も感銘を受けた作品だ。ナイロビ支局に赴任し、アフリカを現地取材していた1980年代末、グギ氏はすでにケニアを離れていた。記事にある通り、当時のダニエル・アラップ・モイ政権に疎まれ、亡命の道を選択せざるを得なかったからだ。私は『一粒の麦』を題材に記事を書いたことを思い出した。
 それで本棚を漁った。本棚の中に何かあるような。あった。読売新聞社が出版した『20世紀文学紀行』(1990年)。記者がカメラマンと一緒に現代文学の足跡を辿る紀行本で、私はアフリカにまつわる二作を担当した。そのうちの一冊が『一粒の麦』だった。小説の詳しい筋はさすがに覚えていないので、『20世紀文学紀行』から引用する。自分自身が書いた原稿だから許してもらおう。
 次の書き出しで始めている。当時親しくしていた地元記者の言葉だ。「白人たちは聖書を持ってやって来た。おれたちは土地を持っていた。白人たちは一緒に神に祈ろう、と言った。おれたちも目をつぶって祈った。目を開けた時、おれたちは聖書を手にしていたが、先祖伝来の土地は白人のものになっていた。わかるだろう。これがアフリカの歴史だ」
 グギ氏の作品に一貫して流れるのは「独立闘争はだれのため、何のためのものだったのか。独立は支配者階級の肌の色を白から黒に変えただけで、労働者、農民が搾取される基本的構造には何ら変化がないのではないか」という告発である。私がナイロビ支局で勤務していた頃、ケニアの人々が熱狂的にグギ氏を支持していたというわけではない。アフリカ諸国の中では経済も政情も比較的に安定していることもあり、グギ氏の主張に距離を置く人々が多かったという印象だ。だが、彼の主張には今もアフリカ全土で共鳴する人々が多いのではないかと思う。むしろ増えているのではないか。
 グギ氏の訃報に接して思い出したことがある。グギ氏が亡命する前に住んでいた家を訪ねたことだ。ナイロビから遠く離れていた。グギ氏はケニア最大部族キクユ族の出身。モイ大統領は少数部族カレンジン族出身であり、そのこともあってかグギ氏は疎まれたようだ。グギ氏の妻が暮らすと聞いた家を訪ねると、彼女は台所仕事をしていた。ごく普通の質素な家の台所。私が簡単な自己紹介を済ませて突然の来訪を詫びると、彼女は困惑したような笑みを浮かべた。「特段お話することはありませんよ」という感じで。台所の壁には夫を追放したモイ大統領の肖像(写真)が飾ってあった。不思議な思いで肖像を見つめた。グギ氏の妻は品のある顔立ちをしていた。私はなぜ彼女の家を訪ねたのだろうか。この訪問は記事にはしなかった、できなかったのではないかと思う。

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