- 2025-09-07 (Sun) 12:37
- 総合
購読紙に同郷の歌人、若山牧水(1885-1928年)にまつわる記事が出ていた。今年が生誕140年に当り、50年ぶりとなる全歌集が角川文化振興財団によって刊行された。編者は牧水研究の第一人者で歌人の伊藤一彦さん(81)(宮崎市在住)。従来の全歌集が絶版となり入手が難しく、字句の誤りもあったことから、伊藤さんの提案で実現にこぎ着けたという。その後新しく発見された5首も含まれているとか。
記事中に、牧水の子息で故人の若山旅人さんのことも言及されていた。それで思い出した。私は八王子支局に勤務していた駆け出しの記者時代に父親と同じ歌人の道を歩んでいた旅人さんにインタビューして記事にしたことを。はて、隣接の立川市に住んでいた旅人さんに取材した目的はなんだったのだろう。情けない。明確には思い出せない。残念なのは私は記者時代、特にかけだしの頃に書いた記事は手元に残していない。だから、旅人さんの記事も残っていない。ネットの今なら書いた記事をさくっとフォルダーに入れて保管できるだろうし、その他、色々と手はあるのだろう。いかんせん、当時はそういうことは不可能。きちんと記事をはさみで切り取り、スクラックブックに張り付けておくしかなかった。ものぐさの私にはできないことだった。自業自得。
牧水にまつわるエッセイはこのブログで以前に書いていたことも思い出した。過去のブログを検索してみると、2014年10月に書いていることが分かった。大意、次のように書いている。――「食欲の秋」は酒(焼酎)の美味い秋でもある。郷土の歌人、若山牧水は詠んでいる。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」。牧水の歌で私が好きなもう一つの歌は「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」という一首だ。この歌に「啓発」され、私は随分昔に「寂しさに耐え抜いてこそ優しさか 我一人旅したくなけれど」という駄作をこねたことを覚えている――
今回の記事を興味深く読んだ。伊藤さんは牧水を世間に流布している「旅や酒の歌人」としてではなく「『あくがれ』の歌人」として解説している。「あくがれ」は現代の「憧れる」の元となった古語で、今在るところから別の彼方へ向かおうとする心の動きを表すのだという。次の歌が紹介されていた。<けふもまたこころの鉦を打ち鳴し打ち鳴しつつあくがれて行く> 伊藤さんは「あくがれを持ち続ける生き方は無限の時空を生きる旅人であることを意識し、何を求めて生きるかを牧水が常に考えていたということだ」と指摘している。そしてまた、あくがれの先に牧水が求めたものは自然との調和であり、他者とのつながりや共同性だったと。
「無限の時空を生きる旅人」であったという牧水。この夏九州の湯の里を旅しながら意識していた山頭火もしかり。後世に名を残す歌人、俳人は無限の時空を生きていたのであろうか。愚禿凡夫の私などとは吸っていた空気が異なっていたのか。私にも「あくがれ」はある。彼方など果たして存在するのか、するとしたら、ぜひその風景をこの目で見てみたい。それまでは生き長らえるしかない。働き続けるしかない。凡人にとっては有限の時空であっても最終点にたどり着くのは容易ではない。あるのかどうか分からないが、心の中の鉦を探し当て、鳴らし続けて行こう!
- Older: “Walking in Grace 2026”