英語でさるく 那須省一のブログ
改めて『歎異抄』
- 2019-11-15 (Fri)
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一昨日、このブログを打っていると、パソコンが突然、上書きモードとなった。以前にも何回かそうなったことがあり、キーボードを適当に触っていたら、いつの間にか元に戻っていた。今回も多分そうなるだろうと考え、適当にかちゃかちゃとキーボードを触っていたら、ますます泥沼にはまった。入力モードがローマ字とひらがなの「混在?」のようになり、ひっちゃかめっちゃか状態に陥ってしまった。
困った時はパソコンを再起動させるといいことを思い出し、再起動させたが、効果なし。そのうち、パスワードまでが拒絶されるようになり、パソコン自体が開かなくなった。仕方なく、パスワードを変更し、新しいパスワードをスマホで二度も受け取り、パソコンを立ち上げようとしたが、これもはねつけられた。
パソコンが動かないと、仕事にならない。だが、私にはもうどうにもならないので、昨日、天神に出かけ、パソコンに詳しい友人のS君にみてもらった。そうしたら、どうもナンバーロックがかかっていたみたいで、ほどなく元通りにしてくれた。やはり、「生兵法は大怪我のもと」のようだ。今、こうして心穏やかにパソコンのキーを叩いている。
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NHKのテレビを何気なく見ていたら、うろ覚えだが、「知の巨人」と称して、哲学者の井筒俊彦氏(1914-1993)のことを取り上げていた。私も名前ぐらいは知っているが、著作は読んだことがない。番組ではこの哲学者が「イスラムに愛された」人物で、東西の文化・宗教の架け橋たらんと奮闘されていたことが紹介されていた。
言語学者でもあった井筒氏の著作を読みたくなり、書店で岩波文庫の棚を漁ったら、『意識と本質』があったので購入。結論から言うと、途中で投げ出した。難解な哲学用語にも閉口した。悔しいが、私の知能ではとてもついていけない。
それでふと思った。これなら、以前に購入して「積ん読」状態になっているあの書の方がずっと読み易いのではと。その書とは親鸞聖人の語録を記した『歎異抄』。読み始めたら、直後の読売新聞の広告欄で奇しくも『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)という本の広告が目に入った。広告文によると、哲学者の西田幾多郎氏は「一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」と語ったとか。読者(東京都・70歳・男性)の声も紹介されていた。<もう何十年も前に「無人島に一冊だけ本を持っていくなら『歎異抄』だ」という司馬遼太郎の言にふれて、人生、ある時期に達したら『歎異抄』を読みたいと、ずっと思っていました。私のあこがれの書でした>
私が積ん読状態にしていた『歎異抄』は岩波文庫で金子大栄校注の書。100頁にも満たないが、私はなぜか、この書を途中で投げ出していた。改めて手にしてみると、『意識と本質』に比べればはるかに取っ付き易い。よし、これからじっくり読み進めていくことにしよう。
親鸞聖人(1173-1262)は広辞苑によると、念仏弾圧で越後に流された後、「愚禿」と称して非僧非俗(僧侶でもなく俗人でもないこと)の暮らしに入ったとか。私は友人へのメールの末尾に「愚禿凡夫」と書くこともあるが、これは単に自分の禿げ頭を自嘲しているに過ぎない。幸か不幸か、完璧な禿げ頭ではないが、凡夫であることは間違いない。
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ジョギング1年
- 2019-11-12 (Tue)
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卓球(中国語・乒乓球=pīngpāngqiú 韓国語・탁구(タック)のワールドカップ団体戦で日本女子は中国に0-3で敗れ、銀メダルに終わった。来年の東京オリンピックのテスト大会の意味合いもあった大会だが、やはり中国の壁は厚かったようだ。第2試合でエースの伊藤美誠選手が中国の同い年のエースにフルセットの末に逆転負けを喫したのを見て、私はテレビを切った。生中継のアナウンサーや解説者がいくら日本女子の粘り強さを力説しても、力の差は歴然としているように感じた。この差は東京五輪までに詰まるとも思えない。目指せ、銀メダルだろう!それでも十分、称賛に値する。
試合を見ていて思ったことが一つ。ゴルフの渋野日向子ちゃんはプレー中の笑顔で一躍、世界のスターになった感があるが、卓球の試合では選手があまり喜怒哀楽の表情を示すのはちょっとなあと思うシーンが何度かあった。ポイントを挙げて、好プレーをして、笑顔がこぼれるのは当然だろうが、テレビカメラを意識しての所作だとどうもなあと感じてしまう。その点、中国の選手は比較的ポーカーフェイスの選手が多かったような気がしたが、勝利が確定するまではそちらの方がベターなように感じた。考え過ぎかもしれないが。
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トランプ米大統領に対する弾劾の動きが米議会でいよいよ今週から本格化するようだ。現実に弾劾にまで発展することはほとんどなさそうだが、来年秋に迫った大統領選の行方を左右する可能性はありそうだ。
先週、CNNでソンドランド駐EU大使がトランプ大統領と交わした電話のやり取りなど議会での非公開質疑の内容が報じられていた。その記事の見出しは Transcripts depict Trump as fickle, susceptible to flattery and prone to grudges となっていた。トランプ大統領が「気まぐれ」で「お世辞に弱く」「人を妬む傾向がある」と酷評している。まさにそうなんだろうなあ、と納得してしまうのだが、そういう御仁が大統領の重責にあり、北朝鮮の核問題に重大な影響力を発揮する唯一無二の立場にあるのだから、あまり笑ってもいられない。誰でもいいから、一日も早く良識ある人に交代して欲しいと願うばかりだ。
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香椎浜のジョギング路を走りながら、もう一年になるかなと思っていた。過去のブログを遡ってみると、昨年の11月2日の項で「スロージョギング宣言」と題して、プールでの泳ぎからジョギングに路線変更したことを書いている。「プールで泳ぐよりずっと疲れた。翌日、太ももが張って歩くのにも苦労した。特に駅の階段などで下る時に足が突っ張ってなかなかスムーズに足が出せなかった。やはり、普段使っていない筋肉を使ったのだろう。でも充実感はあった。よし、これからしばらくはスロージョギングで鈍った身体を鍛えよう」と書いている。そうか、あれから一年が経過するのか。
確かに走った後の充実感は今もある。その後のお風呂も気持ちいい。ただ、スローゆえにへとへとになることはない。もう少し負荷をかけた走り方をしなくてはならないかなとずっと思っている。でもそうなると、スロージョギングとは呼べなくなるが、ちょっとだけスピードをアップさせてみようか。そろそろいろいろ工夫する必要があるようだ。
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「自在」な日々
- 2019-11-08 (Fri)
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ぐっと冷え込んできた。大好きな秋が短過ぎるような気がする。これも地球温暖化の影響かと愚痴の一つも言いたくなる。「秋」は中国語では「秋天」。ここで中国語で秋にまつわる気の利いた表現の一つでも書こうかと思ったが、残念ながら思い浮かばない。
それでNHKラジオの講座「レベルアップ中国語」で最近見かけた一文を記しておきたい。「退休以后在家看看书,养养金鱼,倒是挺自在的」(定年退職後、家で本を読んだり、金魚を飼ったりするのも、のんびりしていますね)。「自在」が「のんびりしている」という意味合いのようだ。まあ、私には金魚を飼う趣味もゆとりもないが、「看看书」つまり本を読む喜びは分かる。残り少ないと思われる秋の一日を「自在」な心境で過ごしたいと願っている。
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今手にしている本は英書の童話 “Alice’s Adventures in Wonderland” (邦訳『不思議の国のアリス』)。ルイス・キャロル(Lewis Carroll)の手になる作品だ。1865年刊。拙著『イギリス文学紀行』でも舞台となったオックスフォードの土地を訪ね歩き、取材している。天神のカフェの英語教室(翻訳講座)でこれからこの作品を読み進めて行こうかと思い、再度頁を繰り始めた。
少なくとも一度は読んだことがあり、世に知られた幾つかのエピソードの部分は大学の授業でも取り上げたため、何度も目を通したことがある。・・と思っていた。今回改めて読み進めると、あれ、こんな個所があったかしら、いや、これは忘れていた、というところが少なからずあった。不思議な気がした。
少し考えて思い当った。私は当時この作品を愛用している電子辞書に収蔵されている世界名作から偶然拾い読みしたのだ。だから、後に現地で購入した書籍を手にして読むのと若干勝手が違っているのだ。ともあれ、面白い。少し難解な表現もあるにはあるが、ブラックユーモアあふれる不思議な物語の世界に引き込まれてしまう。
これが英語教室の題材として適当かどうかはともかく「歯応え」のある教材となることは間違いないかと思う。もう少し読み進めてみよう。
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米CNNで “Why Tom Watson is stepping down” という見出しの記事を見かけたので、はて、あのアメリカのゴルフのレジェンド的存在、トム・ワトソンがなぜ、そもそも何からステップダウン(辞任)しようとしているのだろうか?と思い、その記事をクリックしてみた。そうしたら、記事はゴルフのワトソン氏のことではなく、英労働党の副党首、トム・ワトソン氏にまつわる話題で、来月12日に投票が行われる総選挙にワトソン氏が立候補をせず、副党首の座からも辞任するという記事だった。
私はこのワトソン氏のことは全然知らなかったが、まだ52歳の若さの彼は党内では焦点のブレグジット(Brexit)では欧州連合(EU)残留支持派に属しているとか。私はこの総選挙でEU残留支持派が大勢を占め、来年再度、英国のEU残留か離脱かを問う国民投票を実施し、最後には残留支持派が逆転勝利して欲しいと願っている。その実現可能性はなきにしもあらずだろう。
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「警告」と「敬告」
- 2019-11-06 (Wed)
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ラグビー・ワールドカップに大リーグやプロ野球も店仕舞いし、退屈だと書いたら、「プレミア12」とかいう野球の国際大会が始まった。来年の東京五輪の予選を兼ねているらしいが、どうも緊張感にかける印象がある。昨日の1次ラウンドの日本対ベネズエラの一戦も日本が何とか8対4で辛勝したが、相手の守備エラー、自滅に乗じての勝利のように見えなくもなかった。日本のライバル、若手主体の米国もドミニカ共和国を相手に10対8の大味なゲームで勝利したようだ。終了したばかりのラグビーの命がけの熱戦を見た後では、何だかなあーと思わざるを得ない。
東京五輪の野球にもさして興味はわかないが、ネットで調べてみると、出場チームはわずか6チームだというではないか。3チームずつに分かれて予選を戦い、それからノックアウトステージを経て、準決勝、決勝となるとか。ノックアウトステージは要するに敗者復活戦で予選を含め何度か負けても決勝戦まで勝ち上がることができる可能性があるようだ。少数精鋭と言えば聞こえはいいが、わずか6チームで金銀銅のメダル争いとは・・。野球は日本のお家芸とは言え、すでにして興味半減だ。
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ソウル訪問で再会した友人のJさんのことを時々思い出している。中国語に精通している彼と交わした中国語談義が興味深かったからだ。中国語の発音に四苦八苦している私に彼はこう言った。「発音も大事だが、少々間違ってもあまり気にすることはない。しかし、声調を間違えてはいけませんよ。声調を間違えるととんでもないことになる」
Jさんが例として挙げたのが、「警告」と「敬告」の2語だった。日本語と全く同じ漢字・意味合いの「警告」はピンイン表記だとjǐnggào で、声調で言えば、最初のjingが低く抑えて音を出し、次のgaoは上から一気に下げて発声する。「敬告」は日本語にはない語句で「謹んでお知らせする」という意味らしい。ピンイン表記はjìnggào で最初のjing も次のgao も上から一気に下げて発声する。声調を間違えると、自分としては相手に敬意を込めて申し上げているつもりでも、「警告の言葉」となり、甚だ礼を欠く表現となる危険があるというわけだ。声調に右往左往する日本語話者の我々にはどきっとする指摘だ。
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トランプ米大統領が地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」からの離脱を国連に正式に通告した。一年後の来年11月4日に離脱が発効する見通しで、新大統領を選ぶ米大統領選の投票日の翌日に当たるとか。私の頭にぼんやり浮かんだのは温暖化対策が大統領選の争点の一つとなり、離脱に反対する民主党候補がトランプ氏に勝利し、勝利演説の中でパリ協定復帰を高々と宣言するシナリオ。事実、民主党の有力候補、エリザベス・ウォーレン上院議員は「大統領に就任した初日にパリ協定に復帰する」と語ったと報じられている。
日本を襲うスーパータイフーンや夏の猛暑、世界各地で相次ぐ水害や旱魃、さらには森林火災など、地球温暖化が元凶と目される災害を直視すれば、パリ協定からの離脱は人類の自殺行為と言えるかもしれない。それでもトランプ大統領が再選されるとしたなら、世界が辛うじて米国に対し抱き続けている「良識の国」のイメージは地に落ちるだろう。
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スペアタイヤ
- 2019-11-03 (Sun)
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ラグビーのワールドカップもつつがなく終了した。決勝戦のイングランド対南アフリカ。どちらにも勝って欲しかったが、日本が南アに敗れたことを思えば、やはり南アがイングランドを降せば、それだけ日本に対する評価は相対的に上がることになるだけに、幾分多めに緑のジャージーを応援していた。
一夜明け、読売新聞のスポーツ欄で改めて決勝戦の結果を読んでいると、南アのエラスムス監督の談話が目に入った。談話の末尾は次のような文章だった。「国ではいろいろなことがあるが、ラグビーを見て幸福をもたらせるようにやってきた」。おそらく多くの読者は「国ではいろいろなことがあるが」というくだりは何気なく読み飛ばしていただろうと思う。
時々読んでいる南アの代表的新聞のホームページに跳んだ。ワールドカップ二回目の優勝を賑々しく報じているのではないかと思ったが、一行の記述もなかった。時差の問題もあるし、この新聞は速報を売りにしているメディアではないからかもしれないが、それにしてもつれない。うがった見方をすれば、南アの国内情勢がスポーツに一喜一憂するほど余裕がないことと無縁ではないだろう。
南アではこのところ、南アの人々がナイジェリアやジンバブエ、モザンビークといったアフリカ諸国から来た同胞アフリカ人を「俺たちの仕事を奪っている」として襲撃する血なまぐさい暴力事件が相次いでいる。外国からの移民に対する憎悪の念が募っているのはトランプ大統領にあおられた一部の米国民だけではない。命からがら母国に戻った、あるいは今も恐怖の中で暮らしている南ア国内の出稼ぎ外国人には、南アの勝利を「アフリカの誇り」として共に歓喜する気持ちには到底なれないことだろう。
エラスムス監督がおそらく優勝後の共同記者会見の場で、偉業達成の興奮に流されることなくきちんとそのことに触れたことに監督の人間性を見る思いがしたし、その一言をきちんと付記した読売運動部記者に敬意を表したい。
ラグビーのワールドカップも終了したし、大リーグのワールドシリーズもプロ野球の日本シリーズもしかり。私のような者には退屈な日常生活が戻ってくる。まあ、テレビから解放されることになるのだから、これはこれで喜ばしいことではあるが・・。
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読売新聞の日曜日の英語コラム「特派員・とらべる英会話」に「別腹」という表現の日本語訳が紹介されていた。ランチをお腹一杯食べた米国人スタッフが職場に戻り、さらにメロンパンを食べようとしているのを見て驚くと、“My dessert stomach is empty!” と切り返されたとか。
このコラムを読んで、自分が英字新聞の編集長だった頃に手がけた日常生活の英語表現を紹介する『コレって英語で?』でも「別腹」を扱ったような記憶があり、本棚からこの本を取り出し、繰ってみた。紹介していた。「デザートは別腹」は英語では “I have another stomach for desserts.” や “I have a separate stomach for sweet things.” と記してある。
『コレって英語で?』では「お腹の周りのぜい肉」のことを a spare tire と説明してもいる。私は車もないのに、立派なスペアタイヤをいつも携帯して歩いている。嗚呼!
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『やし酒飲み』
- 2019-10-31 (Thu)
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『やし酒飲み』(エイモス・チュツオーラ著・土屋哲訳 岩波文庫)を読んだ。以前からこのアフリカを舞台にした小説のことは知っていたが、読んでいなかった。書店の文庫本コーナーで目にしたので、そろそろ読まなくてはと買い求めた。
私は訳者の土屋先生とは既知の間柄。先生はすでに故人となられたが、私が新聞社のナイロビ支局に勤務していた頃、ナイロビにある大学で研究に来られていた先生とはご夫人同様、親しくさせて頂いた。町田市のご自宅を訪ねたこともある。当時は後にアフリカや米英文学の紀行本を出すことになろうとは考えてもいなかったので、もし今もご存命だったら、どれほど楽しい話ができたことだろうととても残念に思う。
チュツオーラ(1920-1997)は西アフリカ・ナイジェリア出身の作家。「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった」という風変わりな語りで始まる『やし酒飲み』は、語り手の男がやし酒造りの名人をこの世に呼び戻すため、「死者の町」へ旅に出て遭遇する奇々怪々の物語で、アフリカに根付く神話・怪奇の世界に魅せられる。私もアフリカ再訪の旅では悩まされたが、ピジン英語として知られるナイジェリア独特の時に難解な英語表現を土屋先生が苦労して訳されたことがうかがえた。
この小説を読んでいて、私は南アフリカでもかつてチュツオーラのように著名な作家を取材・インタビューしたことを思い出した。名前も思い出せないが、当時はノーベル文学賞に推す動きもあったような記憶がある。取材の成果は読売新聞社の『20世紀文学紀行』(カメラでたどる現代文学の旅)に掲載された。本棚の隅からその本を取り出し、読み返してみた。エスキア・ムパシェーレ(1919-2008)。取材した作品は彼の代表作の一つ『草原の子 マレディ』。
私が南アのヨハネスブルクでムパシェーレ氏にインタビューしたのはナイロビ支局に勤務していた頃の1989年のことかと思われる。記事を読み返すと、私は東京から来たカメラマンとともに南アに行き、トランスバール州にある作家の母校、ムトレ小学校を訪ねている。「村の小学校に入ると、子供たちにわっと囲まれた。子供たちの目は好奇心で輝いている。おそらく、日本人を見るのは初めてなのだろう」と書き出している。子供たちだけでなく、「ふとった気のいいおばさんといった感じの」校長先生からも来訪を歓迎されたことが書かれている。当の本人はうーん、よく覚えていない・・。
南アは1990年にネルソン・マンデラ氏が解放され、アパルトヘイト(人種隔離政策)の冬の時代に別れを告げる。そういう時代の空気を反映してか、ムパシェーレ氏は次のように語ってもいる。「現在の状況に希望を抱けるとするなら、それは人々が(アパルトヘイト撲滅に)昔よりはるかに意思を強固にしていること、活気づいていることでしょうか」
惜しくもムパシェーレ氏はノーベル文学賞を受賞することはならなかった。私が恥ずかしく思うことは氏を取材したことをすっかり忘れていたこと。上記の『草原の子 マレディ』や同じく評価の高い氏の自伝的作品『二番街にて』も読んでいるはずだが、全くといっていいほど何も覚えていない。普段は「自分は記憶がいい」と口にすることもある私は恥じ入るしかない。「失礼」にもほどがある。私はいったい何をしていたのだ!
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味覚の秋到来
- 2019-10-28 (Mon)
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週明けの月曜日。朝から好天だ。東日本では先週も豪雨被害が続いていた地区もあるようだが、日本は南北に細長いことを実感する。私が住む福岡はこのところ雨の被害はない。それにしてもこれからは毎年のように豪雨被害のことを案じることになるのだろうか。地球温暖化の深刻な被害は先のことと思っていたが、どうもすぐ軒先に来たようだ。そうでないことを心から願いたいが。
さて、ソウルの旅もあって、このところスロージョギングから遠ざかっている。本日は申し分のないジョギング日和だ。短パンからトレーナーに切り替え、ウインドブレーカーも着込んで香椎浜に出かけるとするか。
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明石市に住む知己のU先生から秋の実りが届いた。新米とピーナッツ、それに頂き物と書かれている本場丹波の枝豆。英語学者のU先生は農家の人でもあり、暇を見ては田畑で働いておられる。新米は彼の田んぼで収穫したばかりのものだ。昨晩有難く炊飯器にかけ、頂戴した。いつもスーパーで購入している米よりずっと美味く感じたのはなぜだろう。
生の落花生を目にするのもあまりない。どうしたものやら。ネットで調べて、塩を振った水で湯がいて食べてみた。これも美味かった。丹波の枝豆は冷凍した。今週末、湯がいて焼酎の肴にしよう。食欲の秋。うまくいけば、間もなく、東北から松茸が届くかもしれない。松茸取りの名人、Sさんから毎年のように届いている。こう書くと催促しているようで気が引けるが、Sさんはブログは読まれない方だからその心配はない。今宵はジョギングの帰りに魚屋さんに立ち寄り、頂いた新米と一緒に食べるサンマでも買おう。
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折口信夫(1887-1953)の『死者の書』(岩波文庫)を読んだ。正確には途中で読むのを放棄した。どこかでこの本のことを称賛しているのを見かけた記憶があって、いつか読みたいと思っていたのだが。この国文学者・歌人は広辞苑によると、民俗学を国文学に導入して新境地を開き、歌人としては釈迢空の名で知られた、とある。カバー折りに「古代を舞台に、折口信夫が織り上げる比類ない言語世界は読む者の肌近く幻惑すると紹介されている。
併録されていたもう一つの小説『口ぶえ』は読みやすかったので問題なく読めた。読んでいてどこか違和感があって、改めてこの歌人のことを調べると、同性愛者であったことが分かり、合点が行った。15歳になる主人公の少年と同級生の少年はお互いに淡い思いを抱いている。人里離れた山中の寺で夜、床を並べて語り合うシーン。同級生の少年が主人公に語りかける。「みんな大人の人が死なれん死なれんいいますけれど、わては死ぬくらいなことはなんでもないこっちゃ思います。死ぬことはどうでもないけど、一人でええ、だれぞ知っててくれて、いつまでも可愛相やおもててくれとる人が一人でもあったら、今でもその人の前で死ぬ思いますがな、そやないとなんぼなんでも淋しいてな」
この歌人は若い時に幾度か自殺未遂をしている。自叙伝的な小説の上記の独白は歌人の本心であったのだろう。いかに最期を迎えるかの問題はともかく、独り身の私は少しく考えさせられた。私には「だれぞ知っててくれてる」人は夢のまた夢だ。
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