柚のかくし味 by 柚


2004-01-22 軽便鉄道が走っていたころ

 今日も寒い一日。こんな日は、出かけないに限る。といいながら、ランチは近くの「ゆず」へ出かけた。柚っていう名前がいいだけでなく、食事も雰囲気も好き。先客が一人いて、少しばかり古い話になった。ふるさとの話に。大分県には軽便鉄道が2本走っていた。国東線と耶馬溪線。わたしはその国東線で高校に通っていた。山間部とあだ名されるような片田舎の町に育ったので、歩いて通える高校はひとつもなく、汽車(電車と呼ばれるようになったのは、電化されてからだったと思う)通学か自転車通学か。

 で、わたしは汽車と軽便鉄道を乗り継いで行くしかなかったのだが、本数が少ないし、2時間に1本しかない時間帯もあった。朝6時25分に間に合わなければ2時間後しかなくて、寝坊したときはやむなく?休んだし、今日のように雪が降ると学校に行けなかったこともあった。

 その軽便鉄道も高1のとき、集中豪雨によって、安岐町で、線路が落ちた。ちょうど別大国道の仏崎でがけ崩れが起こり、路面電車の線路が埋まったのと同じときのこと。クラスの男の子がこの集中豪雨で孤児になるという哀しい出来事があったし、それ以来復旧できず、鉄道は廃止され、バスにとって変わった。こういう古いことは、すっかり記憶の外かと思ったけど、思い出はふいに向こうからやってくるもののようだ。

 もうひとつの軽便鉄道は耶馬溪鉄道。こちらのほうは、もうしばらくは動いていた。廃止されたのはいつだったか。耶馬溪方面に行くことは少なかったし、耶馬溪にも数えるほどしか行かなかったので、はっきりとしたことはわからない。

 わたしの家の二階からは鉄橋が見え、そこをガタンガタンと渡っていく汽車が見えた。あれはわたしが10歳のころだつたか、最終列車が過ぎてから鉄橋を渡って帰ろうとしたらしい井戸掘り人が落ちて死んだという事件があった。どういうわけか、その死体はその日一日そこに置かれたままで、怖いもの見たさに見に行ったりした。

 二階の窓から汽車を見送る習慣は私がふるさとを出るまで続いた。特に寝台列車で東京に受験に行く友人は毎日のようにここを通った。今でも、手を振る友人の姿が夢に現れたりする。夜汽車の汽笛とともに。


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