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英語でさるく 那須省一のブログ

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self-quarantine

20200412-1586651329.jpg アメリカの東海岸に住む大学時代の恩師から新型コロナウイルスに関するメールが届いた。恩師は福岡市も政府の緊急事態宣言が出たことを念頭に、私がいわゆる “social distancing” を考えているなら、アメリカをさるく旅で訪れたことのある、米作家ヘンリー・デイビッド・ソロー(Henry David Thoreau)(1817-1862)が実践した俗世間に距離を置いた暮らしを想起したまえ、という趣旨の内容だった。
 恩師はメールにニューヨークタイムズ紙が報じた記事を添付していた。Lessons in Constructive Solitude From Thoreau(ソローに学ぶ建設的な独居に関する教訓)と題する記事で、日本語の新聞なら「袖見出し」のところで次のように記してある。The writer used his self-quarantine at Walden to pursue an intensive course in self-education. In the present pandemic moment, there’s plenty to learn from standing still.(作家はウォルデンで自宅に引きこもっている間に自分自身を教育するのに集中的な時間を費やした。現況のパンデミック下では、ソローのような独居暮らしから学ぶことは沢山あるのだ)
 恩師は私が『アメリカ文学紀行』の取材で2011年に米国の各地を放浪した時にソローゆかりの地、ウォルデンを訪れていたことを覚えていてくれたのだ。
 私はそれまでソローのことは全然知らなかった。だが、彼が住んでいたマサチューセッツ州の町 Concord が19世紀、ラルフ・ウォルド・エマーソンやソローたちが住んでいたことから、アメリカの文学ルネッサンスの地と称されていることを知って興味を覚えた。ボストンから列車に乗ってウォルデンを目指した。ソローは1850年代に2年2か月余、ウォルデン池畔の林間の小屋に一人で暮らし、思索にふけった。コロナウイルスでself-quarantineを余儀なくされる多くの人々にとってソローの哲学、実践は役立つのではないかと記事は訴えていた。
 私にはとても懐かしいウォルデン池畔訪問だが、残念に思っていることが一つ。恥ずかしい話だが、私はなぜか上記のConcordを拙著で「コンコルド」と表記していたのだ。超音速ジェット機が頭にあったのかもしれない。「コンコード」と書くべきだった。
 小屋の跡地には彼の代表作 “Walden; or, Life in the Woods”(邦訳『森の生活』)の一節が掲示板に紹介されていた。“I went to the woods because I wished to live deliberately, to front to only the essential facts of life, and see if I could not learn what it had to teach, and not, when I came to die, discover that I had not lived.” ちょっと訳しずらい英文だ。私は以下のように意訳した。「私が森に行ったのは人生にとって本当に大切なことだけに向かい合い、賢い生き方がしたかったからだ。私はそこから学ぶべきものを学び、やがて死が訪れる時、自分が愚かに人生を生きたなどと気づきたくはなかった」
 恩師のメールは “But it is said that Thoreau’s mother did his laundry.” という指摘で終わっていた。19世紀半ばの当時は電気洗濯機などまだ発明されていなかったのだろう。
 いずれにせよ、大学の講師職もなくなり、仕事の口が細った近年はほぼ self-quarantine 的な日々を過ごしている身にはソローには足元にも及ばないが、思索にふける時間が十分にあることは確かだ。

緊急事態宣言へ

 新型コロナウイルス。ついに日本でも緊急事態宣言が発令される運びとなったようだ。ここ福岡も7都府県の中に含まれている。これから約1か月間、さまざまな行動の自粛が要請されるのだろう。7日の読売新聞の紙面には「日本は2週間前のニューヨークみたいだ」とニューヨーク市内の大学病院で勤務する日本人医師の憂慮の声が報じられていた。そうならないことを切に祈りたい。
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 少し前の項で次のように書いた。—— 新型コロナウイルス対策として私たちは①密閉空間②人の密集③近距離会話の3つを避けるよう求められている。海外のメディアが報じている “social distancing” の骨子だ。私は “social distancing” を日本語では「SD」として定着させてもいいのではと思い始めている。SDは “safety distance” (安全な距離)ととらえることもできる。「SDに注意!」でどうだろう。いややはり無理があるか。—— ネットで見ると、「社会的距離の確保」という表現があった。妥当な表現と思う。民放のラジオを聞いていたら、「社会的隔離」という訳語を使っていた。「隔離」というとネガティブなニュアンスがある。自らの意思で他者との間に一定の距離を置くのだから、「社会的隔絶」の方がまだいいのではないかと思う。いずれにせよ、これからは “social distancing” が社会生活のエチケットの一つとなるのだろうから、きちんとした用語が必要かとは思う。
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20200407-1586228585.jpg CNNを見ていたら、トーク番組でジャーナリストのクリス・クオモ氏がコロナウイルスに感染したというニュースを目にした。彼の印象は攻撃的な問答で、私はあまり好感は抱いていなかった。特にニューヨーク州知事のアンドリュー・クオモ氏とのインタビューでは何だか殺気立った雰囲気で、私はもう少し柔和に対応できないものかと思いながら見ていた。
 そうしたら、何と二人は兄弟であることを知った。そう言えば、確かに風貌がよく似ている。なるほど、兄弟だからこそ、けんか腰のインタビューになったのか。根底にはお互いのそれぞれの立場に対するリスペクトがあったのだ。
 私が見た番組では彼が療養中の自宅からインタビューを受けていた。私が思わず同情の念を覚えたのは彼の次の言葉だ。“The beast comes at night.”(獣は夜にやって来る)。高熱でうなされる状態を beast と表現している。彼は自分の平熱が華氏97.6度で低い方であり、普通の人には何でもない華氏99度でも自分にはこたえると語っていた。私の換算では摂氏だとそれぞれ36.4度、37.2度。私も恥ずかしながら平熱は低い方で35.7度(今測ったら35.8度)。だから体温が36.度台になると私的には黄信号が灯る。
 クオモ氏は夜寝ている時に幻覚のような症状を呈すると語っていた。例えば、亡き父親がベッドの向う側に立っているとか。統計上ではコロナウイルスに感染したとしても約8割の人々は病院に行くことなく回復すると言われるが、クオモ氏はたとえそうであっても、夜に高熱が出て上記のような症状を体験するのは決して生易しいものではないと語った。風邪を引くと、大概の人にはそう高熱でなくとも、なかなか寝付くことができず、時に幻覚のようなものに苦しめられる私には彼の語っていることがよく理解できた。

コロナ禍の中

 新型コロナウイルス。日本でもますます深刻になりつつあるが、世界では信じ難い恐ろしい状況に陥っている国もあるようだ。コロナウイルスで命を落とした人の死体が道路や建物のわきに放置されている中南米の国が報じられていた。我々は今21世紀の世界に生きているとは到底思えない。事態はこれからさらに悪化すると言われる。打つ手がないのか。
 CNNでそうした世界の窮状を見た後、香椎浜にスロージョギングに出かけた。ジョギング路沿いには桜の花が満開。時々桜の花を写真に撮っている人もいるにはいるが、コロナウイルスの時節、心から桜を愛でる雰囲気でないことが残念だ。とはいえ、福岡ではまだこうやって心地よい汗を流すことができる幸せがまだ残っている・・・。
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 コロナウイルスの余波でこのところあまり熱心にアメリカで人気のトークショー“The Late Show with Stephen Colbert” を見ていなかった。私は基本、アナログ人間なのでよく分からないのだが、この抱腹絶倒のパロディー番組をユーチューブで簡単に見ることができるようだ。二三を適当にクリックして見た。どうも勝手が違う。いつもの爆笑のオーディエンスがいない。コルベア氏の後ろの背景も普段と異なる。それで気がついた。番組はニューヨークのテレビ局のスタジオから放送しているのではなく、彼の自宅から放送しているのだ。場所は書斎だったり、ガレージだったり・・・。
 放送機器を担当しているのは息子さんのようだった。顔出しはなかったが。奥さんと娘さんもいたようだが、顔出しはなし。ゲストはゲストで自分の自宅にいて、お互いに画面を通しての対談だった。当然のことながら、コルベア氏の熱狂的なファンの爆笑や拍手喝采はない。新鮮さが番組の魅力を一層高めているような気がした。ユーチューブだけに、視聴者の感想も読むことができるが、概ね好評。自宅での隔離(quarantine)を受け入れた人々がこの番組に癒されているのが見てとれた。次のような意見が寄せられていた。
 Stephen lowers my blood pressure even from his garage. He’s a national treasure, and a gift to millions.(スティーブンは自宅のガレージからであっても、私の血圧を下げてくれる。彼は国の宝であり、何百万人もの人々にとって得難い贈り物だ)。コルベア氏はきっとトランプ大統領支持派や保守派の人々の視点からはにっくき存在だろう。しかし、大多数の人々にとっては「国の宝」はともかく、彼は諧謔の精神に富んだ才気あふれるコメディアン。2011年に『アメリカ文学紀行』の取材のために米国内各地を歩き、彼のテレビ番組を見て以来、そのハチャメチャのパロディーに魅せられている私もその一人だ。
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 NHKの韓国語・中国語講座は新年度で新しいクールに入り、また基礎の基礎からスタート。これが結構私のような独学者には役立っている。韓国語では次のような指摘があった。うろ覚えだが、ご容赦を。韓国語の2音節の語彙の発音は基本的に弱強となるとか。例えば、우리(私たち)なら「ウリ」だが、後ろの「リ」にアクセントがある。日本語では「あめ」ならどちらにアクセントを置くかで「雨」か「飴」かが決まるが、韓国語では常に弱強となるとか。初めて知った。私は無アクセントの宮崎県出身だからこんなことも嬉しい!

再び "social distancing"

 新型コロナウイルス対策として私たちは①密閉空間②人の密集③近距離会話の3つを避けるよう求められている。小池都知事は先週の記者会見で上記の事柄を「ノー3密」として訴えていた。海外の “social distancing” の骨子だ。私は “social distancing” を日本語では「SD」として定着させてもいいのではと思い始めている。SDは “safety distance” (安全な距離)ととらえることもできる。「SDに注意!」でどうだろう。いややはり無理があるか。かといって「対人距離に注意!」もなんだかなあ・・。
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 毎朝起きるとテレビをつけ、NHKを見る。ラジオでもいい。4年前の熊本地震以来、これが日課となったような気がする。NHKが定時の放送を流しているとほっとする。日本では大災害は起きていないようだと。
 最近ではNHKに加え、ケーブル放送で米CNNを毎朝見るようになっている。コロナウイルスの最新のニュースをチェックするためだ。パソコンでは英BBCにアクセスするのが日課。報道としてはCNNよりもBBCをより信頼している。BBCではコロナウイルスにまつわる世界中の重要な出来事を時系列で整理して紹介している。
 水曜朝には次のニュースに目がいった。見出しは Analysis: No more sugar coating となっていて、BBCの北米駐在記者の分析記事だった。書き出しは—— “There was no sugar-coating in this time. No optimistic talk of miracle cures or Easter-time business re-openings. There was just the cold, hard reality of the facts on the ground.
 トランプ大統領の日々のコロナウイルスに関するブリーフィングがこれまでの自信に満ちた楽観的な雰囲気から事態の深刻さを伺わせる沈痛なものに変わっていることを報じていた。 sugar coating (見ばえをよくする)が消えたというのだ。それはそうだろう。このまま推移すれば、全米での死者数は少なくとも10万人から20万人に上ると見られている。
 大統領は今では次のように語り始めている。“A lot of people were saying ‘think of it as the flu,’ but it’s not the flu. It’s vicious.” 我々はついこの間までコロナウイルスを軽視していたのはトランプ大統領本人だったことを知っているが、大統領はそうは考えていないようだ。
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 中国語・韓国語を独学し始めて、気になる語彙がでてくると、中韓両語では果たしてどういう語彙になるだろうと興味を抱く。よって辞書やネットで調べることになる。
 つい最近調べたのは石頭という語彙。日本語では言わずと知れた①石のようにかたい頭②考え方がかたくて融通のきかないこと。また、そういう人を意味する。英語では②の意味では stubborn や bigoted という語が頭に浮かぶ。韓国語では何と言うのだろうと辞書を繰ってみると、石に当たる돌と頭を意味する대가리が一緒になった돌대가리が出てきた。カタカナで表記すると「トルテガリ」か。中国語の直訳では「石头」となるが、実際には②の意味で「死脑筋」という語があることを知った。脳の筋が死んでいるので考え方が硬直しているといった語意か。なんとなく類推できる。ほめ言葉ではないことはすぐに分かる。

エモいって何?

 新聞を毎朝購読している価値の一つは思わぬ話題に接することができることだろうか。日々刻刻変わる国内外の大きなニュースはスマホやパソコンでもリアルタイムで読むことができる。だが、緊急性がなく、かといって、社会や世相の変容を伺い知ることのできる話題などはネットではなかなか拾い上げることはできない。少なくとも私にはそうだ。
 だから、そうした話題を読むことができたときには、新聞を購読していて良かったと思うことになる。つい最近そういう思いをした。
 読売新聞。一面で「国語力が危ない」という企画シリーズが掲載されていた。初回の項では「エモい」という語彙が紹介されていた。目(耳)にしたことがあるような、ないような。三省堂の国語辞書「大辞林」に昨秋、初めて収録された語彙で、主に若者言葉が使っており、「心に響く、感動的である」という意味とか。感情という意味の英語の emotion が語源とされる。「絶景を目の当たりにした時、昔の自分の写真を見た時————。エモいは感動や懐かしさ、切なさなど様々な感情を一言で表すことができる」と述べられている。
 記事ではこのような使い勝手の良い感情表現を多用する若者の昨今の傾向を危ぶむ識者の意見も紹介されていた。最近の子供たちはそれでなくとも「やばっ」という語彙を多くの場面で連発する。彼らが小さい頃から細やかなニュアンスを無視した単語ばかりを使っていると、語彙が不足し、コミュニケーション能力が低下、最終的には思考回路が単純になるのではないかという指摘もなされていた。なるほど。若者言葉を斬新などともてはやしていると、本当にやばいことになるのかも。
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 ローカル放送局のラジオを聞いていて、少し驚いた。話題は確か、2020東京オリンピックが来年に延期となったことだった。安倍首相が国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長らと協議の末に延期で決着したことを男性2人、女性1人のパーソナリティー3人が語っていた。その時、ネゴシエーションという語を一人が口にした。アシスタントらしき女性がネゴシエーションってどういう意味の語ですか、と尋ねた。意味を教えられた彼女は「これって日本語ですよね?」と重ねて尋ねた。私はスタジオの場が少しフリーズしたような気がした・・。私の脳内は一瞬、フリーズした。
 まあ、ネゴとかネゴシエーションという語彙は普通にメディアなどで使われている外来語かと思う。しかし、日本語と呼ぶにはまだ時期尚早ではないか。日本語がそのうちにエモいとかネゴシエーションなどといった語彙で席巻されるようになったら、昭和(平成)は遠くなりにけりと嘆ずることになるのだろう。
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 小倉のよみうりFBSセンターと福岡・天神のカフェ「本のあるところajiro」で英語を教えています。小倉の英語教室は毎月第1、2、3火曜日の午後3時半から5時まで。天神のカフェでの英語教室は毎月第2、4日曜日の正午から午後1時半まで。小倉の教室はhttps://yomiuri-cg.jp/ で。天神の教室はhttp://www.kankanbou.com/ajirobooks/ で。途中からの参加でも問題ありません。歓迎します。 

アズスナアズポサブル

 毎日気が滅入るコロナウイルスのニュースばかり。私はこっちには絶対来るなとの思いから「クルナウイルス」と呼んでいる。という冗談はともかく、ブログをアップする気にもなれない。このブログを書き始めて7年の歳月が流れたが、こういうやる気のない気持ちにさせられたのは初めてかもしれない。年とともに記憶が段々と薄れてはいるが。
 去年の今頃は一か月という短期間とはいえ、台湾に語学留学するのを控え、あれこれ思案していたかと思う。本当に受講が許されるのだろうか、宿はどうしよう、安い宿を見つけることができるだろうか、といった不安も抱えていた。そして元号が平成から令和へと変わったのを見届けて、キャリーバッグに着替えを詰め込み、台北に発った。着いてみれば、案ずるより産むが易しで、楽しい一か月の台北滞在を過ごすことができた。
 それを考えると今の心境とは大違いだ。おそらくコロナウイルスがなければ、この時期に台北か上海辺りに一週間程度の短い旅に出ることを考えていたかもしれない。まあ、去年台北に行っておいて良かったと思えば、そういう見方も可能かもしれないが。
                 ◇
 去年の秋から開講されていたNHKの中国語・韓国語講座も今週で半年の学習を終了した。初級の講座は中国語・韓国語ともに再放送だったので、私は少なくとも2回目の聴講だった。前半はさすがに楽についていけたが、後半は結構手こずることがあった。中級の講座は依然、難解だった。
 そして来週からまた新しい講座が開講する。次回は再放送ではなく、新作の講座のようだ。もうそろそろ初級はほどほどにして中級をじっくり聞いて学習する段階ではないかいなとは思うが、人間、ついつい楽な方に流れるようで・・・。
                 ◇
 新型コロナウイルスに関して、河野防衛相がカタカナ語を多用しないようにと政府に申し入れたとする苦言が新聞に載っていた。防衛相が問題視しているのは「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」など。毎日NHKテレビを見ていれば、それぞれ「感染集団」「爆発的な患者急増」「都市封鎖」を意味するということは理解できるが、確かに防衛相の言は傾聴に値する。多少とも英語を学んでいれば、英語のcluster は(ブドウなど果実の)房、かたまりを意味するから、まあ、類推できる。overshoot は辞書には(停止位置などを)通り過ぎる、(限度などを)超過すると載っているが、患者の急増はかなりの飛躍か。lockdown は独房への監禁という原意で、都市封鎖はまあ類推できないことはないが。
 新聞記事には茂木外相が記者会見などで「アズ・スーン・アズ・ポッシブル」(できるだけ早く)「アグリー」(合意)などの英語表現を連発しており、防衛相の主張に耳を傾けよと指摘した野党議員の苦言も紹介されていた。
 私も多少なりとも英語で「飯を食ってきた」端くれとして、普段使う言葉にあまり横文字が飛び出さないように気を遣ってはいる。市民権を得たような便利な表現は別としてだ。上記の「アズ・スーン・・」や「アグリー」は少なくともまだそういう段階にはないように思う。ポッシブルが定着すると英語の実際の発音を誤解する可能性が possible だろう。

more than two =3人以上

20200325-1585095077.jpg 月曜朝のこと。寝起きにスマホで新型コロナウイルスの最新のニュースを確認しようとしていて、BBCのトップ記事に目が引きつけられた。ドイツ政府がドイツ国内でも深刻化の一途にあるコロナウイルスを抑え込む対策として、“groups of more than two” の集まりを禁止すると表明した。私はこの “more than two” という表現に戸惑った。おそらく即座に脳内で「2人以上の集まり」と翻訳理解していたのだろう。「2人以上」がだめなら、要するに一人で行動せよということか? まさか?
 実は私は新聞記者を稼業としていた昔から、日本語の「以上」「以下」「未満」「~年ぶり」などといった表現に居心地の悪さを覚えていた。迷うと会社の「スタイルブック」をくくり、正しい用法を確認した。今、そのスタイルブックを改めて読むと、例えば100個以上(以下)は100個を含む、100個未満は100個を含まないと記してある。英語の “more than” は日本語の「以上」に似てはいるが、ぴったり重なるものではない。“more than two” とあれば、2は含まれない。だから、上記の記事の見出しを日本語に訳す場合、「2人以上の集まりを禁止」ではなくて「3人以上の集まりを禁止」としなければならない。こういう基本的な事柄もうっかりすると勘違いしてしまう。私はこうした表現が苦手だ。
 誤解を招きたくなければ、例えば、“Germany bans groups of three or more to curb virus” とすれば、夫婦やカップルなどの2人連れは禁止措置から除外されることが明確になる。
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 英米のメディアではコロナウイルス対策として、“social distancing” という表現を目にしない日はない。「人混みを避けるなど、人との接触機会を減らすこと」を意味するが、今回のウイルスだけでなく、現代社会では感染症から身を守るキーワードの一つとなるのだろう。誰か定訳を作った方がいいかと思う。「ソーシャル・ディスタンシング」では長過ぎるし、子供や中高年には伝わりにくい。「人間(じんかん)距離を保て」「人混みに近づくな」などといった表現が頭に浮かぶが、もっといい表現があるはずだ。「プライバシー」を念頭に「スペイバシー」は無理があるか?
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 コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている折、あまり悠長なことは書きたくはないのだが、少なくとも私の周辺では緊迫していないのだから致し方ない。最近再び時々手にし始めた『漢詩鑑賞事典』のことを書きたい。陶潜(淵明)(365-427)。東晋の人で晩年は田園に遊び、酒を愛し、隠者的な暮らしを楽しんだ御仁のようだ。彼の詩を読むとぜひ昵懇になりたかったお人だと思ってしまう。「飲酒」と題された詩もある。「雑詩」と題された五言古詩は以下の最後の二句が特に有名か。及时當勉勵 歳月不待人(時に及んでまさに勉励すべし 歳月は人を待たず)
 『漢詩鑑賞事典』では「よい時を得たら逃すことなく精いっぱい楽しむのだ 年月はどんどん流れていって、人を待ってはくれないのだから」という訳が載っている。このくだりは「若いときに勉強しなさい」と誤解されがちだが、「チャンスを逃さず遊べ」と勧めているのだとか。日本ではまだ古墳時代の頃に海の向こうで暮らした詩人の言葉・・・。

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