英語でさるく 那須省一のブログ
思い出したこと
- 2013-07-25 (Thu)
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狐狸庵先生ついでにもう一つ。本棚に作家の別の単行本が目に入った。はて、こんな本買っていたかいな。『心のふるさと』。
帯のところに「著者最晩年の珠玉エッセイ集成」と紹介されている。広く名の知れた作家仲間との興味深い付き合いのエピソードが並んでいる。途中から読んだことを思い出したエピソードもあった。何という記憶力(のなさ)。実に情けない。
それはそれとして、この本の中に「幽霊の思い出」と題された一文があった。これはずっと前にほかのところで読んだこともあり、覚えていた。作家の青春末期の話で、盟友の三浦朱門氏と熱海の旅館に泊まった時に表題の通り、ぞっとする経験に遭遇したことを綴ったものだ。二人は離れの部屋をあてがわれるが、深夜、寝付けない狐狸庵先生の耳元で誰かが「俺は・・・ここで死んだんだ」とささやく。金縛り状態で、ささやきが三度目になった時、恐怖におののく遠藤氏が跳ね起き、助けを求めるように三浦氏に声をかける。すると、隣の布団で熟睡していたと思っていた三浦氏も、さっきから「お前と俺との布団の間にセルの着物を着た若い男が後ろ向きに座っているのを見た」と言う。二人は恐怖のあまり腰を抜かしてしまうが、ほうほうの体で離れから逃げ出す。『心のふるさと』ではその後日談も紹介されていた。
私が遠藤氏に親近感を持つ理由は他にもあるのだが、このエピソードもその一つと言えようか。私は「霊的」な体験は皆無に近く、一生ないだろうと思っていた。それが四年ほど前、どう考えても「霊的」な経験をした。転居したばかりのマンションで明け方に、うつらうつらしている時、若い男がベッドの頭のところからぬっと現れ、私の額にノミを金槌で打ち込もうとしたのだ。私は「やめろ、何をする、やめろ」と大声を出しながら跳ね起きた。もちろん、寝室には誰もいない。私は夢ではないと思った。今でもそう思っている。白装束で頭に血が付着した若い男だった。
ここに至るまで、伏線があったからだ。第一にそのマンションに転居して、ほどないころのこと、夜ベッドで寝ていたら、誰かが私の胸の上に載って、人工呼吸をするように私の胸を圧迫していることがあった。息苦しくなった私は「やめてくれ」と跳ね起きた。この時は夢かなと思ったが、誰かが間違いなく、私の胸を押していたという感触が残っていた。危害を加えるというのではなく、単に眠らせないというような感じの行為ではあったが。その数日後のこと、眠ろうと毛布を足元から胸の辺りまで引き上げた時、風が下からではなく、真横に吹き過ぎたこともあった。あれ、おかしいなと思った。いや、気持ち悪いなと思った。
それでその後は天井の蛍光灯の小さい方の明かりを付けて休むようにした。私は部屋を真っ暗にしないと寝付けない。明かりがあると、寝付くのに苦労する。それで一週間か二週間ぐらい経過して、明け方にトイレに立った時、もう夜が明けていたので、これなら大丈夫だろう、もう一眠りしようと蛍光灯を完全に消して、ベッドに潜り込んだ。眠りに落ちたその瞬間に上記の若い男が「出現」したのだ。彼は「おら、油断したろお」とか何とか言ったような・・・。
人工呼吸のような胸押しぐらいならまだ許せた。ノミと金槌まで持ち出されたらもう付き合いきれない。さて、どうしたらよかろう。続きはまた後日、気が向いたら、書くことにしよう。この辺りで、丁度A4用紙の末尾のところまで届いたようだ。
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『イエスの生涯』
- 2013-07-22 (Mon)
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「積ん読」の効用で本棚にある未読の本を適当に読み進めている。昨日読み終えたのは遠藤周作の『イエスの生涯』。200頁少しの小品の文庫本だが、この本を買っていたことさえ忘れていた。
自分なりに聖書を改めて読み始めたことは少し前に書いた。週末土日の寝起きにベッドで寝そべりながら、少しずつ読んでいる。当然のことながら遅遅として進まない。そのこともあり、すっとこの本に手が伸びた。
私が読んでいる聖書は、アメリカで出版されたThe Way (The Living Bible) というタイトルの本。聖書を時系列に読む方法が冒頭に述べられている。旧約聖書の創世記(Genesis)の1から22、ヨブ記(Job)、創世記の23から50、出エジプト記(Exodus)、詩篇(Psalm)の90といった具合に細かく指示されている。今はエレミヤ書(Jeremiah)まで到達した。全体のほぼ半分ほど読破したところだろうか。それにしても、何だか同じことを何度も何度も読まされているような気がしないでもない。旧約聖書で描かれる戦(いくさ)の記述にも圧倒されている。敵であれば、女子供にも容赦がなく、1万人、2万人単位の全住民が殺害されているからだ。
「狐狸庵山人」とも称したユーモアあふれる才人でもあった遠藤周作は好きな作家の一人だ。親しみやすいエッセイ本が印象に残っている。代表作で読んだのは『沈黙』。この作品の舞台となった長崎県の五島列島は取材で足を運んだことがある。
新上五島町の東端に浮かぶ頭ヶ島という島。小さい島だが、そこに全国から観光客を引きつける頭ヶ島教会がある。私が取材で訪れた時、観光バスでやって来た観光客の方々はバスガイドさんの観光案内に耳を傾けていた。「みなさん、あちらに見えるのが、江戸時代、隠れキリシタンを転向させるのに用いた拷問の石です」。正座した両足に重い石を載せる拷問だったという。
『イエスの生涯』の解説文を読むと、1996年に73歳で没している作家は1973年、50歳の時にこの作品を発表したのだという。キリスト教とのかかわりをライフワークとした作家のイエス像が作家ならではの表現で描かれていて、キリスト教、キリストへの思いが行間から迸っていた。
印象に残った表現にはサインペンで印をつけた。例えば次のような表現だ。
「イエスは死の不安と闘っておられた。永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっと惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった」
「だが我々は知っている。このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿されていることを。(中略)キリスト者になるということはこの地上で『無力であること』に自分を賭けることから始まるのであるということを」
「受難物語を通してイエスは全く無力なイメージでしか描かれていない。なぜなら愛というものは地上的な意味では無力、無能だからである」
「手元」に引き寄せ、深く考えさせられる記述だ。ずっとこれからも。
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マンデラ氏の誕生日
- 2013-07-18 (Thu)
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今日7月18日は南アフリカの元大統領、ネルソン・マンデラ氏の誕生日だ。1918年生まれだから、95歳となった。マンデラ氏は危篤状態との報道が一時南アから流れてきていたが、どうも危機的状況からは脱したかのようだ。マンデラ氏の一日でも長い長寿を世界の多くの人々が祈っていることだろう。私もその一人だ。
私はずっと以前からマンデラ氏の年齢はすぐに計算できる。卑近な話で恐縮だが、アフリカの黒人解放の闘志、マンデラ氏と亡き母親が同じ年の生まれだからだ。しかも、月も同じ7月。お袋の生前は誕生日がやって来る度に、母の齢を数え、数日後にマンデラ氏の誕生日のことを思ってきた。
実はマンデラ氏が27年余の獄中生活から解放された直後の共同記者会見で、新聞社のナイロビ特派員だった私は彼にそのことにも触れて質問をしようと考えたことがあった。南アの美しい都市ケープタウン。白人至上主義を掲げてきた国民党政権は1990年2月11日、マンデラ氏を自由の身とした。欧米のメディアが中心となった共同記者会見はその数日後に開かれた。例のごとくに質問に立つのは欧米の記者が中心。私は日本人記者として何としても、マンデラ氏に一つは質問したかった。それも、お決まりの質問ではなく、彼の、そして私の印象に残る質問を。
私の頭にあったのは、マンデラ氏が私の母と同じ年齢だということ。1990年のことだから、ともに71歳。獄中でもシャドーボクシングしていたというだけあって、マンデラ氏は健康そのものに見えた。しかし、71歳という年齢は普通なら当時は(今でも)楽隠居の年齢だろう。私の母も余生を楽しんでいた(と信じたい)。だから、私は普通なら余生を楽しむ年齢に達して初めて自由の身となり、それでもなお、周囲からは南アの困難極まりない国作りの重責を担わされる身の上をどう思うかと尋ねたいと思った。
質問の導入で例えば、“My mother happens to be the same age as you.” と切り出す。ただ、私の英語力でその後、どう質問を展開していけばいいのか。第一、マンデラ氏への質問に日本のごく普通の母親である私のお袋のことを「言及」していいものかどうかも自信がなかった。迷った末に上記の導入はやめ、単刀直入、マンデラ氏が国民党政権を率いる当時の白人首相を交渉相手として信ずるに堪える人物と見なしているかどうかを尋ねた。彼は一語一語、噛み砕くように答えてくれた。私の母に言及したとしても、彼はあの特徴のある笑顔で答えてくれたのではないかと今では思っている。“Oh, is that so? How is she? Is she fine?” とか何とか言ってくれたのではないかと。
南アの地元紙をネットで読む限り、その日が確実に近づいているマンデラ氏亡き後の南アが果たしてどうなるのか憂える声が満ちている。ノーベル平和賞受賞のデズモンド・ツツ氏(元大主教)も母国の前途に警鐘を鳴らしている。マンデラ氏が率いた当時の南アと現在の南アは異なり、政治、社会の指導層は自己の富・権力を拡大することにのみ躍起となっていると。マンデラ氏が奇跡的に回復し、彼の世代の指導層が目指した「肌の色に左右されず、自由と幸福を皆が享受する政治・社会の実現」をあの独特の英語で訴える姿が今一度見てみたいと思うのは私だけではないだろう。
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シンプル・ライフ
- 2013-07-15 (Mon)
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最近は本棚に組み込まれた形の机で仕事をしている。この本棚はずいぶん以前に購入したものだが、机の部分はほとんど使ったことがなかった。食卓用の広いテーブルを使ってきたからだ。ここにきて、組み込み机の方を重宝している。というのも、この机を置いた部屋の窓を開け、玄関のドアを少し開けておくと、風がこの部屋を吹き抜けてくれるからだ。これで昼間はエアコンをオフにしていても今のところはやっていける。
本棚に何気なく目をやると、途中で読むのをあきらめた本とかがたまに目に入る。暇に任せて手に取ってみる。不思議とそのまま読み通してしまうものもある。「積ん読」の効用を今まさに味わっていると言えようか。数日前から手にしているのは『単純な生活』という本。阿部昭という作家が書いたエッセイ本だ。どういう作家が承知していない。改めて検索してみると、1934年に生まれ、その生涯を湘南・鵠沼地方で過ごした。テレビ局勤務の後、作家の道に専念し、短編小説の名手として知られ、数々の賞を受賞、1989年に55歳の若さで病没したと紹介されている。ふーん。
なぜこの本を買い求めたのか記憶にない。タイトルに魅せられたのか。しかしながら、最初の数ページを読んだだけで投げ出した本だった。改めて、読み進めてみる。こちとら、今は時間だけはたっぷりある身だ。読み進めていくうちに、手がとまる文章に何度か出合う。作家は書いている。「神様なしに単純な生活があり得るかどうか、あるとすればそれはどういう生活か、私にはわからない。しかし、私は私で、単純な生活を欲している。それが大それたことだというなら、せめても単純な生活を夢みている」
こういう記述もある。夕刻に自宅の近くに出かけ、焼き鳥屋など馴染みの店をのぞいた後のくだりである。「それで物足りなければ、もう少しなにか食べて飲む。これで私の晩めしは終わりである。あとは大人しく帰宅すべきであるが、そこがそうは簡単に行かぬところに男どもの難問がある。飲むほどに酔うほどに、しだいに人恋しくなり、梯子をやる羽目になる」と記してある。
この辺りはよく分かる。私もそうだ。いや、そうだったと記すべきか。会社に勤務していたころ、特に東京にいるころは、飲み屋から電話をかけて友人を呼び出したこともあった。今はそういうことは皆無に近くなった。寂しくとも思わない。人生にはそれぞれの年齢、場面に相応しい振る舞い方があるのだろう。
今は飲み屋に足を運ぶのは週に一回ほど。週末の夕刻、馴染みの居酒屋をのぞくだけ。「とくちゃん、いらっしゃい!」というママの元気な声に迎えられて、カウンターの隅っこの定席に座り、見知った常連さんがいれば、その人と雑談。話し相手がおらず、お店が忙しければ、お店の人たちともろくに話をしないまま、黙々と焼酎のグラスを傾け、一時間程度で引き上げる。ほろ酔いのいい感じだ。(ちなみに私は最初の夜に、キープした焼酎のボトルに名前を書く際、「匿名希望」と書いたので、それ以来、ずっと「とくちゃん」と呼ばれている。これも悪くない)
上記の作家の「単純な生活」はもうあと少しで読了するところまで来ている。読みやすい平易な文章だ。タイトルは英語だと “Simple Life” と訳すのだろう。私の生活と似て非なるような。もっとも、私のは人様からみれば「単調な生活」に見えるかもしれない。
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暑い!
- 2013-07-08 (Mon)
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東京の友人からはまだエアコン入れずとも大丈夫とのメールが届いた。福岡ではそれは無理だ。いや、暑い。今日は特に暑い。週に一日教えている大学での英語の授業に使うパワーポイントを作成するため、今朝からずっとパソコンに向かっているが、じっとしていても汗ばんでくる。目の前にある温度計は気温32.5度で湿度52%。湿度がこの程度だから、エアコンのスイッチを入れずとも何とかやっていける。エアコン、そう、エアコンを購入したばかりだ。以前に今夏はうちわで乗り切るつもりだと書いたが、やはり、そうは問屋が卸してくれなかった。
昼間は汗をかいて仕事に励むのも悪くない。いや、健康にはむしろいいだろう。だが、夜眠れないのには参った。部屋の気温が26度ぐらいなら、何とかだましだまし眠りに落ちていたが、最近では深夜になっても28度以下に下がらないことがあり、これではいかんせん眠ることができなかった。うちわであおぎ、手が疲れると、今度はうちわを固定して、頭を左右に振って涼んでいたが、これにも限界があった。(頭を左右に振るは冗談)。
過去三年間は夏の期間は海外の旅にあったので、福岡のこの酷暑から逃れていた。旅にあった時のブログでも再三書いたかと思うが、イングランドやスコットランドでは猛暑はなく、盛夏でも涼やかな快適な日々だった。アフリカでも日中の日差しこそ強烈だが、高原地帯の都市部では朝夕はしのぎやすかった。
ああ、このような蒸し暑い日々がこれから3か月近く続くのだろうか。と嘆いていても始まらない。やることは少なからずあるのだ。第一、恥ずかしい話だが、恥を承知で書けば、まだ引っ越し荷物の片付けが済んでいない。和室には段ボール箱が乱れている。少しずつ片しているのだが、思い出のある品が多く、整理していても、すぐに時間が止まってしまう。とにかく和室を片付けなければ・・・。
そうやって荷物を片していて、すっかり忘れていたものが出てきた。腹筋を鍛える健康器具だ。板の間に置いて、その上に横になり、足を器具の突端の下に入れれば、支えてくれる人がいなくても一人で腹筋ができる簡単至極な器具だ。これは大阪から東京に転勤(復帰)する時に同僚たちがプレゼントしてくれたものだ。いいものが出てきた。これでこれから腹筋をして、たるんだ体を鍛え直そう!
以前に書いたように、近くのスポーツジムのメンバーとなり、プールで定期的に泳いだり、(プール)歩行をしたりしているのだが、昨年末以来の「焼酎と酒の肴」という海外では味わえなかった至福の日々がたたってか、腹回りが情けない。段ボール箱からでてきた昔(3年前)のジーンズをはいてみると、ウエストがきつい。はけないことはないが、ウエストを締め付けていると、なぜか物悲しくなってくる。腹筋を鍛えれば、そのうちに楽にはけるようになるだろう。
ここまで記して、ふと目を上げると、温度計は気温33.5度、湿度50%。カーテンを閉めて西日を食い止めているのだが、それでもこの温度だ。そろそろプールに行って泳ごう!
(写真は、シェイプアップの切り札と期待をかける、腹筋を鍛える健康器具)
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還暦同窓会
- 2013-07-01 (Mon)
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まだ余韻に浸っている。先週土曜夜、宮崎市内で小中学の還暦同窓会が催された。その余韻である。福岡に戻って再び一人暮らし。今の気分は説明しがたい。
私の母校は西都市の山間部の小さな中学だった。あの当時はそれでも、同級生は47人かそこらいたような記憶がある。すでに他界したのは私が知る限り3人ほどで、残る同級生のうち27人が集まった。田舎だから、我々は小学中学の9年間を一緒に学んだ。同級生の両親はもちろん、兄弟姉妹も知っているのも少なくない。私は最後に出席した同窓会がいつだったか覚えていない。大学卒業後、東京に就職して以来、同窓会には出ていない印象だから、35年以上、いや40年以上も同級生と会っていないような気がする。
当然のことながら、緊張して同窓会に臨んだ。皆、どのように変わってしまったのだろうか。どんな風貌になっているだろうか。昔のように気さくに話せるものだろうか。会場に足を運んで、そういう心配はすぐに吹き飛んだ。童顔の私は幼児の時以来、顔立ちがほとんど変わっておらず、すぐに声をかけられた。私から見れば、容姿が大きく変わった同級生もいて、「お前や、誰かいな?」と間の抜けた問いかけをしたのも三、四人いた。
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今、こうやってパソコンのキーボードをたたいていて、初めて、「ああ、あの子、思い出した。そうそう、いたわ。あの子が同級生に」と改めて思い出した女子もいた。一次会、二次会と盛り上がった。ビールに焼酎、何杯飲んだことだろうか。注がれるままに喉に流し込んだ。普通なら酷い二日酔いに悩まされるのだろうが、そんなこともなく、翌朝は同宿したホテルのレストランで7、8人と朝食をともにしながら、再び花を咲かせた。
田舎の清らかな水と空気で育っているせいか、女性陣はとても60歳とは思えない、若々しい人が多かった。男はだいたい私と同様、年相応の風貌になっていた。髪の毛が寂しいのは私が一番だったか。記念撮影では「しょういち、わら、帽子かぶれ、ハレーション起こすから」と軽口を叩かれた。私はいつまでたっても、道化の役回りだ。
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同窓会では昔の写真も頂いた。小学3年か4年のころの写真だ。珍しく雪が降ったので、教室の外で一緒に撮影したものと思われる。懐かしい顔が目の前にある顔と重なる。
私たちが巣立った小学中学は過疎の荒波で生徒数が激減し、今では小学校は中学校と統合されている。地元の子供たちは数えるほどで、地区外からの山村留学生で辛うじて命脈を保っている。地元に残っている同級生もごく少数。そのことを思えば、悲しくなる。何とか古里を盛り上げる手立てはないものか。おそらく、皆が口にしないまでも、胸に秘めていた思いだろう。
女子の中には初めて打ち解けて話をした人もいた。私の世代の男子は小学中学で親しく女子と話をすることはまれだった。内気な私は少なくともそうだった。「しょういち君は女子とは全然話をせんかったわ。とっつきにくかったがねえ」「ごめん、これからは心を入れ替えるから」。彼女たちと話をしながら思った。我々にあるのはあの山と川で育ったという共通の体験と記憶。これだけは捨てることも拾うこともできない。我々だけの絆だ。次の同窓会は2年後か。それまでは過ぎ去ったばかりの一夜を大切に心にしまっておこう。
(写真は、還暦同窓会の一コマ。記念撮影[複写]。昔の懐かしい写真[複写])
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アフリカ追想
- 2013-06-16 (Sun)
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先週末、NHKのBS放送でアフリカの特集番組が放映された。西アフリカの大国、ナイジェリアの貧困、貧富の格差問題を取り上げたものだった。日本ではアフリカの発展支援策を五年おきに話し合うTICAD(アフリカ開発会議)の第五回目の会合が開催されたばかりであり、会議に参加したナイジェリア政府首脳のインタビューも交えられていた。
ナイジェリアの商都で最大都市のラゴスのスラム地区にカメラが入り、普段は見ることのできない劣悪極まりないスラム地区で暮らさざるを得ない一般の人々の暮らしが紹介されていた。石油を産し、人口は日本を上回る1億6千万人。英国の支配を脱して独立し、すでに50年以上が経過している。それでも、多くの国民がここ日本にいては想像もできないような貧困にあえいでいる。
私がナイジェリアを再訪したのは2010年夏のこと。今回、NHKの特集を見ていて、改めて感じたことがある。それは行政の腐敗・怠慢・失政で住民の暮らしがなおざりにされる中、住民はいまだに辛抱強く明日の幸福を夢見ていることだ。10代か20代前半か、若者たちがテレビカメラに向かって切実に訴えていた。「仕事が欲しい。仕事が欲しくて郷里を出て来たのだ。郷里にいても仕事がないから、ラゴスに来たのだ」
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番組でも指摘していたが、絶望した若者たちを待ち受けているのは、犯罪組織であり、日本ではあまり報じられていないが、北部地区では、イスラム過激派集団がそうした若者を悲惨なテロ行為に駆り立てている。ただ、まだ大半の若者たちは絶望感に打ちひしがれているわけではない。自助的な組織、活動も芽生えている。貧困にあえぐ国民の「善意」が消え失せないうちに、有効な施策に打って出ることが喫緊の課題だ。
それにしてもと思う。アフリカの国々が欧米やアジアの先進国の「協力や支援」で追い求めているのは、そうした先進国の「手垢」のついた経済モデル。だから、若者は地方の農村漁村を捨て、大都市を目指す。そしてやって来た都市部には仕事はなく、スラム地区に流れ住むことになる。人口の一極集中が治安の悪化を始め、多くの問題を生じることは言うまでもないだろう。
先般のTICADではアフリカが秘めている経済的発展の可能性が脚光を浴び、「アフリカは援助の対象から投資の対象に変わった」ともてはやされた印象がある。援助でも投資でも何でもいい。問題はアフリカの国々に投じられる支援が必ずしも等しく一般の人々の暮らしを潤すことになっていないことだ。
英語で言うと、self-aggrandizement という表現がある。「自己の富や権力の拡大強化」という意味だ。もっと砕けた表現なら、社会の最上層にあるごく一部のエリート階層が「あきれ返るほど私腹を肥やすこと」とでも言うのだろうか。アフリカでは多くの国々でこのセルフ・アグランディズメントが横行している。支援・投資する側がこの問題に真正面から向き合わない限り、援助であれ、投資であれ、アフリカの国々の大多数の人々が幸福感に浸れる日がやって来るのはまだまだ遠い。
(写真は、2010年夏のナイジェリア再訪の際の光景。ラゴスではこのような水上生活を送っている人々も少なくない。「快適さ」からは程遠い生活だ)
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