英語でさるく 那須省一のブログ
"Unbroken"
- 2017-01-05 (Thu)
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今年の正月は暖かい。宮崎とはいえ、山間部の朝夕は冷え込みが厳しく、いつも正月は震えながら、二階から階下の居間に降りていた。今年は震えるほどのことはない。子供の頃には珍しくなかった軒下や道端の氷柱(つらら)は久しく目にしていない。これも地球温暖化の確実な証左だろうか。そうだとしたら、喜んでばかりはいられない。
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夜。何度か庭に出て夜空を仰いだ。例によって、夜空をチカチカと点滅しながら飛んでいる不思議な飛行体を何度も見た。航空機ではない。ヘリでもない。ドローンなら理解できるが、はるか上空を飛行するドローンはありえないだろう。ドローンだとしたら、かなり巨大なドローンだ。今回も?で終わったが、実に不可解。昼間には全然見ることのない物体だ。デジカメで撮影を試みたが、映っているのは残念ながら真っ暗闇。
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時間がたっぷりあったので、ほぼ一日中、読書にいそしんだ。読んだのはアメリカ人の友人からクリスマスプレゼントで頂いた “Unbroken”(Laura Hillenbrand著)。第二次大戦で旧日本軍の捕虜となり想像を絶する虐待を受けながら生還する米兵、ルイス・ザンペリーニ氏(Louis Zamperini)の実話に基づく物語だ。捕虜となる前には乗っていた米軍機が太平洋上に墜落し、洋上を46日間も漂流し、飢えと渇き、さらには日本軍機の銃撃やサメとの死闘を経験する。表題が示す通り、普通の人間だったら、とっくの昔にbreak down(崩壊)していても不思議でない過酷な戦時体験が生々しく描かれている。
極悪非道の虐待に出る日本兵幹部が実名・写真入りで登場しており、複雑な心境で読み進めた。旧日本軍の瑕疵は幾らでも指摘できるだろうが、この本を読んで改めて思うのは、彼らには捕虜虐待を禁じたジュネーブ条約の存在が一顧だにされていなかったという重大さだ。だからいまだに欧米の戦争体験者の間では恨みつらみが残っている。それはこの本を読んでもむべなるかなと理解できる。
人間の虚栄心や戦争の虚しさに改めて思いを馳せたが、思わず吹き出してしまったエピソードもあった。ザンペリーニ氏が移送された新潟県の直江津の捕虜収容所でのお話。In Naoetsu’s little POW insurgency, perhaps the most insidious feat was pulled off by Louie’s friend Ken Marvin, a marine who’d been captured at Wake Atoll. At his worksite, Marvin was supervised by a one-eyed civilian guard called Bad Eye. When Bad Eye asked Marvin to teach him English, Marvin saw his chance. With secret delight, he began teaching Bad Eye catastrophically bad English. From the day forward, when asked, “How are you?,” Bad Eye would smilingly reply, “What the fuck do you care?”
彼の仲間が看守に悲劇的に(catastrophically)間違った英語を教える狡猾な芸当(insidious feat)をやってのけた(pull off)ことを述べた場面だ。私も外国人に簡単な日本語を教える機会に遭遇すれば、似たようなことを仕出かしたいという誘惑に駆られることがないでもない。実際、とある寿司屋で外国人のお客が「おしんこください」というところを「おちんこください」と叫んだという話をどこかで読んだ記憶もある。
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テザリング
- 2016-12-30 (Fri)
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年末年始、宮崎の田舎は長姉の家に籠っている。そして今年最後のブログを書いている。例年と異なるのはこの項をすぐにアップできるということだ。テザリング機能といって、パソコンのネット通信を可能にするA社の携帯電話に最近、買い換えたばかり。携帯電話自体はガラケーであることに変わりはないのだが。
A社ショップでは電波事情の良くない山間部では必ずしも100%OKとは保証できないと告げられていた。そして帰郷。新携帯は通信状態も以前のものに比べても格段に良好。これまでは長姉の家では庭に面した廊下でなければ圏外だったが、今度のはどこでもアンテナが立つ。ネットワークの設定をテザリングにしてパソコンを立ち上げると、WiFiが可能な状況になっていることが分かった。あなうれし! これで「下界」とつながることができる。
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お昼。(私が収穫したわけではないが)収穫したばかりの椎茸を炭火であぶって酢醤油で食べる。これを美味と言わずして何と呼ぶ。惜しむらくは焼酎を飲めないことだ。明日になれば大晦日。大晦日ならば「特例」で焼酎を飲める。しばしの辛抱だ。
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電波状況の良くない山間部で困ることはNHKラジオの聴取がままならぬこと。韓国語と中国語講座が聞けない。ところがテザリング機能を使えばパソコンを通して、NHKのネットラジオ「らじる★らじる」が生放送で聞けることにも気付いた。やってみると、普通のラジオよりも鮮明に聞くことができた。テザリング恐るべし!
独学の初級者の身だから勘違いしている可能性があるかもしれないが、それを怖れず、中国語に関し最近の気づきを書けば————。NHKの中国語テキストで次のような文章があった。去哪儿旅行不重要,跟谁去最重要。(どこに旅行に行くかは重要ではなく、誰と行くかが最も重要です)。声調を含めて、この中国語文を正しく発音するのは私には至難の業なのだが、意味合いは理解できる。
この文章に出合った時に、日本語と中国語の「距離」がぐっと縮まったように感じた。英語だと上の文章は私には、It is not important to where you go on a trip. With whom you go is most important. といった英文が頭に浮かぶ。ただし直訳的に英文に落とすと、Go where on a trip not important, with whom go most important. といった感じだろうか。同様に直訳的に日本語文に落とすと、「行くどこに旅行、重要ではない、誰と行く、最も重要」という文章になるかと思う。これでも十分意味合いは理解できる。英文は推敲が不可欠だが、日本語文は荒削りでも何とか通じるのではないか。そのうち、私も何とか中国語の文章を自由に口にできるのではないかと考えた次第だ。
もちろん、「ピンイン+声調」の容易ならざる壁は存在する。これは大変だが、まあその辺りはあまり焦らずにやって行こう。来年の今頃、この欄で「今年、中国語はだいぶ上達したかと思う。基本的な会話ならそう苦労せずにやり取りできるようになった」と書けるようになっていたい。果たしてどうなっているのだろう。自分でも楽しみだ。
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シュールな一年
- 2016-12-24 (Sat)
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今年最後の授業を一昨日、無事に終えた。振り返れば、今年も何だかあっという間の一年だったような気がする。来年は実りある一年をと心から願う。今年が無駄な一年であったとは思わないもののだ。
先に英米の辞書編纂社が今年の wordとして post-truthと xenophobia を選んだことをこのブログで書いた。その後、アメリカの辞書編纂社がまた別のword を発表したという記事を目にした。今度は surrealだ。Merriam-Webster社によると、これがオンラインの利用者に今年最もチェックされた語だったとか。記事はsurreal の意味として “marked by the intense irrational reality of a dream” と記している。「夢のように強烈で不合理な現実感が特徴」といった意味合いか。この語自体がそうネガティブというわけではないようだが、今年に限って言えば、先述のpost-truthと同じ「肌触り」の語のように思える。ヒラリー・クリントン氏や朴槿恵氏を筆頭に、過ぎ去ろうとしている年が surreal(現実とは思えない)な一年だったと感じている人々は少なくないだろう。
私はsurrealという語に接するたびに、アフリカ特派員時代に南スーダン(当時は分割前のスーダン)のジュバに出向いた取材体験を思い起こす。ジュバは最近、陸上自衛隊が国連平和維持活動(PKO)の一環で「駆けつけ警護」の新任務を託された上で派遣された地だ。
私は1980年代末、隣国ケニアのナイロビから内戦取材でジュバに飛んだ。当時は訪問すること自体が容易でない地だった。唯一泊まれるホテルはコテッジ風のジュバホテル。コテッジ風と言えば聞こえはいいが、内戦ゆえに利用客は皆無に近く、建物も老朽化し、侘しさを禁じ得ない宿だった。部屋の水道の蛇口をひねると茶色い水が出た。ホテルのオーナーは毎朝、夜にはスープを出すと言いながら、最後までそのスープは出てこなかった。
たまたま同宿者に英国人のフリーランス記者がいた。トムという名のこの記者はカイロ(エジプト)から来ていた。ジュバにこの時いた外国人記者はおそらく私たち二人だけだっただろう。何日目かの朝、彼が私に向かって言った。「ショーイチ、今朝、私の部屋の(鳴ることはないと思っていた)内線電話が鳴った。このホテルはsurreal だ!」。ああ、日本語では「シュール」のsurreal という語はこういう時に使うのだなと納得した。
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アルコールの類からは無縁の暮らしを送っているが、ギャンブルもしかり。以前は競馬欄が目当てで毎日のようにスポーツ新聞をコンビニで購入していた。競馬からすっかり足を洗った昨年4月以降、競馬新聞やスポーツ新聞はただの一度も買ったことがない。ただし、週末はケーブルテレビで午後の競馬レースは見ている。もちろん馬券を買う気はさらさらないが、JRA(日本中央競馬会)のホームページで読める出馬表を参考に自分なりの予想を立てるだけで十分楽しい。
明日日曜日は年末恒例の有馬記念。今年はMQが面白そうだなと思っている。上位人気馬ではないようだから、馬券の妙味はたっぷりある。この馬が一着して大きな万馬券が出たとしても少しも残念に思わないようになったのだから、人間、変われば変わるものだ! 私のこの豹変もある意味、かつての私から見れば、surreal かもしれない。
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ハンバオバオ
- 2016-12-15 (Thu)
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数日前ふと思った。自分は夜に酒(焼酎)を飲まなくとも何とも思わなくなったってことを。2年前までは考えられないことだった。夕刻が近づくと、氷を浮かべた焼酎のグラスが恋しくなっていた。乾き物を肴にグラスの中の氷をチンと鳴らしながら傾ける。生きていて良かったとつくづく思う。気分が乗れば、軽く4、5杯ぐらいはぐいぐいとすすむ。刺身でもあればなおのことだ・・・。
断酒を決意したのは昨年の正月明けから。体重を落とし、健康を意識してのことだった。当時足繁く通っていた居酒屋が店を畳むことになり、これも神のお告げかと考えたこともある。以来、帰郷した際の幼馴染との飲み会と大晦日、それにお袋の命日以外は禁酒するようになった。あ、もう一つあった。たまに出かける韓国の旅にある時は例外だ。旅先での酒は取材も兼ねており、これは神様も許してくれるだろう。
今月末には久しぶりに宮崎の田舎に帰郷する予定。大晦日は長姉の家で甥っ子たちと少しく焼酎を飲もうと思っている。肝機能はばっちりだ。今からその日が待たれる。
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お世話になっている出版社、書肆侃侃房が定期的に出しているPRの小冊子『ほんのひとさじ』の第4号が出た。出版社にゆかりの深い作家や詩人、歌人たちが味わい深い文章を寄稿している。第4号のテーマは「音の記憶」。私も今号には韓国語・中国語を難儀しながらもそれなりに楽しく独学していることを書かせてもらった。『ほんのひとさじ』は全国の主要書店の店頭で無料配布しているが、ネットでも案内が出ており、興味のある人は以下のサイトまで。
http://www.kankanbou.com/kankan/index.php?itemid=764
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『ほんのひとさじ』に私は中国語と韓国語の独学で気づいたことを書いた。それは外来語(英語)を母国語に「落とす」時のそれぞれの言語に垣間見える「創意工夫」だ。各言語の特質ゆえか、この点、日本語よりも韓国語の方が外来語を原音に比較的近く「組み込んで」いるのではないかと時に思うことがある。例として挙げたのが、shopping という語。日本語では<ショッピング>。韓国語はハングルで<쇼핑>と書き、英語と同様見事に二音節の語となっていて、しかも、日本語のように<グ>が突出してもいない。あえてカタカナ表記すれば原音に近い<ショッピン>だ。
初級者の域にも達していない身であれこれ論じることは恥ずかしいのだが、韓国語の中に見られる諸々の外来語に接してそのように感じつつある。最近の例ではhamburger。日本語ではもちろん<ハンバーガー>。韓国語では<햄버거>。あえてカタカナ表記すれば<ヘムボゴ>。英語ネイティブの耳には韓国語の<ヘムボゴ>の方が原音により近く聞こえるのではという気がしてならない。いつかネイティブの人に尋ねてみたいとも思っている。
これに対して、中国語では<汉堡包>と書き、中国語の発音を示すピンイン表記ではhànbǎobāo。声調を無視してあえてカタカナ表記すれば<ハンバオバオ>。中国語の外来語の処理は「我が道を行く」という雰囲気さえ漂う。これはこれで興味深い。
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ポスト真実?
- 2016-12-13 (Tue)
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寒くなってきた。昨夜、ガスストーブを持ち出し、スイッチを入れた。手帳を見ると、昨冬は年明けの1月8日にそうしているから、今年はだいぶひ弱になったようだ。それでも3年前には11月末にストーブを持ち出したこともあるようだから、まあ良しとしよう。
便利な冷暖房機器に接するたびに、文明の利器の恩恵を受ける現代に生きる幸せを思わざるを得ない。ただし、この先は見えない。未曽有の大地震(津波)発生の可能性が警告される昨今、いつ命の危機にさらされるのか神のみぞ知る時代だ。多少なり不便を強いられても、天変地異のない時代を生きたいと願う気持ちもあるが、人類の営みはもはや坂道をころころと転がりゆく球体のように静止逆行不可避とも思える。
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クリスマスも近づいた。今年も例によって米ジョージア州のヒックス夫人とロンドンの元同僚の子供たちにお菓子の小包を郵便局から送った。郵送料が結構かかるのでこちらで思うほど送ってあげられないのが残念だが、日本のお菓子の味わいは結構喜ばれるので送り甲斐がある。元同僚の子供たちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。再訪できるのはいつの日か。
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今年の漢字に「金」が選ばれたと今朝の朝刊が伝えている。体操の内村航平選手を筆頭にリオ五輪の金メダリストたちはやはり強烈な印象を残したようだ。ジャパン・ニュース紙でも読売本紙を引用し、この漢字がcan be read as “kin” for gold or “kane” for money と報じている。
ネットで調べると、漢字の「本場」、中国や台湾など漢字圏の国々でも日本にならったのか、同様のことをやっているという。日本と中国のその年を代表する漢字がぴったり重なることはないのだろうか。英国のオックスフォード英語辞典は今年を代表する語を毎年選定しているが、今年はpost-truth だった。その理由として次のように記してある。After much discussion, debate, and research, the Oxford Dictionaries Word of the Year 2016 is post-truth – an adjective defined as ‘relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief’.
post-truth とは何と訳すべきだろう。読売新聞では「真実以降」と訳していた記事を見かけた。NHKテレビでは「ポスト真実」となっていた。post-cold war とか post-Apartheid という語句は自然に理解できるかと思うが、post-truth はさすがに一呼吸おきたくなる。上記の説明文からは「世論が客観的事実に基づかず、感情や個人的な思いによって形成される」現代の世相を形容しているのだという。つまり「真実の価値」が低下したのだ。英米で起きたブレグジット(Brexit)やトランプ現象がこれを代表することは言うまでもない。
アメリカのネット辞書では今年を代表する語として、xenophobia を選んでいた。これは「外国人嫌い」という定訳がある。日本でも問題となっている「ヘイトスピーチ」(hate speech)もこの xenophobia の典型的例。来たる2017年はポジティブな語が脚光を浴びることになって欲しいと切に願う。
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『静かなノモンハン』
- 2016-11-30 (Wed)
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読売新聞の文化欄でとある作家の追悼記事(obituary)を読んだ。伊藤佳一(1917-2016)という名の作家だ。初めて目にする名前だった。先月末、老衰のため99歳で死去。文芸評論家の手になる追悼記事は「この前の戦争と呼ばれるアジア・太平洋戦争で、唯一、評価できるのは、伊藤佳一氏に『静かなノモンハン』という作品を書かせたことではないか、と私は時々考える」と書き出されている。いやはや凄い称賛の記述だ。
伊藤氏の作品は「戦場小説」と呼ばれ、先の大戦での日本人の敗戦体験を歴史的かつ文化論的に見つめ、「日本人」とは何かを徹底的に問い詰めているという。伊藤氏は戦中派の世代の一人であり、加害者であると同時に被害者でもあった「日本兵」の現実に当事者として肉薄できる「最後の証言者」だったとも。『静かなノモンハン』は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』では数少ない参考文献に挙げられている作品だとか。
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ノモンハン。広辞苑で引くと「中国東北部の北西辺、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地。1939年5月から9月中頃まで、日本の関東軍とソ連・モンゴル軍とが国境紛争で交戦。日本軍が大敗を喫した」と載っている。
日露戦争で味をしめた日本陸軍が中国大陸での権益を固めるために発足した関東軍。1931年の満州事変以後、関東軍は暴走を加速化させていく。ノモンハンでの日ソ衝突が単に「事件」と呼ばれることにいびつさがよく表れている。『静かなノモンハン』は伊藤氏が事件の生き残りの元兵士3人に取材して、1983年に発表。鈴木上等兵、小野寺衛生伍長、鳥居少尉の3人がそれぞれの記憶に基づいてその体験を独白している。不毛の土地を巡り、軍上層部から捨て石のように扱われ、それでも郷里の父母や人々を思い、国のために命を捧げていく第一線の兵士、下級下士官の苦闘が淡々と紡がれている。
鳥居少尉の章では、彼の郷里で弟のように可愛がっていた兵士が爆撃を受けて死亡。少尉は兵士の遺体を草地に埋め、その上に背嚢を置く。停戦が成立し、少尉が自軍兵士の遺骨・遺品を収集して回っていたら、無風にもかかわらず、近くで背嚢の蓋がパタパタと音を立ててめくれている。普通ならあり得ないことだ。少尉はすっかり忘れていた。そこはあの郷里の兵士を埋めた場所だったのだ。そうか、お前は俺を呼んでいたのか。悪かった。気づかなかった。今、お前の遺体を掘り返して焼いてやるぞ!
文庫本には司馬遼太郎氏との対談も収録されていて、これも実に興味深く読んだ。司馬氏もノモンハン事件についてはかなりの期間調べたが、ついに書かなかったことが明らかにされている。彼は次のように語っている。「ぼくは、ノモンハンについて考えてゆくと敗戦までの日本国家そのものまで否定したくなります」と。「日本の高級軍人というのは、軍事そのものがわからなかったですな。彼らにあるのは、官僚としての出世だけだったのでしょうか。だから国際政治がどうであるかもわからない。そんな連中に国家を委ねていたのかということで、もし僕がノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う」とも。
あの悪名高き関東軍の上層部は実に愚かな軍人の集まりだったようだ。それにしても、私は追悼記事でようやく伊藤氏のような作家の存在を知るとは、実に情けない!
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記憶力
- 2016-11-22 (Tue)
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また東北地方が激しく揺れた。津波警報まで出た。内憂外患。これから日本に暮らす人々は大変な時代を生き抜かなくてはならない。愚禿凡夫の私にできることは・・・?
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安倍首相が訪米し、次期米大統領に就任予定のトランプ氏と非公式に会談したことを民進党首脳が「朝貢外交」だと批判した。私はともするとこの朝貢を「ちょうぐ」と頭の中で読んでいる。どうということもない話だが。
英字紙「ジャパン・ニュース」で、トランプ氏の長女、イバンカ嬢が、彼女の娘、つまりトランプ氏の孫娘があのPPAPを歌っているビデオをインスタグラムに投稿したとか。イバンカ嬢は娘の歌を聞いたら「ずっと耳に残るわよ」(may be stuck in your head all day)と警告していた。ピコ太郎のあの歌は私も嫌いではない。日本の芸人の英語が世界中で「受容」されていること自体が素晴らしいと思う。誰も彼の英語の発音やイントネーションが怪しいなどと言っていない。参考までにイバンカ嬢が警告している「耳にずっと残る」類のリフレインを英語ではearworm と呼ぶらしい。
◇
図書館で日本文学の書棚を漁っていて、ふと坂口安吾(1906-55)の単行本を手にした。特段好きな作家というわけではない。『堕落論』とかいう代表作で知られる作家であることは知っているが、その代表作は読んだことがない。昭和期の作家の短篇をまとめた文庫本か何かで二、三の作品は読んだことはある。『桜の森の満開の下』という短編は幻想的な怪異小説で、深山の満開の桜の花の下を通ると、人はなぜか狂気に追いやられるということが述べられていて、妙に印象に残っている。
図書館で手にした本は坂口安吾の短篇集の『アンゴウ』(鳥有書林)。「シリーズ日本語の醍醐味①」とうたっている。椅子に座り、パラパラと頁を繰った。幾つかの作品を読み、満足してそろそろ本を本棚に戻して帰ろうと思い、最後に末尾にある編者の解説に目を走らせた。編者は表題作の『アンゴウ』と収録作品の一つ『無毛談』をぜひ読んで欲しいと書いている。どんでん返しもあり、読後感がまた格別と推奨している。「安吾がいかに小説づくりが巧みで、しかも心やさしい作家だったかがよくわかるだろう。文章も読みやすい。人をいとおしむ気持ちが端々ににじみ出て、切なくなる」と。これら二つを読了する前に本棚に返すところだった。再び腰を落ち着けて読書。
『無毛談』はなるほど面白かった。自分自身の禿げの話から入り、お手伝いさんの下半身の話まで見事な起承転結。表題作の『アンゴウ』は最初の数行を読み始めて気がついた。お、これは前に読んだことがある。結末も何となく覚えている。先の大戦から帰還した男が妻の不貞を疑る物語で、結末は男の疑念などかなたに吹き飛んでしまう親子の情愛が描かれていたような・・・。改めて再読した。間違いなかった。
編者の解説の言葉に偽りはなかった。『桜の・・』とは全く異質の読後感だった。しかし、『アンゴウ』を最初に読んだのはそう昔ではない。それなのに、すっかり読んでいたことを失念するとは。嗚呼、情けなや!
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