英語でさるく 那須省一のブログ
Today I'm 67 years young!
- 2021-02-05 (Fri)
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最近、時々近くにあるイタリアンレストランを利用するようになった。私が住む一帯は歯医者と床屋さんは驚くほど多いが、喫茶店の類は絶望的なほど少ない。散歩中にコーヒーが飲みたくなり、中をのぞいたのがきっかけとなり、ランチもするようになった。期待以上の美味で好きなパスタはさすがプロの味だった。
それで思い出した。新聞社のロンドン支局に勤務していた頃、上司・同僚と一緒によく職場の近くにあったイタリアンレストランに足を運んでいた。赤ワインも必ずといっていいほど一緒に喉を潤していた。悲しいのはそのレストランの味を全然覚えていないのだ。旨かったのかまずかったのか。まずかったら足繁く利用していないだろうから、悪くはなかったのだろう。だが、旨かったという積極的な思い出が浮かんでこないのだ。残念!
これまで住んだ(働いた)国内外の地ではそれぞれ、その土地の食べ物の思い出が残っている。盛岡では冷麺と牛タンが懐かしい。再訪する機会があれば絶対また食したい味だ。
◇
今日は私の誕生日。昨年のこの日に何を書いていたのだろうとブログをスクロールしてみると、概略次のように書いている。さあ、もう2月になった。拙文、いや節分、立春と来て、今日5日は私の誕生日。66歳になった。最近よく考えるのは、我と我が身を亡き父親のそれと比べて考えることが増えたことだ。私の父親は宮崎の田舎で平凡な人生を歩んだ。村の小さな郵便局に勤め、定年後は山林や田畑の仕事に勤しんでいた。親爺に勝てないと思うのは、4男3女の子供を育て、田舎でのどかに暮らし続けたことだ。私は親父を始め、郷里の山里に住む人々を思い浮かべた。私には親父がそして村人が羨ましく思えた。私が知る村人の多くはこの世にはいないが、私は逆立ちしても彼らに勝てない!
さて、これからの一年間をどう過ごそうかなどと考えても、現在のコロナ禍ではかつてのように海外に語学の勉強を兼ね、気ままに旅することもできない。国内だって緊急事態宣言下にある福岡県から他県に足を向けることはいささか気が引ける。どうにも動けないではないか。
コロナ禍のことを意識するようになったのは去年のいつ頃からだろうか。日記をつけない私が頼りとするのはこのブログしかない。スクロールしてみると、1月26日の項に「中国の人々は春節(25日)を祝うどころの気分ではないのかもしれない。湖北省の武漢市が封鎖に追い込まれる危機的状況にあるからだ」と書いている。この頃はまだ、対岸の火事といった印象だ。2月10日の項では「新型コロナウイルスが猛威を振るっている」と記しているものの、「肺炎になっても快復するケースが目立つ」という新聞報道を引き合いに、「あまり過剰な反応はしない方が賢明と思える」とも書いている。おそらく一年前には現在のような深刻な状況に陥っているとは思っていなかったようだ。
今月中旬からワクチン接種も開始される運びのようだが、それで感染収束につながるのだろうか。実際そうなって欲しいが、ウイルス変異種が相次いで見つかってもいるようで、予断は許さない。今年も今の状態がずっと続くとしたら、世の中の閉塞感は想像だにしたくない。以前のごく普通の情景が一日も早く戻ることを神様に祈ろう!
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I like the sofa. But I don't love it.
- 2021-02-04 (Thu)
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昨年の秋頃に日本と欧米の「愛情表現」の差異に関し、次のように書いている。普段の生活でことあるごとに “I love you.” と口にするのも羨ましい。私は(亡き)お袋にそうした愛情表現をしたことは悲しいかなない。第一、love という語をどう日本語に訳すことができるか。「愛している」というのは外来語ではないか。「大好きだ」という方がまだしっくりくるような気がするが、これだって私が当時口にすればきっと病院かどこかに連れていかれたことだろう。
NHKラジオの英会話講座を聞き流していたら、I love this song. という文章を「この歌が大好きです」と訳していた。「大好き」という訳が当てられていた。確かにそうだ。love には「大好きだ」という日本語表現がよく似合う。そう考えれば、英語を話す際に日本人も気軽にlove という語が使えるのではと感じた。以下の文章も紹介されていた。「そのソファーは気に入っているのですが、大好きではありません」。英文では I like the sofa. But I don’t love it. となっていた。思いを寄せる人に “I like you. But I don’t love you.” と言われたらショックだろう。昔そう告げられたことがあったような、ないような・・・。
◇
私は外国語学習の要点は語順にあると考えている。英語の習得が日本人にとって難しいのは日本語の語順と英語のそれが食い違っていることが少なくないからではないか。我々にとって韓国語の学習が比較的楽なのは語順がほぼそっくりだからだ。それでは中国語はどうか。巷間よく言われるように中国語は英語同様、SVOの言語だから、日本語とは基本的に異なる。だが、英語と違い、中国語はほぼ日本語の語順で文章が構成されていることがままあり、そういう時には私は凄く親近感を覚えてしまう。
「慣れる」という意味の語を日中(中日)辞典で調べていたら、「习惯」(xíguàn)という語が出てきて、次の例文が載っていた。<这样的气候我实在不习惯。>。日本語では「こういう気候には私は全くなじめない」という訳だった。中国語と日本語、語順が酷似しているではないか。意味もすっと理解できる。こういう中国語の文章に出合うと私は勇気づけられる。
◇
新聞のスポーツ面を広げると、プロ野球のキャンプインのニュースがあふれている。野球大好き人間の私は文句はないが、先日、ラジオを聞いていたら、スポーツ新聞に関し、シーズンオフの時ぐらいそう重要とも思えないプロ野球関連のニュースを一面で扱うことなどせず、他のスポーツの話題を紹介して欲しいというリスナーの意見が紹介されていた。この国ではプロ野球なかりせばスポーツ新聞は成り立たないような印象だ。(私は今は読むことは皆無に近い)。確かに日本のメディアはプロ野球を優遇し過ぎかもしれない。
とは思うが、野球はテレビで見ていても楽しいのも事実。何度も書いているかと思うが、海の向こうの大リーグでさえ日本人選手チームの試合をリアルタイムで見ることができる時代だ。しかも英語を解することができれば、向こうの生の解説が楽しめる。こんな「贅沢」など一昔前は夢物語だったことだろう。
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「一石二鳥」に「四面楚歌」
- 2021-02-01 (Mon)
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一頃、マイナポイントがよく話題になっていた。そのためにはマイナンバーカードが必要なことも。私はこういうことにはとかく疎いのであまり関心はなかったが、中国では電子決済がごく普通でタクシーに乗車した時とか、露店でちょっと買い物をした時などにも、電子決済ができないと払えなくて往生すると聞いていたので、こういうことにも明るくならないと思い、昨年秋に何とかマイナンバーカードを手に入れた。
だが、悲しいかな、それからどうするか次の行動に移れなかった。私が欲しているのは現金を使わないで買い物ができるようになること。電子決済つまり電子マネーを自由に使えるようになることだ。それで先日、財布の中に埋もれていたマイナンバーカードを取り出し、契約している携帯電話(au)のショップに足を運び、電子マネーについて教えを請い、スマホの画面で支払いができるようになった。電子マネーは英語ではdigital cash と呼ぶようだが、中国語では电子货币(diànzǐ huòbì)。我々の漢字では電子貨幣か。
まだしばらくは中国や台湾に旅することは不可能だが、再開される日を待って準備だけはしておきたい。台湾では日本のラインペイが通用すると聞き、この際だとスマホにラインペイも入れた。私はこれまでの台湾旅行では電子マネーは一度も使ったことがない。海外旅行が再開されたら、次の台湾への旅ではラインペイを使った支払いが私でもできるようになっているかもしれない。そうなっていれば嬉しいのだが・・・。
電子マネーを入手することで上限5000円のマイナポイントもゲットした。早速最近時々利用するようになったイタリアンレストランで使おうと思って足を運んだが、私の電子マネー(aupay)は使えないことが判明。コンビニでは使えた。そのうちもっと広範に使えるようになることを願おう。
◇
中国語を学んでいる身として、昔、中学校や高校の教室で教わった故事成語のことをよく思い出すことがある。不思議に思うことは、本家本元の中国語ではどのような音で発声していたのだろうか、今も日本語と全く同じ表現をしているのだろうかといったことなどを当時、全然想像もしていなかったということだ。
あの頃は例えば、「一石二鳥」という諺を学んだら、中国語ではどう読む(発音する)のだろうか、はたまた同じ表現をするのだろうかなどとは考えもせず、英語では “killing two birds with one stone” と言うのだと知ればそれで満足だった。同級生も皆そうだったと思う。そういう時代だった。参考までに書くと、中国語では「一石二鳥」はどうやら「一箭双雕」(yī jiàn shuāng diāo) と言うようだ。「一本の矢で二羽の鷲を射る」意か。音の方は敢えてカタカナ表記すると、「イージエンシュアンディアオ」。
孤立無援の苦境にあることをうたった「四面楚歌」(sìmiànchǔgē)。我々が今もよく使う中国伝来の故事成語の一つだろう。私も楚の項羽が漢の劉邦の軍に包囲され、孤立無援に陥った時に嘆いたと言われるこの句が好きだが、この成語にしても最近まで本家の中国ではどういう音で読んでいるのだろうなどとは思いもしなかった。何ともったいないことをしていたものか。いや、していなかったものか。
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“Daily Guideposts 2021”
- 2021-01-28 (Thu)
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昨年の2月頃にキリスト教の信仰に関する「ガイドポスト」という名の本について書いたことがある。その時は次のように記している。キリスト教を信仰する敬愛する人から一冊の本が送られてきた。“Daily Guideposts 2020 (A Spirit-Lifting Devotional) というアメリカで出版された書で、選ばれた複数の敬虔な書き手が365日、日記のように個人的な体験・思いを書いている。聖書の言葉が随所に散りばめられているが、戒めを説くようなイメージの「堅物」の本ではない。このような本があるのを初めて知った。これから毎日、1頁ずつめくって心静かに読もうと思っている。
この本を贈って下さった方の下の名前だけ記すと、芦屋市在住の久子さん。私が深い恩義を感じている人で、昔から私のことを気遣ってくださっている。実は2021年の新版を買い求めようと思っていたのだが、昨年末に書架を漁っていたら、読んだことのない本が出てきた。“Daily Guideposts 2011”。この本があることは全然知らなかった。2011年当時はアメリカ文学紀行の取材で米国内を歩き回っていた。おそらく久子さんが贈ってくださった本を旅の準備に追われ、すっかり失念していたのだろう。久子さんに申し訳ないと思い、今年は2021年の本は買い求めず、2011年の本を心静かに読み進めていくことにした。
そうしたら、昨日(火曜日)郵便受けに何か厚手の郵便物が入っていた。開封してみると、 何と今年の新刊、“Daily Guideposts 2021”。久子さんのプレゼントだ。私は早速、2011年と2021年の二つの本を並行して読むことにした。ダブルの癒やしとなるだろう。
ガイドポストの執筆者は主に中高年で伴侶の最期を看取ったり、愛情あふれる一家の幸運を神に感謝したりといった内容が多いが、心の苦悩を淡々と綴ったものもあり、考えさせられることが多い。2021年版には不眠症(insomnia)にずっと悩まされ、午前5時には目覚めてしまう老年と思われる男性が心の内を吐露し、神のご加護を祈っていた。
それともう一つ。これも過去に書いたことがあるかと思うが、英語の学習にも役立っているのだ。私は毎朝起床後、NHKのラジオでまず、韓国語、中国語の(基礎)講座を聴き、朝ご飯を食べる。そしてコーヒーを飲みながら、ガイドポストのその日の項を読むのがほぼ日課となっている。ガイドポストの1頁(今は2冊あるので2頁)を読み、感謝の気持ちで本を閉じるのだが、ときに気になる、あるいは興味深い英語表現の類に出くわし、しばし熟考することもある。
最近の例では次の一文。I get so sick of praying sometimes. It seems fruitless, like talking at a rock concert. I’ve been at a crossroads in my marriage. 「岐路に立っている」という文章を英訳するように求められると、多くの日本人が I stand at a crossroad. とか I stand at the crossroads. などと書き、複数形のcrossroads に不定冠詞の a を付けることにはためらいを感じるだろう。だが、実際には I stand at a crossroads という表現はごく普通に見かけられる表現だ。
アジアの大学生が集まった国際シンポジウムを取材した際に、まさに上記の表現が壇上の大スクリーンに映し出された時に、どこかの国の学生が「aを削除するか、crossroadsを単数形にするべきだ」と主張してシンポがちょっとした混乱に陥ったことを思い出す。
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詩の力!
- 2021-01-25 (Mon)
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バイデン新大統領の就任式典で「主役」の座を奪ったかのように脚光を浴びた22歳の若き詩人、アマンダ・ゴーマンさんのことに言及しておきたい。読売新聞本紙では彼女に関する記事を見つけることはできなったが、英字紙ジャパン・ニュースは写真を付け、ロイター通信電で小さく Inaugural poet Amanda Gorman inspiresと報じていた。
ゴーマン嬢は2017年に創設された全米青年桂冠詩人(National Youth Poet Laureate)に選ばれた新進気鋭の詩人。過去にも詩人が大統領就任式典で自作の詩を披露した例はあるが、彼女のように若さあふれる女性が壇上に立ったのはまれだろう。私は彼女が壇上に立った時、まだ十代では思ったぐらい、幼さの残る童顔だった。だが、彼女の口から紡がれる言葉は力強く、聴衆の胸に響いていることはすぐに分かった。
正直に白状すると、私は詩というものが苦手だ。英語の詩だと意味を追うだけで精一杯になり、とてもじゃないが、余韻に浸ることは至難の業。だが、今回は詩の力、言葉の持つ力というものを改めて再認識した。キング牧師が1963年に行った “I have a dream” の演説と並び称されるようになるのではと感じたほどだ。
彼女が朗読した自作の詩は “The Hill We Climb”。米国民の融和、協力を訴え、お互いの違いを克服し、ともに未来を切り開いて行こうと訴えた力強い詩だった。私は週末にYouTubeでこの時間にしてわずか5分間の朗読を何度も視聴し、余韻を楽しんだ。
“The Hill We Climb” で特に印象に残った箇所を少し記すとーー。When a skinny Black girl/descended from slaves and raised by a single mother/can dream of becoming president(一人の痩せた黒人の少女が/奴隷を先祖に持ち、母子家庭で育ったのだが/大統領になることを夢見ることができる)・・
It’s because being American is more than a pride we inherit,/ it’s the past we step into/and how we repair it(アメリカ人であるということは私たちが受け継ぐ誇りだけのことではない/それは私たちが足を踏み入れる過去であり/私たちがいかにそれを修復するかということでもあるのだ)・・
米議会が前大統領支持派の暴徒により襲われたことも次のように切り取っている。
We’ve seen a force that would shatter our nation/rather than share it/Would destroy our country if it meant delaying democracy/And this effort very nearly succeeded/But while democracy can be periodically delayed/it can never be permanently defeated(私たちはある勢力が私たちの国を粉砕しようとするのを目撃したばかりだ/国を共有するのではなく/民主主義の流れを阻止しようとしたのであれば、私たちの国を破壊しようとしたようなものだ/彼らの試みはもう少しで成就するところだった/しかし民主主義はときに遅延させられることはあっても/永久に挫折されたままでいることは決してないのだ)・・
自身は2016年の大統領選で敗れたヒラリー・クリントン氏によると、ゴーマン嬢は2036年の大統領選に出馬することを約束したとか。ヒラリー氏の支援は間違いなさそうだ。2036年でも彼女はまだ38歳の若さ。トランプ氏のような人物が出るのも米国、ゴーマン嬢のような人物が出るのも米国。日本人の「物差し」では測れない国のようだ。
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バイデン新大統領就任
- 2021-01-21 (Thu)
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米国で民主党のバイデン氏が第46代の新大統領に就任した。昨夜は午前3時過ぎまでCNNテレビの大統領就任式典生中継に付き合い、木曜朝の今も頭がぼおっとしている。バイデン氏の就任演説の印象を一言で表現すれば、人柄がよくうかがえる “sincere”(誠実な)というものだった。
トランプ氏は大統領の座を去った。その座を追われたと言ってもそう外れた表現ではないだろう。米国史上最低最悪の大統領とも称されたトランプ氏の退場にほっと一息ついている人は多いことだろう。私もその一人だ。
さて、トランプ氏をこれから待ち受けているものは何だろうか。上院での弾劾裁判を手始めに、大統領から一介の市民となったことでさまざまな訴訟に見舞われることになると報じられている。彼がホワイトハウスを去り、フロリダに向かう直前、大統領として行った最後の演説を聞いたが、虚勢を張っているとしか思えなかった。彼にはこれから上院での弾劾裁判、数々の訴訟が控えており、生き地獄が待っているのでは。「生き地獄」を辞書で引くと、“a hell on earth” と載っている。中国語では「活地狱」「人间地狱」とか。
トランプ劇場に幕が下りたのを機に、トランプ夫人についても一言触れておきたい。
私はメラニア夫人の東欧なまりといおうか、独特の英語を耳にするたびに、移民として米国の土を踏んだ夫人も相当の苦労を重ねてトランプ夫人の座を射止めたのだろうと推察していた。彼女には外からは見えない光り輝く何かがあるに違いない。そうしたものが垣間見えるものと過去4年間考えてきたが、そうしたものは私にはついぞ見えなかった。
そう思いながら、CNNの記事をスクロールしていると、メラニア夫人がファーストレディーとして史上最低の評価の中、ホワイトハウスを後にすると酷評していた。“The worst final popularity rating ever for a first lady belongs to Melania Trump” との見出し。
評価を大きく下げた一因。政権が交代する時にファーストレディーも新大統領夫人にホワイトハウスの中を色々案内して「引っ越し」がスムーズに行われるように配慮するのが伝統行事になっているのだが、これを踏襲することを拒否したのだとか。
次の文章があった。Traditionally, first ladies are nearly uniformly admired. The position is unelected and normally uncontroversial. It's hard to be unpopular. ファーストレディーは通常、比較的高い評価を得てホワイトハウスを去るものだという。数値で言えば、高評価が70%台、低評価が20%台でその差が50%前後あるのが常だとか。ところが、メラニア夫人の場合は高評価が42%、低評価が47%と低評価が上回っている。
メラニア夫人の最後のスピーチも聞いたが、申し分のない英文で “Be best.” と訴えていた。"In all circumstances, I ask every American to be an ambassador of Be Best. To focus on what unites us. To rise above what divides us. To always choose love over hatred, peace over violence, and others before yourself.“
ぜひ、旦那に普段から聞かせておいて欲しかった言葉だと思った。今となっては手遅れだが。メラニア夫人の4年間の印象を最後に記すと、“rigid” という語が頭に浮かぶ。「柔軟性のない」「硬直した」という意だ。改めて説明の必要もないだろう。
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王さんだけで1億人!
- 2021-01-18 (Mon)
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CNNのその記事は読みたくなるような見出しで誘っていた。“Why 1.2 billion people share the same 100 surnames in China”(なぜ中国では12億もの民が100の名字の中に収まるのか)
全世界から移民がやって来て、市民権を得て米国民となるアメリカでは数多くの個性にあふれた名字がある。その数は630万とか。アメリカの視点から見れば、同じ名字の人々が圧倒的に多い中国はかなり異質に見えるのだろう。
CNNの記事は次の書き出しで始まっている。あなたが中国の通りで道行く人に無作為に名前を尋ねると、彼らの名字は次の五つのどれかである可能性が大だ。王(Wang)、李(Li)、张(Zhang)、刘(Liu)、陈(Chen)。これらの五姓だけで実に4億3千3百万人もの人々がいる。中国全人口13億7千万人の30%を占める。中国全土で見ても名字の数はわずか6000個ほどに過ぎなく、人口の大半、86%に上る人々は100個程度の名字で数えられる。
日本にどれだけ多くの名字があるのか知らないが、公民館の中国語講座で使っているテキストには「姓名」の項で「日本は1億余りの人口があり、13万余りの姓があるそうです」と書いてあった。「中国は13億の人口がありますが、よく用いられる姓は130ぐらいで、全人口の87%を占めています」とも紹介されていた。日米中の名字のこの歴然とした差異!
中国で名字の「画一化」が進んでいる背景にはパソコンに代表されるテクノロジーの発展があるのだという。手書きならどんな漢字(簡体字)でも記入できるが、パソコンのソフトにない漢字は冷遇され、捨て去られるからだという。もちろん、先祖代々の名字を誇りに思い、子孫に末永く伝えていきたいと願う人々もいるが、現代のテクノロジーの前には苦戦を強いられているのだとか。
中国の王さんはその数1億人。王さんだけで日本のほぼ全人口に近い。私はこれまで田舎を出てからの人生で同じ名字の人に出会ったことは皆無。これからもおそらくないだろうが、もしそういう出会いがあったら、瞬間、親近感を覚えるのではないかとも思う。王さんはあまりにあり過ぎて、そういう思いに至ることはないのだろうか。そんなことを考えてしまった。
◇
韓国語の気づきを一つ。すでに何度か書いたことがあるかと思うが、韓国語の母音についいてよく思うことがある。日本語と比較して、英語を含む外国語を身につけやすいようにできているのではないかと。例えば「お」の音は日本語は一つだが、韓国語では口を大きく開ける「お」と口をすぼめて音を出す「お」の二つがある。前者と後者の音を区別するのは私には難しく感じるときがある。耳をそばだてて神経を集中させて区別する。
最近でくわした韓国語の語に「ラブレター」がある。英語のlove letter だ。これを日本語で「ロブレトー」と表記し、そう発音するとかなりの違和感が生じるだろう。韓国語ではこの語を「러브레터」とハングルで書き、カタカナ表記すると「ロブレト-」。love letter を「ロブレトー」と発声できること自体が私には興味深く思えるし、「お」という二つの音を自由に操ることができる人たちが羨ましく思えるのだ。
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