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英語でさるく 那須省一のブログ

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待望の初秋

 机の上の温度計はただいま26.6度。湿度は61%。時刻はお昼過ぎの午後零時28分。玄関のドアと(書斎にしている)部屋の窓を開け放しており、時折、気持ちのいい風が肌を撫でていく。外出すると日差しはまだ強烈だが、待望の秋がすぐそこに来ているようだ。2月生まれの私だが、四季の中では秋が一番好きな季節。台風さえ来なければ、日本はずっと秋であって欲しいとさえ思う。「秋を愛する人は心清き人♪♪ 女は夜のにおい♪♪」。(FMラジオから「アマン」という歌謡曲が流れてきており、どうやら私の頭の音感が「混線」したようだ)
 「読書の秋」(“autumn, a nice time to read books”)の到来でもあり、本来なら、わずかな脳細胞を活性化させて机に向かうところであろうが、宮崎から戻って以来、なぜか軽い「虚脱状態」が続いている。いやいやこれではいかん、などと思いネットで注文して届いた本を読み始めているところだ。
 この本は “The Story of English” と題された本で、我々が知っている(と思っている)英語(English)の成り立ちを紹介した本だ。大学の授業で使える教材本として恩師が先日紹介してくれたばかりの本だ。この恩師とは先月末、集中講義をしていた大学でばったり遭遇した。古来から言われる通り、「もつ鍋は良き料理、持つべきは良き恩師だ」。
 備忘録的に時折、“The Story of English” の印象をここに記すのもありかなと思い始めている。「一石二鳥」(killing two birds with one stone)だ。
 イングランド(英国)に最初に住みついたのはゲール語を話すケルト系の人々。だが彼らはヨーロッパ大陸のローマ帝国、続いてゲルマン系のアングル族、サクソン族の侵略を受ける。さらには1066年、「ノルマン・コンクェスト」として知られるノルマン人の支配を受けることになる。フランス語を話すノルマン人の支配により、この年以降、英語は社会の片隅に追いやられるが、イングランドの一般庶民の言語としてしたたかに生き延び、その過程でフランス語、ラテン語など征服者の言葉を取り込んでいく。
 英語のそうしたしたたかさ、柔軟さの一例として、終戦直後の米軍が日本語から借用した言葉が紹介されていた。それは “honcho” という言葉だ。“squad-leader”という意味で使われているという。例文として “Who’s the honcho in this project?” という文章が載っていた。真っ先に頭に浮かんだのは「本町」という言葉だった。だが、これでは「リーダー」は意味しない。続いて思い浮かべたのは「本庁」という言葉。でもこれでもしっくりこない。不思議に思って、辞書を引くと、「日本語の『班長』という言葉に由来」と付記されていた。ああ、なるほど、 “hancho”という言葉が訛った結果の “honcho” かと合点が行った。
 この本によると、日本語は終戦後からだけでも、2万語の外来語を日本語の中に取り込んでいるとされていた。本当だろうか。いくら何でも多過ぎるのでは・・・。そうした外来語の例として、マンションやアイスクリーム、エスカレーターなどとともに、あるテレビ番組のタイトルが紹介されていた。“Reffsu Go Yangu”。私と同世代の人は懐かしく思い出すだろう。もちろん、毎週末、NHKで見たあの「レッツゴーヤング」(“Let’s Go Young”)だ。ネイティブの耳には「レフスゴーヤング」と聞こえたのだろう。

友ありて・・・

 9月となった。8月は慌ただしく過ぎて行った感がある。少しもったいないような・・・。私がそう思っているのは、この夏はずっと集中講義の準備に忙殺されていたからだ。
 先週一週間はその集中講義「ジャーナリズム論」のため、宮崎市にいた。あれこれ、学生たちに話したいことは準備していたのだが、想定通りに事を進めることもできず、反省すること多々である。講義終了後に非常勤講師室を訪ねて来た学生が3人。新聞社系の職場でのインターンシップを控えており、質問を受けた。全国紙と地方紙の紙面の違いなど、私としては学生たちが当然知っているものとして講義では全然触れなかった事柄だった。迂闊だった。どうやら、私には学生の「視点」が欠落していたようだ。
 講義をした大学は母校ではないが、母校の跡地にある。それだけでも格別の思いにとらわれる。だから、この講義を引き受けた時は、連夜、宮崎市内の飲食店で当時に思いを馳せ、ほろ酔い気分に浸れるかなと期待していたが、さにあらず、そのような暇はなかった。第一、出席簿の記入が結構大変で、ホテルの部屋で毎夜、学生の名前の確認に追われた。
 集中講義を何とか終え、宮崎での最後の夜、小中学の同級生7人が集まってくれた。昨年の還暦同窓会で再会し、旧交を温めた同級生たちだ。昨年は30人以上の集まりだったため、駆け足の会話しかできなかった。今回はじっくり話をすることができた。還暦同窓会の項でも書いたかと思うが、幼馴染の同級生との語らいは理屈抜きでいい。小中学ではろくに話をしたこともなかった女子(今このように「じょし」と表現するのは抵抗があるが、これがぴったりの言い回しなのだ)の同級生と分け隔てなく語らうことができる喜び・・・。
 一次会ではほとんど何を食べたか覚えていない。勧められるままに焼酎のグラスを傾けた。自宅でテレビを見ながら一人で飲むときはオンザロックで3杯も飲めば十分だが、こういう場では際限なく飲めるから不思議だ。美味い酒だから、翌日の二日酔いも良質(のような気がするだけのことかもしれないが)。
 話が尽きないから、二次会に流れた。同級生の一人が常連のカラオケスナックのようだった。頃合いを見て、他のお客さんたちが歌い始めたので、我々のグループも参加。昨年の同窓会では私はマイクを握らなかったが、今回は集った人数が少なかったため、一曲だけ歌った。いつものど演歌だ。小中学時代は音楽の時間はあまり好きではなく、歌も満足に歌えなかった。いわゆる音痴(tone-deaf)だった。今もそうかもしれない。カラオケでも時々音程を外すことがあるが、まあ、何とか人並みに歌うことはできるようになった。30年以上も会っていなかった同級生には私の格段に向上した歌がショックだったようだ。「しょういち、お前、うまいじゃねぇか。奇跡じゃ」などと冷やかされた。いやあ、照れるなあ!
 とそんなこんなで夜はふけていき、また再会を約して皆と別れた。年の暮れにまた会おうと約したような記憶もぼんやりと残っている。同じ山あいの集落に生まれ、同じ学び舎で9年間を過ごした者とは固い絆があると言えようか。
 集中講義で40年前の自分を想起し、同級生との飲み会で48年前に引き戻された。ああ、同級生たちと楽しく語り合うためにもまだまだ頑張らねば。ゴールはまだまだ先だ! まだ私は酔っているのかもしれない。少し切ない酔いだ。

真相はまだ不明

 先週も国内外で大きなニュースが流れた。広島市の豪雨被害は悲惨の一言に尽きる。土砂を浴びた住宅地は山裾まで開発の波が押し寄せていたことと無縁ではないようだ。山間部で土砂災害が起きると、伐採などで樹木が切り倒され、山の保水能力が落ちていたことに起因するケースがあるが、航空写真で見る限り、現地は緑豊かで今回は該当しないようだ。
 ただ、土砂災害が起きる時、あふれる土砂が流れ下る地形はあるかと思う。被害に遭った住宅はそういう流れの延長線上にあったのではないかと思うが、そういった報道はないので、よく分からない。これからそういう報道が出てくるのかもしれない。
 アメリカからはまた人種対立のニュースが報じられている。今度は米中部のミズーリ州が舞台。ファーガソンという市の住宅街で今月9日、18歳の黒人青年と白人の警察官が口論になり、警察官の主張によると、青年が拳銃を奪おうとしたため発砲し、青年が死亡。しかし、複数の目撃者の証言によると、青年は無抵抗を示すため、両手を上げていたといい、警察官は青年の頭部を含め少なくとも6発の銃弾を浴びせていたことも判明している。
 ミズーリ州は2011年の「アメリカ文学紀行の旅」で歩いた。文豪マーク・トウェインが多感な少年時代を過ごしたゆかりの地だ。トウェインが育った家などが残っている小さな町のハンニバルがお目当てだったが、当然のことながら、ミズーリ州を代表する大都市セントルイスにも足を運んだ。ミシシッピ川を遊覧する観光船「トム・ソーヤ―号」に乗ったことなど、楽しい思い出が脳裏に浮かぶ。町を歩いていても、人種間の緊張は全然感じなかったが、地区によっては水面下で鬱屈とした感情が渦巻いていたのだろう。心地好く滞在したミズーリ州で起きた出来事だけに意外の感が強いが。
 事件が起きたファーガソンはセントルイスの郊外にある人口2万1000人程度の市で、かつては白人が圧倒的に多い居住区だったという。だが、セントルイスを脱出する形で黒人住民が押し寄せるようになり、今では黒人住民が7割を占めるように変遷しているとか。ただ、市の警察官53人のうち50人が白人であり、白人層が行政司法を仕切り続けている現実とのギャップが人種融和を阻害し、黒人の被差別意識を助長している可能性をメディアは指摘していた。
 事件後、ネットで米国のメディアにアクセスして調べてみると、白人と黒人でこの事件に対する受け止め方も大きく食い違っていることが分かる。全米で行われた世論調査では、黒人の大多数が米国の人種問題を象徴する事件ととらえているのに対し、白人の半数は人種的要素を強調することに否定的な回答を寄せている。
 事件そのものの真相もまだ不透明だ。黒人青年が丸腰だったことは間違いないようだが、射殺した白人警察官に同情する人々の間では青年が威嚇的に突進してきたため、警察官は拳銃で応戦せざるを得なかったと見ているようだ。
 PBS(公共放送協会)のニュースサイトでも、事件の真相はまだ藪の中といった印象だ。コメンテーターの一人は “The question of whether justice is done will really depend on what facts are brought forward.”(事件が正しく裁かれるかどうかはどのような事実関係が明らかにされるかどうかにかかっている)と語っている。まさにその通りだろう。

命の洗濯

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 先週末、急きょ、田舎に帰省した。入院リハビリ中の義兄が自宅に一日だけ戻ることを許されたので、義兄のご機嫌伺いが主目的だった。関西に住む甥っ子家族も帰省していたので、宮崎市内で合流して、甥の運転するレンタカーで楽ちんの帰郷だった。
 本来なら来週に迫った大学の集中講義の最終チェックに精を出さねばならない時期だったのだが、甥っ子の家族とはもう何年も会っておらず、こういう機会を逸しては後で悔いることになる。甥っ子の一人息子とは今この項を打ちながら考えているが、初めて会ったのだ。以前に写真を見ていたので、何回か会ったような気がしていたが、いや、今回が初めてだった。彼は高校2年生の若者に成長していた。何度お歳暮に潜り込ませて、彼にお年玉を送ってあげたことか!
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 そんなことはいいとして、夏に田舎に帰る楽しみは都会の喧騒、猛暑から逃れることができることだ。長姉の家は山のふもとにあり、標高はどれぐらいあるのか知らないが、400か500㍍ぐらいはあるのではないかと思う。その分、盛夏でも涼しく、過ごしやすい。今回は雨が降っていたこともあり、少し蒸すときもあったが、福岡に発つ日は朝から好天となり、心地好い風が開け放った窓から吹き込み、畳に寝転びながら、まだしばらくはここで避暑したい気分に駆られた。
 明け方や一雨あると、眼下にちょっとした雲海のような霧が立ち込める。思わず、デジカメのシャッターを押した。山の緑も一段と潤いを増し、目の保養ともなる。日がな一日このような光景を眺めているのも悪くないかと思う。そう思うのは自分が年を取ったことの証だろうか。
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 福岡に戻り、薄ら脇の下に汗を浮かべ、パソコンに向かっている。集中講義のためのパワーポイントは後半部分がまだスカスカが多い。必要な資料をかき集めて「充実」させなければならない。いつもなら、この辺りでスポーツジムに出かけ、体力の限界に挑戦するヘタフライで息を切らせるのだが、本日は生憎と休館日。
 ため息をつきながら、夕刻に飲む焼酎のオンザロックを頭に浮かべている。まあ、石部金吉の生活だから、亡きお袋もきっと笑って許してくれるだろう。
 (写真は上から、長姉の庭から見る、山の谷間に浮かぶ霧。隣の西米良村の境にある「布水の滝」。アナログ人間の私は写真を縦にできないので、ご容赦を! 雨の後で水量は豊かだったが、樹木が生い茂っていて、頂上部が良く見えなかった。林道を走ると、このような山また山の風景ばかり)

久しぶりの健康診断

 久しぶりに健康診断を受けた。以前から受けなくてはいけないかなとは思っていた。会社を早期退社したのが2010年春。もう4年以上も健診を受けていないことになる。幸い、この間、大きな体調不良を感じることはなかった。オリンピックではないが、4年も経てばそろそろと思っていた。
 そうしたら、今年還暦の年を迎えたこともあり、住んでいる福岡市から健診の案内が舞い込んできた。「渡りに船」だ。(参考までに「渡りに船」を和英辞書で引くと、timely や lifesaver という訳例が出ていた。健診で重大な疾病が早期発見され、九死に一生を得るような事態に至れば、lifesaver はまさに適訳と言えようか!)
 健診前夜、さすがにいつもの焼酎は控えようかと思っていたが、この日も暑かった。夕刻になると、さすがにオンザロックで喉元を潤したくなる。ええい、普段の健康状態を見るのが健診の目的だろう。前夜だけおとなしくしていても、意味がないことだ、などと勝手に決め込み、普段通りにグラスを傾けた。いや、普段以上に傾けたかもしれない。肴は最近はトマトや冷奴とか健康志向にしているので、それがせめてもの救いか。
 そして迎えた健診の朝。大便は問題なく採取して準備。検尿は朝一番の尿を採取することになっていた。これも問題なく処理したが、慣れないので最後に検尿管からこぼし過ぎた感があった。自宅を出る前に「継ぎ足そう」かと思ったが、説明書きをよく読むと、あくまで朝一番の尿と書いてある。ビールの「一番搾り」ならぬ「一番出し」だ。健診会場の保健所で受付の看護師さんに相談したら、「あ、それだけ入ってれば十分です」と言われ、ほっとした。
 型通りに身長体重の測定。なぜか身長は0.7ミリも伸びていた。これは測定の「加減」だろうか。それでも少し嬉しくなった。低くなるよりはいい。体重は想定通り。血圧は確か、上が120で下が78だった。これだけは昔も今も何の問題もない。
 予想外だったのは腹囲の測定だった。毎日スポーツジムに通い、プールで最低500㍍をクロールやヘタフライなどで泳ぎ、その前後にプール内を歩き、少なくとも1時間は水に浸かるのを日課としている。それでこのところ、少しお腹回りがすっきりしたと感じていた。だが、看護師さんが示した数値は・・・。ここでその数値を書くのは憚れる。現実を認識するのに十分の値だった。
 この日は健康手帳というものも頂いた。「メタボリックシンドローム」の項で腹囲が男は85センチ、女は90センチ以上あることに加え、中性脂肪や血糖、血圧などの数値を加味して該当すれば、メタボと判定されると書いてある。
 「懐かしい味」のバリウムを飲んでカプセルの中で右に左に転がされて検査は終了。検査の結果は来月下旬に面談の上に言い渡されるとか。私は中性脂肪やコレステロール、血糖値は甚だ自信がない。きっと面談時に保健師の方から「メタボですね。これから生活習慣を改めるなど努力してみましょうか」と諌められるのは必至。
 江戸っ子だったら、「めたぼうよ」(当然の話だ)と応じるのだろう、きっと。私はメタボぐらいの「宣告」なら喜んで受ける。

嫌んバカンス

 台風襲来の本格的シーズンとなったようだ。一日に何度もヤフーの気象情報にアクセスして、衛星画像上の台風に「念」を送る。弱まれ、進路変更しろと。915ヘクトパスカルまで発達していたのが、今朝見ると950ヘクトパスカルになっていた。形容も「猛烈」みたいなものから単に「強い」という表現に。週末にかけ西日本に最接近もしくは上陸しそうな雲行きだから、その時までには並できれば並以下の台風に弱まっていることを切に願う。
 今朝の読売新聞朝刊解説欄にワシントン支局のS記者のコラム記事が出ていた。「米大統領の夏休み」と題したコラムで、オバマ大統領が今夏も今月9日から16日間、米東海岸の富裕層のバカンス地として知られる保養地、マーサズ・ビンヤード島で夏休みに入ると記していた。連日、好きなゴルフに興じるのだろう。もっとも、大統領という重責ゆえ、避暑地にも「臨時執務室」が設けられ、オバマ大統領にとっては常に国内外の情勢に対する判断を迫られるという気の抜けない夏休みになるという。まあ、それは致し方ないことだろう。
 コラム記事は現代の歴代の大統領が取った休暇の調査結果についても言及していた。それによると、ブッシュ親子の息子の方のブッシュ前大統領が8年間で879日の休暇を取り最多だったとか。一読した時はえっ、そんなに沢山という思いにとらわれたが、8年間の長期だ、普段の週末の休暇を含めるとそのような数字になるのだろう。
 アメリカ文学紀行本を書くため、アメリカ各地を放浪していた2011年夏、旅先で読んだ新聞でオバマ大統領の夏休みの長さについて賛否両論を併記した記事を読んだ記憶がある。批判派は大統領一家が羽を伸ばす避暑地や別荘が庶民には高根の花ということもあり、二週間という長さの夏休みに批判のボルテージが上っていたようだ。
 一般論だが、ヨーロッパの人に比べ、アメリカ人は意外と長期の休みを取らない印象がある。そういえば、日本語になっている「バカンス」(vacances)という言葉はフランス語源であり、英語ではない。
 上記の記事で、やはり説得力があったのは、大統領といえども、いや大統領だからこそきちんと一定の長い休暇を取るべきだという主張だった。どんなに優秀な人でも疲労がたまってくると、理解力、判断力が鈍るものであり、特に夏にはある程度の長い休暇を取ってリフレッシュすべきと説いていた。
 翻って日本人は世界の中でも、長い休暇を取るのを良しとしない最右翼の国民と言えるかと思う。新聞社に勤務していた時代、同僚が働いている時に自分だけ長期の休暇を取るのは、それが社内の規則に沿ったものであっても、何だか気が引ける思いがしたものだ。勤続10年、20年、30年と節目の年にはそれぞれ長期の休暇を取る権利が与えられていたが、満足に取った長期休暇はない。もったいなかったと今となっては思う。
 2020年の東京五輪に向け、日本はこれから「おもてなし」の心で海外からの訪問者を迎えるとか。それには、まず自分たち自身を十分な休暇で「おもてなし」する心構えが必要だろう。そうでないと、「おもてなし」「うらがあり」になってしまう。かくいう私は早期退社以来、ずっと長期休暇のようなものだ。歴代米大統領にこの点ではしっかり優っているかと思う。自慢にはならないが・・・。

土用丑の日

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 私は新聞の折り込みチラシを参考にして、買い物に出かける習性はさすがにまだ身に付いていない。だから、時々大量のそうしたチラシが入っていると、勘弁してもらいたくなる。まあ、こうしたチラシを普段の買い物に役立てている人もいるだろうし、新聞販売店にはこれが貴重な収入源なのだろうから、仕方ないかと割り切るしかないが。
 先日、鍋敷きに使ったチラシの文面に何気なく目をやっていたら、本日29日の土用の丑の日の宣伝が載っていた。近くの回転寿司で鰻丼を供するという。鰻丼か。長いこと食べてないなあ。郷里の宮崎・西都に「入船」(いりふね)という名の鰻の名店がある。かつては帰郷するたびに必ず立ち寄り食べていた。あそこの鰻重を食べたら、しばらく他店のそれは食べられなくなるほど美味い。
 もっとも一番美味かった鰻は故郷の川で自分が獲ったウナギだ。私の村では「かせばり」と呼んでいた漁法。釣り糸の先に付けた大き目の釣り針に小魚や大きなミミズを仕掛け、夕刻、ウナギの潜んでいそうな岩場に垂らしておき、早朝、川に再び足を運び、引き上げる。運がいいと、ウナギがかかっているという具合だ。釣り糸を手繰った時のぐっとくる手応えは胸躍るものがある。要領の悪い私はウナギを仕留めるのは稀だったが、それでもたまに仕留めることもあった。そんな時は長兄がウナギの頭に錐(きり)を打ち込んで、さばいてくれた。炭火で蒲焼にして食べる鰻。不味いわけがない。いつかまた味わいたいと思う故郷の美味だ。
 チラシによると、鰻丼が580円(税抜き)だという。格安ではないかいな。
 最近の回転寿司店はデジタル化が進み、便利さこのうえないようだ。頭上のスクリーンから鰻丼の絵柄を選んでプッシュ。ベルトコンベヤーは二層あり、下層のベルトコンベヤーに乗って回ってくる鮨の類は無視する。しかしほとんどの品が100円とは。思わず手を出しそうになるがぐっと我慢————。待つこと5分ほど。上層のベルトコンベヤーに私が注文した鰻丼が回ってきて、目の前ですっと停止した。お見事!
 さすがに580円の低価格とあって、鰻は一切れ。山椒を振りかけ、パクつく。うん、まずまずか。文句は言えない。あと一切れあればなあと思いながら、あっという間に平らげた。
 近くに座った若者は鮨の皿を美味そうに積んでいる。あ、うらまやしい!
 まあいい。本日の目的は鰻丼にあった。満足して帰ることにする。食した時刻が中途半端だったが、肴に工夫して夕刻に焼酎をなめれば、胃袋君は納得してくれるだろう。
 ところで、「回転寿司」の英訳は sushi-go-round だとか。その寿司店はa revolving sushi bar となる。a sushi bar where customers select their food from a revolving conveyor belt という説明もある。回転寿司は確か大阪万博の時に初めて脚光を浴びたと記憶しているが、今や欧米でも見かけることのある寿司店形式となっている。私の体験から言えば、味の方はもちろん保証できないが。
 ニホンウナギは絶滅危惧種の魚とか。本日の夕刊でも「節度ある食べ方」を訴える記事が出ていた。私の田舎ではウナギは普通の魚と異なり、霊的な魚だと教わったような記憶がある。だから、かせばりで獲ったウナギがあまりに小さい時は一日ほどバケツの中で「観察」して、翌日元の川に返しに行った。大きくなったら「再会」しようねと・・・。
 (写真は、回転寿司店で食べた鰻丼)

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