英語でさるく 那須省一のブログ
心は大リーグ
- 2014-06-12 (Thu)
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昨日は蒸し暑い一日だったが、今日(木曜)は一転涼しかった。薄着でいると肌寒さを覚えるほどだった。すぐにまた蒸し暑い日々が戻って来るのだろうが、私は明日から三日ほど宮崎の山里に帰郷する。南国でも山は涼しいから、少なくとも蒸し暑さからは解放される。
サッカーのワールドカップ(W杯)がいよいよ開幕する。サッカーはそう好きではないのだが、ワールドカップは別だ。一生懸命に日本代表に声援を送る。少なく一次リーグは勝ち抜いて欲しい。日曜日のコートジボワール戦は長姉の家で寝転んで応援だ。
以前にも書いたが、スポーツ好きには海外のスポーツがお茶の間で楽しめる今の時代は嬉しい限りだが、自由業の身には仕事の「邪魔」になって仕方ない。観なければいいだけの話だが、テレビや時にはネットで時折フォローしながら、仕事に向き合うことになる。
大リーグではニューヨークヤンキースに移籍したマー君こと田中将大投手が前評判にたがわぬ大活躍を続けている。今日もシアトルマリナーズを相手に好投し、早くも10勝(1敗)目を上げた。副音声で聞いていると、向こうのアナも解説者もマー君の快投に “Outstanding”とか“Unbelievable” などといった賛辞を惜しげもなく発している。
私は毎日のようにMLB(大リーグ)のホームページをのぞき、目の肥えた地元のファンが日本人選手のプレーをどう評価しているか読んでいるが、マー君に関する限りべたぼめだ。チーム自体はアメリカンリーグ東地区2位ながら好調とはとても言えない低調な戦いぶりだけに、彼は大リーグを代表する名門チームに舞い降りた救世主と映っているようだ。10勝目を上げた試合後のMLBのホームページには次のようなヤンキースファンの声が載っていた。“I have to admit I was a skeptic about another Japanese pitcher. So far, it’s been nothing less than spectacular. He is the talk of Baseball. Teams count the days, and hope they don't face him.”(私は日本からまた移籍してきた新入りの力を疑問視していた一人だった。だがこれまでのところ(タナカは)素晴らしいの一語に尽きる。大リーグは彼の話題で持ち切りだ。対戦相手はカレンダーを凝視して、彼との対戦を免れるのを願っている)
活躍しているのはマー君だけではない。先輩格のダルビッシュも今日、大リーグに移籍して初めての完封勝利(7勝目)を上げた。楽天で一緒だった岩隈も見た目の成績(4勝3敗)はぱっとしないが、味方の援護が少ない中で安定した投球を続けている。マリナーズファンが彼のプレーを高く評価していることは、昨日彼が敗戦投手になったにもかかわらず、“Kuma did not deserve the loss.”(イワクマが敗戦投手になったのは気の毒)といった声がファンから寄せられていることがよく物語っている。
おっと、忘れてはいけない。ヤンキースには黒田投手もいた。彼も勝ち星に恵まれないが、先発ローテーションを守り、頑張っている。忘れかけていた松坂投手もニューヨークメッツで復活しかかっている。
とにかくこれだけ、日本人の投手陣が活躍していると、午前中の大半、場合によっては午後の早い時間まで「ながら仕事」を余儀なくされる。日本のプロ野球は正直言って、あまり見なくなった。まあ、夜に「使える」時間が増えたことは好ましいことではあるが。
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なんじゃろ会
- 2014-06-08 (Sun)
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また6月がやってきて、上京した。高校時代の仲の良い同窓生の恒例の集まり「なんじゃろ会」のためだ。福岡からはさすがに遠い。今年はよそうかとも少し考えたが、やはり、上京した。つい先日かつて勤務していた会社の先輩の告別式で急きょ上京したばかり。この年齢になると、仲間には会える時には会っておいた方がいいという思いを一層強くした。友情にも時には「水」をやらないと、立ち枯れになってしまう心配もある。いや、ならないかな。
私たちは昭和47年(1972年)に宮崎県西都市にある県立妻高校を卒業した。卒業後に東京周辺に進学、就職した同窓生が何人か自然に集うようになっていった。私は大学も宮崎の大学だったから、彼らの仲間に加わったのは留年を重ねて就職した25歳の時。出身中もクラブ活動もそれぞれ異なっていたから、高校時代に彼らと特段親しかったわけでもなく、こうやって年に一度は東京で旧交を温め合うことになろうとは思いもしなかった。
私にとって、妻高校の仲間は西都市の山里の小学中学生時代を一緒に過ごした幼馴染とはまた別の味わいの仲間だ。幼馴染とは文字通り田舎の方言丸出しでしゃべるが、なんじゃろ会の仲間とは若干言葉が異なる。それでも、同じ西都市の市域で育っているから、方言の近しさはある。
「おう、まっちゃん、元気なごたるな」「あんたもな、いつ東京に来たつや? あれ、太ったっちゃねえや。気いつけないや」「こら、こみや、なんばしよっとか? まだ乾杯の音頭しちょらんやろが」「たかちゃん、じゃ、始めよかいな。挨拶はむつおにしてもらおや」
宴がたけなわになる頃、かずみ君があたいにささやいた。「なす君、来年はあんたがいる福岡でするっちゅうのはどげかな?」「お、いいな。俺は東京への旅費が助かるし、大賛成やが」「福岡やったら、ゆうじも来られるやろ」「そうじゃな、のがみ君も来っかもしれんな。福岡周辺に住んでる同窓生は知らんが、調べれば、案外、おるかもしれんしな。おもしれーかもしれんな。ぜひ、福岡でやろや!」
まあ、こんな感じでいつものように盛り上がっていった。今年集まったのは同窓生の妻や夫の伴侶も加わり、計11人。一次会は去年に続いて浅草の中華料理店。餃子が美味い店だ。二次会は歩いてすぐのスナック。何曲歌ったか記憶にない。みどりちゃん、楽しかったね。みどりちゃんは名幹事のたかとしの奥さんだ。ここで写真を披露したいのだが、デジカメをホテルに忘れてしまい、紹介できないのがとても残念!
日曜の朝、二日酔いのやや朦朧とした頭で羽田に向かった。でも、こういう心地好い二日酔いなら亡きお袋も許してくれるだろう。福岡に戻り、毎週末のぞいている居酒屋で一杯やって自宅に引き上げ、パソコンに向かい、このブログをアップしながら、来年は私が幹事役を引き受けてしまったことを思い出した。うっ! 石部金吉の身ゆえ、最近は中洲や天神界隈にはとんと疎い日々。どこかリーズナブルな価格で美味い博多の味を提供している店など頭には浮かばない。たかとしがお膳立てした浅草の中華料理店からスナックは申し分のない宴会の場だった。どうすんべ。中洲・天神界隈であのような店を見つけるのは至難の業だ。まあ、いいか。来春になったら、改めて考えよう。今は終わったばかりのなんじゃろ会の余韻に浸っておこう。みんな、ありがとう。
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台所仕事
- 2014-05-25 (Sun)
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福岡は連日好天が続いている。少しずつ暑くなってきてもいる。部屋にこもって仕事をしている私は段々とこの暑さが気になり始めている。机の上の温度計に目をやることが多くなった。日曜の午後2時過ぎ、温度計は27.1度で湿度48%。まあ、この程度ではまだクーラーをつけずとも大丈夫だ。
去年の手帳をめくって見る。6月27日(木)の項に、クーラーを購入している。その前年の暮れに転居して、初めて迎える夏だったので、できるだけ我慢して、我慢の限界がきてのクーラー購入だったのだろう。今年は果たして6月のその頃まで耐えられるかどうか。
前回書いた翻訳チェックに依然追われている。私が翻訳に取り組むのはこれが三冊目。新聞社勤務の最後の年に片手間でマーク・トウェインの小説 “Pudd’nhead Wilson”の翻訳『二人の運命は二度変わる』を手がけた。あれはこんなに大変ではなかった気がする。まだ記憶に新しい『幸せの残像』もそれほど大変ではなかった。
何が違うのか。訳注を入れる必要がやたら多いのだ。翻訳している伝記本の主人公は19世紀末に生きた女性だから、当然のことながら、彼女と同時代を生きた人々は19世紀中葉から20世紀初頭に活躍した人々だ。名前を知っている人もいれば、そうでない人もいる。ネットでそうした名前を検索すると、結構ヒットする。浅学な私が知らないだけで、彼(女)らは当時は一世を風靡していた人物だった。もちろん、英国周辺での世界でだが。
人名事典で調べ、ネットで検索して、図書館に通う。まあ、汗を流して会社勤務を続けている同世代の人たちに比べれば、ストレスのない気楽な日々だから文句は言えないが、それでもはあーとため息をつきたくなる。
こういう内にこもる暮らし(仕事)をしていると、台所に立つことが気晴らしになる。今凝っているのが、最近ブログで書いたばかりだが、親子丼だ。馴染みの居酒屋のママさんに出し汁なんて何でもいいのよ、そばつゆでもいいのよ、と言われた。おお、そうなの? それでテレビで覚えた「ミリン2に醤油1、出し汁1」の出し汁をそばつゆにしてみる。ああ、実に美味。半熟の溶き卵が何とも言えない。これなら、外で親子丼を食べる必要などないではないか。レパートリーの少ない私にはこれはありがたい「援軍」の誕生だ。
そう思いながら、翻訳の文章をチェックしながら読み進めていたら、次のような文章に遭遇した。これは主人公の女性が友人に手紙で語りかけている述懐だ。それまで雇っていたクックを首にして、新しいクックがやってくるまで、一日だけ自分が家族や家人の料理を作らねばならなくなったことを嘆いている場面だ。
「それで私が今朝の朝食と夕食を皆のために作らねばなりませんでしたのよ。たまに食事を作るのは気晴らしにはなりますが、疲れますわ。今夜はオスカー(夫)とクラブでご馳走を頂くことにしています」(英文は続で)
あのなあ、もっとしょっちゅう気晴らしをしてやったらどうだい? 家庭円満の秘訣だろう、それが、古今東西! っと突っ込みを入れたくなった。英国で19世紀末、上流階層の家庭では何人も使用人がいて、使用人の一人であるクックが一家や家人の食事は作ったということは承知しているもののだ。この「突っ込み」も何とか「訳注」として潜り込ませようかと考えている。
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翻訳チェック
- 2014-05-19 (Mon)
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昨秋から取り組んでいた翻訳(荒訳)が完了したとこのブログに記したのはもうだいぶ前のような気がする。発刊までの校閲作業が大変であることも指摘していたかと思う。
出版社からその翻訳本の初校ゲラが送られてきた。A4紙で500枚ほどのゲラだ。正直に言うと、もう忘れかけていたので、また原稿に向かい合うのは少々難儀、と思わないこともない。一番恐ろしいのは改めて読み返すと、え、これ何? これって意味がとれない、という個所に出くわすことだ。さらに恐ろしいのは、翻訳文に新たに訳注を入れる必要を感じることだ。翻訳者が良心的に仕事をこなそうとすれば、やはり、この人物(表現)は訳注を入れた方が読者に親切なのではないかと思い始める。もうそうなったら、再び、原書とにらめっこしながら、出来の悪い頭をひねることになる。
今はネットで大概のものは検索して調べることができるが、ネットに書いてあることが全部正しいとは限らないことは皆さん、ご承知の通りである。最初に間違った記述があり、後の人がそれを孫引きしていけば、間違った情報が延々と続き、それを正すのは容易なことではない。図書館に足を運び、百科事典やら人名事典を当たる必要が生じることになる。
翻訳本はオスカー・ワイルドの妻、コンスタンス夫人の伝記本。早い話、この夫人を英語のウィキペディアで調べると、誕生日が1859年1月2日となっている。実際は1858年1月2日だ。私の場合、伝記の著者とメールでやり取りできたため、危うく基本的なミスを免れた。その他、ネットで調べた情報が間違っているケースに何回か出くわしている。
訳文そのものも時間を置いて、再読すると、「粗」(あら)が見えてくる。ゲラを100頁ほど読み進めて次のような訳文で手がとまった。「じっとしていることは大変な努力を要するものだよ」。これはオスカーが誘惑の多いロンドンの魅力を友人に語るところだ。原文の文章は “I am hard at work being idle.” となっている。別にじっとしている必要はない。社会や自分に有意義な活動に汗を流さなければいいだけのことで、オスカー一流の皮肉を込めた警句的表現(epigram)だ。だから推敲の結果、「今は一生懸命に怠惰な生活を続けている」と変更した。
次のような訳文も気になった。「目指す目的地が英議会でないとすれば、少なくとも、専門的な分野で名を成す意欲に満ちあふれていた」。「専門的な分野で」に該当する原文は professional という表現。辞書から普通に適当な訳語を拾うと「専門的な」という表現が出てくる。しばし考え、「知的職業の」と手を入れる。「目指す目的地が英議会でないとすれば、少なくとも、知的職業の分野で名を成す意欲に満ちあふれていた」。この方がまだいいかと思う。いや、もっと適訳があるかもしれない・・・。
一事が万事。こんな調子だ。ああ、またしばらくは頭を悩ます日々が続くことになる。
◇
2008年に刊行した拙著の日英対訳の時事エッセイ「英語でさるく」を郷里を同じくする大阪・交野市在住のN・Sさんが目の不自由な人のために点訳した本=写真=が贈られてきた。元の本は200頁足らずの小さな本だが、点訳本だと四冊のファイルになる。点訳の苦労は想像もできない。ただただ感謝するのみである。
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思わぬ訃報
- 2014-05-12 (Mon)
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先週半ば、連休明けで大学の授業が休みだったこともあり、数日間宮崎の山里に戻っていた。長姉の家に帰り着き、夜にくつろいでいたら、携帯にメールの着信ありの点滅が見えた。パソコンの方はネットは不能だが、携帯は部屋によっては通じる。居間と台所は圏外だが、外に近い廊下に出しておくと、メールは拾ってくれる。
携帯を開くとナイロビ支局時代に共同通信の特派員だったMさんからのメールだった。私の勤務していた社の「Hさんがなくなった」と告げていた。え、あのHさんが・・・。2年ほど前にがんを患い、手術を受けたことは承知していた。最後に頂いた手紙では職場復帰して多忙な日々に戻ったが、一緒に暮らしている孫との触れ合いに癒されていると書いてあった。
Hさんはナイロビ支局の私の前任。国際部や英字新聞部でも上司となり、色々お世話になった先輩だ。訃報を知った以上、知らないふりをしているわけにはいかない。土曜日の告別式に駆けつけることにした。土曜朝一番の飛行機で上京するために、金曜午後にバスで宮崎市に出て、ホテルで一泊。翌土曜早朝、羽田に飛んだ。喪服は葬儀場(市川市)の近くの貸衣装店でレンタルすることにして、電話で予約していた。
告別式前にHさんの奥様のK夫人と言葉を交わすことができた。K夫人はご主人が亡くなった後、私の携帯に電話を入れておられたとの由。数年前に盗難に遭った携帯だから当然通じない。私が遠路、駆けつけてくれたことを感謝された。
当時のアフリカ特派員は前任の自宅もそっくり引き継いだ。その時、当時はまだ幼い二人のお子さんに私はある印象を残したようだ。Hさんが後年、この引き継ぎ時のエピソードを笑いながら振り返られたことがある。「君がカップラーメンを美味そうにすするのを、(子どもの)Tたちは羨ましそうに見ていたよ」と。私には記憶は残っていないが、引き継ぎの合間に私はどうも東京から持参したカップラーメンを食べたのだそうだ。アフリカで3年過ごした子どもたちには日本から「直輸入」の麺類をパクつく私の姿がとても羨ましく映ったのだろう。
27年前のことだ。私も若かったが、Hさんも若かった。私は4年前に早期退社して、現在に至るが、私より3歳年長のHさんは編集局の部長職を歴任して社外に転出、このところは関連会社の理事長の重職を担われていた。間違いなく仕事のできる人だった。これからも花も実のある人生が待ち受けていたはずだ。
告別式では会葬のお礼の言葉をK夫人の代わりに長男のT君が述べた。成長したT君の風貌はかつてのHさんに似てきつつあった。T君は淡々とお礼の言葉を口にした。Hさんは急に逝ったために、特段の別れの言葉は交わしていなかったという。だが、今は一児の父親であるT君にとって、理想とする父親像はHさんだったとか。HさんはT君たちによく「自分には大切な宝物がある。それは妻のKさんだ」と語っていたという。T君は「これからは父が大切にしていたその宝物の母を妹と一緒に大切にしていこうと思っています」と涙ぐみながら語った。私も思わず、両目から涙が流れた。
告別式でこれまで耳を傾けた会葬のお礼の言葉としては最も印象に残る挨拶だった。合掌。
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しっこ猶予とはいかず
- 2014-05-04 (Sun)
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わび住まいの片付けも少しずつ進んでいる。段ボールが少し片付いて、和室の畳にしっかり素足がつくようになった。気持ちがいい。これだ。やはり畳に素足、これが日本人の基本だ。
最近は自炊の日々が楽しくなっている。20代の時にこの年になって今のような暮らしをしていると予言されたとしたなら、憂鬱な気持ちになっていたことであろうが。
数日前にテレビを見ていたら、地元の男性局アナが料理の腕前を披露していた。親子丼の簡単な作り方だった。以前から私も作ってみたいと思っていた。見ていると、なんだか私にもできそう。私が知らなかったのは、ミリンが必要なこと。実はミリンはこれまで買ったことも使ったこともない。日本酒に似たものであることぐらいは承知していた。
スーパーで早速ミリンを購入した。鶏肉は残っているのがあった。玉ねぎもある。卵もある。さあ、初めての親子丼を作ってみよう。一つだけ、困ったのは、テレビではミリン2に醤油1、それにだし汁1としていた。私はこのだし汁がよく分からないので、適宜水でごまかし、フライパンで料理開始。味噌汁の具にしていたイカが少し残っていたので、これもおまけでいれる。親子イカ丼だ。
テレビでは溶き卵を二回に分けてフライパンに注いでいた。私もそれを真似してみた。最後の溶き卵を注ぎ、弱火にしてふたをした。頃合いを見て、火を止め、前日の残りのご飯にかけて「頂きます」。オマガ! 究極の美味からは程遠いとは言え、十分いける。ああ、これで私の数少ない料理のレパートリーに貴重な新たな品が加わった。
胃袋が満たされ、ラップトップに向かい、ニュースを検索する。日本はのどかな連休期間だが、世界は悲惨、陰鬱なニュースが続いている。ウクライナ情勢は深刻さを増す一方のようだ。シリア情勢もしかり。こちらであまり報道されていないが、英領北アイルランドではカトリック系住民を支持基盤とした政治指導者のジェリー・アダムズ氏が42年前に起きた主婦拉致・殺人事件の関連で身柄を拘束され、取り調べを受けている。北アイルランド紛争の火種はまだくすぶり続けている。和平への影響が懸念される。これも日本ではあまり報道されないが、西アフリカ・ナイジェリアではイスラム過激派のテロが激しさを増している。
ワシントン・ポスト紙のネット版で香港発のニュースを読んでいたら、中国本土からの観光客のマナーの悪さに香港の人々が辟易している話題が出ていた。特に街中の公道で幼児に平気で排泄行為をさせていることに怒っているとのことだった。要するに、本国で普通にやっていることを旅先でもしているらしい。
人里離れた山中ならともかく、市街地ではやはり、地元の住民が怒るのは無理もないことだと思い、ネットに寄せられたかまびすしい意見を読んでいて次のようなユーモラスなコメントに出くわし、思わず吹き出してしまった。
As a famous Chinese sage said, "Man who cooks carrots and peas in the same pot, not very sanitary. Better to pee in the street." (中国の著名な賢人がかつて指摘したように、ニンジンを煮た鍋でエンドウマメも調理する(もしくはおしっこする)人はあまり衛生的とは言えない。おしっこは外の通りでした方がいい)
pea(エンドウマメ)と pee(おしっこする)が同音異義語なのがみそだ。
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日本酒
- 2014-04-28 (Mon)
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世はゴールデンウイークの到来だ。気候も良くなり、絶好の行楽日和ではある。
といっても、こちとら、別に遠出のあてもない。したくもない。アフリカやアメリカ、イギリスの旅でもう十分、遠出の旅は味わった。いや、あの時はほぼ毎日のように次の目的地の足の便、安宿の確保に追われ、たえず、パソコンか携帯電話に向かっていたような気がする。今そういうことから解放されて日々安穏と過ごせることを神に感謝の思いだ。
しかしながら、狭い我が家はガラクタの山だ。よし、この世間の連休(私はこのところずっと連休の人生なのだが)を利用して部屋を片付けようと思い至った。その気になれば訳ないのだが、いや、大いに訳ありだ。不要なものを捨てればいいだけのことだが、手に取って眺めていると、どうも捨てるのは・・・という気になってくるのだ。
いや、そろそろ心を鬼にして片付けよう。そうでないと、また、秋の行楽シーズンの折にまた同じようなことを書いているような気もしないでもない。いや、もう十分この種のことはここで書いたような気もするが、恐ろしくて読み返す気も起きない。
遠出はするつもりはないと書いたが、ちょっとした旅ならする。旅と呼べるものでもないが。先週金曜に鹿児島・川内(せんだい)まで日帰りした。九州新幹線だと博多からわずか1時間20分程度だ。同じ南九州でも宮崎とかくほども違う。
川内に行ったのは、岩手・釜石の知己Sさんが関係している植物の研究会で川内に来られたからだ。福岡まで足を延ばすことは無理だったため、それでは私が川内まで馳せ参じましょうとなった次第だ。新幹線を利用すれば、夜一杯やって、そのまま日帰りも十分可能。飛行機で来られたSさんとホテルのロビーで待ち合わせて、近くの居酒屋さんをのぞいた。土地勘もないので、ホテルのフロントの娘さんに聞いた店だった。
午後5時過ぎという時刻ゆえに客は私たち二人だけ。とりあえずビールで喉を潤し、Sさんおもむろに「ママさん、日本酒は何がありますか」。「うちは焼酎だけしかないんですよ」とママさん。しまった。確認しておけば良かった。Sさんは酒どころ、東北の人だ。日本酒党で焼酎は飲んだこともない人だった。ママさんに近くの酒屋から急ぎ、日本酒を運んでもらい、事なきを得た。
Sさんは津波被害で今は仮設住宅に住まわれているが、かつて釜石では有名な旅館を営まれていて、私は盛岡支局勤務時代に知り合った。植物研究で知られ、70歳を目前にしてもその意欲に衰えはない。Sさんはマツタケ取りのプロでもあり、その話で盛り上がった。
私の郷里はマツタケとは無縁。実は今年に入り、Sさんから手製のマツタケ入りの日本酒を頂いていた。これが実は正直に言うと、どうも生椎茸を入れた酒を飲むようでどうも美味という感じではなかった。それでその感想はこれからのこともあるので、ありていに告げた。「あのお、あのマツタケ、あぶって入れたらどうでしょうか。土瓶蒸しのような土瓶酒になったりして・・・」と私。「いや、それは無理です」とSさん。
朋有り、遠方より来るで、楽しいひと時を過ごし、帰途に就いた。ナップザックの中にはSさんのお土産、釜石の純米大吟醸を入れて。昨日曜の夜、冷蔵庫で冷やしておいたその日本酒を頂いた。美味かった。今度の酒には幸いマツタケは入っていなかった。
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