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英語でさるく 那須省一のブログ

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You are what you eat.

 今日は火曜日。大学の授業は新年度がスタートする4月の中旬までない。何だか天気も良く、スポーツジムが定休日だから、普段の買い物の足を延ばしてみた。郵便局ものぞき、余った年賀状を普通のはがきに変更してもらう。返事を出すのが遅れている遠くの友人知人への便りもそろそろ書かなくては。
 つい先日までは火曜日は後期の授業日で、お昼過ぎになると駅に向かっていた。今日の授業はうまくいくかな? 学生たちはどういう反応を示すだろうかな? などと気をもんでいたが、そういうことからも解放されて、いや、落ち着いた心持ちで日々を過ごすことができる。そうなんだよな。会社を辞める時にはこういう日々を頭に描いていたんだよな、ようやっとここまでたどり着いたか! などと思わないでもない。
 会社員時代はいつも外食であり、普段は買い物のことなど頭になかったかと思う。たまに週末に台所に立つことはあっても、基本、普段の食事も居酒屋や飲み屋で済ませていた。色々な意味で「もったいない」暮らしだった。それが今は2日に1度はスーパーや八百屋さんをのぞいている。最初は少し恥ずかしかったが、慣れたら、どうということもない。第一、普段何を食しているかは健康に直結する大問題だ。大学の授業でも必ず、学生に語っているお気に入りの英語表現がある。“You are what you eat.” という表現だ。直訳すると「あなたはあなたが食べるものからできている」ということになるのだろう。意訳すると、「普段何を食べているかが大事」「あなたの人生(健康)は胃袋(食事)が決める」ということか。
 だから、私の食事は野菜中心の献立。味噌汁にはありとあらゆる野菜をぶち込んでいる。これで健康にならないわけがないと思っている。前回のブログでは不注意で風邪を引いたことを書いたが、市販の薬を飲んだだけで一日で回復したのも今の食生活のおかげかと思う。それにつけても、悔やまれるのは子どものころ、お袋の言葉に抗い、今ありがたく食している野菜類をほとんど食べなかったことだ。心の中で念じている。「おっかさん、俺が馬鹿だった。いや、今もそうかもしれんけどな・・・」
 さて、一月余りの間にやらなければならないことは限られている。まず、今週末に迫った恒例の南大隅町佐多辺塚地区の稲尾岳登山。このブログ欄でも幾度となく書いてきているが、今年も「行かずばなるまい」と思っている。行かなければならない何の義理もないのだが、そこは自分にとっては理屈ではない世界。佐多辺塚地区はいわゆる典型的限界集落の一つ。私は文字通り「枯れ木も山の賑わい」に過ぎないのだが、地区の伝統行事を守りたいという住民の方々には私のような者でも心強い「援軍」と映っているようだ。
 山登りは毎年3月の第1日曜日。早朝に稲尾岳の麓に駆けつけ、その夜の慰労会を考えれば、前泊を含め2泊はどうしても必要となる。旅費を含め、私のような身には痛い出費となるが、稲尾岳神社のご加護のことを考えればなんのそのだ。
 稲尾岳は標高930㍍。過去の山登りは不規則かつ不摂生な暮らしで緩んだ体にはきつくてたまらなかった。今年は少し異なるかもしれない。正月明けからの断酒にきちんとした食生活で体重は5キロ程度は落ちている。今年の山登りがそうきつくないとしたら、私のような者にも「学習能力」を与えてくれた神様のこれこそご加護かもしれない。

風邪にも感謝

 田舎の長姉の家で週末を過ごし、宮崎市経由で福岡に戻ろうとした。最後の晩に風呂に入ったのだが、湯がたまるまで洗い場で寒い思いをしたのが良くなかったようだ。いや、その後、例によって庭に出て、「謎の飛行物体」を見ようとしばし夜空を仰いだのが良くなかったのかもしれない。降るような星空に見とれていて、風邪を引いたようだ。気づいたのは翌朝だったが。
 宮崎市に出てそれからバスを経由して新幹線で帰福するつもりだったが、どうも熱があって体がきつい。風邪をこじらせたくなかったので、致し方なく、先週投宿したユースホステルに飛び込んだ。訳を話すと、すぐに受け入れてくれたので、お昼前から布団に潜り込んだ。昨日はそんな感じで終日、うつらうつらと寝込んだ。おかげでどうにか本日朝には外歩きできるほどの体調になった。
 会社を辞めて以来、風邪を引くのは初めてのことかもしれない。だけど、いい「時期」に風邪を引いた。これが集中講義中だったら、最悪の事態になっていた。これも神に感謝だ。私がこの時期に風邪を引くことになっていたとしたなら、一番いい時期にそれを引いたことになる。「努力は足し算、感謝は掛け算」だ。(この意味が分かる人は偉い!)
 私が一番恐れていたのはインフルエンザだった。人生に(おそらく)一度だけかかったことがある。もう随分以前のことだ。東京本社に勤務していて、鳥取に住む友人一家を訪ねて、その足で宮崎の田舎にまで帰省しようと思っていた。ところが、生憎、友人の子どもたちの一人が夕食の席上、凄く咳き込んでいた。悪い予感は的中、翌朝目覚めた私は熱で朦朧としていた。友人夫婦は仕事に出かけ、子どもたちは学校へ。一人取り残された私がやったこと。これが今から考えると信じ難いのだが、一路病院へではなく、タクシーでサウナのある温泉だった。要するに、汗を大量にかいて熱を出し、熱を下げようと思ったのだ。引き始めの風邪はこの方法で何回かやっつけたことがある。しかし、インフルには逆効果のようだ。生兵法何とかである。
 熱は下がらず、ますますきつくなった。タクシーを呼び、友人宅に帰ろうとした。2月初めの鳥取のことだ。タクシーを降りて歩いた。雪に覆われた新興住宅地の住宅はどれも同じように見え、歩けど歩けど、友人宅に行き当らない。熱はいよいよ上がり、きつい。頭の中に「行き倒れ」という語が浮かんだ頃、何とか、友人宅の正門が見えた。その後、病院を訪ねて診断を仰ぐと、インフルエンザとの由。これからもっと熱が上がりますよと言われた。かくしてこの2月の帰省は母の待つ故郷にも帰れず、最悪の結果に終わった。数日後飛行機で帰京したが、本当にきつかった。
 ユースホステルで伏せっていて、そのようなことが思い出された。あれから何年経つのか? 今回の熱は普通の風邪だったようだ。今福岡に戻って自室でこうやってパソコンのキーボードをたたいていて、少し微熱は感じるが、きつくはない。これがインフルだったら、こうはいかないだろう。神様に感謝!
 ところで古里の夜空で今回見た「謎の飛行物体」は2機ほど。今度もどう見ても通常の旅客機とは思えなかった。

棚ぼたの宿

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 宮崎市に戻っている。ここの大学で集中講義を行うためである。それが今日無事に終了した。月曜から金曜まで全15回。一回90分の授業をこなすのは私の能力(competence)を超えているのだが、講義の幾つかの題材は新聞記者時代の仕事で手がけたものに近かったこともあり、多少はやりやすかった。
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 集中講義の期間宿泊したのは初めて泊まった「ユースホステルサンフラワー宮崎」。宮崎県庁のすぐ近くにあるユースホステルだ。通常は安価なビジネスホテルに投宿するのだが、宮崎は今プロ野球開幕前のキャンプインたけなわ。いつものホテルに電話を入れたら、「生憎ずっと満室なんです。まつざかが来ているもので」と言われた。「松阪牛の大即売市でもやっているのかな」と思ったが、よくよく聞いてみると、ソフトバンクホークスの松坂大輔投手がキャンプに来ているのでソフトバンクファンが全国から押し寄せているのだとか。宮崎も昨今はジャイアンツよりもソフトバンクの方が人気のあることは承知していたから、すぐに合点は行った。
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 それでネットで他のホテルの番号を調べ、電話をかけまくったが、どこも同じ。さてどうしたものかと思っていたら、これまで名前さえ知らなかった宿が目に入った。上記の「ユースホステルサンフラワー宮崎」だ。駄目元で電話をかけてみると、兄はカランや、いや、豈図らんや、空室があるというではないか。宿泊代金を尋ねると、ユースホステルのメンバーになれば、一泊3200円とか。喜んで予約を入れた。
 ほぼ日中一杯の講義を終え、疲れた体を宿まで運ぶ。トイレとお風呂は共同だが、何の問題もなし。アメリカの旅でお世話になったYMCAに比べればはるかに居心地がいい。懐かしい夜の街を散策する余裕はないので、ここのレストランで夕食(千円)。これがボリュームたっぷりで美味。食事の後は一風呂浴びて、喫茶室のような部屋でパソコンに向かい翌日の講義内容の最終チェック。泊り客は他にもいるようだったが、皆さん、どこかにお出かけのようで実に静か。喫茶室(のような部屋)を独占して使用することができた。無線ランも通じているから調べものに大助かり。
 いやあ、プロ野球キャンプインのおかげでいい宿に巡り合えた。これから宮崎市に立ち寄る時はここに宿をとろう。3階建ての小さな宿泊施設でいくつも会議室があるので、泊まり部屋はそう多くはなさそうだが、これは「掘り出し物」だ。勤務している人も年配の人が多いようだが、宮崎の人は誰もが優しい。居心地が悪かろうはずがない。
 今回の仕事が無事終了し、大学はこれから春休み。非常勤講師の私もしばらく骨休みできる。この間無給となるが、餓えることはないかと思う。今宵は宿で一人焼酎か赤ワインのグラスぐらい傾けたい心境だが、今も断酒は続けている。体調はすこぶる快調。体重は5キロほど落ちたような気がする。もっとも、ここのユースホステルで美味な夕食(写真)を連夜頂いたので、少しまた戻ったかもしれないが。まあこれは致し方ないだろう。

ダンテの『神曲』

 中世宗教文学の傑作と評される叙事詩『神曲』を読んでいる。私には少し難解な書だ。翻訳した伝記『オスカー・ワイルドの妻コンスタンス 愛と哀しみの生涯』にこの書のことが出てきていた。
 文学作品を翻訳する時には、その作品中に出てくる書物は読破したことがあるのが理想的だろう。現実はそううまくいかず、私にはこのことがずっと気がかりで、今ようやくこの名作に向っている。
 コンスタンス夫人が敬愛する友人に宛てた手紙で、次のように嘆くシーンがあった。
 「私は(『地獄編』の)一言一句がすべて自分に当てはまると思います。私は人生の半ばに差しかかりつつあります。私は(ダンテのように)あの暗くて辛い森で路頭に迷っているんです。その森に迷い込んだ時に間違いなく眠りこけていたんでしょう。私はいつ、どうやって迷い込んだかさえ覚えていないんですよ!」
 『神曲』はイタリアの詩人、ダンテ・アリギエリ(1265-1321)の代表作。「地獄篇」「煉獄編」「天国篇」の3部作から成る。ダンテが『神曲』を書いたのは1307年から21年ごろのこととか。当時のイタリアの政治・時代背景に疎い身には読み進めるのは容易ではない。だが、地獄から煉獄を経て、天国を目指すダンテの旅は現世の罪を悔い改め、神の赦し、永遠の命を求める旅であり、実に興味深い。コンスタンスは当時、自分の預かり知らない禁断の同性愛の世界に走る夫オスカーと心が通わぬことに心を痛めており、地獄で苦悶する多くの罪人の描写に魂を揺さぶられたようだ。
 「地獄篇」の第二十八歌中にのけぞりたくなるような一節があった。(原基晶訳)
 さらに彼らが己の裂かれた体や、切断された手足を曝して見せたとしても、
 汚れた第九巣窟の凄惨さには比肩できる訳もない。
 酒樽は、中央と両脇の半月板を合わせて底がすべて抜けたとて、
 私が出会った、とある者ほどの有様で穴が開くことはない。
 その者は顎から屁を鳴らすところまでが裂かれていた。
 脚の間から腸が垂れ、胸の内臓や汚らわしくも
 貪ったもので糞を作る胃が露(あらわ)になっていた
 すっかり目を奪われてその者を眺めていると、
 相手は私を見つめ、両手で胸を開けた、
 こう言いながら、「さあ見るがよい、余が脇腹を曝す様を。
 見るがよい、いかほどにマホメットが切り裂かれてしまったかを。
 余の前を、顎から額の生え際まで顔を裂かれて
 アリーが嘆き苦しみながら行く。
 お前がここに見る者どもは皆、
 生きている時には不和と分裂の種を蒔いた者だった。それゆえこのように割られている。(以下略)」

 ダンテが生きた中世のヨーロッパでキリスト教徒がイスラム教徒に抱いていた憎悪・嫌悪感を如実に物語る。パリの政治風刺週刊誌の揶揄の比ではない。マホメットの関連は続きで。

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断酒を誓う

 一月も残り少なくなっている。年齢を重ねると、こうやって段々と月日の過ぎ行くのが早くなっているように感じるのだろう。このブログをアップするのが段々と億劫になっている言い訳でもあるのだが・・・。
 今年は正月明けに一つの誓いを立てた。体重を落とすことだ。机の前に座っているか、ベッドに寝転んでいることの多い日々、ふと気づくと、だいぶお腹に余裕が出てきていた。時々プールで泳いではいるが「焼け石に水」のようだ。嘆息短躯いや短足短躯の身には体重増はこたえる。昨年夏の久しぶりの健康診断でも体重を落とすように「勧告」されていた。しかしそれ以降もわずかずつとはいえ、体重が増えていっている感覚があった。
 年末からこちら、ふと生活スタイルを少し変えた方がいいのかな、と思い始めていた。ひとつには健診で私の数値を診た保健師の方から「その後どうですか、お酒の量は減らしてますか?」という「親切な」電話があったことも一因だが、神様からそうたしなめられているような気もしていたのだ。
 ここ数年週に一二度、律儀にのぞいていた行きつけの居酒屋が年末を機にお店を畳んだことがその背景にある。この店は本当に居心地のいい店だった。アフリカを旅していた時のブログ上で、脳裏に浮かんだこの店の酒の肴を綴ったこともある。お店は私のような常連客で賑わっていたのだが、ママさんの親族が新たな事業を展開することになり、そのお手伝いで店仕舞いを余儀なくされた。貴重な憩いの場を失った私には少しくショックだった。だがこれも、何かの「メッセージ」のように思えたのだ。
 思えば、今の暮らしを始めて二年以上になるが、毎夕ほぼ一日も欠かさず、晩酌を楽しみに過ごしてきた。春夏秋はテレビでプロ野球、冬は麻雀などの番組を見ながら、大半はイモ焼酎だが、時にワインを傾け、夏にはその前にまずビールで喉を潤していた。肴は乾き物や刺身、チンした餃子類など。焼酎は格好のアペタイザー(appetizer)だ。その後のご飯も二膳三膳と進む。これで太らないわけがない。悪夢のような体重80キロ突入もそう先のことではないように思えていた。
 かくしてしばらく断酒することにした。どうしても避けることのできない酒の席は例外として、少なくとも普段の暮らしから飲酒をシャットアウトする。以前にも何度か一年程度は断酒した経験がある。最初の数日はさすがに夕刻になると、グラスの中で氷がカチンとぶつかる音、酒(焼酎)の滑らかな口当たりが恋しくなったが、すぐに慣れた。
 断酒を決意したのにはもう一つ理由があった。飲酒・食事した後、午後8時過ぎになると、中途半端な睡魔に襲われ、夜の読書に支障をきたしていたことだ。断酒生活に入った今はこの睡魔から完璧に解放された。
 本日、プールで泳ぎ、体重計に乗ってみると、年末から3キロも軽くなっていて、嬉しい驚きだった。当面の目標は72キロ。目標値に達したら、週末の飲酒を解禁したいと思っている。だが平日の断酒はその後も続け、最終的には私には考えられなかった体重60キロ台への回帰を目指していきたいと願っている。
 酒を断ち 心穏やか 本を繰る 深き喜び 大寒の夜

正月早々

 今年もまた新年を迎えた。私事を筆頭に、世の人々に幸多き年であることを祈りたい。(何と利己的な! と言わんでください)
 私は例によって、正月を宮崎の郷里に戻って過ごした。特段何があるわけでもないが、身内が少なくなる中、他の選択肢はない。私のような者でも帰郷すれば少しは賑わいに役立つかと思っている。
 実家は残ってはいるが、長兄が病没した最近は長姉の家にお世話になっている。甥っ子夫婦やその子どもが加わり、それなりに楽しいひと時となっている。
 元日の夜。不思議なことがあった。今でも狐につままれた感じを引きずっている。おそらくここで文章にしても信じてもらえないかと思う。このブログは私の備忘録のようなものだからあえて記しておきたい。
 何時頃のことだったか。夜の8時か9時過ぎだっただろうか。姉が空に妙なものが飛んでいると言った。いや、実際にそういう表現だったかは自信がない。とにかく、何か飛んでいると言う。それで、私は庭に出て空を見上げた。山の中腹にある家だから、夜は結構冷え込む。寒さをこらえながら夜空を見上げる。月も出ていて、雲もあったが、空気の澄んだ山の空は星がきれいに見えた。目をこらすと、かなたに赤い光を点滅させながら、何かが飛んでいる。飛行機のように見えなくもないが、よく分からない。飛行物体は山の端に入って見えなくなった。すると、今度は異なるアングルから同じような飛行物体が赤い光を点滅させながら、飛んでいくのが見えた。
 私が庭に立って空を見上げていた時間はどれぐらいか? 20分ぐらいだったろうか。そのわずかな間に10個ほどの飛行物体が夜空を駆けていった。消え行く線香花火のような物体だった。音が聞こえたものもあったが、大半は聞こえなかった。速さは? 普通の旅客機のようにも見えたし、少し早過ぎるような気もした。よく分からない。いずれにせよ、郷里の夜空を短時間にあれほどの旅客機が飛び交うことは想像し難い。
 もう一つ、不思議なことがあった。普通の星に混じって、一際明るい光が揺らいで見えたことだ。星にしては大きすぎるような・・・。甥っ子も庭に出てきたが、「しょいちあんちゃん、なんやろかな。不思議やな」と首を傾げるばかり。この光は動いていた(?)ようで、おおよそ30分後あたりに庭から見上げると、もう見えなくなっていた。
 今こうやって私が目撃したものを思い出しながら書いているが、何だか、あり得ないことを記しているみたいで、あまり心地は良くない。できれば翌日の夜も同じ庭から夜空を見上げたかったが、生憎宮崎市内に出る用事があり、それはかなわなかった。
 私はこれまで人に語れるような超自然の体験をしたことがない凡人だ。おそらく、何か説明のつく現象だったのだろう。そう思いたい。当然私の頭の中には “UFO” (unidentified flying object)=未確認飛行物体=のことが浮かんでいたが、メディアで報じられていたUFOのイメージからは遠かったし、鋭角に方向を変えたりするといった不規則な動きはなく、ただただ真っ直ぐに飛んでいた。
 高性能のデジカメなら撮影も可能だったかもしれないが、私のものではとても無理。ああ、それにしても摩訶不思議な一夜だった。

銀鏡夜神楽

20141217-1418781407.jpg 先週日曜日、一泊で宮崎の田舎に帰省した。毎冬恒例の銀鏡神社の夜神楽見物だ。枯れ木も山の賑わいとなるべく、少し無理して足を運んだ。福岡を出たのが午後5時頃。例によって九州新幹線と高速バスで宮崎に午後8時過ぎ着。そこから仕事を終えたばかりの甥っ子の車で山里へ。
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 銀鏡神社に到着した時は夜神楽も佳境に入りつつあった。ご祝儀袋を出して、座に上がり、頂いた折詰を肴に、縁越しに見える神楽を見やりながら、軽く一二杯。今は地区外に転出している懐かしい顔が幾人も見える。私は子どもの頃とほぼ同じ容貌なのですぐに分かるようだ。さあ、まだ夜は浅い。神楽を舞う地元の人たちは夜通し舞うのだ。夜神楽の笛太鼓は独特の音色だ。「うーん、これだ、これ。商業主義に毒されていない、垢のついてない神楽」などと感嘆しながら、勧められるままに湯呑み茶碗で焼酎をやっていると、向こうの障子がすっと開いて、毛糸の帽子をすっぽり被った初老の男性がこちらを見つめる。
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 地元で見知った顔ではないので、気にもとめずにいると、何だか私に向って微笑むではないか。「あれ、俺の知っている人かな。はてさて・・・」。脳をフル回転させて田舎の昔の記憶の糸を手繰り寄せるが、ヒットしない。とその人物が私のところに近づき、何やら言葉をかけられた。何と言われたのかは咄嗟には分からなかったが、その声を聞いてすぐに疑問氷解。「あ、O先生だ」。いやあ、奇遇ですね。でも、何でまたここまでいらしているのですか?
 O先生は私が紅顔の美少年の宮崎大学学生だった頃の英語科の恩師。もちろん今では退官されているが、親しい友人たちと句会を作っていて、この日は吟行会で銀鏡の地まで訪ねてこられたとのこと。なるほど、ここなら、吟行会にはまさに打ってつけの地ですからね。O先生の他にもT先生もいらしているということで、吟行会参加の一行に挨拶する一幕となった。O先生たちは寝袋持参で車座になって夜神楽を見学されていた。
 挨拶を済ませて、地元の人たちの座に戻り、また焼酎を傾けながら、今度は地元出身の人たちと歓談。だいぶ焼酎を飲んだ。今この項をアップしながら、記憶が怪しい。同じ集落出身のT君とはほぼ半世紀ぶりの再会。私より三つか四つ年下のT君には最初全然気づかなかったが、彼の名前が呼ばれた折にふいに記憶が蘇った。「あ、思い出した。あのT君か。集落の子供の行事の時、皆の前でよく歌を歌っていたT君だ。田舎では普通は恥ずかしがって人前では歌など歌わないものだが、T君は恥ずかしがることなく堂々と歌っていた」ことを懐かしく思い出して、すぐに声をかけた。
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 最後の方はあまり記憶がない。幼馴染で地元に嫁しているJちゃんと神楽はそっちのけで、別座の囲炉裏端で古里の味が染みた売店の三菜蕎麦を食べ、さらに焼酎をあおり、甥っ子の車で長姉の家に向かった(ようだ)。甥っ子は幸い、飲めない口なので、運転は大丈夫。
 長姉の家で布団にもぐり込んだ時は午前5時近かっただろうか。寒いなあと思いながら、翌朝目覚めると午前10時過ぎ。おお、こんな時間まで寝ていたのか。早く神社に戻らないと、銀鏡夜神楽に欠かせない、昔の狩猟の生活を伝える「ししとぎり」が始まるではないか。そんなこんなで疲労困憊になりながらも、大学の恩師とも再会し、楽しい夜神楽見物だった。
 (写真は、上から、夜神楽と翌日のししとぎり、O先生との邂逅、神社から望む故郷の山々)

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