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英語でさるく 那須省一のブログ

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日暮れずとも道遠し

20151209-1449624883.jpg 梅原猛氏の近著『親鸞「四つの謎」を解く』を読み終えた。哲学者の親鸞に寄せる愛慕の念が行間にうかがえた。梅原氏は冒頭、「年とともに神仏の加護を信じるようになった。私が今日まで生き長らえることができたのは、神仏が私に、あるいは国家のためにあるいは人類のために何かをやらせたいためではないかと思っている。私にはまだやりたいことがある。いや、やらねばならぬことがたくさんある。あと五、六年、できれば十年の時間が欲しい」と書いている。齢90にしてこのパワー。これだけでも勇気を頂いた。
 私は親鸞や浄土真宗については全くの門外漢だ。親鸞が仏僧には珍しく妻帯したこと、悪人こそ信心によりその魂が救済されるのが容易なのだという「悪人正機説」を知っていた程度だ。それでも、この書を最後まで興味深く読み進めることができた。マーカーを走らせた部分を少し抜き書きしただけでも以下の通りである。
 「僧の結婚は釈迦以来の仏教の原則を全面的に否定するものであると思う。また、それはまさに積年にわたる仏教の弊害を克服するものでもあった。僧の結婚を前提としなければ、女性救済の道は実現しなかったからである」「十三世紀という時代に、まったく男女平等の仏教が日本で誕生したのである。おそらく世界でこのような宗教的民主主義の仏教が開花した国は、他にないであろう。これはまさに日本の仏教の誇りである」「近代真宗学においては、『悪人正機説』が親鸞の主要な思想とされたが、私は、『教行信証』において親鸞が浄土教のもっとも重要な思想としたのは、『悪人正機説』ではなく、『二種廻向』の説であると考える」「『二種廻向』、特に『還相廻向』が念仏者の必然の運命であるとすれば、それは具体的にどういうことを意味するのであろうか。私はそれは『生まれ変わり』ということではないかと考える。魂の永遠の旅とでも言い換えられるかもしれない」
 図書館から借りてほぼ同時に読んでいたのは、宗教学者の島田裕巳氏の著『ほんとうの親鸞』(講談社現代新書)。これは梅原氏の書とは趣を甚だ異にしていた。島田氏は「あとがき」で次のように記している。「この本を書くまで、私にとって親鸞は苦手な存在だった。あまり好きではない、正直なところを言えば、そういう感覚があった。(中略)この本を書き上げて、私のなかから親鸞に対する苦手意識は消えた。親鸞は特別な人物ではない。超人でも巨人でもなく、実は普通の人間なのである」と。
 新聞社勤務時代の同僚で博学の士、H君に近況を伝えると、私のはるか先を歩むH君はいくつか参考になる文献を紹介してくれた。いやはや学ぶことは多々あるようだ。まあ、金はなくとも当座の時間だけはたっぷりある。神様がそれをお許しになればの話だが・・・。                  ◇
20151209-1449624966.jpg 英語に関する記述を少し————。月曜日のJNにシンガポール発で “More residents going overseas to kick the habit” という見出しの記事を見かけた。薬物依存症の人々(drug addicts)が匿名での治療を求めて海外でカウンセリングを受けていることを報じた記事だった。kick the habit で「悪癖をやめる」という意味合いとなるようだ。なんとなく、kick だけでは「弱い」ような気もするが、これで十分らしい。つい最近、knock off the habit という表現に出合ったばかりだったからそう感じたのかもしれない。

タヘンイダ!

 韓国語のドラマで登場人物の言葉が耳に残っている表現があった。私の耳に聞こえたままに書くと「タイギダ」。何の根拠もなく、時代劇でお殿様が臣下に対し「その方、大儀であった。下がってよいぞ」というシーンを思い浮かべていた。おそらくそんな感じの物言いであり、日本語に近い語源の表現ではないかと。
 気になったので調べてみた。こちらの全くの思い違いであることが分かった。ハングルで書くと 다행이다 となる。読みは大雑把に書くと「タヘンイダ」。다행 は漢字だと「多幸」。「(それは)良かった」という意味となる。どこかで落とした財布が親切な人に拾われて自分の元に無事戻って来た時などに思わずつぶやく言葉だという。「ああ良かったわ」。「タヘンイダ」。「大儀であった」とは全然違う! それでもつい日本語との近さを誤解するのだから、それだけ韓国語の学習は刺激的であるという証左だろう。
                          ◇
 梅原猛氏の近著『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社)を少しずつ読んでいる。関連で親鸞聖人に関する他の書を図書館から借り、同時並行の読書だ。それにつけても、灯台下暗しと言うか、自国の歴史や出来事を知らないで過ごしてきたものよと暗澹たる気分に陥る。不明を恥じるばかりだ。まあ、それでも会社を早期退職して以来、人様より少しばかり早く自由に使える時間をこうした学習に向けられる身の幸せに感謝すべきかもしれない。まさに다행이다(タヘンイダ)。
 先日は授業で “I feel at ease with myself.” という文章について説明した。at easeは辞書には「気楽な」「安心して」という熟語として載っている。英英辞書だと “relaxed and confident, not nervous or embarrassed” と記されていて、こちらの方が意味がより明解に理解できる。私は今まさにこの境地だ。ここに至るのに61年の歳月を費やしてしまったのは情けないが、Better be late than never だ。授業では「君たちもこの文章のような心もちで毎日を過ごして欲しい」と付け加えた。「私は私自身に満足している」というような訳文になるかと思うが、「私は今の私で十分幸せ」という訳がぴったりはまる感じがする。
                          ◇
 読売新聞では2020年の東京オリンピックを念頭に、スポーツ用語の英訳を随時紹介している。忘れなければ読むようにしている。先日の語句は routine という語だった。少し前に宮崎のゴルフの友から「省ちゃん、ドライバー打つ前に準備する一連の動作、あれは何と言うと?」と聞かれたことがある。「Tさん、それはルーティーンちて言いますわ。英語からきとる言葉ですがぁ。いつもの手順ちゅう意味ですな」と答えた。「あ、そぉや。分かったばい。ルーティーンじゃな」
 記事ではroutine を「決まり事」と訳し、「ルーチン」と表記していた。アメリカの公民権運動指導者のキング牧師のフルネームは「マーティン・ルーサー・キング」と書くのが一般的かと思う。英語語源の語はすべからく「英語らしく」書くべしとは思わない。「ティームバッティング」ではなく「チームバッティング」で十分だ。だが、「ルーチン」はどうも頂けない。「チン」という響きに違和感があるのかもしれない。

親鸞聖人

 今年もあと1か月。師走となると私でもやることが少々出てくる。アメリカとイギリスの友人にクリスマスプレゼントを送ることだ。アメリカは「さるく」旅でもお世話になったジョージア州のヒックス夫人。イギリスはロンドン支局勤務時代の助手だったL嬢。「さるく」旅でも手助けしてくれた。彼女も今では2児を抱えたシングルマザーで奮闘中。
 コンビニでヒックス夫人やL嬢の子供たちが好みそうなお菓子類を買い込み、梱包して郵便局に。悲しいのはお菓子類の代金と配送料があまり大差ないことだ。いや、送料の方が上回ることがしばしばだ。でもまあ、L嬢から子供たちが大喜びとの便りをもらうと年に一回のプレゼントは欠かしたくない。
 海外にお菓子類の小包を送る時に思うのは、重量のこと。軽い商品は送る方は大助かりだ。それが安くて、しかも美味なら最高。ただし、受け取る方は配達された時にある程度の重さがあった方が嬉しいかもしれない、などと凡夫の我が身は思ってしまう。
                          ◇
 愛用していたCDラジオが故障した。CDがかからなくなった。ラジオも耳障りな雑音が入るようになった。音響機器で知られるこのメーカーのお客様相談センターに電話を入れる。10年以上も前の製品ゆえに同系統の製品は製造しておらず、修理はできないと告げられた。愕然。結構な値のするCDラジオだった。まあしかし、もはや修理の手はないと言われれば引き下がるしかない。
 それで近くの家電量販店に行き、今度はずっと安価なCDラジオを購入した。カウンターで支払いを済ませていたら、隣の席では同年輩と思われる男性がパソコンのプリンターを持ち込んで相談していた。耳を傾けていたわけではないが、使っていたら、突然動かなくなった、使い勝手が良かったので何とか修理したいとの由・・・。店員は「メーカーではもうこの製品の製造はしておらず、修理は無理だと思います。一応、先方に製品を送って問い合わせをすることはできるが、おそらくだめだでしょう」と済まなそうに応じていた。「ご同輩、そういうご時世のようです。口惜しいですが・・・」とつい言葉をかけそうになったが、大きなお世話か。
                          ◇
 上田秋成の『雨月物語』に続いて手にしているのは『歎異抄』(金子大栄校注・岩波文庫)。例の『大人のための日本の名著50』(木原武一著)でも推奨されていた。浅学非才の身には良書を読むのに、“Better be late than never”(遅くなってもやらないよりはいい)の心境だ。もっとも、私の本棚には親鸞聖人の生涯を書いた本が一冊、「積読」になっており、以前から関心があった偉人ではあったのだ。
 『歎異抄』を読み終えたら、次に読む本も決まっている。名高い哲学者の梅原猛氏が親鸞聖人の生涯をライフワークとして追いかけた書だ。『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社)。この近著のことは先日の新聞書評欄で知っていた。こちらはマーカーで印をつけるところが多そうだ。ざっとめくって見たところ、少し手こずりそうな感じ。はてさて完読できるかどうか。親鸞聖人と同じ90歳を迎えた梅原氏が満を持して世に問うた力作であり、襟を正して読まなければと思っている。

こういう like の使い方も

 韓国のドラマを見ていて、時々あまりにも日本語と酷似した発音の語(表現)が出てきて驚くことがある。最近では「有酸素運動」(유산소 운동)という熟語。これは字幕を見るまでもなくすぐに理解できた。私の耳には「ユゥサンソウンドン」と聞こえたからだ。いや韓国語は정말 재미있어요.チョンマル チェミイッソヨ(本当に面白い)と思わざるを得ない。
 ドラマも面白い。面白いのだが、同じ俳優がしょっちゅう出てくる印象だ。それも子供が赤ん坊の時に入れ替わったりとか、別れ別れになった子が成長後に実の父(母)と知らずに運命の出会いをするといった似通った筋立てのものが多く、またあまりにも「出来過ぎた」設定に辟易することもあるが、それでも見入ってしまうから不思議だ。
                          ◇
 上田秋成(1734-1809)の『雨月物語』を読んだ。タイトルがいい。以前からずっと読んでみたいと思っていた作品だった。時々手にしている日本の名著を推奨した解説本『大人のための日本の名著50』(木原武一著)にも読むべき50冊の一つとして挙げられている。現代語訳がついてはいたが、原文だけでも大方は推測しながら読み進めることができた。この夏に読んだ平安時代の『伊勢物語』は古文の専門家の現代語訳がなければ歯が立たなかったが、江戸時代も18世紀後半に下るとさすがに現代日本語に近くなるようだ。
 『雨月物語』は9編から成る怪異小説集だ。印象に残っているのは「菊花きくくわちぎり」。出雲の国(島根県)の武士が病に倒れた播磨の国(兵庫県)で清貧の武士の世話になる。兄弟同様の友人となった出雲の武士は再会を約して帰郷するが、ある事情から囚われの身となり、約束を果たせそうにない。そこで彼が選んだのは自刃だ。「人、一日に千里を行くことあたはず。魂よく一日に千里をも行く」との教えを信じたからだ。冒頭に「交はりは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや。軽薄の人は交はりやすくして、また速やかなり。楊柳いくたび春に染むれども、軽薄の人は絶えて訪ふ日なし」とある。一読、すっと腑に落ちる文章だ。これほど真摯な友がいる人は幸せ者だろう。
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 前回の項で、“English as a Second Language” という本について書いた。その後ネットで調べると、私のように感じた人は少なくなかったようだ。 “God, this book was horrible.” “Simply put, it's terribly written.” などといった手厳しい書評が目についた。まあ、私もかつて出した紀行本などがどう読者に受け取られているか自信はない。そういう意味では、上記の本の著者にいささか同情の念を禁じ得ないこともないが・・・。
 なお、この本に感謝していることがないではない。次のような文章に出くわし、あ、これは大学の授業で学生に説明する格好の材料となると考えたからだ。その文章とは “Like you could get into Oxford,” Evan said dismissively. というもの。オックスフォード大学の大学院に留学を考えていると語るヒロインに、エバンという名の元カレが嫉妬もあり、このように冷たく言い放つのだ。こういう文章がすっと「腑に落ちる」人の英語力は頼もしいかと私は思う。(解説は続で)

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絵文字

 これも積読つんどくを解消するために数日前に読み始めた一冊。“English as a Second Language” 。いつどこで購入したのか記憶にない。その存在すら忘れていたが、タイトルがタイトルだけに、大学の英語の授業で役立つかもと思い、本棚から引き抜いた。表紙の推薦文に “Totally hilarious and deliciously wicked!”(抱腹絶倒、不徳美味)という活字が躍っていた。「不徳美味」は私の勝手な造語だが。人生の進路に悩んだ20代半ばのアメリカ人女性が一念発起、イングランドの大学院で文学を専攻することを決意し、縁もゆかりのない土地(マンチェスター?)で恋愛を含め悪戦苦闘するお話だった。
 米英の英語の違いでも面白おかしく書いてあるのかと期待して読み進めたが、そうしたくだりは最後まで皆無に近くがっかりした。私は読書に際しては、気に入った表現とか気になった箇所にマーカーを走らせ、後で読み返す時にすぐに目に入るようにすることを「癖」としているが、この本は一度もマーカーを手にすることはなかった。
                         ◇
 アナログ人間がパソコンで文章を綴っているので、まだるっこしく思うことがしばしばだ。そういう時には親しくさせてもらっている出版社のS君にメールで助けを請うことになる。最近それでまた一つ賢くなった。ルビの振り方を覚えたのだ。随分以前に大岡昇平のシェイクスピア劇を下敷きにした作品『ハムレット日記』のことを書いた時、英語の「王冠」(crown)と「道化」(clown)に「クラウン」という英語読みのルビを振りたかった。日本語では同じ音に聞こえる英語の語彙ごいに挑んでいる作家の工夫がうかがえたからだ。だが、下書きではルビが振れても、ブログに落とすと、ルビが外れた形でしか表れず、途中で匙をなげしまった。それが今はきちんと触れるようになった。かくして、前回の項からきちんと、積読つんどくに初めてルビを振ることができている次第だ。
 まだ分からない部分もある。以前は文学作品からの引用は私の文章と明確に区別するため、イタリック体にしていたが、最近はどうもうまく行かない。下書きでは苦も無くイタリック体にできるのだが、ブログに落とすと元に戻ってしまう。それで致し方なく、ゴチック体にしている。これも本当はスマートなイタリック体にしたいのだが・・・。
                         ◇
20151123-1448259795.jpg 英字紙「ジャパンニュース」の日曜日の紙面に収録されている英紙「ザ・タイムズ」の紙面はいつも楽しみに目を通している。タイムズ紙ならではの記事が載っているからだ。先の日曜の紙面では、オックスフォード英語辞典(OED)が2015年のワードとして、日本発祥の emoji(絵文字)を選んだという記事が載っていた。数ある絵文字の中でも2015年のワードとして選ばれたのは、「涙を流している笑顔」だ。ヒラリー・クリントン氏がこの夏にこうした絵文字を使っていたことも追い風になったようだ。(そのくだりは続で)
 私は携帯でも絵文字を使ったことがない。これからも絶対に使わないだろう。言葉という大切なものを放棄してどうするのと思ってしまう。たまに学生の答案に絵文字が書き入れてあったりすると、どうしても違和感の方が先に立ってしまう。嗚呼、「昭和」が懐かしい! お酒だよ。お酒をおくれ! いや、私はまだ断酒中の身だった。 

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『ロクサーナ』

 前々回の項でジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』(Gulliver’s Travels)の読後感について触れた。この書を読むために図書館から借りた世界文学全集(集英社)には、スウィフトと同時代に生きたダニエル・デフォーの『ロクサーナ』(山本和平訳)も一緒に収められていた。これも結構な長さの小説であり、全然読むつもりはなかった。つもりはなかったが、題名があれ? どこかで目にしたような・・・。
 本棚をあさったらその本、つまり原書の “Roxana” が出てきた。イギリス文学紀行本を書くため英国を旅する前に、デフォーの “Robinson Crusoe”(『ロビンソン・クルーソー』)を読んだ際に、彼の著作をもう一冊ぐらいは読もうと思って買い求めた本だった。ただ、読もうとしたら、何だか読みづらい本であることが分かり、早々と放棄、積読つんどくにあいなった本だった。もったいない。これも神様のお告げかもしれない。そろそろ読んだらという・・・。
 それでとりあえず、全集の翻訳本を読むことにした。途中で気になる個所が出てきたら、“Roxana” を繰って確認しながら読み進めた。『ロクサーナ』は18世紀に生きた一人の女性の波乱に富んだ生涯を描いた小説だ。18世紀、つまり日本なら江戸時代に書かれた小説だということを忘れるほど、今の世と大差ない男女関係のあやに引き込まれた。
 「幸運な女の物語」と副題の付いた『ロクサーナ』は冒頭近くに次のくだりがある。もし自分の将来の幸福ということを大切になさるおつもりなら、もし夫なるものと快適に暮らすおつもりなら、(中略)お嬢さま方、絶対に馬鹿と結婚してはなりません。馬鹿でさえなければどんな夫でもいい。結婚の相手によっては不幸になることもありましょう。しかし馬鹿と結婚したら悲惨です。くりかえしますが、相手によっては不幸になるかもしれない。しかし馬鹿が相手だと、不幸まちがいなしなのです。参考までにこの部分は私が買い求めた原書では以下のようになっている。If you have any Regard to your future Happiness; any View of living comfortably with a Husband … Never, Ladies, marry a Fool; any Husband rather than a Fool; with some other Husbands you may be unhappy, but with a Fool you will be miserable; with another Husband you may, I say, be unhappy, but with a Fool you must; …
 女性の視点に立てば、何とも痛烈、痛快な文章だろう。独り身の私は少なくともこの点だけは「免罪」されると感じてしまった。情けない。翻訳本ではロクサーナが最後には富と名誉を飽くことなく求めた放縦な人生のつけを払う形で零落したことが明かされているが、原書の解説では18世紀以降、それぞれの時代の読者におもねるかのように、結末部が異なる本が出ていたとも述べられていた。
 ところで、私が “Roxana” を積読にしていた理由。それはこの小説が章立てになっておらず、だらだらと物語が綴られていたからだ。それも地の文章が延々と。ルイス・キャロルの名作 “Alice’s Adventures in Wonderland”(『不思議の国のアリス』)の冒頭で、姉の読んでいた本をのぞき込んだアリスが「挿絵も会話文もない本なんて何の役に立つの」と不可解に思う場面(注)がある。私もアリスの意見に大賛成。挿絵はともかく、会話文のない本は厄介だ。私はそういう小説はまず買わない。(注:この冒頭の文章は続で)

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ため口について

 パリでまた痛ましいテロが起きた。パリ市民ら120人を超える人々が犠牲になった。負傷者の中にはかなりの数の重傷者が含まれているといい、死者数は今後もっと増えるかもしれない。残酷無益なテロというほかはない。前回の項で18世紀に書かれたジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』(Gulliver’s Travels)のことについて書いた。
 あの荒唐無稽の物語で作中人物が作家の分身とも言える、旅人のガリバーに語る皮肉たっぷりの人類評を再び記しておきたい。人類は「自然の摂理でこの地球上をのたくり廻っている最も恐るべき、また最も忌わしい害虫の一種である」(the most pernicious race of little odious vermin that nature ever suffered to crawl upon the surface of the earth)————。
 イスラム過激派の連中がキリスト教の欧米諸国をテロの標的にする時、彼らはその恨みを11-13世紀の十字軍(the Crusades)にまで遡る。宗教を「人質」にした愚行としか思えないが、彼らに非を悟らせる宗教指導者が現われる日は来ないのだろうか?
                          ◇
 韓国のドラマ。昨晩、また一つ最終話を見終えた。邦訳では「青い鳥の家」と題された全50話のドラマだった。私は途中から見始めたのだが、これも実に面白かった。もちろん、韓国語を学ぶために見ていたのだが、ドラマ自体が面白く、すっかりはまってしまった。なぜ、韓国のテレビドラマはこうも面白いのだろうか。日本のテレビは見る気もしないのに。
 以下、韓国ドラマを見ていて気づいたことを少し。まず母親と祖母が実に元気いい。特に「オンマ」(엄마)と呼ばれる母親の存在感が圧倒的だ。「ハルモニ」(할머니)と呼ばれる祖母も今の日本では考えられほど溌剌としている。大家族だった頃の日本もかつては祖母がああだったようなおぼろげな記憶がある。
 字幕があるから韓国語ドラマが楽しめるのだが、それで父親と成人した息子の会話などで例えば、息子が父親に向って語りかける場面があって、日本語字幕は「来たのか?」と出ている。しかし、韓国語は「왔어요?」(ワッソヨ?)であり、「来たのですか?」という丁寧な表現だ。「왔어?」だったら、「来たのか?」でも問題ない。私は独学中だから怪しい部分はあるが、最後の「요」(ヨ)があるかないかで大きな違いがあるようだ。この「요」がないと日本語でいう「ため口」になるらしい。友達同士だったら自然な会話だが、目上の人に使う表現ではないようだ。長幼の区別が厳しく、両親であってもきちんと丁寧な言葉を求められる韓国では息子といえども、父親や母親には普通「요」抜きの言葉は発しないのでは。
 それで思い出すのは、日本のドラマだ。例えば、「渡鬼」ではえなりかずき扮する息子が近藤春奈、いや角野卓造扮する父親に向い、「おやじ、そうじゃないだろ。俺の好きなようにさせてくれよ」などと、かなりぞんざいなセリフを発していた。息子が父親に向い、「来たのか?」という字幕は現代日本ではそう違和感を覚えないが、韓国ではありえないでは、などと考え込んでしまう。私など亡き父親に向い「来たのか?」などとは口が裂けても言えなかった。地元の言葉でそれなりの敬意を払い、「来たとや?」と口にしていた。
 韓国語ドラマの魅力————。出てくる女優さんが、脇役であれ、皆美人さんというか魅力的な人が多い。これも今の日本のテレビでは到底味わえない世界だ。チョアヨ!

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