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英語でさるく 那須省一のブログ

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まるでゾンビ通り!

20220810-1660092463.jpg YouTubeを見ない日はない。朝起きるとパソコンを開き、メールの確認を済ませるとすぐにYouTubeにアクセスするのが日課となって久しい。不思議なのはこちらが手を出したくなるコンテンツが並んでいることだ。利用者の趣向、傾向に沿って自動的にそうしたコンテンツが並ぶようにセットされているのだろう。レンコンの食べ方をチェックしたその後の数日間はレンコンのレシピが連日、8つほど開く画面のどこかに展示されていた。
 最近はまっているのが “Kensington Now”というYouTube。最初このタイトルを見た時はロンドンの瀟洒なケンジントンストリートのストリートヴューかと思い、クリックした。だが、目に飛び込んできたのはちょっと異様な光景。ゾンビが徘徊しているのではないかなと思えるぐらいに薄気味の悪い通りが淡々と紹介されていた。
 ほどなくこの光景はロンドンではなくアメリカの東海岸、フィラデルフィアのケンジントンアベニューと呼ばれる通りのものであることが分かった。しかし一切の語りなし。勇気ある撮影者がおそらく手に提げたバッグに隠しカメラを入れ、歩きながら撮影しているのだろうと推察している。類似のYouTubeによると、フィラデルフィアのホームレスは約5700人。そのうち950人は路上生活者であり、そうした路上生活者が集中しているのがケンジントンアベニューだとか。
 フィラデルフィアは私も訪れたことがある。2011年にアメリカ文学紀行を執筆するためにアメリカを再訪した際にも、エドガー・アラン・ポーゆかりの地として足を運んだ。さらに遡ること40数年前の貧乏留学生時代にキリスト教との出会いのきっかけを作ってくれた地でもある。いい思い出しかない。だが、YouTubeに映し出される2022年夏の光景は信じ難いものばかり。麻薬中毒で常軌を逸したとしか思えない人々のオンパレード。麻薬はザイラズィン(xylazine)と呼ばれ、元々は家畜の鎮静薬、鎮痛薬として用いられていたようだ。画面ではこの麻薬の常習者となった人たち、若者が多い、その人たちが立ったまま眠ったり、同じ姿勢でずっとたたずんだりと、異様な光景が映し出されていた。
 彼らが起居する通りはゴミや古着の類が散乱し、とても歴史と伝統あるフィラデルフィアの光景とは思えない。その一方ですぐそばをバスやマイカーが通り過ぎる。都市機能は維持されていることがうかがえる。おそらく観光客は車で通過する以外は歩いて散策したいなどとは絶対に思わない一画なのだろう。
 投稿者のコメントを読むと、同情的なものが多い。ほとんどの人が世界一富める国(と思われている)アメリカでかくも悲惨な日々を送っている人々がいることへの驚き。たとえ貧しくとも夜露をしのぐ屋根と日々の食の不安がない我が身の幸せ。末路が分かっているだろうになぜ麻薬に手を出すのか理解できないことなど・・・。
 もちろん、どの国、都市にも外国の人々には知られたくない恥部はあるだろう。日本もしかりかと思う。ただ一つ、虚を突かれた観があったのは、トランプ氏が米国の政治の表舞台に登場して以来、富めるアメリカ、おごれるアメリカにばかり目が行っていたが、このケンジントンの通りを眺めるようになって以来、アメリカは確かに病んでいることを改めて認識したことだ。病んでいない国が果たしてあるのかどうかは別にして。

自転車2台を買う必然性?

 チンクイに刺された右腕の上腕部の腫れがなかなかひかない。痛みはないし、痒くもないが、やはり気になる。完治したとは言えないのだろう。完治せぬまま、海に浸かっていいのだろうか。さすがに足が遠のいている。うーん、困った。神様のメッセージととらえれば、自ずとどう行動すべきかは自明の理だ。
 思えば、今日(木曜)は久しぶりに北陸・関西に向け、新幹線で旅に出ている日だった。コロナ禍でドタキャンとあいなった。
                  ◇
 北陸・東北地方を中心に大きな水害が出ている。住宅街に土砂が流れ込んだり、橋が崩落したり。これから被害の全容が明らかになるのだろう。それにしても異常気象と言えばそれまでだが、日本の国土はいつからこんなに水害にもろくなったのだろうか。いや、国土は変わりないのだが、かつて経験したことのないような大雨が集中的に降っているのだろう。
 以前に何度か書いたような気がするが、温暖化により、日本は温帯ではなく、亜熱帯化しているのではないかと思う。南太平洋の島々では茶飯事の大雨が今の日本で降るようになっているのではないか。異常気象がやがて日常気象となるのではないか。だとしたら、大雨で全国の河川が氾濫することのないような対策を考えるしかない。同時に住宅はなるべく河川から離れた地や高台に、二階建て住宅であれば、一階は浸水しても大丈夫なような家づくりが求められる。新たなビジネチャンスが生まれると考えれば道は見えるかもしれない。
                  ◇
 NHKラジオの英会話講座で時間が合えば、なるべく聞くようにしている番組がある。講師の先生とネイティブ話者二人のユーモラスなやりとりが楽しい。英語的に中身の濃い講座で韓国語と中国語の講座で疲れた脳を癒やしてくれる。しかし、先日の講座を聴いていて頭の中に??が浮かんだ。
 次のような会話が紹介されていた。私はテキストを買わずに耳からだけでフォローしているので、友人二人の会話だろうと推察した。
 A: Hey, where did these new bikes come from? 
 B: I bought them at the mall and had them delivered.
 A: They look great.
 B: They were on sale, so I decided to get them. 
 私の頭に浮かんだ疑問はなぜ、単に “Hey, where did this new bike come from?” ではないのだろうということだ。当然返答は “I bought it at the mall and had it delivered.” となる。
 要するに私は普通、自転車(bike)を購入する場合、一台ではないだろうか。その人に双子の息子か娘でもいれば、二台同時に購入するのは何の不思議もないが、普通は自転車のような大きな買い物は一台だろうと思った次第だ。私が聴いていた中ではAが複数の自転車を購入する必然性の説明はなかった。不自然な会話だと考えざるを得なかった。他の語学講座でも言えることだが、文法的には正しくとも、ちょっと疑問符が付く会話が紹介されるケースが時に見られるような気がしてならない。

トカゲも昇天?

 夏本番の8月。幸か不幸か私は夏バテで食欲が失せるということがない。だから夏でも痩せない。よって夏バテ防止の食材などといったことにもあまり関心がない。夏はとりあえず毎日スイカが食べられれば満足。
 毎日のように利用している八百屋のおばちゃんにしょっちゅう今日の(スイカ)はどう?などと尋ねている。スイカが一番旨いのはどこの国だろうか?オレンジなら知っている。西アフリカ・セネガルの海沿いのホテルに連泊した際にホテルの食堂で毎朝飲んだオレンジジュースは信じ難いほどおいしかった。今でも時々その旨さを思い出す。スイカについては文豪マーク・トウェインの言葉が印象に残っている。彼は故郷である米南部のスイカこそが神が人間に与えたもうた果物の最高傑作だと絶賛している。The true Southern watermelon is a boon apart, and not to be mentioned with commoner things. It is chief of this world’s luxuries, king by the grace of God over all the fruits of the earth. ...
 はてさて、米南部なら私もジョージア州などでスイカを食したことがあるはずだが、それほど旨かったという記憶はない・・・。
                  ◇
 レンコンが目に入った。真っ白で旨そう。焼酎のあてになるのではと思い、買い求めた。 ネットで料理法をチェックしてみる。すぐに分かった。片栗粉を上から軽くまぶし、油を引いたフライパンでこんがり焼くだけでいいとある。最後に醤油、砂糖、酢のタレをかけ、一煮立ちすれば完成とか。箸がとまらない、ビールに最適と紹介している。
 片栗粉をまぶす程度なら私にもできるだろう。早速レンコン料理に挑戦してみた。結果は? ぜひまた作りたいとは思わなかった。きっと私の作り方がまずかったのだろう。
                  ◇
20220803-1659454315.jpg 週末は日曜が曇っていたこともあり、近くの海に向かうのが億劫だった。月曜は朝から快晴で申し分なし。この日も游いでいる海水浴客は数えるほど。游いでいたら、何だか右腕の上腕部がちくちくする。太もももちくちくする。よく分からないが、またクラゲに刺されているのかな。海中でちくちくする部位を叩いていると、若者が近づいてきて、同じようなことを言う。彼の腕は腫れている。やはりクラゲ被害か。水洗いした方がいいよと忠告する。
 かくいう私も帰宅後すぐにシャワーを浴びたが、右腕の上腕部がひりひり痛い。これまではクラゲに刺されても自然治癒に任せていたが、今回は薬局に行き、塗り薬を購入。早速塗ってみると、ひんやりしてそれだけで気持ちいい!これからはせめてTシャツを着て游いだ方が無難かなと思い始めている。
 ところでこの日、海から駅への帰途、砂の道でトカゲの亡骸を見つけた。最初は小枝か何かひも状のものが落ちているのかと思ったが、よく見ると小さなトカゲだった。猛暑でやられたのだろうか。いやまさかそんなこともあるまいとは思うが、よく分からない。海辺の草むらに住む小生物にとっても生きづらい猛暑なのだろうか。
 (この項をアップする前にネットで調べると、私や若者の腕を刺したのはクラゲではなく、チンクイと呼ばれる海中の微少な浮遊生物らしい。甲殻類のプランクトン)

コロケーション

20220801-1659316394.jpg 中国語を学んでいて時々考えるのが、語に関する日中の感覚のずれだ。同じような漢字を使っていることゆえの齟齬(そご)と言えるものかもしれない。公民館の中国語教室で使っているテキストに次のような例文があった。「弟弟把(    )弄(   )了。」( )の中に適語を入れる問題だ。私は次のような文章を作ってみた。「弟弟把(哥哥珍惜的电脑)弄(坏)了。」(弟は兄が大切にしていたパソコンを壊してしまった)
 辞書を引くと「珍惜」は動詞で「大切にする」と載っていた。それで「哥哥珍惜的电脑」で「兄が大切にしているパソコン」という意味になるのではないかと考えた。ところが中国語ネイティブ話者の先生は「哥哥贵重的电脑」と訂正した。「贵重」(貴重なという形容詞)を使用したがいいということらしい。なるほど、そう言われれば納得せざるを得ない。こういうことはやはりネイティブ話者の感性に従うしかない。
 学問としての中国語を学んだことがないのでよく分からないが、要するに、広い意味で言えば、英語で collocation という領域のことなのだろう。英和辞書には「配列」「コロケーション」「連語関係」という訳が載っている。とある外国航空会社の航空機が日本に近づき、CAが流暢な日本語で「皆様左手前方に富士山が丸見えでございます」と機内アナウンスをしたとか。日本人乗客だけが爆笑したという。語の実際の運用におけるこの種の微妙な行き違いはケースバイケースで学んでいくしかないのだろう。
 私もこれまで仕事で英語を使ってきて似たような失敗を時に犯してきたのだろうと思わないでもない。場合によってはそうしたコロケーションの差異を逆手にとって笑いをとってきたかもしれない。コロケーションの例ではないが、外国人が加わった交流の場などでは例えば、国際社会で名高い我々日本人の英語下手をネタにして、次のように自己紹介する手もあるか。“Hallo, everyone. Nice to meet you. My name is Taro Tanaka. Call me Taro. Please forgive my poor English. After all I’ve been studying English for only 50 years.”
                 ◇
 前回の項で次のように書いていた。8月に入ったら、久しく足を運んでいない魚津に旧知のママさんを訪ね、帰途には京都・亀岡の実兄宅に寄り、神戸では古い知己の方々とささやかな宴を催すことを企図していたが、コロナ感染者の急増で高齢の方々が多いこともあり、さすがに見送ることにあいなった。残念!と
 この年になると、すべて神様の思し召しと達観しようと努めている。与えられた時間を精一杯生きるだけ。それで8月も動けないのは定めと諦め、その分、近くの海に行き、泳ぎ、漂い、太陽光の恩恵に預かることにした。第一に健康的だ。何度も書くが、私は泳ぎは上手ではないが、海ならば楽に浮かぶことはできる。ぷかぷか浮かびながらゴーグルを通して青い空と太陽を仰ぎ見るのは実に気持ちよい。1時間ほど波間に漂い、時に泳ぎ、海の家でぶっかけうどん(500円)を注文して食べる。私にはこれで十分だ。
 海外の旅が解禁になればやりたいと考えていることは幾つかある。おいおいこの欄でそれも書いていきたいが、今は充電期間だと解している。体力面はともかく、資金的にはまだ充電期間がたっぷり必要なようだ。

ミャンマーでも暴挙

20220728-1658968972.jpg 国際社会のタガが外れているのだろうか。ミャンマーでアウン・サン・スー・チー氏を支持する反政府活動家らが処刑された。21世紀に反政府活動のために処刑される国があるとは。それも同じアジア、しかも東南アジア諸国連合(ASEAN)に属する国で。私は以前はビルマと呼ばれたこの国のことはほとんど知らない。なぜこの国の軍が権力に固執するのかも理解できない。分かるのは彼らがやっているのは民主主義とは相容れず、やがて厳しく断罪される日が来るということだ。いやそう願っているだけのことかもしれない。
 内政不干渉主義という語がある。アセアンでもこれは不可侵の原則のようだ。しかし、ミャンマーで起きていることはその限度を超えたものであるという気がする。アセアン諸国の厳しい対応が待たれる。かつてカンボジアで起きた大虐殺事件とは異なるが、許しがたき蛮行という点においてはたいした差はないだろう。
 本日(水曜日)の読売新聞の国際面を開けて少々がっかりした。トップ記事は「米中間選挙・分断の現場」というタイトルで一面掲載記事を受けた続き物。他に大きなニュースがなかったならばこれがトップでもいい。しかし、ミャンマーで発生した事件は傍観できない出来事だ。大きく扱ってしかるべき問題だ。もっと怒っていい。憤っていい。ロシアのウクライナ侵攻以来、国際社会の感性は麻痺しているのではと思うときがある。国際報道の現場でも似たようなことが起きているのか。
                  ◇
 プロ野球は火曜水曜とオールスター戦が行われた。私はろくに見なかった。見る気が起きなかった。以前から思っていることだが、2試合も必要ないのではないかと思う。全30チームがある大リーグでもオールスターは1試合のみだ。12チームしかないプロ野球は1試合で十分だろう。セパ交流戦もある今の制度ではオールスター戦もかつての輝きはない。選ばれる選手たちも果たしてスターと呼んでいいものかどうか。特に今年のようにコロナ禍で辞退する選手が相次ぐと、オールスターという呼称は看板に偽りありの印象さえある。
 シーズン後半の消化試合を手際よくさばき、大リーグ並みとは言わないが、せめて一両日でセパ両リーグのすべてのゲームが終了するように工夫するとかして欲しい。またクライマックスシリーズもわずか6チームしかないセパ両リーグでは興ざめ。せめてゲーム差に大差がついた場合にはクライマックスの出場資格に厳しい縛りをかけるとかの策は必要だろう。長いペナントレースを戦い抜いて手にした優勝の価値を台なしにする最終盤のからくりは愚策としか思えない。
                  ◇
 8月に入ったら、非常勤講師として教えている専門学校も夏休みとなる。わずか2週間程度の短い休みではあるが。久しく足を運んでいない魚津に旧知のママさんを訪ねようと計画していた。東京から足を運ぶ友人とも再会し、北陸の海の珍味で日本酒を味わいたいと。
 帰途には京都・亀岡の実兄を訪ね、神戸では古い知己の方々とささやかな宴を催すことにもしていた。とここにきてのコロナ感染者の急増。高齢の方々が多いこともあり、さすがに見送ることにあいなった。残念!

将棋も生中継で

 猛暑の日々だが、日中は何とか自然の風と扇風機で汗を垂らしながらの生活。夜になると、さすがにクーラーを使っているが、貧乏性ゆえにずっとつけっぱなしというのはさすがにはばかられる。就寝直前に3時間で切れるタイマー設定にしてベッドに入るが、未明に何度か目覚めてしまう。眠りが浅いから睡眠で十分な体力を回復していないのではと危惧する。まあ、体力を使う労働に従事していない私はそれほど気にもしていない。
 窓から青空が見えると海に泳ぎに行きたくなる。近くに海水浴場がないことを知らなかった頃はそういう気にはならなかったが、あることが分かってからは気もそぞろ。金曜日も午前中は机に向かい、お昼前には海に向かった。この海水浴場はあまり混むことがないようでのんびりと泳げるのがいい。私は泳ぎが上手ではないので、一人静かに海中に漂えるのは気分がいい。うっかりすると、足が届かないところに流されたりしているので、ちょっと怖い。帰宅後に鏡で見ると、顔もだいぶ日に焼けた感じだ。
 手元のスマホの翻訳機能に話しかけてみる。「私は下手ですが、泳げます」。英語では “I’m not good at swimming, but I can swim.” と出る。韓国語では「저는 잘 못하지만 수영을 할 수 있습니다.」とか。中国語では「我不擅长游泳,但会游泳。」と見える。「游ぐ」つまり「水泳」は韓国語では「수영」、中国語では「游泳」と表現することが分かる。こうした表現はもう何度も辞書を引いて確認しているが、いまだにうろ覚えの状態。少しずつでも上達していると信じたいのだが・・・。
                  ◇
20220722-1658472024.jpg プロ棋士の対戦を時々YouTubeで楽しんでいる。木曜日には王位戦(七番勝負)第3局2日目の対戦が朝からずっと生放送されていた。プロ棋士の将棋は一度見始めると、画面の前から離れられなくなることがしばしば。私は駒の動かし方を承知しているぐらいのど素人だが、次の一手をあれこれ想像するのは楽しい。たまにプロ棋士の手と合致したりすると嬉しくなる。正真正銘の天才である彼らに少しだけ近づいたように錯覚する。麻雀プロとは大違いの世界だ。
 王位戦は藤井聡太王位対豊島将之九段の対局だった。豊島九段が59手目で見せたここぞの長考には恐れ入った。AIの見立てではこの時点で250億の手があると出ていた。豊島九段は結局183分を費やした。実に3時間。ひょっとしたら彼は250億の手をすべて脳内で検討していたのではないかとさえ思える。まあ、さすがにそんなことはないだろうが、次の一手に3時間かけて考え続けることができるとは私のような凡人には想像もできない。
 ずっと見ていたかったが、この日は公民館中国語教室の日。午後4時前にあたふたと公民館に出向いた。夕刻に帰宅してパソコンでYouTubeの画面を開くと、勝負はすでに決着していた。84手で藤井王位が勝利し、対戦成績を2勝1敗にしていた。私が座を立った時にAIの見立てでは藤井王位が71%対29%で豊島九段をリードしていたが、その差を着実に守って勝利したようだ。とはいえ、プロ棋士の世界だから紙一重の戦いだったのだろう。ふと思う。AIがこのまま進歩していくと、やがてAI棋士が登場することになるのだろうか。将棋や囲碁の世界ではそうはなって欲しくないと願う!

北京ビキニ

20220719-1658228611.jpg 公民館の中国語教室。先日の講座で受講生の一人が冒頭のお決まりのショートスピーチで世界各地の猛暑を話題にした。中国の状況を述べた際に彼は「北京比基尼」という表現を使った。私はこの表現は知らなかったので面食らった。私には「北京ジニ」と聞こえた気がしたので、急いでスマホの辞書機能を使って「ジニ」を調べると「所得や資産の分配の不平等度を測る指標の一つ」とある。はて、猛暑とどう関係があるのだろうと頭が混乱した。
 ほどなく、そういう難しい話ではなく、単に「北京ビキニ」という語句であることが理解できた。夏になると、中国、特に北京の中高年の男性の間では来ているシャツなどを胸元深くたくし上げ、少しでも涼もうとすることから、そうした姿を「北京ビキニ」と呼んでいるようだ。「ビキニ」が「比基尼」。私にはこれが「ジニ」と聞こえたのが混乱の始まりだった。
 しかし、男がシャツをたくし上げただらしない姿を女性のビキニ姿になぞらえたユーモアは笑える。「比基尼」のピンイン表記はbǐjīní であり、語源のビキニ環礁 (Bikini)の音を写し取ったものであることは明らかだ。
 当局は男性諸氏がこうした姿を公衆の面前でさらすことを面白くは思っていないようだ。それは理解できる。日本でも少なくとも都市部ではこうした姿を想像することは難しい。田舎でも今では難しいかもしれない。私はガキの頃は夏休みには上半身裸で外を歩いていた。川に泳ぎにあるいは魚を突くために歩いているのだから「大義名分」はあった。田舎では夏に上半身裸の姿はそう珍しくはなかったのではないかと思う・・・。
                  ◇
 千町甲衰退。私のパソコンで「せんじょうこうすいたい」と打つと「千町甲衰退」と変換される。「線状降水帯」とするには二度個別に変換する必要がある。やがて一発で線状降水帯と打ち出されるようになるのだろう。線状降水帯によると思われる豪雨が九州各地を始め、全国で猛威を振るっている。
 電車の運休や遅延により、教えている専門学校の授業(試験)も火曜日、臨時休校とするとの緊急連絡があった。私が住んでいる東区はたいした雨は降らなかったようにあるが、致し方ない。この季節になるとよく思う。未曾有の豪雨が日常茶飯事になりつつある時代に生きているのかもしれないと。
 そうだとしたら、毎年のように繰り返されるようになった水害に対しては、住宅密集地が多い下流域の川幅を拡張、底を掘り下げるとか、逃げ水の地を多種多様設けるのが急務なような気がする。
 午後に入って私の住む東区一帯は青空が広がり、猛暑が戻ってきた。このところさぼっていた香椎浜の散策路の散歩に出かけた。途中、蝉の抜け殻に出合ったと思ったら、まだ生きていた。コンクリート路にひっくり返り、足を弱々しくばたつかせている。短い一生を終え、死の途に就く直前かも。哀れに思われ、手にした布切れを近づけるとしがみついた。幸い、近くに草むらがあったので、そこに横たえた。短い一生と書いたが、我々の人生だってどこかにいるかもしれない地球外生命体から見れば刹那の生命かもしれない。セミ君は私の小さな親切をどう思ったか。大きなお世話と一蹴していないことを願う。

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