英語でさるく 那須省一のブログ
夏休み
- 2017-08-08 (Tue)
- 総合
心配した台風は福岡ではほとんど影響を感じることもなく過ぎ去ってしまった。郷里の宮崎もそうたいしたことはなかったようだ。神様に感謝だ。パソコンの天気概況の衛星画像にしょっちゅう「念」を送っていた甲斐があった。
それにしても、今回も西日本を中心に大量の雨が降り、住宅の浸水などの水害をもたらしているようだ。最近はかつての日本では見られなかったような雨が降っている印象がある。こういう現実を目にすると、地球温暖化(global warming)による異常気象は確実に現代人の暮らしを蝕みつつあるように思えてならない。「記録的豪雨」(record rainfall)という表現がやがてあまり意味のない語句になるのではないか。そうならないことを祈りたいが。
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米プロゴルフの世界選手権シリーズ、ブリヂストン招待。松山英樹選手が胸のすくような優勝を遂げた。最終日は午前5時に起きてテレビの前で応援したが、彼は終盤も落ち着いたプレーでバーディーを連取、終わってみれば2位に5打差つける圧勝だった。ブリヂストン招待はメジャーに次ぐ重みのある大会だ。今週末に行われる今季メジャー最終戦、全米プロでの活躍が期待される。
英字新聞ジャパン・ニュース紙にAP電の記事で、英北アイルランド出身の超一流プロ、ローリー・マキロイ選手が松山選手を称える言葉が載っていた。 ——“Once he gets going, he just keeps the hammer down and keeps it going. It’s very impressive.” —— 「ヒデキは調子に乗ると手が付けられなくなる。目を見張るようだ」といったニュアンスのほめ言葉だろう。マキロイ選手からこう称えられるのも素晴らしい。
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『中国語のしくみ』(白水社 池田巧著)に次の指摘があった。時間順に連続する動作をつなげて文にする「連動文」という文の説明で、紹介されていた文章は「我们去餐厅吃午饭吧。」。「私たち(我们)はレストランに行って(去餐厅)昼食を食べましょう(吃午饭吧)」。次のように説明されていた。誘いかける場合、日本語ではわざわざ「私たちは」と言いませんが、中国語ではきちんと主語をつけます。もし主語を省略してしまうと、場合によっては相手に対して命令口調で言っているように聞こえますので要注意。なるほど、この点では中国語は英語に似ていると言えなくもない。
ブログを書いていることの利点の一つは過去のブログを日記帳のように読み返すことができることだ。私の場合は「備忘録」的なブログだけに一段とそうだ。
それで去年の今頃は何を書いているのかと思って、スクロールしてみると、次のようなことを書いている。—— 私は間もなく宮崎の郷里の山中に籠る。パソコンは使えず、携帯も圏外。世の中の喧騒とは無縁の静かな日々を過ごすことになる。スポーツ中継の熱狂からも幾分遠ざかることになる。NHKラジオ(語学講座)も山間地だから雑音が入って、聴取があまり芳しくないのが少し残念だが、致し方ない。そういう事情でこのブログもしばしお休みです。皆さま、楽しい夏休みをお過ごしくださいませ。アンニョン!——
なるほど。今年も大差ない・・・。
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久しぶりに聖書
- 2017-08-05 (Sat)
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本日も暑い。ただ今、机の上の温度計は36.9度。前期定期試験の採点も終わり、大学の仕事は一段落。これから夏休みに入る。非常勤講師はその間、稼ぎはなくなるが、気楽に気長に好きなことをする時間が増えるので、まあいいか。まあいか、毎夏のように、この時期、郷里の山里に帰郷していたが、今夏は様相が異なる。私を故郷につなぎとめていた唯一の存在、長姉がついに施設に入所する身となったからだ。長姉がいない故郷に戻っても意味はない。亡き両親の墓前で手を合わせることぐらいだ。とかく人の世は諸行無常・・・。
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嘆いてばかりもいられない。宮崎のゴルフの友と久しぶりのプレーを約束した。それで暑い中、打ちっ放しの練習場に出かけた。クラブを手にするのはたしか4月以来。おそらくろくに当たりもしないだろうと危ぶんでいたが、結構、当たってくれた。これなら、本番でもそう恥ずかしくないプレーができそうだ。台風が九州に近づいており、週明けにかけ大荒れになるのが必至の情勢。陸送のトラックの足も乱れるかもしれない。それで練習を終えるとすぐに宅急便でゴルフバッグを宮崎のゴルフ場に送る手続きをした。私にしては珍しく段取りがいい。
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9月にとある集まりでルワンダのことを講演するよう依頼されている。2010年のアフリカをさるく旅でもルワンダは現地を歩き取材しており、話したいことは少なからずある。それでも最近の情勢はいかがとこのところ、時折、ネットでルワンダの新聞も読んでいる。インターネットは本当にありがたい。
ルワンダの首都キガリで近く女性の経済的自立を考える国際会議 “All Women Together” が開催されるという記事を目にした。少しく手がとまったのは、次のくだりだ。The conference is inspired by the bible scripture in Psalms 68:12; “Kings and armies flee in haste; the women at home divide the plunder.” (この会議は旧約聖書の詩篇68:12の一節に啓発を受けている。「王様と軍隊は急いで逃げた。逃げなかった女性たちは略奪品を分け合った」)
聖書は一通り、読んだことはあるが、無論、覚えているシーンはごくわずか。それで本棚から久しぶりに聖書を取り出した。詩篇の該当する個所をめくってみる。活字(英語)が懐かしい。なぜか心が落ち着く。私の聖書では上記の詩篇の一節は次のように書かれていた。The enemy flees. The women at home cry out the happy news: “The armies that came to destroy us have fled!” Now all the women of Israel are dividing the booty. See them sparkle with jewels of silver and gold, covered all over as wings cover doves! God scattered their enemies like snowflakes melting in the forests of Zalmon.
私は聖書を読んでいて、私が女性なら、女性であることを誇らしく思うことはあまりないだろうなと思いながら読んだような記憶がある。それはともかく、ルワンダやアフリカに限らないが、女性が男性と対等に活躍できる世の中こそ21世紀に求められる社会だと思う。第一線を退職して還暦を過ぎた今、その思いを強くしている。
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類は友を呼ぶ?
- 2017-07-30 (Sun)
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トランプ米政権の中枢部が大揺れに揺れているようだ。今度はChief of Staffと呼ばれる大統領首席補佐官のラインス・プリーバス氏が辞任した。報道によると、事実上の解任だとか。首席補佐官は大統領の最側近として政府内の調整や議会対策を取り仕切る要職。
背景にはホワイトハウスの新広報部長に任命されたばかりのアンソニー・スカラムチ氏との確執があると報じられている。スカラムチ氏はニューヨークのウォール街で巨万の富を得たビジネスマンであり、大統領とは肌が合うようだ。スカラムチ氏はプリーバス氏が政権内部の極秘情報をメディアにリークしている張本人であると非難した上で、プリーバス氏の人格を痛罵した。プリーバス氏が “f------ paranoid schizophrenic”(精神分裂症の偏執狂的なくそ野郎)であり、“The fish stinks from the head down. I can tell you two fish that don’t stink, and that’s me and the president.” (奴は魚同様、頭から腐る。腐ることのない魚は私と大統領だけ)と。いやはや、凄い広報部長のご登場だ。
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『中国語のしくみ』(白水社 池田巧著)を読んでいる。新書版で150頁に満たない本なので図書館ですっと手が伸びた。これまで独学してきたことが改めて確認でき、興味深く読み進めている。その中でこれはぜひメモしておかなくてはと思った個所があった。「判断する文のしくみ」と題した項で基本的動詞の「是」の働きを説明した次のくだりである。
さてこの‘是’は「AはBである」の「~である」に相当することばですが、面白いことに‘是’を使った文は、話し手の判断による叙述なので、内容は必ずしもA=Bという等価の関係にあるとは限りません。他是庆应大学,我是立教大学。「彼は慶応大学で、僕は立教大学です」。僕と立教大学は等価の関係ではありませんが、こんな言いかたも可能です。日本語と似ていますね。
上記の言い方は日本語では「ウナギ文」と呼ばれるものだ。学生が英語を学ぶ上で戸惑うポイントでもあり、私は授業では次のように語っている。
日本語は中国語や韓国語と同様に、「話題優越型言語」(topic-prominent language)であり、文頭に主語がくることもあれば、主題あるいは話題がくることが多いという特色がある。特に「~は」という場合は主題であることが多い。いわゆる「ウナギ文」がその典型だ。レストランで食事を注文する時に、「僕はウナギだ」と言う場面。この文章をそのまま “I am an eel.”と表現したら、奇妙なことになってしまう。同様に、「私はビール」という注文を “I am a beer.” と言ったら驚かれるだろう。レストランなどで食事を注文する時に、「僕はウナギだ」と言う場面でもこの「僕」は主語ではなく、主題である。「僕はと言えば、ウナギを注文する」という意味だ。だから英語に訳したとしたら、“As for me, I’ll have eel.” や “As for me, eel please.” であり、「私はビール」ならば、 “As for me, I’ll have beer.” とか“As for me, beer please.” となるだろう。皆さんが英語を話そうとして、「私は・・・」 (“I …” )と始め、言葉に詰まったら、“I …” の直後に “As for me, …”と続ければ、おそらく自然な英語の文章になるかもね。
嗚呼今日も暑そうだ。机の温度計は早朝から30度を上回っている。そういえばウナギ、久しく食べていない!
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吉川『三国志』読了
- 2017-07-26 (Wed)
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スポーツクラブのプールで久しく顔を見ていなかった人がいたので、「元気でしたか」と声をかけた。彼女は泳ぎが達者でひところは毎日のように顔を見せていた。娘さんの塾通いの送迎などで忙しくなったので数週間プールを休んでいたのだとか。「毎日3個のアイスを食べていたら、今日、水着がきつくて苦労しました」と苦笑していた。
私もつられて笑ったが、数日後のこと・・・。大学の授業で最初と最後だけはスーツにネクタイで教壇に立つことにしている。前期最後の授業、久しぶりに夏用の薄手のスーツを着ようとした。ズボンに足を通し、ホックを締めようとしたら、何と、とてもきつくて締められない。腹回りが凄いことになっていた。普段はいているジーンズは楽に着続けていたので全然気づかなかった。ショック!
それで最後の授業も普段通り、ポロシャツにジーンズで出勤。大学に着いたら、サウナ状態に暑かったので、「正解」だったかもしれない。それにしても、去年だかは楽にはけていたズボンがはけないとは情けない。本腰を入れて腹回りのスリム化に取り組もう!
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『三国志』(吉川英治著)の文庫本、全10巻を読み終えた。中国語を学んでいると三国志がらみの表現が出てくることもあり、この際、きちんと読んでおこうという意図だったのだが、確かにいろいろと勉強になった。何度も書くが、我が国では実情が歴史のかなたのもやに包まれている西暦200年前後の中国大陸では、名のあるあれほどの英傑たちが激しくしのぎを削っていたとは。
第9巻の「出師の巻」で著者の吉川は次のように書いている。千七百年前の支那にも今日の中国が見られ、現代の中国にも三国時代の支那がしばしば眺められる。戦乱は古今を通じて、支那歴史をつらぬく黄河の流れであり長江の波濤である。何の宿命かこの国の大陸には数千年のあいだ半世紀といえど戦乱の絶無だったということはない。だから支那の代表的人物はことごとく戦乱の中に人と為り戦乱の裡に人生を積んできた。また民衆もその絶えまなき動流の土に耕し、その戦々兢々たるもとに子を生み、流亡も離合も苦楽もまたすべての生計も、土蜂の如く戦禍のうちに営んできた。
この国を統治するのは古今至難の業であったようだ。といって、今の中国共産党の一党独裁を決して擁護しているわけではさらさらないが・・・。
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英字新聞を読んでいて時にはたと手がとまることがある。いい文章に出合ったというのであればいいのだが、理解に苦しむケースも。昨日はスポーツ欄のゴルフの記事がそうだった。応援していた松山英樹選手は最終日が少し情けない結果に終わった全英オープンゴルフ(The Open)。優勝したのはアメリカのスター選手、ジョーダン・スピースだった。
ジャパン・ニュース紙が掲載したAP通信の転電記事は、スピース選手の13番ホールでの機転を利かせた冷静沈着なリカバリープレーを称賛していた。そのくだりに次の一文があった。—— He had the presence to ask if the driving range was out of bounds. —— おそらくこれは the presence of mind ということだろう。of mindがないと意味不明だ。
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「撒谎」(ウソをつく)
- 2017-07-23 (Sun)
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暑い! 連日の猛暑日だ。室内の温度計に目をやると35.1度。窓を開け放っているのにこの温度。じっとしているだけで汗が浮いてくる。これだけ暑いのに体重は全然減っていない。スポーツクラブでそれなりに泳いだり歩いたりの軽運動も続けているが、たいした効果はない。もっとも最近はあまりに暑いので、涼むために通っているようなものだが。
私は速くは泳げないが、ゆっくりならクロールでも結構長い時間泳いでいることができる。息継ぎをするだけのことだからだ。プールで一見して初心者という中年の男女が泳いでいる。バタ足だけなら私より上手そうだ。ただ、10-15㍍ほど泳ぐと立ち上がる。息が続かないからだ。「息継ぎ」をしていない。できないのかもしれない。知っている人なら耳元でささやいてあげたい。息継ぎなんてやさしいものですよ。自宅の洗面器に顔を突っ込んで少し辛抱強く練習さえすれば、そのうち必ずできるようになると。
◇
私は英語の会話も「息継ぎ」がかぎを握っているのではないかと思っている。適切な「息継ぎ」さえマスターすれば怖れることはない。ただし水泳の「息継ぎ」は適宜顔を横上げして呼吸をするだけのことだが、英語を話す際には多少のテクニックが必要。
英語と日本語では語順や文法が異なるから特に適切な「息継ぎ」が大切となる。これが乱れると、水泳同様、パニックに陥り、不要な水を飲み込み(ばつの悪い間が生じ)、溺れてしまい(言葉に詰まり)、最悪の場合、自死(赤面恥辱)に至る危険性もある。
ところで最近備忘録にメモした中国語の表現は、次の文章。我从来没撒过谎。「谎」は「言葉が荒れる」から「ウソ」を意味するのだろうか。「撒谎」で「ウソをつく」という意味らしい。「ウソをまき散らす」? いずれにせよ、上記の文章の意味は「私は今までウソをついたことがない」。頭の痛い声調や微妙な発音の違いを無視して敢えてカタカナで書けば、「ウォツォンライメイサーグォファン」。英語では—— “I’ve never told a lie in my life.” ——。 英語だとなぜだか、私はin my life と付け加えたくなる。日本語や中国語では普通、人生でウソをついたことがないのはあり得ないことが分かり切ったことだから、あえて「私の人生において」といった仰々しい語句は必要ないのだろうか。日本語では「私の人生で」と付け加えても問題はなさそうだが。これはいつか中国語の専門家に出会ったら尋ねてみたい。
NHKラジオの講座でこの表現に出合った時、私は思わず次のように考えた。中国人の方々と知り合った場で簡単な自己紹介をする時などに例えば、「私は今までウソをついたことがありません。あ、今初めてウソをつきました」と言えば、どういう反応が返ってくるだろうかと。相手が日本人だったら、少し間を置いて笑いを取れるのではないかと思う。もっとも、上記の文章の後半のくだりを中国語でどう言うかまだ知らないが。
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窓際に置いている葉っぱ(三葉と書いたが四葉だった)は依然「元気」だが、加齢斑とでも呼びたくなるような茶色のシミが目立ち始めた。私も似たようなものだが、それでもまだ緑色が瑞々しい部分が多いから、捨てるわけにはいかない。葉っぱよ、パイティン! 中国語なら「加油!」(Jiā yóu!)(頑張れ!)
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暑い!
- 2017-07-17 (Mon)
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暑い! 室内の温度計に目をやると33.0度。それでもまだ少し風があるから何とかクーラーを使わずに済んでいる。もっとも、日が陰っても依然暑い。夕刻さらには深夜になっても温度計の数値はほとんど変わらない。玄関ドアを開けっ放しにできない夜にはさすがにクーラーのスイッチを入れざるを得ない。
今手元にあるパソコンのキーボードも熱を帯びたように熱い。それでふと思い出した。あれ、以前に似たような思いをしたことがあるぞ。そう、アフリカを取材して回っていた頃だ。もう7年前になるのか。国際面で今もなお悲惨な内戦が報じられる南スーダンが念願の独立を目前にしていた頃、私は首都となるジュバを連日、歩き回り取材していた。疲れ果ててコテッジ風の宿に戻り、机の上のパソコンを開けると、キーボードが焼けるように熱かった。その当時のブログを今のぞいてみると、以下のように書いている。「南アフリカやナイロビ(ケニア)の快適な温度に慣れた身には十分暑い。宿泊しているホテルは平屋のコテッジなので、部屋の温度計は日中35度を表示している。地元の人によると、それでも今(12月)は季節で言えば、冬の時期であり、3月から5月の夏に比べれば過ごしやすいという」
今読み返してみて、実に懐かしい! あの頃は懐も寂しく心細い思いをしながら旅を続けていたが、毎日それなりの取材の成果があり、充実した日々だった。
◇
『三国志』(吉川英治著)の文庫本を読み続けている。やっと第9巻まできた。10巻で終了となるからもう少しだ。大学では教育学部の英語専攻だったこともあり、これまでは英米文学を中心に読んできたから、中国を舞台にした小説の類はほとんど手にしたことがなかった。当時は中国語に関心がなかったのだから致し方ないか。
何度かこのブログで書いたかと思うが、それにつけても、中国という国土、文明の懐の深さを思わずにはいられない。西暦200年前後の中国大陸。後漢が衰微した後に、魏、呉、蜀という三国が鼎立していた。魏から全土の覇権を目論む曹操と彼の後を継いだ曹丕、呉を統べる孫権、蜀を率いる劉備と彼に仕える諸葛亮孔明。吉川英治という作家の「味付け」でそうした英傑らの「肉声」を目で追う。「本当にこういうやり取りがあったのだろうか?」と思うこともしばしばだが、ふと我に返れば、日本はまだ古墳時代にも至らない弥生時代の頃のお話だ。所在地さえいまだに明確でない邪馬台国の卑弥呼が朝貢したという史実が残っている魏志倭人伝が記された時代だ。卑弥呼が語った言葉の一片さえ私たちは知る由もない。そういう時代に彼らの「肉声」に物語として触れることのできる豊かさ・・・。
第8巻で劉備に仕える黄忠という血気盛んな老将が登場する。高齢を理由に出陣を諌められた彼が憤るシーンが描かれている。「昔、廉頗(れんぱ)は年八十に及んで、なお米一斗、肉十斤を食い、天下の諸侯、これをおそれ、あえて趙の国境を犯さなかったといいます。まして私は、未だ七十に及ばず、何ゆえに老いたりとて、さように軽んじられるのですか、それがしただ一人、三千余騎を率い、必ず、夏侯淵の首を取って参るでしょう」
織田信長が「人間五十年」と謡い舞ったドラマを見た記憶がある。三国志時代の中国は今の日本にも負けないような長寿社会だったのか。
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谢谢你来看我。
- 2017-07-01 (Sat)
- 総合
7月が到来。一年の半分が過ぎた。いよいよ暑さが本格化する。先にも書いたが、手帳を見ると、去年は7月1日にクーラーのスイッチを入れている。今年もそろそろそうしようかと思っている。昼間は窓や玄関ドアを開け放すことで何とかしのげるが、深夜になっても30度を超す余熱が部屋の中に残っていると、さすがに寝苦しい。
窮余の一策。ベッドを西日が強烈な洋間から和室の方に移した。部屋を変えるだけで、温度が1、2度下がるよう(な気がする)。これなら、クーラーなしでも扇風機だけでなんとか眠りに落ちることができるのではないかと期待しているが、はてさて・・・。
謝恩会でもらった花束は今、三葉だけになってしまった。コップに一輪挿しのようにしているが、葉っぱ自体はまだ緑色が瑞々しく、捨てきれない。それで枯れてしまうまではと、毎朝コップの水を入れ替え、窓際に置いたイスの上でもてなしている。
◇
NHKラジオの中国語講座を聞くようになって1年経過。週日はほぼ欠かさず聞いてはいるものの、上達の度合いは実にのんびり。頭の片隅には日英中韓の言語的共通性(相違性)を探りたいという思いがある。最近学んだ文章では例えば、「谢谢你来看我。」という表現。日本語訳では「会いに来てくれてありがとう」。あえて直訳すると、「あなた(你)私(我)に会い(看)に来て(来)くれてありがとう(谢谢)」となるのだろう。英語だと “Thank you for coming to see me. と言えようか。you もme もここでは絶対不可欠だ。この点では中国語は英語に近いことが分かる。日本語では「あなた」や「私」は分かり切ったことだから言う必要はない。この違いは興味深い!
土曜日。香港が中国に返還されて20周年になるのだという。ケーブルテレビの中国国営放送の生中継で、習近平国家主席が香港で催された記念式典で行ったスピーチを同時通訳で聞いた。「一国二制度」の堅持を訴えていた。中国の歴史に暗い私に印象深かったのは、習主席がアヘン戦争(1840-42)にまで遡って香港そして中国の自立発展の大切さを強調していたこと。19世紀中葉のアヘン戦争で英国を筆頭とする欧州列強に屈せざるを得なかった歴史。日清戦争を経ての日本の植民地支配も忘れてはならない屈辱の歴史の一コマであるのだろう。
◇
遅ればせながら中国の三国志を読んでいる。書店にはさまざまな三国志のシリーズ本が並んでいるが、私は図書館から吉川英治の『三国志』を借りてきた。新潮社の文庫本で全10巻となっている。活字が大きいので少しは気が休まっているが、全部を読み終えるのは大変そうだ。今、四の「臣道の巻」を読んでいる。西暦200年頃にこれほどの権謀術数、愛憎あふれる史実が海の向こうで展開していたとはと複雑な心境にならざるを得ない。現代中国の権力闘争劇を見ているかのようだ。人口13億人を超える中国を統治する難事業を世界一般の常識でとらえることは無理といった指摘をこれまでも何回か目にしてきた。香港返還20周年の記念式典で壇上に立った習主席の顔を見ながら、『三国志』で描かれている群雄の浮沈を思い浮かべた。
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