英語でさるく 那須省一のブログ
Out of sight, out of mind.
- 2022-06-16 (Thu)
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公民館の韓国語教室。先生が韓国語で何かを言われた。どうやら「会わないようになると段々と心の中でも遠い存在となる」みたいな韓国語の表現を説明されているようだ。あ、これは日本語のあの諺というか慣用表現と同じ意味ではないかという思いが頭に浮かんだ。問題はそれが何だったかぱっと出て来ない。以前はこんなことはなかったような。すぐに出て来たような気がする。私の頭脳も老化が始まっているのではないかいなと危ぶんだ。
ようやく頭に浮かんだのが「去る者は日々に疎し」だった。でも、何だか物足りないような、もう少し何か字句があったような・・・。スマホで急ぎチェックしてみて、どうやらこれでいいらしいことを知ってちょっと安心した。
韓日辞書には次の訳文が載っていた。눈에서 멀어지면 마음에서도 멀어진다. 直訳すると、「目から遠くなれば、心からも遠くなってしまう」といった意味合いだろうか。先生が言われた言葉がこれだったかは分からない。英語だと Out of sight, out of mind. がすぐに頭に浮かぶ。これは説明不要だろう。中国語だと何と言うのだろうと調べてみたが、私の辞書には載っていなく、ネットで調べても要領を得ない。苦労の末にやっと見つけたのが、次の表現。「眼不见,心不烦」。しかし、ネットでは「見なければ、心を煩わされることはない」という意味であり、「知らぬが仏」と同義だと説いてある。でもこれでは「去る者は日々に疎し」やOut of sight, out of mind. の意とは異なる。この辺りは中国語のネイティブ話者に確認するしか道はないようだ・・・。
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このところ、就寝時に新約聖書の中の「コリントの信徒への手紙」(Corinthians)を読んでいることは以前に記した。最近マーカーを走らせた箇所を紹介したい。
In the same way, our earthly bodies which die and decay are different from the bodies we shall have when we come back to life again, for they will never die. The bodies we have now embarrass us for they become sick and die; but they will be full of glory when we come back to life again. Yes, they are weak, dying bodies now, but when we live again they will be full of strength. They are just human bodies at death, but when they come back to life they will be superhuman bodies. For just as there are natural, human bodies, there are also supernatural, spiritual bodies.(我々が肉体の死後に手にする新しい肉体は滅することがない。今の肉体は病気となり、死ぬ運命だが、我々が蘇りで手にする新しい肉体は強靱であり、超人的、超自然的、神聖な肉体である)
イエス様を信じ、聖霊に満たされた者は死後、新しい身体を与えられるということをどこかで読んだ記憶があった。英語だと new uniform と呼んでいたのではなかったかとずっと思っていた。Corinthiansを今回改めて読んで、嗚呼、ユニフォームではなくnew body だったかと気づいた。我々が見知っている今の肉体とは比べるべくもない肉体のようだ。果たして肉体と呼んでいいのだろうかとも迷う。今の肉体は病気にもなるし、やがて朽ち果てる運命にあるが、蘇って手にする新しい肉体は朽ち果てることもなく、永久に強靱であり、超自然的かつ神聖な代物であると述べられている・・・。
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円安の余禄
- 2022-06-15 (Wed)
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大リーグ。大谷翔平君が属するロサンゼルスエンゼルス。大谷君は相変わらず二刀流の活躍を続けているが、いかんせん、投手力、守備力がお寒い状況。打撃力もニューヨークヤンキースやヒューストンアストロズなどとは比べるべくもない。これでは今秋のプレーオフ進出は覚束ない。たとえワイルドカード争いにしがみつくことができてもそれ以上は到底無理だろう。そう思うと、真剣に応援する気が失せてしまう。これからはほどほどに付き合っていこう。残念だが・・・。
鳴り物入りで海を渡った鈴木誠也選手、筒香嘉智選手もすっかり鳴りをひそめている。どうもポジションプレーヤー(position player:野手)は大リーグでは苦しむようだ。翔平君は例外中の例外なのだろうか。まあ、大リーグの動向にあまり関心を払う必要がなくなればそれはそれで私には「利点」もある。朝夜とベースボール、野球に振り回される時間がそれだけ軽減される。
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かつてない円安が続いている。13日の夕刊を見ると、同日の東京外国為替市場で円相場は一時2002年2月以来約20年4か月ぶりとなる1ドル135円台まで下落したと報じている。1ドルはこれまで何となく100円~110円と認識していたのでなるほど円安だ。
それでふと思いついた。引き出しの中に100ドル札2枚が眠っているのだが、今こそ日本円に両替しておいた方がいいのではと。この200ドルは昔、ナイロビ時代の年下の友人K子ちゃんに東京で再会した折に貰ったもの。なぜそういう経緯になったのかよく覚えていないが、おそらく私が会社を辞めてアフリカ再訪の旅に出る直前の会食時に頂いたものかもしれない。「もろもろお気をつけて・・無事に帰ってきてね!」というメモ書きも添えられている。私は有り難く、かつもったいなくて、ずっと手をつけずに引き出しの中にしまっていた。
いつかまたおそらく東京で再会した折にお礼をかねて何かを買い求め、また一緒に飲食する時に活用させてもらうおうと考えていた。そこに連日の円安のニュース。私のような経済に疎い小市民にもこの機に乗じて両替しておいた方が得策ではないかという思いが募った。それで天神にある両替店に足を運んだ。ドルから円への両替のレートは1ドル=132円だった。200ドルが26,400円となった。私の頭の中では何となく200ドル=20,000円というイメージがあったため、凄く得をした気分だ。
コロナ禍の心配がなくなったら、上京しよう。その時にK子ちゃんに手渡す福岡土産と会食の予算に役立てよう!
あ、もう一つ付記しておこう。両替店で100ドル札2枚を手渡した時、機械で真贋(?)をチェックしていた係の人が「すみません、実は・・」とこちらを振り向いた。直後に「あ、今度は大丈夫だったみたい」ともう一人が言った。後で知ったことだが、ドル札が破損していたり、擦り切れた部分があったり、落書きがあったりすると、両替できないのだとか。後生大事に保管していても年月が経過すると思わぬ傷みがあったりするのではないか。どこに「落とし穴」が潜んでいるやもしれぬ。今回はほっと胸をなで下ろした。
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森林浴は forest bathing
- 2022-06-10 (Fri)
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定期的に開催されているオンラインでの英語チャットの集まりに参加した。3か月に1回程度の集まりで私は「枯れ木も山の賑わい」(Anything is better than nothing)の心積もりで参加している。
この夜のテーマの一つは「健康維持」というか「抵抗力強化」。事前に配布されていた資料には当然のことながら、十分な睡眠を取ること、バランスの取れた低カロリーの食事、緩やかな運動を継続的に続けることなどが綴られていた。推奨されていた健康法の一つに「森林浴」があった。森林浴とは英語で forest bathing と表現するのだとか。sunbathingなら日光浴。これまで森林浴の英訳は考えたこともなかったが、なるほどと合点がいった。森林浴という語は1982年に農林水産省が考案したことも知った。入院患者に病室で森林などの緑豊かな情景を見せるだけでも治療療養に効果があることも書かれていた。
森林浴の効能を読みながら思った。実は最近よくアクセスするYouTubeのチャンネルがある。prank(悪ふざけ)と呼ばれるいたずら番組で、全身を葉っぱで覆った人が立ち木のように待ち伏せしていて、通りかかった人たちを驚かす。驚かすのは案山子に仮装した人だったり、金属のオブジェのような像(人)だったりとさまざま。インドネシアだかマレーシアと思われるところで撮影されている番組は周囲が緑鮮やかな公園、緑地が多い。私が悪ふざけより見とれたのは実にこの緑だった。映像がきれいだから鮮やかな緑だ。私が住んでいるこの住宅地で目にすることは皆無の緑だ。
私は宮崎の緑豊かな山村の出身。緑と川に育まれて育った。あまりにも当たり前のものだと有り難みもあまり感じないようだ。久しく離れて初めてその有り難みが分かる。実家の山里に最後に足を運んだのがいつか記憶も定かでない。コロナ禍で帰郷ができなくなったことが大きいが、長姉が高齢のため施設に入ったためその家に寝泊まりできなくなったこともある。長姉の家は四方を山に囲まれ、日がな一日、鳥のさえずりが聞こえていた。ウグイスやホトトギスの鳴き声には読書の手をとめ聞き惚れた。窓から見やると、ひときわ高い樹木のてっぺんで鳥が鳴いている。ウグイスだったかホトトギスだったか忘れてしまった。
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この項を書いている今(金曜日朝)テレビではCNNがトランプ前米大統領の「犯罪」を審理する米議会下院特別委員会の公聴会が生中継され始めた。昨年1月6日の米議会襲撃事件の生々しい映像が議会内で上映されている。初公開の映像もあるようで、米社会を震撼させた狂乱の一日が改めて浮き彫りにされている。バイデン大統領に敗れた大統領選の結果を文字通り暴力で覆し、大統領の座に返り咲こうと画策したトランプ氏の罪は疑いようもない。
証言に立った女性警察官は当日遭遇した光景はまるで映画でも観ているかのような戦闘の光景であり、トランプ氏を盲目的に支持する暴徒の群衆に襲われた同僚たちは流血して倒れ、言葉では言い表せない阿鼻叫喚だったと振り返っていた。
トランプ氏がやがて相応しい場所、すなわち刑務所に送られることを切に願う。ウクライナ侵攻の大罪を犯しているロシアのプーチン大統領も早晩そうなることを心から願う。
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方向音痴は「路痴」
- 2022-06-07 (Tue)
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先週の公民館中国語教室で「方向音痴」が話題になった。典型的方向音痴である私にはとても興味のあるテーマだ。これまでにもブログで何度か書いたような記憶がある。コンプレックスとまでは言わないが、全然改善しないのはやはり気が引ける。建物の中の一室に入ったりすると、玄関がどこだったかつまりどこから入ってきたのか分からない。要するに東西南北の感覚を持ち合わせていないのだ。
とはいえ、神様に芳香音痴か方向音痴のどちらかを選べと迫られたら、迷うことなく方向音痴を選択するだろう。(芳香音痴という語があるかは知らないが)。方向音痴は中国語では「路痴」もしくは「路盲」ということを教えてもらった。どちらの語彙も漢字を見れば、なんとなく意味合いは類推できる。私は「路痴」を取りたい。韓国語ではなんというのだろうと調べると「길치」(キルチ)という語が出てきた。これも韓国語をかじっていれば何となく納得がいく。「길」は「道」の意。音楽は「음악」だから「音痴」は「음치」(ウムチ)だ。
過去のブログで方向音痴であることを嘆いた時、どのようなことを書いていたのかスクロールしてみると、次のような文章があった。2020年11月の項だ。
――ところで、私はこの料亭に着く前にだいぶ道に迷ってしまった。私は以前にも書いたかと思うが、並外れた方向音痴だ。恥ずかしながら地図が読めない。よくこれでアフリカやヨーロッパで一人で初めての土地を訪ね、取材活動ができたものだと今にして思う。ネットであらかじめ場所を検索して最寄り駅からの大体の方向を頭に入れる(入れたつもりになる)。実際に歩き始めると大体正反対の方向に歩んでいることが多い。実人生でも方向音痴の生き方をしているのではないかと痛切に憂えることがある。嗚呼!
ところで英語では方向音痴を的確に表現する表現はないようだ。辞書を引いても、I have no sense of direction. といった表現が出てくる。中国語ではどういうのだろうとネットで検索すると、路痴という語が出てきた。これなら発音はともかく、意味は何となく正しく推察できるような気がしないでもない。――
なんということだ。「路痴」と書いているではないか。すっかり忘れていた。痴呆症の初期症状を呈しつつあるのだろうか。痴呆症は中国語では「痴呆症」。簡体字での表記は覚えている。ピンイン表記も大丈夫。しかし、声調は自信がない。chīdāizhèng。平らに平らに発声して急に下がる・・。これをずっと記憶するのは(私には)容易ではない。
ところで、最近では「人間音痴」という言葉もあるらしい。社会生活で他人との距離の取り方が分からないとか普通の接し方ができない人を揶揄った表現のようだ。こうした烙印を押されては辛いだろう。これを中国語に訳そうと「人间」と書き、その後に「音痴」ははて?と思案したが、後が続かなかった。「音痴」は「五音不全」と言うらしいので、日本語の人間音痴をそっくりスマートに中国語に翻訳するのは無理なようだ。「人间」という表現そのものが中国語では「現世」「人間社会」を意味し、「人间地狱」と書けば「この世の地獄、生き地獄」を指す表現とか。
ウクライナ東部でロシア軍の無慈悲で残忍なロケット攻撃にさらされている人々はまさに今、「人间地狱」(rénjiān dìyù)にあえいでいるのだろう。言葉もない。
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使徒パウロの警告
- 2022-06-03 (Fri)
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毎朝、“Daily Guideposts 2022” という名のキリスト教の祈祷書(devotional)を読むのが日課になって久しい。時々、知らない単語が出てくることもあり、英語の勉強にもなっている。最近になって思うところあり、就寝時にベッドの上で聖書を再び読んでもいる。スマホのYouTubeに邪魔され、全然読めないこともしばしばだが。聖書は一度通読した(と思っている)こともあり、行き当たりばったりの向き合い方だ。
今読んでいるのは新約聖書の中の「コリントの信徒への手紙」(Corinthians)と題された書。使徒パウロがコリントの教会へ送った書簡であり、広辞苑には「原始キリスト教団の生活状態を知る好資料」とある。私は聖書でも初めて読んだ時に気に入った文章、気になった文章はマーカーを走らせており、再読していて「ああ、この文章が印象に残ったんだな!」と思い出したりしている。
今ここでマーカーのある文章を適当に列記してみよう。
For the wisdom of this world is foolishness to God. … we are told that the Lord knows full well how the human mind reasons, and how foolish and futile it is.(人類はいかに文明が進んでも神様から見たら、取るに足らない愚かな存在ということか)
What I meant was that you are not to keep company with anyone who claims to be a brother Christian but indulges in sexual sins, or is greedy, or is a swindler, or worships idols, or is a drunkard, or abusive. Don’t even eat lunch with such a person. It isn’t our job to judge outsiders. … God alone is the Judge of those on the outside. (朱に交われば赤くなるので交遊関係には留意されたし。されども評価を下すのは神様のみということか)
… if you do not marry, it is good. But usually it is best to be married, each man having his own wife, and each woman having her own husband, because otherwise you might fall back into sin.(結婚は絶対ではない。しかし、未婚だと誘惑多しということか)
I wish everyone could get along without marrying, just as I do. But we are not all the same.(なんと未婚の勧め? 独身の私には心強いが、実際には妻帯がベストかと思う)
The important thing to remember is that our remaining time is very short.
Those in frequent contact wth the exciting things the world offers should make good use of their opportunities without stopping to enjoy them; for the world in its present form will soon be gone. (終わりのときが近いとの警告。誰が2000年前の訓戒と一蹴できようか)
Corinthians を読みながら、私はたいてい、途中で疲れを覚え、眠りに落ちている。上記の説諭の中であえてゴチック体にしている箇所を新聞記者として張り切っていた当時に読んだのかはっきりと覚えていない。この聖書は海外の赴任地にも持って行ったが、まともには読んでいなかったような。たまたま手にしている小説の中で聖書の引用があれば、その箇所を繰っていた程度の読み方ではなかったか。
日本各地を不気味な地震が毎月毎年のように襲い、猛暑や豪雨などの異常気象が日常茶飯事に思われ、世界中に未曾有の感染症が蔓延し、果てはロシア軍のウクライナ侵攻に驚愕する昨今の日々。聖書の警告がまだまだ先の話であると心から願いたい、祈りたいが・・・。
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手纸と手机
- 2022-06-01 (Wed)
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先週日曜日に府中の東京競馬場で行われた日本ダービー。私が勝利すると踏んでいた馬は残念ながら敗退した。掲示板に乗るのがやっとだった。やはり競馬で勝利する馬、さらには2着、3着に来る馬をズバリ当てるのは至難の業だ。私は潔く、いやそう潔くでもないが、何年も前に馬券勝負から足を洗って正解だった。これからも色気は出さず、支出ゼロ、興趣たっぷりの予想だけに励もう!
◇
先週の中国語教室。我々受講生がいつものようにテキストを一斉に読み上げていると、老師が発音に駄目出しを入れた。私は??と思いながら、読み続けた。帰宅後もなぜ駄目なんだろうと思った。駄目出しが出たのは「手纸」という語。日本語の「手紙」とは似て非なる語で、中国語ではトイレットペーパーのこと。私はこの語を正確に発音しているつもりだった。しかし、自宅で改めて考えてみると、どうやら勘違いしていたことに気づいた。
中国語では手紙は「信」。私はもちろん、それは承知していた。だからトイレットペーパーを意味する「手纸」を正しく発音しているつもりだった。ところが現実にはそうではなかった。「手纸」の発音は我々には、いや少なくとも私には「手机」と酷似している。「手机」は「携帯電話:スマホ」を意味する。「手机」はピンイン表記ではshǒujī であり、「手纸」は (shǒuzhǐ) 。声調はむろん、jiとzhiの微妙かつ明確な発音の差異。日本人の耳には聞き分けが難しく、私は正直今も区別に四苦八苦している。
私はどうやら「手纸」と発声しているつもりで、現実には「手机」と大差ないあやふやな音を出していたようだ。例えて言えば、英語ネイティブの人たちが日本語の「病院」と「美容院」の発音をよく間違えるようなものだろう。
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CNN記事を読んでいたら、パリのルーブル美術館の名画「モナリザ」にケーキを投げつけた来館者が逮捕されたニュースが出ていた。どうも精神を病んだ男性の所業のようで、モナリザは銃弾も貫通しない保護ガラスで守られており、実害はなかったとのこと。男はかつらをかぶり、さらに足が悪いと偽って車椅子に乗り、最前列で鑑賞できるように画策していたようだ。
記事中に次のような記述があった。… throwing a piece of cake at the artwork …これまで a piece of cake は何回か辞書で調べたことのある慣用句だ。確か「朝飯前」といった意味合いの表現だったような。辞書で改めてチェックすると、「朝飯前」「お茶の子さいさい」という意味が出ている。この記事では慣用句ではなく、「一個のケーキ」という本来の意味で使われている。それでもちょっと手がとまった。
私はルーブル美術館には一度だけ足を運んだことがある。その時は近くを歩きながら、露店の店主や通行人に「ルーブル美術館はどこにありますか?」と何度か尋ねたが、一向に要領のいい返事はもらえなかった。フランス語、英語で「ルーブル美術館」と発声したつもりだったが、彼らにはなぜか通じなかった。私はフランス語が嫌い(苦手)になり、それ以来、まともに勉強する気は失せてしまった。
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競馬は予想だけ
- 2022-05-27 (Fri)
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このブログでギャンブルのことはあまり書いていないかと思う。お里が知れることを恐れてのことだ。だが、私はギャンブルには大いなる興味を抱いている。高校卒業後の麻雀を皮切りにパチンコ、競馬、カジノ遊びに現(うつつ)を抜かしてきた。そして辿り着いた結論は・・。見て楽しむ、傍観して楽しむのが一番であり、身銭を切るのは愚の骨頂ということだ。最近出合った英単語を使って表現すれば、It is witless to spend money on gamblingとでもなるのだろうか。もっともお金を賭けなければそれはギャンブルとは言えないかも。
テレビをつけると日本中央競馬会(JRA)が若者に狙いをつけたCMを流しているが、だまされてはいけない。地獄への第一歩となるのだ・・・と私なら言いたいところだ。とはいえ、世の中には何らかの社会経済活動が必要ではある。あまり目くじらを立ててあれこれ言うのはよした方がいいだろう。
お金をかけないで楽しむ分には競馬は刺激的な趣味だ。競馬新聞やスポーツ新聞などを購入する必要はない。ネットを漁れば基礎的な情報は入手できる。過去のレースさえもJRAのサイトから見ることができる。昔は考えられなかったサービスだ。その上でレースを頭の中で組み立て、勝ち馬を予想する。ぼけ知らず。脳内はいやが上にも活性化される。勝ち馬を予想して(馬券を買ったつもりで)テレビでレースを観戦する。結果は?
このようなことを話すと、何人かの人に質問されたことがある。「でも、予想した馬券が実際に当たった場合など、特に大万馬券でも当たっていた時などには悔しいと思うのではないですか?」。もっともな指摘である。私は次のように答えている。
「確かに。でも、私が実際に馬券を購入していたら、神様がきっと外れるように差配していたことでしょう。それでも予想した馬券が当たれば私の推理が正しかったことであり、それだけで満足です。それにまあ、まず当たりませんからね。競馬はそう甘くありません」
多少の負け惜しみがあるかもしれない。でも、パチンコを含め一切のギャンブルからきれいに足を洗って良かったと思っている。「足を洗う」。英語では “wash one’s hands” と言うようだ。悪癖や悪事から決別するときに日本語は足を洗い、英語では手を洗う。中韓では?と辞書やネットで調べてみると、中国語では「洗手不干」と出てきた。英語と同じように手を洗うらしい。韓国語では手も足も両方使った表現があるようだ。手であれば「손을 씻다」であり、足であれば「발을 빼다」。
さて、今週の日曜日は競馬の祭典とも称される日本ダービーが府中の東京競馬場で行われる。7500頭を超す3歳馬の中から選ばれたエリートの18頭が一生一度の栄冠を目指す。騎手、調教師はもちろん、競馬関係者には胸躍る一日となるのだろう。馬券を買う競馬ファンにとっても予想の腕の見せ所か。私も密かに心に秘めた馬がいる。その馬の馬名をここに記してレース後に胸を張りたいが、外れる可能性も大。やめておこう。
公民館の中国語教室でギャンブルが話題に上った。ギャンブルは中国語では日本語同様に「賭博」と書き、発音はdǔbó となり、敢えてカタカナ書きすると「ドゥボー」。辞書にはギャンブル狂の訳語として「赌鬼」(dǔguǐ) という語が載っていた。発音はともかく意味合いはすぐ分かる。私もかつては赌鬼の一人だったのだろう。慚愧に堪えない。
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