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英語でさるく 那須省一のブログ

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カーソル復活!

 I’m completing a middle-grade novel. (私は今ミドルグレイドの小説を書き終えようとしている)という文章に出くわした。とっさに頭に浮かんだのは a middle-grade novel とは「平均的なレベルの小説」すなわちハイレベルではないが、そこそこの内容を伴った小説というように解釈した。念頭にあったのはhigh-grade(高級な)という表現。ハイグレイドでなくミドルグレイドと解釈したのだ。もっとも書き手が自分が今手がけている作品をこのように卑下して表現するとは思えないので、おそらく違うのだろうとも思った。調べてみると、これはその小説を読むであろう読者の年齢層を想定しているということを知った。
 ネットではa middle grade book を literature intended for children between the age of 8 and 12 と紹介していた。小学校3年生から中学校1年生ぐらいの年齢層の子供たちをターゲットにした書籍だろうか。8歳ならまだ思春期にも達していない子供たちだ。そうした読者層にアピールする作品を作るのは大人の読者を念頭にした作品を作るのとはだいぶ趣が異なるのだろう。middle grade を調べる延長線上で teenager を改めてチェック。こちらは「13歳から19歳まで」の10代の少年少女と説明されていた。
                  ◇
 毎日向き合っているパソコンが突然制御不能になった。カーソルと呼ぶのだろうか、矢印のようなポインターが画面から忽然と消えてしまったのだ。カーソルがないと何もできない。パソコンの電源を落とすことすらできない。二三日格闘したが何の変化も起きなかった。最後の手段は以前にお世話になったことのあるパソコンに詳しい方に電話を入れて助けを請うた。それが昨日(金曜日)。私はマウスは使用せず、キーボードの下にあるタッチパッドを触って操作している。彼は持参したマウスでいろいろチェックしていたが、マウスも機能不全。どうもパソコン内部の基板そのものが故障したのではという見立てだった。
 古いパソコンを取り出し、このブログをスクロールして確認すると、私は今のパソコンを2020年8月に購入している。世界最軽量という触れ込みだった。そこそこの値だったと記憶している。ブログを読み返すと、私は2020年代はこのパソコンで乗り切りたいと意気込んでいる。まだ5年しか使っていない。神様がそろそろ買い換えの時期だとおっしゃっているのだろうか。それなら致し方ない。それでも念のため、メーカーに電話してお伺いをたてよう。本来なら電話で直接あれこれ伺いたいのだが、昨今では電話でそうした相談窓口に到達するのは至難の業に思えてならない。何とかスマホでリモート相談することが可能になった。これが実に便利でスムーズにやり取りできた。スマホのリモート相談恐るべし。
 カーソルが復活した方法は以下の通り。キーボードの一番上にF1からF2、F3・・というキーがある。私のパソコンではF4のキー上に小さなマウスのマークが見える。ボードの最下部のFnと書いてあるキーを押しながらF4を押した。カーソルが出てこない。やけくそ気味に何度も何度も押し続けた。それでも何の変化も起きず、あきらめ気分になり、ネットで探した修理屋さんに持ち込んで相談しようと思っていると、あら不思議、消えた時と同様、忽然とカーソルの矢印が再び姿を現わした。感動ものである。それで今こうやってパソコンに向かい、この項を打っている次第だ。神様に感謝!

グギ・ワ・ジオンゴ氏のこと

20250601-1748749829.jpg 土曜日。朝刊の社会面の下の方にふと目をやると、死亡記事が出ていた。グギ・ワ・ジオンゴ氏。享年87歳。名前の後に「ケニア出身作家」と記されている。ケニアではいやアフリカではよく知られた作家だが、日本では知っている人はまれだろう。
 記事によると、グギ氏は米ジョージア州で死去。死因は不明だが、人工透析を受けていた。1938年英植民地だったケニアで生まれ、ウガンダの大学在学中に創作活動を始めた。代表作は独立前のケニアの様子を描いた『一粒の麦』。現地語で書いた戯曲などで、母国の暗部を暴露したとして命を狙われ亡命生活に。ノーベル文学賞候補として名前が挙がったとも。
 『一粒の麦』は私も感銘を受けた作品だ。ナイロビ支局に赴任し、アフリカを現地取材していた1980年代末、グギ氏はすでにケニアを離れていた。記事にある通り、当時のダニエル・アラップ・モイ政権に疎まれ、亡命の道を選択せざるを得なかったからだ。私は『一粒の麦』を題材に記事を書いたことを思い出した。
 それで本棚を漁った。本棚の中に何かあるような。あった。読売新聞社が出版した『20世紀文学紀行』(1990年)。記者がカメラマンと一緒に現代文学の足跡を辿る紀行本で、私はアフリカにまつわる二作を担当した。そのうちの一冊が『一粒の麦』だった。小説の詳しい筋はさすがに覚えていないので、『20世紀文学紀行』から引用する。自分自身が書いた原稿だから許してもらおう。
 次の書き出しで始めている。当時親しくしていた地元記者の言葉だ。「白人たちは聖書を持ってやって来た。おれたちは土地を持っていた。白人たちは一緒に神に祈ろう、と言った。おれたちも目をつぶって祈った。目を開けた時、おれたちは聖書を手にしていたが、先祖伝来の土地は白人のものになっていた。わかるだろう。これがアフリカの歴史だ」
 グギ氏の作品に一貫して流れるのは「独立闘争はだれのため、何のためのものだったのか。独立は支配者階級の肌の色を白から黒に変えただけで、労働者、農民が搾取される基本的構造には何ら変化がないのではないか」という告発である。私がナイロビ支局で勤務していた頃、ケニアの人々が熱狂的にグギ氏を支持していたというわけではない。アフリカ諸国の中では経済も政情も比較的に安定していることもあり、グギ氏の主張に距離を置く人々が多かったという印象だ。だが、彼の主張には今もアフリカ全土で共鳴する人々が多いのではないかと思う。むしろ増えているのではないか。
 グギ氏の訃報に接して思い出したことがある。グギ氏が亡命する前に住んでいた家を訪ねたことだ。ナイロビから遠く離れていた。グギ氏はケニア最大部族キクユ族の出身。モイ大統領は少数部族カレンジン族出身であり、そのこともあってかグギ氏は疎まれたようだ。グギ氏の妻が暮らすと聞いた家を訪ねると、彼女は台所仕事をしていた。ごく普通の質素な家の台所。私が簡単な自己紹介を済ませて突然の来訪を詫びると、彼女は困惑したような笑みを浮かべた。「特段お話することはありませんよ」という感じで。台所の壁には夫を追放したモイ大統領の肖像(写真)が飾ってあった。不思議な思いで肖像を見つめた。グギ氏の妻は品のある顔立ちをしていた。私はなぜ彼女の家を訪ねたのだろうか。この訪問は記事にはしなかった、できなかったのではないかと思う。

“I’m sorry I do’t have a plane to give you.”

20250524-1748059974.jpg トランプ米政権の発足以来、新聞の国際面などで報じられるニュースはあまり読む気になれず、従ってこのブログで扱うこともあまりなくなった。それでも時にはこれはやり過ぎだろとあきれてパソコンに向かうこともある。最近では名門ハーバード大に対する留学生追放令か。外国からの留学生受け入れに必要な連邦政府認定が取り消されることになる。そうなればハーバード大は新たな留学生の受け入れができなくなり、在籍中の留学生は他大学への転籍を余儀なくされるとか。開いた口がふさがらないとはこのことだろうか。
 読売新聞から引用すると、ハーバード大に対する今回の措置の理由について、国土安全保障省の長官は「ハーバード大がキャンパス内で反ユダヤ主義を助長したことや中国共産党と協調している」責任を問うためと説明している。トランプ政権はすでにハーバード大を始め他の名門大への連邦政府の資金援助を凍結している。外国からの留学生の授業料は各大学にとって重要な資金源となっており、今回の新たな締め付けで各大学は財政的にさらなる窮地に立つ。トランプ政権の権力、支配力を誇示したい思惑が見え隠れする。
                  ◇
 トランプ大統領は南アフリカのシリル・ラマポーザ大統領をホワイトハウスに招いて会談したニュースでも物議を醸した。これはおそらくトランプ大統領と一時(今は多少冷却化?)親密な関係にあった南ア出身の実業家イーロン・マスク氏が悪しき情報を吹き込んでいるのではないかと思われる。
 南アはアパルトヘイト(人種隔離政策)が制度上は消滅した今も多数派の黒人社会と少数派の白人社会の軋轢が続く。白人のマスク氏がラマポーザ政権にどういう思いを抱いているか知らないが、良くないであろうことは想像できる。読売新聞を再び引用すると、トランプ氏が南アで白人、特にアフリカーナーと呼ばれるオランダ系白人の人々が迫害されていると根拠の乏しい持論を振りかざしたのだという。これに対し、ラマポーザ氏は両国の関係悪化に歯止めをかけるべく冷静に反論を展開したとか。
 南ア社会には今なお癒やしがたい人種間の溝が残り、多くの国民が経済格差、犯罪発生に悩まされているが、アフリカーナーの人々はまだ富裕層に属しており、底辺で依然苦悶しているのは圧倒的に貧しい黒人層だ。トランプ氏はアフリカーナーの多くの人々が殺害された後に埋められているとして白い十字架が両側に並べられた一筋の道路のビデオをラマポーザ氏に示したが、実はそれは墓標などではないことが後に判明した。
 ラマポーザ氏がトランプ氏の誤解を解けたかどうかは分からないが、ラマポーザ氏がなかなかの役者であることを再認識するエピソードもあった。アパルトヘイ時代に彼が労組の指導者だった頃に、私は彼の記者会見に何度か立ち会ったことがあるが、その頃から老獪な交渉者であることは承知していた。彼は今回の首脳会談に際し、「防戦一方」ではなかった。会談の合間にトランプ氏に “I’m sorry I do’t have a plane to give you.” と痛烈な皮肉の一言を放っていた。もちろん、先の中東諸国訪問でトランプ氏がカタールから大統領専用機(エアフォース・ワン)の代替機としてジャンボ機(ボーイング747型)をプレゼント(賄賂?)されたことを皮肉ったのだ。トランプ氏にその皮肉が通じたかどうかは疑わしい。

麻雀人気に思う

 煩悩の塊の私が今なお時間があればパソコンで楽しんでいるのは麻雀と将棋の「観戦」。その他にもいくつかあるが、ここではこの二つの遊戯について思うところを書いておきたい。まず、将棋。日曜朝から名人戦第四局がAbemaTVで生放送されていた。藤井聡太名人対永瀬拓矢九段。聡太名人は強すぎる。判官びいきと言うのであろう、なんだか聡太名人に連戦連敗の観のある永瀬九段を応援したい。そう思いながら見ていた。持ち時間が長いタイトル戦だから、合間に野球や大相撲を見たり、風呂に入ったりしながらの観戦となった。パソコンのスクリーン上に表示されるAIによる形勢判断が行ったり来たりする激戦となっていた。とはいえ、最後には名人が勝利するのだろうなあと思いながら見ていた。
 あに図らんや、深夜になり、挑戦者の永瀬九段が優勢になり、そのまま押し切った。徳俵で踏みとどまった勝利で第5局につなげた。情けないのは、プロ棋士の戦いを見ていて、どちらが優勢かよくは分からないことだ。詰みが近くなっても、それが分からないのは劣等感を覚えるしかない。聡太名人や永瀬九段はもちろんのこと、プロ棋士の将棋脳の世界は私のようなど素人には想像もつかない。
 その点、麻雀の世界は素人にも手が届くように思える。将棋のプロは棋士と呼ばれるのに対し、麻雀のプロの場合はプロ雀士と呼ばれている。麻雀も今ではすっかり「世間」の認知度が上がったようで、AbemaTVなどではプロ雀士の諸団体の定期戦が毎日のように無料配信されている。Mリーグと呼ばれるプロ雀士の団体戦が人気を集めており、1チーム4人で構成される9チームが毎年9月から翌年の5月まで総当たりのプレーを繰り広げ、セミファイナル(6チーム)、ファイナル(4チーム)の総力戦で優勝を争う。最新のMリーグは終了したばかりで最後まで予断を許さない白熱したゲームとなり、セミファイナルで3位につけていたチームが見事逆転で初優勝を飾った。
 それにつけても、一昔前までは麻雀がこれほどお茶の間で楽しめる遊戯になろうとは想像もしなかった。これもAbemaTVのようにインターネットテレビの普及のおかげであり、地上波テレビだけだったらここまでは普及しなかっただろう。Mリーグはしかも、数々の有力企業が参加している麻雀チームのスポンサーとなって支えている。何しろ、あの朝日新聞社も参画していて、終了したばかりのシーズンは「朝日新聞Mリーグ2024-25」と銘打たれていた。
 私は将棋については駒の動かし方は承知しているが、定石は理解していない。だからへぼ将棋だ。麻雀の腕前もたいしたことはないが、まあ、そこそこ打てるとは思っている。とはいえ新聞社を辞めて以来、久しく卓を囲んでいない。近い将来、卓を囲むこともありそうにはない。インターネットで観戦するだけで十分だ。麻雀は将棋とは異なり、運の要素が極めて強いゲーム。将棋はプロ棋士に素人は1万回対戦しても1回も勝てないだろうが、麻雀は素人がプロ雀士と対戦しても結構勝てる可能性を秘めていると思う。それだけ運の要素が強いからだ。
 運の要素が大きく、素人でも勝てる可能性のある遊戯にプロと呼ばれるプレーヤーが存在すること事態を不思議に思わないでもない。

筆記試験は a written exam

 私は煩悩の塊・・・。多少自虐的にそう思うことがよくある。人様には語れない。いつになったら、煩悩の塊から脱却できるのだろうかとも思う。命が絶える時まで、つまり一生できないか。しかしながら、煩悩を抱えているからこそ人間ではないのか。煩悩をきれいさっぱり捨て去ったら、神か仏の領域に近づくのではとも思う。恐れ多いことだ。それなら、今の煩悩の塊のままでいいか・・・。
 それはさておき、煩悩とは英語では何と表現するのだろうか。和英辞書には worldly desires と載っていた。worldly を英和辞書でひくと、現世の、世間の、世俗的な、世慣れたなどといった訳が出ている。worldly pleasureは浮世の楽しみだとか。なるほど、私は煩悩の塊ゆえ、worldly pleasure はもろもろある。決して自慢できないものも含まれるが、一介の素浪人となっても退屈することはないかと思う。
 英語の話題でもう一つ。つい最近、軽いショックを受けたことがある。高校の授業で使っている問題集で、免許証を手にするためには実地試験と筆記試験に合格しなければならないという英文が紹介されていた。実地試験は a driving test で理解できる。問題は筆記試験。4択の一つに a writing test があり、私はこれでいいととっさに判断した。選択肢の一つに a written test があったが、私は writing test で満足していたこともあり、深くは考えなかった。「(紙などに)書かれた試験」と考えると、a written test が正答だという。a writing test だと「英作文の試験」や「論文の試験」といったニュアンスになるようだ。口頭試験(an oral exam)に対する筆記試験は a written exam が正しいとか。うーん、知らなんだ!
                  ◇
 最近考えるのは生成AIのこと。生成AIの普及が手放しで喜ばしいことかどうかは分からないが、無限の可能性を秘めていることは間違いないようだ。私自身、英語や中国語の独学でお世話になっているし、これからもますます頼ることになりそうだ。
 生成AIを駆使した精巧な人間型ロボットが出現するようになれば、巷間言われているように、多くの仕事がそうしたロボットに奪われ、人間はいよいよ肩身の狭い世の中に暮らすことになるのか。いや、そもそも地球環境を破壊し、残忍極まりない戦争に明け暮れ、テロや犯罪に現を抜かす人間にこれからも地球に君臨し続ける資格があるのか。道義的にもロボットが人間に取って変わる時代が到来するのではないか・・・などと夢想する。
 さらには生成AIが今後さらなる進化を遂げ、人類はやがて犬や猫といったペット、さらには大空を舞う鳥類とも会話できる時代が到来するかもしれない。彼らが何を訴えているのかが生成AIの最新の機器を通して理解できるようになる。そうなれば人類にとっては思わぬ副産物がもたらされることにもなるやもしれない。我々には遠く及ばない不思議な能力を秘めた犬や猫、さらには鳥類が近く地球を襲う天変地異を人類に警告してくれるかもしれない。大地震や大津波の襲来に怯える日本にとってはこの上ない朗報となるだろう。
 外国語の学習(習得)の必要性にも?がともる可能性は否定できない。ただ、文学作品の味わいはやはり、その言語が読めてこその世界だろうから、バイリンガルやマルチリンガルの意義が損なわれることはないだろう。そう信じたい!

さて仕事モードへ

 連休も終わり、仕事モードが戻ってきた。なんだかなあという気分に陥りそうなのが怖い。毎朝、曲がりなりにもきちんと目覚め、また新たな一日をスタートさせることができる幸せに感謝すべきだろう。八百万の神にも敬意を抱き、主キリストにも毎朝祈りを捧げる身としては日々感謝のときを過ごさなくてはいけないことは承知している。とはいえだ・・・。
 今週日曜からはオンライン英語教室も再開する予定。短編小説を読み、読解力(翻訳力)を身につけようという教室だ。英語と言えば、毎日新しい表現や気づいていない表現の仕方などに出合っている。数日前には日課のキリスト教の祈祷書(devotional)を読んでいて、次の文章を見つけた。For twenty-two years, I home-taught our five boys. 執筆者は女性の信者。手元の英語辞書には home-teach という語は出てこないが、意味合いは容易に想像がつく。子供たちを学校教育ではなく、ホームスクール(在宅教育)で育てたということだ。5人の男の子たちを足かけ22年間も自ら教えたというのは凄い。おそらく中学校ぐらいまではホームスクールで育て、高校からは従来の教育施設に通わせたのだろうか。
 日本ではホームスクールはあまり馴染みのない制度(実態)だが、アメリカでは珍しくないようだ。上記の祈祷書にはホームスクールで教育している事例が時々紹介されているし、2011年にアメリカを旅している時にもそういう子供たちに出会ったことを覚えている。ホームスクールならさすがにいじめや不登校などの問題は生じないだろう。ただ、そうして成長した子供たちが高校以降あるいは社会人となって、周囲の人たちと上手に付き合っていけるのだろうかという疑念を禁じ得ない。もっとも、これは大きなお世話かもしれない。
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 連休が終わったことだし、日中は凄く暑くなったような気がするので、ガスヒーターを片付けた。片付けたといっても、台所に備え付けてあるガス栓からコードを抜き、そのコードを巻いて、ほこりを拭いたヒーターとともに部屋の片隅にしまうだけのごく簡単な作業。昨年はいつ頃片付けたのだろうかと思い、手帳を取り出して確認すると4月18日にガスヒーター片付けと記している。昨年の方が今年より早く夏めいたのだろうか?
 教えている中学校、高校でも連休前の今月1日からクールビスがスタートし、ノーネクタイでの勤務がOKとなっている。惰性で今もスーツにネクタイで出勤しているが、蒸し暑くなってきたら、嫌でもノーネクタイを選択せざるを得ない。上着がないとスマホや小銭入れを手元に置けず「心細い」から、薄手のベストをシャツの上に着ることになる。
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 京都競馬場は好天もあり、多くの人々で賑わっていた。私は一階のフードコートで友人と焼き鳥にチップスを肴に生ビールを飲みながら、正面の壁に掛かっている大型テレビでレースを楽しんだ。競馬場に着くまでの電車の車中では私と同年配の男性二人が競馬新聞を手に予想に花を咲かせていた。いつぞやの私の姿だが、一人は定年後の暇つぶしに競馬に手を染めているようにも見受けられた。予想している時にはこの馬以外に一着入線する他の馬がいるとは考えられないものだ。しめしめ、今日は大金を手にすることになるぞと。その結果は? ギャンブルは賭けることはせず、傍観して楽しむだけで十分だ!

神戸でIC定期券を紛失!

20250505-1746445933.jpg 連休を利用して久しぶりに関西に一泊二日の旅に出かけた。最初の日は京都・淀の京都競馬場。競馬好きの友人と再会し、彼の馬券が「実る」ことを願ったが、あいにく討ち死に終わった。その日のメインレースが終わったところで競馬場を後にして、近くの居酒屋でしばし歓談。彼とは東京時代からの付き合いで、その頃足繁く通っていたスナックの女の子や酔客の思い出話で盛り上がった。
20250505-1746446768.jpg この夜は亀岡に住む兄の家を訪ねて、風呂に入って気持ちよく就寝させてもらった。翌日はJR三ノ宮駅に足を運び、毎年歓談している人たちと寿司屋で歓談した。昨年も五月の連休の時期に会っており、一年ぶりの再会。近況を語り、楽しいお昼過ぎのひとときを過ごした。ビールから日本酒を飲んだが、体調は悪くないのだろう。気持ちよく杯が進んだ。お開きになった後でカフェでコーヒーを飲んでさらにおしゃべり。
 何時頃か覚えていないが、皆さんと別れて駅に向かう。私は地下鉄でJR新神戸駅へ。新幹線の自由席券は出発前に買い求めている。地下鉄に向かう途中で小銭入れに入れていたJR九州のICカードSUGOCAを探す。あれ、どこにもない。小銭入れにもジャンパーのポケットにも。ズボンのポケットにももちろんない。背負っていたバックパックも念のため調べたが、見当たらない。しまった。どこかで落としたみたいだ。会食した寿司屋からそう遠く来ていないので再訪してテーブルの周囲を探させてもらったが、ない。カフェに電話をして忘れ物を尋ねたが、そこにもない。
 とすれば、JR三ノ宮の改札を出た時はSUGOCAを使っているわけだから、そこから寿司屋に向かっている時か、会食の後にカフェ経由で地下鉄の駅に歩いている間にポケットからこぼれ落ちたのだろう。どうしてそうなったのか全然分からない。酔ってはいなかったし、普通そんな不注意なへまはしない。???
 いずれにしろ、手元にSUGOCAがないことは事実。電車の定期券を組み入れているからショックだ。先月初めに半年間の定期を更新したばかり。領収書で確認すると77,130円を支払っている。10月までの定期だから、まだ大半が未使用だ。福岡に戻った翌朝、定期券を購入した駅に足を運び、相談してみた。窓口の駅員さんが「再発行できますよ」との由。もちろん、手数料が必要だが、再発行してもらえれば、最悪の事態は回避できる。紛失した定期券には定期的に5,000円の現金もチャージしていたが、これは今回の遠出で大半を消費していたので気にもならない。
 それにしても私は外出すると、最近はこのようなうっかりの失態をしでかしてしまう。情けない。弁解の余地なし。今回の失態を肝に銘じて日々を送ろう!
 ところで新大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り、京都競馬場に向かったのだが、新大阪駅が内外の観光客でごった返していた。そう、大阪・関西万博だ。私は全然興味も関心もないので、頭になかった。いや、とんでもない時期に関西への旅を選択したものだとちょっと悔いた。新幹線に関して次のことも付記しておきたい。上述の通り、新神戸から博多に戻ったのだが、新神戸駅を発ったのが午後5時50分で、博多駅着が9時51分。4時間も乗っていたことになる。自由席は空いていたが、さすがに疲れた! のぞみ号にしておけば良かった!

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