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クリスティー『象は忘れない』論

   (アガサ・クリスティー『象は忘れない』の真相に近いところまで言及しますので、ご注意委ください。)
   この『象は忘れない』も、過去の事件の解明にポアロが取り組む『五匹の子豚』『マギンティ夫人は死んだ』『ハロウィーン・パーティ』と同系列の作品です。真相解明が不充分だったがため、遺された人々にとっては過去の出来事に対する不鮮明さがトラウマになっていたりもします。物語においてトラウマを背負った人物は一種の決断を迫られます。もし解明された事実が自分にとって不都合なものだった場合、その人物の絶望は決定的なものになります。もし解明された事実が自分の思い込みに過ぎなかったと判明した場合、その人物はトラウマから解放されることになります。この「過去の事件」系の作品は、精神分析学的主題を内包してといえるでしょう。『マギンティ夫人は死んだ』の被疑者のように自分の人生を捨て去ってしまったような場合もありますが、この『象は忘れない』のシリヤ・レイヴンズクロフトは、『五匹の子豚』の主人公と同じように自分の過去の真実に敢然と立ち向かいトラウマと対決しようとするのです。
   今回は女流探偵作家アリアドニ・オリヴァが依頼を受けます。文学者の昼食会でミセス・バートン・コックスが声をかけてきたのですが、自分の息子が婚約したシリヤ・レイヴンズクロフト(オリヴァ夫人の名付け子)の両親は、10年以上前に同時に射殺されていました。警察の捜査では心中事件ということで片付けられたのですが、どちらが先に撃ったのか、そして心中の真の理由は何だったのかが気にかかるというのです。
   オリヴァ夫人から相談を受けたポアロが着目した事柄は次の2つです。
   ・かつら(シリアの母の所有数が多い)
   ・夫婦の飼い犬(は、どうなったのか)
   名探偵だけ感受できる微細な違和感が、やがて事件全体の解明に役立っていくという推理小説のセオリーを見事に踏襲しています。その違和感の小ささと、得られた情報量の多さとのギャップが大きければ大きいほど推理小説としては成功しているといえるのですが、読者の皆様はどのように評価されるでしょうか。
   概して人は違和感を抱いたとき、それをできるだけ手近でわかりやすい理由をつけて解消しようとします。そもそも人間の精神は不明なものを感じ続けると不安になるようにできているのでしょう。眼前にある異質なものに対して合理的で面白い存在理由を案出できれば、最もすっきりできるはずなのですが、明確なものが得られるまでの不安定さを放棄してしまいがちになるのが人間なのです。やはり名探偵は特殊な資質に恵まれているといえます。
   物語の中で双生児に対する言及がでてきます。双生児は趣味や嗜好、行動パターンまで近似する(例えば好きになる異性のタイプまで同じ)場合が多いとはよくいわれることですが、一方で執拗に激しく(それこそ殺したいほどに)憎み合う場合もあるそうです。前者と後者の相違はどこから発生するのか。その点について、どのような心理学的あるいは生物学的な分析がなされているのか。興味深い問題だと思いました。
 

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