柚のかくし味 by 柚


2004-06-03 ジャズ喫茶リバーサイド

福岡に初めてできたジャズ喫茶がリバーサイドだった。その名の通り中州の川沿いの地下にその店はあった。オープンは昭和40年代の前半。ほとんど聞いたことのなかったジャズという音楽はなんとも強烈だった。音はまず足下からはい上がってきて、それからお腹の底に届き、ついには心を揺さぶり、脳天まで突き抜けた。それまでに聴いたどの音楽よりも心に届く、そう感じられた。

なによりもジャズ喫茶という言葉そのものが魅惑的で心をそそられた。ジャズを聴いていると不安になった。なぜか落ち着かないのだ。今日、急にそのことを思い出した。いま、リバーサイドはどうなっているだろう。25年ぐらいたっているから、あのままのはずはない。記憶の中のリバーサイドがとても懐かしい。


2004-06-11 『駆けぬけて〜回想 伊藤正孝』

現場主義という言葉の重さにわたしが初めて出会ったのは、伊藤正孝さんの追悼集『駆けぬけて〜回想 伊藤正孝』を編集したときである。朝日新聞の記者から朝日ジャーナルの記者に転身、編集長をしていた伊藤さんは、精力的に仕事をしていたのに、癌に冒され、1995年、58歳という若さで亡くなった。

追悼集の巻頭に最後の論が掲載されている。彼はそこに「この戦争に命をかける値打ちがあるか」という自問自答を紛争取材の前に繰り返さない記者はいないだろう」と書いている。そして最後の言葉に「ゲリラ戦は一国の経済にとって死に至る病である。政府軍は戦闘に勝っても戦争に負けてしまう。この現象はもっと各国に学ばれてもよい。その実際を伝えるのも、現場からの報道なのである。」を遺した。

それは今まさにイラクという国の現状である。朝日新聞で初めてアフリカ支局を作り、当時のビアフラの大虐殺を、アフリカの飢餓を伝え続けてくれた人だ。彼がいま生きていたら、なんていうだろう。きっと、「報道記者はまず現場にいけ」というだろう。

この追悼集は優れた本だと今でも思っているが、わずかの部数しか作らなかった。しかし、生前の伊藤さんの書いたものを読んだファンは多いにちがいない。朝日ジャーナルに書きつづけた巻頭言をまとめた『野戦服宣言』は、背広を脱ぎ捨て、つねに戦いの場に自分を置いて、世界各地で起っている弱者つぶしの現状を告発しつづけた伊藤さんらしい言葉に満ちている。

いま、イラクでそして、世界各地で、ジャーナリストは少しでも多くの人に、真実を知らせようとしているのだ。

これを読むと、今のジャーナリズムの報道はこれでいいのだろうかとつい、考えてしまう。

現場主義という言葉の重さにわたしが初めて出会ったのは、伊藤正孝さんの追悼集『駆けぬけて〜回想 伊藤正孝』を編集したときである。朝日新聞の記者から朝日ジャーナルの記者に転身、編集長をしていた伊藤さんは、精力的に仕事をしていたのに、癌に冒され、1995年、58歳という若さで亡くなった。

追悼集の巻頭に最後の論が掲載されている。彼はそこに「この戦争に命をかける値打ちがあるか」という自問自答を紛争取材の前に繰り返さない記者はいないだろう」と書いている。そして最後の言葉に「ゲリラ戦は一国の経済にとって死に至る病である。政府軍は戦闘に勝っても戦争に負けてしまう。この現象はもっと各国に学ばれてもよい。その実際を伝えるのも、現場からの報道なのである。」を遺した。それは今まさにイラクという国の現状である。朝日新聞で初めてアフリカ支局を作り、当時のビアフラの大虐殺を、アフリカの飢餓を伝え続けてくれた人だ。彼がいま生きていたら、なんていうだろう。きっと、「報道記者はまず現場にいけ」というだろう。

この追悼集は優れた本だと今でも思っているが、わずかの部数しか作らなかった。しかし、生前の伊藤さんの書いたものを読んだファンは多いにちがいない。朝日ジャーナルに書きつづけた巻頭言をまとめた『野戦服宣言』は、背広を脱ぎ捨て、つねに戦いの場に自分を置いて、世界各地で起っている弱者つぶしの現状を告発しつづけた伊藤さんらしい言葉に満ちている。

いま、イラクでそして、世界各地で、ジャーナリストは少しでも多くの人に、真実を知らせようとしているのだ。

これを読むと、今のジャーナリズムの報道はこれでいいのだろうかとつい、考えてしまう。


2004-06-13 リバーサイドは健在なり

あのジャズ喫茶「リバーサイド」は健在だった。

よき友人達が付き合ってくれて、軽い夕食後、そのリバーサイドへ。途中、ついに玉屋百貨店の解体を始めているのを知った。なんか時代を感じるなあと思いつつその場所へ。記憶というものはいいかげんで、地下にあったとばかり思っていたら、実は狭い階段を上る2階にあった。わたしの思い込みはジャズという音楽が持つ、暗さのせいだったのかも知れない。

ま、というわけで行き着いたリバーサイドは、たぶん、昔と変わらなかった。というよりは、きっとこんなだっただろうと思うのだ。足元から立ち上がってくる音の響きから、これでは地下と思い込んだのも当然な気がする。ライブがあっていて、若い女性歌手のボーカルを聞きながら、思いはン十年前に。

友人の撮ってくれた写真がすてき。

http://www.hopetour.net/river-side-jazz/3/2.htmhttp://www.hopetour.net/river-side-jazz/2/3.htm

ジャズは、その底に悲しみがあり、だからこそ、心にどんと入り込んでくるのだろう。悲しみを否定しなくなってはじめて、楽に生きられるようになった気がするから。

こんな古きよき時代への放浪もたまにはいい。。


2004-06-30 「永久就職」というまやかし

ついに年金のことを考える年齢になった。

自分で自分の報酬を決められるので、今後の報酬額によって、今後の年金の行方はどうなるかをシミュレーションしてもらった。ここで一番のショックは、独身の頃、公務員共済と厚生年金に加入していたのに、辞めたときに勧められて、退職一時金をもらっていたために、相当損をしているらしいということだった。あの頃、女性が辞めて結婚すると、「永久就職」などといって、当然のごとく、夫の扶養になる人が多かった。

しかし、ある程度の年齢になると、俄然また働きたくなる。それでまた、国民年金に入るか、社会保険に入るかである。私もみんなと同じ道を辿っている。地方公務員共済、厚生年金、任意国民年金と渡り歩き、会社を興したときに厚生年金に戻った。それが15年しかない。一時金をもらっていても、月数には加算されるらしく、ぜんぶ足すとかろうじて需給資格のある月数に達しているらしい。それでやがて60歳になるともらえるようになるのだ。

それにしても、なんということ。「永久就職」などという言葉のまやかし。男性の場合、一時金をもらう人はほとんどいないのに、女性は多くの人がもらってしまう。今後の年金の行方は混沌としている。私の場合はすでに手遅れだが、これからの女性は、とくに需給年齢に近い人ほど、きちんと調べて考えたほうがいい。

自分の65歳になったときの需給金額までわかってしまったけれど、このままでは食べていけない。本気で老後のことを考えなければ。ふう。今まで、自分の先行きのことなど、考えたこともなかったけれど、ぜったい、何とかしよう。しなければ。


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「永久就職」というまやかし

2004-06-13
リバーサイドは健在なり