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これも無理を承知で

  • 2016-05-05 (Thu) 11:28
  • 総合

 本日は子供の日。窓の外は明るい陽光が降りそそいでいる。この二三日、押し入れの布団や毛布をベランダで干している。気分もいい。これで地震の憂いがなければチェゴ(최고:最高)なのだが・・・と思っていると、久しぶりに揺れを感じた。震度1かな?
 『ペリー提督日本遠征記』(“Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan”)について追記。幕末が迫っていた19世紀半ばの日本の社会が、幕引きの要因ともなった米艦船・黒船を率いたペリー提督側の視点から描かれていて、「お歯黒」など当時の風習が興味深く書かれていることなどは既述した。追記したいのは、明治維新の陰の原動力ともなった幕末の志士、吉田松陰の密航の企てが言及される場面。松陰が弟子の金子重之助と一緒に、下田に投錨していた米艦船に乗り込み、密航を試みるものの失敗に帰する経緯だ。
 もちろん、ペリー提督たちにこの二人の素性が詳しく分かっていたわけではない。それでも、二人の青年のたたずまいが強く印象に残ったことは間違いないようだ。次のように記されている。「彼らは教養ある人物であり、標準中国語を流暢かつ端麗に書き、物腰も丁重で非常に洗練されていた。提督は彼らの来艦の目的を知ると、自分としても何人かの日本人をアメリカに連れていきたいのはやまやまだが、残念ながら二人を迎え入れることはできない、と答えさせた。(中略)提督の回答に二人は大変動揺して、陸に戻れば首を斬られることになると断言し、とどまることを許してもらいたいと熱心に懇願した
 鎖国体制を辛うじて維持していた幕府は外国への旅を企図する民は誰であれ極刑に処していた。ペリー提督にとっても幕府の不信感を招く行動に出るわけにいかなかったことは理解できる。しかし、もしペリー提督が有為のこの二人を匿い、アメリカへの帯同を許していたならば、明治維新期の日本はどうなっていたのだろうかと思わざるを得ない。いまさらこのような「たられば」は詮無きこととは分かってはいても。
 『遠征記』は次のような記述もある。「この事件は、知識を増すためなら国の厳格な法律を無視することも、死の危険を冒すことも辞さなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、実に興味深かった。日本人は間違いなく探求心のある国民であり、道徳的、知的能力を広げる機会を歓迎するだろう。(中略)この日本人の性向を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか!」。そこまで感じていたなら、連れて行ってくれたなら良かったのに! 松陰は安政の大獄に連座し、江戸で刑死。金子重之助はその前に牢死している。
 時代劇のドラマを見ていて、時として憤りを覚えるのは、お殿様や上役の逆鱗に触れた下級武士が切腹を命じられるとか、主君の死を受け、臣下が殉死することがごく当然の義務と見なされた、といった理不尽な行為がまかり通っていたことだ。士農工商というあこぎな身分制度は言わずもがなだ。今の世の中はそれに比べれば格段にいいと思う。とはいえ、例えば100年後の人々が2016年前後の日本を見て、「ああ、昭和から平成という時代を生きた人々は何と愚かで不幸だったことよ」と哀れに思うことはないのか? 地震台風の災害は別としての話だが。まあそんなことを夢想してみてもこれも詮無きことなのだろう。

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