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不均衡の極致~ 映画『山河ノスタルジア』を観て

ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)監督の『山河ノスタルジア』を観た。

例えば、タオの父が営む家電屋のドアの音。

不均衡に「でかい」音がするのである。この映画の中には、面白いほどに「不均衡」なものが横溢している。

花火やダイナマイトの爆発音。祭りやディスコで鳴る音楽。

何も音だけではない。登場人物たちの演技に突然介入する不思議な間。異常に遅いタオのバイク。困惑から喜びへと豹変する彼女の表情。

唐突に落下する飛行機。横転しそうになりながら石炭を落とすトラック。斜めに飛ぶヘリコプター。

それらを単なるディフォルメな表現と解してもつまらないだろう。また人は「極端な描写」にこそリアリティを感じてしまうのかもしれない。

しかし映し出される個々の画面は、「郷愁」や「自然」を描くという意図を遙かに超えて存在している。

映画においては調和だけが美しいのではない。作品『山河ノスタルジア』は、その事実をあらためて思い起こさせてくれる。

物語は、別れた旧友の不治の病、父の死、息子との再会、その息子の中年女性との恋へと、まさに予定調和から遠ざかるように横滑りに滑っていく。物語の展開そのものが「均衡」を欠いているのである。だからといって、映画『山河ノスタルジア』は「故郷喪失者の破滅的悲劇」という、ありきたりな物語へと集約されていくわけでもない。

これとて、人は、断片的な記憶で形作られるリアルな「人生の物語」を読みとってしまうのかもしれない。

しかし、そこに人が何を読みとろうと、最後に踊るタオのダンスの生々しさは如何ともしがたいのではないか。

雪の光景にも、タオの年齢にも不似合いなダンス。彼女は単に懐かしがっているだけなのか。それとも、年甲斐もなくふざけているだけなのか。

どんな解釈してみたところで、この作品がもつ生々しい不均衡を調整しつくすことはできない。

今一度いうが、映画においては調和だけが美しいのではない。

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