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『謎解きはディナーのあとでスペシャル』考

  3月27日。ついに原作にはないオリジナルドラマができてしまいました。「探偵ガリレオ」もドラマ化に際しては、原作にないキャラクターを登場させたりしていましたが、まだしもストーリーは原作に忠実でした。「謎ディナ」の場合はドラマが一人歩きしたことになります。これもミステリーというジャンルの強みなのかもしれません。ドラマの中だけで生きている傑作ミステリー(「刑事コロンボ」「名探偵モンク」「古畑任三郎」など)や漫画やアニメの世界だけで生きている傑作(「名探偵コナン」)があれば、この度のシャーロック・ホームズの映画のように原作とは違った次元の作品が存在したりもします。活字で表現された小説という形態をとらなくても、面白い作品が作り出されたりする根強さのようなものをミステリーは持っているような気がします。
  今回の物語のポイントは、麗子が影山に充分な情報を伝えられなかったという点にあります。冒頭の学校での盗難事件も、画家の殺害事件も、麗子が「言い落とし」してしまったことが明確になることによって、影山は事件を解決できているのです。
  逆に考えてみると、これまでの事件においては麗子は完璧な報告者になることができていたということです。ドラマにおいては、影山が姿を隠して捜査のなりゆきをこっそりみていたという設定になっていますが、原作では麗子が正確な捜査報告をしているがゆえに影山は謎解きに成功しているのです。その正確さたるや詳細を極め、例えば玄関に白い靴があったことや、会話の途中で容疑者兄弟がライターの貸し借りをしたことなど、単に事件の概要を説明するだけでは省略されても仕方がないような事柄についてまでちゃんと説明されていました。影山自身が見ていないことを詳細に掌握できるという点において不自然さを感じさせるほどです。
  これはミステリーというジャンルがもっている根本的な問題点なのかもしれません。事件を解決するために探偵役は必要な情報を総て入手しておかなければならないのですが、出来事全般にわたって知悉することは現実的にはたいへん困難なことなのです。その小説が誰の視点で書かれていようと、探偵は神の視点をもっているかのように事件の全貌を理解しなければならないのです。どうして探偵役は総てを知りえたのか、そこのところも上手に書けていない作品には、どうしても不自然さや疑問点が残ってしまうのです。
  そんなことを思い起こさせてくれるドラマになっていました。
 

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