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映画『シャーロック・ホームズ/シャドウゲーム』について

  前作『シャーロック・ホームズ』を観たときは、しきりにダン・ブラウンの『天使と悪魔』が思い出されてしまいましたが、今回は何だか007が思い起こされてしまいました。ただ、このシャーロック・ホームズはジェームズ・ボンドよりも、とぎすまされた身体をもち、鋭敏な観察力と予知能力を発揮できる人物として造型されています。この名探偵の高速度で回転する知能は、彼の身体能力と不可分であるかのように描かれているのです。何よりも、このホームズの事態を「先読み」する力は突出しており、その能力たるや『三国志(演義)』に登場する諸葛公明を思わせるほどでした。
  前作の舞台ではホームズの住むロンドンに文明の力が押し寄せようとしていました。その文明をオカルティズムに転用する悪役が登場してくるわけですが、今回は前作からそれほど時間が経過していないにもかかわらず、さらに文明は進化し「大戦」という名の戦争の影が叙叙に忍びよってきています。実際に大量破壊兵器が登場するにあたっては、ホームズもワトソンもタジタジになってしまっています。しかし、それら人間性を飲み込んでいく文明や戦争の力に対抗できるのが、ホームズのもつような心身能力だと、映画作家は訴えたかったのだと思います。
  今回登場する悪役モリアーティも世界的な格闘家としてホームズに匹敵する身体能力をもった人物として描かれています。原作ではホームズが「バリツ」という日本の武道をマスターしていたから、モリアーティもろとも死なずにすんだという設定になっていますので、この悪役の描かれ方も少し違っています。映画を観ている限り、モリアーティの身体能力は劣化しているような印象を受けました。彼とてモーツアルトやシューベルトの音楽を聴いたりして、自分の感性の維持には努めているようですが、身体能力というものは、それをエゴイスティックに悪用しようとしたとたんに劣化し始めるものなのかもしれません。
  

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