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英語でさるく 那須省一のブログ

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“keep up appearances”

 国内外で大きな動きが起きている。変わりがないのはウクライナが舞台となったロシアの侵略戦争だ。プーチン露大統領が心変わりしない限り、ウクライナの人々の窮状は続く。ウクライナが攻勢を強め、ロシアの被害が拡大すれば、プーチン氏が核兵器を使う可能性だって否定できない。出口が一向に見えない。
 新聞社の国際部に籍を置いていた身であれば、本来ならイスラエルとイスラム主義組織ハマスの和平交渉について書くべきなのだろうが、中東情勢は直接取材した経験が乏しい。従ってネタニヤフ・イスラエル首相が何を考えているのかとんと分からない。今の惨状は明らかにイスラエルの一般市民を襲撃したハマスの残忍なテロが引き金となったことは間違いないだろうが、ユダヤ人とパレスチナ人との確執は門外漢には容易に口をはさみ難いことも事実。ガザ地区を着の身着のままで追われ、飢餓の危機にさらされているパレスチナ住民には一日も早く安寧の日々が戻ることを願わざるを得ない。
                  ◇
 土曜日の午後、外ではもの凄い雨が降っている。私が住んでいる沈滞の安マンションは出水の心配をする必要はないが、他の周辺地区はどうだろうとちょっと心配になる。NHKテレビの自民党総裁選の開票作業の報道を横目にこの項を打っている。総裁選はどうやら高市早苗氏と小泉進次郎氏の決選投票になったようだ。テレビで二人が決選投票を前に行った最後の演説に耳を傾けたが、正直、心を打つ内容ではなかった。どちらが新総裁、続いて新首相に選出されても何だかなあと思わざるを得ない。どちらが選ばれるにせよ、今の日本国民の民度に相応しい人物なのだろう!(高市氏が結局勝利した)
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 英BBCのホームページを見ていたら、ある女優の訃報が目に入った。見出しはKeeping Up Appearances star Patricia Routledge dies at 96 (「キーピング・アップ・アピアランシィズ」のスター俳優パトリシア・ラウトレッジ氏が96歳で死去)とある。
 私が新聞社のロンドン支局に勤務していた1990年代、見出しにうたわれたこのドラマが大好きでよく見ていた。英国の庶民の上流志向をユーモラスかつ皮肉たっぷりに描いた喜劇で、彼女の計算された何気ない仕草に何度笑わされたことか。実力に裏打ちされた名演だった。このドラマに出ていた役者の大半は鬼籍に入っているのだろう。そうか、彼女もついに逝かれたか。
  “keep up appearances” は英語でよく見られる表現で「世間体をよくする、見栄を張る」という意味が辞書に載っている。彼女が演じたのはロンドンの郊外の住宅に住む主婦、ハヤシンス・バケット(Hyacinth Bucket)。私の印象に残っているのは彼女、すなわちバケットさんが自宅にかかってきた電話に出る時など、自分の名前をBucketとは言わず、Bouquet(ブーケイ)と発音し、あたかもフランス名のような気取った印象を漂わせていたことだ。BBCの記事は次のように記述。She pronounced “bouquet” – a comic creation who lampooned the extremes of English pretension and snobbery. そう、イングランド人の上流崇拝、俗物性をユーモラスに描き、健全な笑いをもたらしてくれるいいドラマだった。

ドジャース、ナ西地区優勝!

 ふと気がつくと9月も残り数日、10月がすぐそこに来ている。はて、先日、新年を迎えたばかりではなかったか。時間が経つのが早過ぎる。1年があっという間に過ぎるのであれば、10年もああっという間なのだろうか。私の世代のように残された時間が気にかかる年齢になると、心細く感じるのは致し方ないことか。
 などと落ち込んでいる余裕はない。毎週月曜から金曜まで仕事(授業)があると、文字通り老体に鞭を打って早起きし、職場に向かい、夕刻に帰宅すると、疲労困憊。ときにはシャワーを浴びることさえ億劫に感じる。大学で同じ非常勤講師として教壇に立っていた時は時間的余裕があったのだろう、週末は結構自由な時間が取れ、好きな競馬に現(うつつ)を抜かしていた。当時は今と違い、競馬は文字通り賭け事であり、大枚を賭けていた。悔いるしかないが、悔いてばかりいても仕方がない。私が仮に(可能ならば)100歳まで生きたとして、そうした阿呆みたいな遊興に人より早くお金を費やしたのであって、十分遊んだのだから、これからは心穏やかに生きるのみ。
 ある意味、私の場合は人より長生きしたい理由ともなる。長生きして競馬やパチンコ、麻雀などの賭け事から足を洗った清く正しい時間をできうる限り多く持てば、長生きした分、一年単位で見た遊興費が少なくなる勘定。自分が受けた親切な行為のお礼を無関係の人に施す行為を英語で “pay it forward”(恩送り)と呼んでいた小説を読んだことがあるが、私の場合はさしずめ “play it forward” とでも呼びたい。「先に遊興し、後の人生は質素に送ることで、費やしたコストをできるだけ「低減」したいという苦肉の策だ。亡きお袋がこの項を読んだら嘆くことしきりだろう。おっかさん、許してたもれ!
                  ◇
 やはり、一言は記しておきたい。海の向こうの大リーグ。ナショナルリーグ西地区で大谷翔平君と山本由伸君が所属するドジャースが何とか優勝(地区4連覇)を遂げた。何とかと書くのは終盤戦はリリーフ陣の崩壊で信じ難い逆転負けが相次いでいたからだ。山本投手は何度勝ち星を失ったことか。12勝8敗で終わったのが、痛すぎる。それでも山本投手に対する評価はうなぎ上り。彼の投球術、ボールの質の高さに対する賛美の声はチーム内外から聞こえた。あと2試合を残して54本のホームランを放ち、3年連続4度目のMVP受賞が確実視されている翔平君にはもはや形容する言葉が見当たらない。
 上記の通り、大リーグは残り2試合を消化すれば、すぐにプレーオフに突入する。ドジャースは西地区で優勝したものの、成績は東、中地区の優勝チームには劣るため、ワイルドカードで勝ち残ったチームと対戦し、先に2勝を上げねばならない。アメリカンリーグの代表チームとワールドシリーズでまみえるにはその後も連日厳しい戦いが控えている。両リーグ全30チームの頂点に立つのは並大抵のことではないことがよく分かる。
 翻って日本のプロ野球は大団円に疑問符がつく。セパそれぞれ6チームしかないのに、勝率5割に満たない3位のチームがリーグ優勝する可能性のあるプレーオフ制度。今シーズンはセリーグで巨人が負け越してもプレーオフに進めそうだ。日本一となることも可能。この制度はもう廃止した方がいいだろう。プロ野球に対する興味が失せて久しい。

無限の時空を生きた旅人

20250907-1757216105.jpg 購読紙に同郷の歌人、若山牧水(1885-1928年)にまつわる記事が出ていた。今年が生誕140年に当り、50年ぶりとなる全歌集が角川文化振興財団によって刊行された。編者は牧水研究の第一人者で歌人の伊藤一彦さん(81)(宮崎市在住)。従来の全歌集が絶版となり入手が難しく、字句の誤りもあったことから、伊藤さんの提案で実現にこぎ着けたという。その後新しく発見された5首も含まれているとか。
 記事中に、牧水の子息で故人の若山旅人さんのことも言及されていた。それで思い出した。私は八王子支局に勤務していた駆け出しの記者時代に父親と同じ歌人の道を歩んでいた旅人さんにインタビューして記事にしたことを。はて、隣接の立川市に住んでいた旅人さんに取材した目的はなんだったのだろう。情けない。明確には思い出せない。残念なのは私は記者時代、特にかけだしの頃に書いた記事は手元に残していない。だから、旅人さんの記事も残っていない。ネットの今なら書いた記事をさくっとフォルダーに入れて保管できるだろうし、その他、色々と手はあるのだろう。いかんせん、当時はそういうことは不可能。きちんと記事をはさみで切り取り、スクラックブックに張り付けておくしかなかった。ものぐさの私にはできないことだった。自業自得。
 牧水にまつわるエッセイはこのブログで以前に書いていたことも思い出した。過去のブログを検索してみると、2014年10月に書いていることが分かった。大意、次のように書いている。――「食欲の秋」は酒(焼酎)の美味い秋でもある。郷土の歌人、若山牧水は詠んでいる。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」。牧水の歌で私が好きなもう一つの歌は「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」という一首だ。この歌に「啓発」され、私は随分昔に「寂しさに耐え抜いてこそ優しさか 我一人旅したくなけれど」という駄作をこねたことを覚えている――
 今回の記事を興味深く読んだ。伊藤さんは牧水を世間に流布している「旅や酒の歌人」としてではなく「『あくがれ』の歌人」として解説している。「あくがれ」は現代の「憧れる」の元となった古語で、今在るところから別の彼方へ向かおうとする心の動きを表すのだという。次の歌が紹介されていた。<けふもまたこころの鉦を打ち鳴し打ち鳴しつつあくがれて行く> 伊藤さんは「あくがれを持ち続ける生き方は無限の時空を生きる旅人であることを意識し、何を求めて生きるかを牧水が常に考えていたということだ」と指摘している。そしてまた、あくがれの先に牧水が求めたものは自然との調和であり、他者とのつながりや共同性だったと。
 「無限の時空を生きる旅人」であったという牧水。この夏九州の湯の里を旅しながら意識していた山頭火もしかり。後世に名を残す歌人、俳人は無限の時空を生きていたのであろうか。愚禿凡夫の私などとは吸っていた空気が異なっていたのか。私にも「あくがれ」はある。彼方など果たして存在するのか、するとしたら、ぜひその風景をこの目で見てみたい。それまでは生き長らえるしかない。働き続けるしかない。凡人にとっては有限の時空であっても最終点にたどり着くのは容易ではない。あるのかどうか分からないが、心の中の鉦を探し当て、鳴らし続けて行こう!

“Walking in Grace 2026”

20250907-1757197899.jpg 毎朝読んでいるキリスト教の祈祷書 “Walking in Grace 2025”。次の英語表現に出くわした。These days, his knees are shot, but he is still … 「近頃は彼の膝は撃たれているが、彼は今なお・・・」ではちょっと意味不明か。彼の膝の調子が思わしくないことは推察できる。おそらくshoot(撃つ)から転じたネガティブな意味合いの語ではないか。辞書でshotを調べると、「(神経などが)ぼろぼろになった」という意味合いが載っていた。例文として This car is shot.(この車はガタがきている)。先述の文章は「最近は彼の膝は絶不調だが、それでも彼はなお・・・」と解釈すればいいのかと納得した。「ガタが来た」を英文ではshot を使って表現できるなどとはネイティブでないとなかなか思いつかないだろう。
 ところで9月の声を聞いたので、私はそろそろ来年の祈祷書を買い求める時期が到来したと思った。これまでは友人の好意に甘えて米国在住の家族から取り寄せてもらったりしていた。今年ぐらいからは自力でゲットしようと思った。もっともこれまでも何度もそうトライしていたが、なぜかできなかった。クレジットカードでの決済にこぎ着けることができなかった。今回も最初の何回かは不調に終わった。住所表記がはねつけられる。困った。匙を投げたくなった。時間をおいてアマゾンに再度挑戦してみた。どうせまたはねつけられるんだろうなあと諦め気分で。
20250907-1757198164.jpg だが、最後の挑戦はうまくことが進んだようだ。来年用の “Walking in Grace 2026” を入手することができた。二週間ぐらいで郵便受けに届く予定。届くまでは安心できないが、まあ大丈夫だろう。この祈祷書を独力で入手しようと願ってから三、四年は経ったような気がする。嬉しい。また、この祈祷書に加え、ずっと入手しようと望んでいた米作家オー・ヘンリーにちなんだ “The O. Henry Prize Stories 2025” という文学賞を紹介した米国の短篇集も購入した。これも自宅の郵便受けに届く。以前はこの本は天神の大型書店に出向けば洋書コーナーで買うことができたものだが、今は姿を消した。ネット購入が可能だから姿を消したのかどうか分からない・・・。
 いずれにしろ、心の中でもやもやしていた思いが雲散霧消したので、今はちょっと気分が良い。今日は週末の金曜日。軽く一杯やるか。最近はもっぱらノンアルを飲んでいる。ノンアルと言えども、十分飲酒の雰囲気は味わえる。本当にアルコール成分ゼロなのだろうかと不思議でならない。生ビールや芋焼酎を飲みたい気持ちは今も強くあるが、独りで飲む限りはノンアルで十分。そのうち焼酎もノンアルが発売されないものかな。ノンイモとかノンショチュなどと銘打って。「飲み助」はかくも意地汚いのだ!
 この項は授業を終えて、学校近くのスーパーのフッドコートでパソコンに打っているのだが、そろそろ、帰宅しよう。最寄りの駅に着いたら、いつものスーパーに寄り、ノンアルの肴を買い求めよう。ノンアルでも刺身を食べたい。乾き物も少し。夕食用のおかずは何にしようか。デザートはスイカ。私は前世はキリギリスではなかったかと思うくらい、八百屋でスイカの切り売りを見ると、気がつくと手にしてレジ前に並んでいる。スイカを食べ、仕上げはプレーンヨーグルトにブルーベリー。たまに無調整豆乳にきな粉を混ぜて食べるが、こちらは朝の定番だから夜にまでは食したくないので普段は控える。

日傘が必需品に

20250830-1756543028.jpg 暑い。まだ暑い。出勤時にいや、退勤時にさえ、日傘が欠かせない。喜んで差している。まさか、普段の生活で日傘を差すことになるとは思わなかった。白状すると、日傘は婦女子が使うものだと考えていた。頭髪の薄い、というか世間的には禿げ頭の部類に属すのであろう私は一年中、外出時にはハンチング帽をかぶっている。だからハンチング帽で十分、酷暑の太陽光もしのげると思っていたが、今夏の日差しは限界を超えているようだ。
 私はこの酷暑と線状降水帯による度重なる豪雨は何らかの相関関係があるのではないかとど素人ながら考えている。元凶は地球温暖化ではないかとにらんでいる。日本の亜熱帯化だ。その余波で日本に、特に九州を遅う台風が激減しているのではないか。データの裏付けなどない。調べれば分かることかもしれないが、個人的備忘録に過ぎないブログだから多少の「緩さ」は許してもらおう。私は台風が発生して日本に向かう可能性が少しでも指摘されれば、必ず、ネットの台風関連サイトにとび、日本から逸れるように「念」を送っている。
 ここ数年、「念」を送ることが激減している気がする。これも体感的な印象だ。この点では温暖化も悪くないという思いもするが、手放しで喜んでいていいわけがないことは相次ぐ線状降水帯発生による深刻な水害が戒めとなっている。
 さらに恐ろしいのはいつ襲ってくるか分からない、いや、今後何年だったか、30年以内に確実に起きるであろうと警告されている南海トラフ地震を始めとした大地震や大津波の数々。私の周辺では被害はなかったが、あの東北大地震の揺れ、大津波の恐ろしさはテレビの映像などでしっかり脳裏に刻まれている。あのような、いや、あれを遙かに上回る大地震、大津波が西日本や九州に襲いかかってくるのであろうか。我々にはほぼ何もできないのであろう。日々神様にご加護を祈るしかない。
                  ◇
 中国政府は9月3日の「抗日戦争勝利80年」を記念して北京で行われる軍事パレードに北朝鮮の金正恩氏が出席すると表明した。ロシアのプーチン大統領も他の親中の国家元首や政府首脳とともに出席する。北京中心部の天安門で中国の習近平国家主席とプーチン氏、金正恩氏の三人が並ぶ光景を我々は始めて目撃することになる。
 プーチン氏にとっては中国や北朝鮮との蜜月関係を改めて誇示することになり、それは金正恩氏にとっても中国との緊密な絆を改めて示す上で絶好の機会となる。習近平氏にとっては反中の姿勢を崩さないトランプ米政権に対する強烈な牽制のカードとなるのだろう。
 それにしても、国際情勢はきな臭くなる一方のようだ。ウクライナの戦火は幸い、第三次世界大戦を引き起こすまでには至っていないが、これから先、どうなるのか予測もつかない。トランプ大統領はプーチン氏に終戦(和平)を迫っているが、プーチン氏が望む終戦条件はウクライナ政府が受け入れがたいものとなるのだろう。自らの統治下で台湾を併合したい習近平氏の野望が台湾有事をもたらさないか。核武装で慢心した金正恩氏が暴走する事態は絶対に起きえないのか・・・。
 天変地異の心配も含め、世界は確実に破滅に向かって進んでいるのだろうか。人生の残り時間の少ない我々の世代はともかく、生を受けたばかりの世代にはかける言葉がない。

仕事モードへ

20250826-1756171129.jpg 八月はまだ一週間残っているが、非常勤講師の仕事を頂いている学校は二学期が始まった。休みモードから仕事モードに切り替えなくてはならない。と分かっているのだが、だらけきった身心が果たしてそうなるのか、よく分からない。とりあえず、目の前に迫ったことから着実に片付けていこう。
20250826-1756171175.jpg 韓国語と中国語の独学も中だるみ状態が続いている。NHKラジオの語学講座もぼぉーとした状態で聴き続けているものの、身についているとは言い難い。正直に書くと、中国語にしろ、韓国語にしろ、これから力をつけるとすれば、留学してみっちり語学漬けの日々を過ごすしか手はないのではと思い始めている。それは今の私にはできない相談だが。とにかく今は語学講座をじっと聴き、流れてくる音声ですっと文章が頭に浮かぶかどうかを試している。韓国語も中国語も初級レベルなので、普通なら楽に文章が頭に浮かぶはずだが、悲しいかな、これがなかなか難しい。特に中国語の場合は簡体字を正確に思い出すのが至難の業。声調となると、お手上げになる。恥ずかしい話、昇り調子の第二声と下がり調子の第四声がいまだに正確に聞き取れないことがしばしば。投げ出したくなるというものだ。
                 ◇
 このブログで写真のアップができなくなっていたが、お世話になっている出版社(書肆侃侃房)に相談したところ、問題をクリアして頂いた。それで今回の項から再び写真をアップしている。先の九州湯の旅で足を運んだところの写真を紹介したいところだが、やはり説明がないと寂しい。それで昨日久しぶりにのぞいた焼き鳥屋でいつも食している料理をアップしておく。焼き鳥はやはり美味い。アルコールはしばらく控えたいと思い、生ビールではなく、ノンアル(450円)を注文した。二杯目は焼酎に気持ちが揺らいだが、ぐっと我慢してウーロン茶。この歳になってノンアルとウーロン茶で焼き鳥を食することになるとは思いもしなかった。
 旅の間に読んでいた『山頭火句集』はほぼ読み終えた。色々と考えさせられることの多かった句集だった。この俳人は天涯孤独の身ゆえに各地を行乞(托鉢)して歩いたと思っていたが、結婚して妻子ある身だったことを知った。そして彼が常に頭に宿していたのは句作のことだった。「述懐」と題した随筆で書いている。「私にあっては生きるとは句作することである。句作即生活だ。私の念願は二つ。ただ二つある。ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ。そして他の一つはころり往生である」。ころり往生については先に書いた。
 もう一つ二つ付記しておきたいことがある。山頭火は若くして自死した母親のことをいつまでも敬慕していた。「母の47回忌」と前置きした次の句が心にしみた。――うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする――母親が32歳で自死を選択した時、山頭火少年は10歳だった。私の母親が天寿を全うした時、私はすでに初老の域に達していた。慈母を想う念は比べるべくもないだろう。
 もう一つは彼がこよなく酒を愛していたこと。山口県生まれの山頭火の場合は日本酒だったのだろう。私はどちらかというと焼酎派。次の句――独り飲みをれば夜風騒がしう家をめぐれり――は何となく考え込んでしまう。

『国宝』を観て

 夏休みの間に見ておきたいと思っていた映画があった。『国宝』。世間では結構話題になっているとか。そうしたことに疎い私は何も知らなかった。友人から「推奨」のメールが届いたので、彼がそれほど評価しているのであれば、観てみるかと興味をそそられた次第。
 それで昨日天神の映画館に出かけた。私が時々利用しているのはKBC会館とかいうテレビ局の側にある映画館。小さい映画館で入り口に近い窓口でチケットを買い求める。昨日の映画館は以前に行ったことはあるが、最近はない。それで少し戸惑った。窓口がない。ATMのような機器でチケットを購入する仕組み。若い人たちにはお馴染みだろうが、私のようなアナログ人間には勝手が悪い。それでもなんとかシニア料金の1,300円でチケットを購入。後で思ったのだが、どうしてシニア世代だと機器は分かったのだろう。カメラが内蔵されており、ある程度の年齢に達していると気を利かせて判断してくれるのだろうか。
 さて、肝心の映画。3時間近い長尺物だ。米大作の『風と共に去りぬ』ぐらい長い? いや、あれはもっと長かったか? 『国宝』は途中でトイレに立つご婦人が何人かいたが、無理からぬことと思った。作品はその長さが気にならないほどに緊張感をはらんだいい映画だった。確かに一見の価値ありだ。歌舞伎の女形が主人公となっており、二人の若い男優が際立つ演技を見せていた。男優の名前ぐらいは私も知ってはいたが、実際の演技を目にしたのは初めて。なるほど、人気があるのは宜なるかなだ。
 悪魔に魂を売っても芸(歌舞伎)を磨きたいと願う主人公。彼は裏社会の出自であり、後ろ盾となる家柄ではない。その彼が歌舞伎役者として生き残るのは鍛え抜かれた芸に頼るしかない。迫真の演技に圧倒されながら、ずっと昔に観た中国の映画「さらば、わが愛 覇王別姫」のことを思い出していた。あちらは中国の政治体制の変化、文化大革命の動乱が下敷きになっており、『国宝』とは大いに異なるが。
 記憶に基づいて書いているので誤解があるかもしれないが、それはご容赦を。確か最初のシーンは1970年代だったかと思う。私は高校生の頃。映画の中の風俗や服装などが当時をほぼ忠実に描写しており、引き込まれるように観た。
 もう一つ、感じたことを付記しておきたい。歌舞伎は日本を代表する伝統芸能であり、海外でもよく知られている。しかしながら、私は個人的な興味・関心はあまりない。おそらくこれからもないだろう。劇場に足を運んで出し物を観ることもないだろう。ところで、歌舞伎や能、狂言などの伝統芸能の後継者不足がメディアの話題になることはないような気がする。歌舞伎の行く末を案じる声も聞いたことがないかと思う。(農林業の後継者不足を憂える声はもはや話題にさえならない)。とすれば、歌舞伎などの伝統芸能の世界では世代間の継承が滞りなく行われているのだろうか。
 『国宝』を観て、歌舞伎の美、女形の妖艶さには魅了された。ひょっとしたら、将来歌舞伎の魅力に気づき、熱心なファンとなる可能性もあるのだろうか。そうなったらそうなったで楽しみではあるが、私はやはりロンドンのウエストエンド街で観たミュージカルやオペラあるいはストレートプレイ(straight play=台詞劇)が忘れられない。近い将来再訪してたっぷり楽しみたいと願っている。

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