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英語でさるく 那須省一のブログ

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『国宝』を観て

 夏休みの間に見ておきたいと思っていた映画があった。『国宝』。世間では結構話題になっているとか。そうしたことに疎い私は何も知らなかった。友人から「推奨」のメールが届いたので、彼がそれほど評価しているのであれば、観てみるかと興味をそそられた次第。
 それで昨日天神の映画館に出かけた。私が時々利用しているのはKBC会館とかいうテレビ局の側にある映画館。小さい映画館で入り口に近い窓口でチケットを買い求める。昨日の映画館は以前に行ったことはあるが、最近はない。それで少し戸惑った。窓口がない。ATMのような機器でチケットを購入する仕組み。若い人たちにはお馴染みだろうが、私のようなアナログ人間には勝手が悪い。それでもなんとかシニア料金の1,300円でチケットを購入。後で思ったのだが、どうしてシニア世代だと機器は分かったのだろう。カメラが内蔵されており、ある程度の年齢に達していると気を利かせて判断してくれるのだろうか。
 さて、肝心の映画。3時間近い長尺物だ。米大作の『風と共に去りぬ』ぐらい長い? いや、あれはもっと長かったか? 『国宝』は途中でトイレに立つご婦人が何人かいたが、無理からぬことと思った。作品はその長さが気にならないほどに緊張感をはらんだいい映画だった。確かに一見の価値ありだ。歌舞伎の女形が主人公となっており、二人の若い男優が際立つ演技を見せていた。男優の名前ぐらいは私も知ってはいたが、実際の演技を目にしたのは初めて。なるほど、人気があるのは宜なるかなだ。
 悪魔に魂を売っても芸(歌舞伎)を磨きたいと願う主人公。彼は裏社会の出自であり、後ろ盾となる家柄ではない。その彼が歌舞伎役者として生き残るのは鍛え抜かれた芸に頼るしかない。迫真の演技に圧倒されながら、ずっと昔に観た中国の映画「さらば、わが愛 覇王別姫」のことを思い出していた。あちらは中国の政治体制の変化、文化大革命の動乱が下敷きになっており、『国宝』とは大いに異なるが。
 記憶に基づいて書いているので誤解があるかもしれないが、それはご容赦を。確か最初のシーンは1970年代だったかと思う。私は高校生の頃。映画の中の風俗や服装などが当時をほぼ忠実に描写しており、引き込まれるように観た。
 もう一つ、感じたことを付記しておきたい。歌舞伎は日本を代表する伝統芸能であり、海外でもよく知られている。しかしながら、私は個人的な興味・関心はあまりない。おそらくこれからもないだろう。劇場に足を運んで出し物を観ることもないだろう。ところで、歌舞伎や能、狂言などの伝統芸能の後継者不足がメディアの話題になることはないような気がする。歌舞伎の行く末を案じる声も聞いたことがないかと思う。(農林業の後継者不足を憂える声はもはや話題にさえならない)。とすれば、歌舞伎などの伝統芸能の世界では世代間の継承が滞りなく行われているのだろうか。
 『国宝』を観て、歌舞伎の美、女形の妖艶さには魅了された。ひょっとしたら、将来歌舞伎の魅力に気づき、熱心なファンとなる可能性もあるのだろうか。そうなったらそうなったで楽しみではあるが、私はやはりロンドンのウエストエンド街で観たミュージカルやオペラあるいはストレートプレイ(straight play=台詞劇)が忘れられない。近い将来再訪してたっぷり楽しみたいと願っている。

故郷と寝床

 九州湯の旅もあっという間に終わった。最後は別府でどこか安宿に泊まり、別府の湯も楽しもうと考えてはいたが、嬉野温泉に着いた時にかかってきた電話で予定を変更した。電話の主はアメリカに留学していた頃に親しくなった友人のJ。彼はひと頃別府に住み、近くの大学で教えていたが、その後紆余曲折を経て、再び別府に戻って来たとか。出会いから考えると半世紀以上の付き合いだ。一番最後に会ったのが私が新聞社を早期退社してアフリカやアメリカを旅していた2011年。別府に越して来て間もない彼の元を訪ね、旧交を温めた。
 宮崎から日豊本線で北上して、途中駅の大分のカフェでJと奥さんのYちゃん、二人の友人を交えておしゃべりに花を咲かせた。私は留学時代にJのお母さんにとても可愛がってもらった。今回の再会で母親が102歳の天寿を全うして他界されたことを知った。合掌。Jはこれからは別府に腰を落ち着けて暮らすとのことで、楽しみが増えた。
                  ◇
 福岡のアパートに戻り、留守中に玄関ドアの裏側に放り込まれていた購読新聞紙を片付け、洗濯もして、一息ついている。さて、「夏休み」はまだ少し残っている。なにをして過ごそうか。とりあえずは今回の旅を「総括」しよう。といっても特段のこともないが。
 『山頭火句集』(村上護編・ちくま文庫)を携行しての旅は正解だったと思う。この俳人の存在を身近に感じることができた。巻末に山頭火が書いた随筆が掲載してあり、興味深く拝読した。以下にそうした文章の幾つかを記しておきたい。
 私は、我がままな二つの念願を抱いてゐる。生きてゐる間は出来るだけ感情を偽らずに生きたい。これが第一の念願である。(中略)そして第二の念願は、死ぬる時は端的に死にたい。俗にいふ『コロリ往生』を遂げることである。<私を語る>
 ここに移つて来てから、ほんたうにのびやかな時間が流れてゆく。自分の寝床――それはどんなに見すぼらしいものであつても――を持つてゐるということが、こんなにも身心を落ちつかせるものかと自分ながら驚ろいてゐるのである。(中略)人生の幸福とはよい食慾とよい睡眠とに外ならないと教へられたが、まつたくさうである。<寝床>
 家郷忘じ難しといふ。まことにそのとほりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味に於て、それを憎む人は憎む意味に於て。(中略)近代人は故郷を失ひつつある。故郷を持たない人間がふえてゆく。(中略)しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは心の故郷を離れてはならないと思ふ。<故郷>
 山頭火は明治15年(1882)に山口県に資産家の長男として生まれた。10歳時に母親が井戸に投身自殺。彼が受けた衝撃は察して余りある。早稲田大文学科で学ぶなど恵まれた青春時代を送ったようだが、父親の跡を継いだ酒造業が破産。結婚し、東京で働いたこともあったが、やがて出家得度の道を選択する。
 山頭火と言えば、頭に浮かぶのは、出家得度の後の乞食と流転の人生。乞食は「こじき」ではなく「こつじき」と読むようだ。そうした放浪の人生を通して句作に励んでいたが、昭和15年(1940)松山市の庵で泥酔頓死する。享年57歳。山頭火は自分自身の庵で催された句会終了後に死去したようだから、本人が望んだ「コロリ往生」だったか。

亜熱帯化する日本?

 今回のささやかな旅も終わりのときを迎えようとしている。まずは平穏な旅だったと振り返ることができそうだ。神様に感謝したい。ただし、平穏と書くのは気がひける。九州各地が異常な水害に見舞われているからだ。台風が来襲したわけでもないのに。昨日から福岡や熊本で線状降水帯が発生し、住宅街で被害が出ているとか。私が今いる宮崎もそうした線状降水帯の発生が警告されているようだが、今のところ、被害は出ていないように見える。ホテルの8階の自室から外をのぞくと空はどんより曇っていて少し不安になる。
 それにしても、近年の豪雨による水害は一体何だろうかと思わざるを得ない。以前にこのブログで何度か書いたことがあるが、日本が亜熱帯化しているのではないかという思いが消えない。地球温暖化により日本が南太平洋の島国のような亜熱帯のゾーンとなり、かつては考えられなかったような豪雨が降っているのではないか。線状降水帯という呼称が前からあったのか知らないが、これからの日本では年間を通して日常茶飯事に出くわす気象現象となるのではないか。古き良き時代は終焉しつつあるのだろうか。
                  ◇
 夏休みにあると、世事のことは疎くなる。本日(11日)が山の日で祝日であることも知らなかった。明日はお袋の命日だ。実家でお袋の霊を迎えることができないことを済まなく思う。おっかさん、許してたもれ。
                  ◇
 おっちょこちょいがなかなか直らない。南大隅町でのこと。洗濯物がたまったので、いやたいした量ではないのだが、着替えが少ないので、こまめな洗濯は不可欠。コインランドリーをのぞいた。短パン、ポロシャツ、下着、靴下、ハンカチ、タオルなど。洗濯と乾燥を自動でやってくれ、洗剤や柔軟剤を投入する必要もない。締めて700円。コインを投入し、待つこと50分。その間スマホのラジオでも聴こうとしてワイアレスのイヤホンを探した。ポケットにもバッグにもない。あれ、またどこかに忘れた? そんなことはない。忘れ物をしないように注意に注意を重ねている。
 嫌な予感がした。ひょっとしたら、洗濯物の中に紛れ込んでいるかもしれない。もしそうだったら、万事休すだ。ワイアレスイヤホンのような繊細な電気製品を50分も洗濯(乾燥)機の中で回したら、修理もできない状態となるだろう。
 回転の止まった洗濯機の扉を恐る恐る開けると、無惨に分解されたイヤホンが出てきたではないかいな。ウヒョー・・・悲しい! だが、すぐに諦めはついた。このワイアレスはなぜかとてもイタズラ好きで、途中で音が途切れた時などに耳に手をやり、ワイアレスをいじっていると、突然どこかに発信してしまうのだ。アドレス帳に登録している友人・知人の誰彼となく電話をかけてしまう。発信履歴が残っているから、後で気づいて驚くことになる。何人かからは後で「私に何か用事ですか」と電話があり、謝罪かたがた事情を説明することになる。だから、きちんとしたワイアレスに買い換えるべきかと思っていた。それで鹿児島中央駅に立ち寄った際、新しいものを購入。さっそく使ってみたが、いくらいじっても勝手に電話をかけるイタズラはしないことがはっきりした。一安心。

鏡の中の誰でアリンス?

 霧島神宮温泉郷のホテルには結局二泊した。線状降水帯による豪雨で日豊本線の電車がストップしたからだ。バスも動かなかった。タクシーを確保するのも絶望的だった。それで本来なら宮崎に出る日は近くの霧島神宮を参拝してホテルに引き返し、終日、温泉に浸かり、ぼおーと過ごした。霧島神宮は近くといってもそう近くはなく、小雨の降りしきる中、たっぷり30分以上歩かされた。
 ホテルは山の中の一軒家といった風情で近くにはコンビニや飲食店はなく、陸の孤島といった印象さえ抱いた。ホテル自体の居心地は悪くなく、泊まり客が自由に使える共通の書斎といった感じの広い部屋もあった。よく事情は分からないが、悪天候が災いしたのだろうか、泊まり客は私の他にはあまりいないようで、温泉をほぼ独り占めできた。こんな経験は初めてのこと。私ごときにはもったいないとさえ感じた次第だ。
 そして昨日朝、頼んでいたタクシーで霧島神宮駅に立ち寄った。ひょっとしたら日豊本線が復旧しているのではと願っていたが、だめだった。残る選択肢は一つ。各駅停車の電車ならば走っているというので隣県の都城駅までタクシーを走らせた。料金は12,000円。運転手さんがよくしゃべるお方で、都城駅まで退屈しなかった。
 都城駅から宮崎駅への電車はスムーズに動いた。宮崎駅前のカフェでしばしくつろぎ、妹の車に乗って西都の山里深く抱かれた郷里に戻った。実家のお墓に手を合わせ、両親や兄姉に心の中で声をかけた。本来なら懐かしき家の畳に寝転がり、両親の遺影を見上げながら惰眠を貪りたいのだが、事情があってそれはできない。
 宮崎市内に戻り、いつも泊まっているホテルにチェックインした。このホテルの大風呂は温泉ではないが、鉱泉湯で電気風呂もあり、私は凄く気に入っている。福岡のアパートの近くにこんな感じの銭湯があるなら、毎日でも利用するのにと思うが、福岡は残念ながら、銭湯文化はない。さて、宮崎にいるのだから、楽しみにしていたホルモン焼きに出かけたいところだが、この一週間以上、美食を重ね、おまけに運動(散歩)不足もあり、体重がちょっと恐ろしくなりつつある。先ほどホテルの大風呂に行き、鏡の前に立ったら、美味そうに肥えた豚が2本足で立っている。驚いて思わず後ろを振り返った。誰も何もいない。鏡をよく見ると、オマガ! 私ではないか。やばいぜよ。そろそろ節制せねば!
 それでいつものホルモン焼き店には行かず、疲れていたこともあって、ホテル一階にあるレストランで我慢した。宮崎には3泊ぐらいして別府経由で帰福したいと考えているが、ホルモン焼き店を素通りしていいものか、そんなことができるのか、悩ましい。ホルモンを食べれば当然のことながら、生ビール1杯に焼酎のロック2杯ほどは欲しいところ。ますます豚化が進むではないか。アルコール抜きも可だが、それなら、何のためにホルモン焼き店をのぞくのか。
 かくして煩悶しながら、今この項を打っている。世俗の垢にまみれた小人の悩み事。少しは見習いたいと願った山頭火先生に申し訳ない、などと思い、句集を開くと、次の句が見えた。イラストには遊郭とおぼしき所に立つ女が見える。この句は何を意味するのか?
 水をへだてて をなごやの灯が またたきだした

霧島神宮温泉郷

 南大隅町から鹿屋市に出た。一旦鹿児島中央駅まで戻る必要があったので、錦江湾をフェリーで鹿児島市内に出るのだが、鹿屋にまで上がっていれば、フェリーに乗るのに便利。鹿児島中央駅から、日豊線に乗り霧島神宮駅駅で下車した。霧島温泉郷に足を運びたかったのだ。(実際には霧島神宮温泉郷)
 霧島温泉郷は遠い昔に一度訪れたことがあった。読売新聞社に就職して、国際部に配属されていた頃、お袋や妹、姪っ子と一緒にとある夏の休暇に足を運んだ。私はナイロビ支局勤務を終えて東京本社勤務に復帰、仕事に燃えていた時代だった。母や姪っ子と一緒に温泉でのくつろぎを楽しみにしていた。食事を終えた頃だろうか、残念ながら明確な記憶が残っていない。覚えているのは東京本社から連絡があったこと。35年前のこと。携帯電話はまだなかった。どうやって連絡がついたのか分からない。東京本社から私の実家に電話があり、私の休暇先を知り、電話があったのかもしれない。国際部の下っ端の私が国際部に休暇先の連絡方法を届けていた可能性もなくはないが・・・。
 とにかく、電話口の向こうから上司が「悪いけど、直ちに東京に戻って来てくれ。そしてすぐにイラクに飛んで欲しい」と言う。私は中東担当ではなかったが、幸か不幸か、当時、なかなか手にできないイラク訪問のビザを所有していた。実は当時、イラクのサダム・フセイン政権がクウェートに侵攻して発生した湾岸危機で、イラクには日本人の耳目が集まっていた。米英政権はフセイン政権が大量破壊兵器を隠匿しているとも非難し、追い詰められたフセイン政権はイラク在住の邦人を人質にする暴挙に出ていたからだ。
 上司の言い分はこうだった。国際部のベテラン記者のTさんがイラクに取材で飛ぶ。彼は体調が心配だ。君はまだ若い、彼の側にいてあれこれ手伝って欲しい。そう頼まれれば断れるわけがない。私は中東取材の経験もなく、イスラム社会のことも分かっていないが、貴重な取材経験となる。とはいえ、せっかくの夏休み。一緒に過ごすことを楽しみにしていたお袋や姪っ子をホテルに残したまま、東京に戻るのは心苦しかった。どういう経路で戻ったのか覚えていない。辛うじて覚えているのは深夜タクシーを呼び、駅に急いだこと。間違いなく霧島神宮駅だったのだろう。ただそこからどうやって上京したのか全然思い出せない。
 センチメンタルジャーニーではないが、昨夕、霧島神宮駅に降り立ち、タクシーで霧島神宮温泉郷のホテルに投宿した。名物の泥湯を顔に塗り、温泉を堪能。泊まり客はなぜか少なく、ゆっくりと憩うことができた。まだこの時には知る由もなかった。この後、霧島地区に線状降水帯がかかり、未曾有の豪雨に見舞われることを。私の平屋の和室は庭に面しており、雨音が直に聞こえる。あまりの雨音に何時か分からないが、目覚めてしまった。朦朧とした頭にも尋常ならざる雨であることは分かった。
 朝ご飯を頂いていると、食堂のテレビのテロップが霧島地区は未曾有の豪雨で電車が運行を停止していると伝えている。嫌な予感。この日、チェックアウトした後、霧島神宮駅から宮崎に向かう予定だった。ホルモン焼きが恋しい。バスも運休になっているみたいだ。嗚呼、タイミングが悪い。どうすんべ? 

私も一人!

 今回の九州湯巡りはできるだけ身軽な旅にしたいと考えていた。キャリーバッグは持たず、背中に背負うリュックだけ。着替えも最低限にとどめた。短パン2つにポロシャツ2枚。パンツは3枚に半袖下着3枚。書物は毎朝読む英文の祈祷書と山頭火の文庫本1冊だけ。これにラップトップのパソコンと電子辞書を入れれば、リュックはほぼパンパンの状態。
 海外の旅でも時にそうだが、短パンやポロシャツ、下着類は機会があるたびに自分で洗濯し、清潔さを心がける。今回も宿に洗濯機があれば、夜には洗濯に精を出した。乾きの早い乾燥機がついていることが多く、私のような旅行者には大助かり。ポロシャツもずいぶん年季が入ったものとなった。どこかで新しいものを購入しても罰は当たらないだろう。今の旅の日程だと宮崎に入った時点で買うことになるのかもしれない。郷土に金を落とすのも悪くなかろう。たいした金ではないが。
 福岡の自宅を出てから一週間近く経過した。携行した山頭火の句集はほとんど開いていない。作った句もない。いや、一つだけある。嬉野温泉の宿近くの木陰を散歩している時に蝉時雨を耳にして読んだ句だ。たいした句でないことは重々承知している。私の友人の一人に新聞社勤務時代の同僚で、見識豊かな俳人がいるが、彼にはこのような句など恥ずかしくてとても見せられない。ただし、山頭火は季語や五七五の定型にこだわらない自由律俳句で知られた俳人。私のような俳句の基本などわきまえていない無粋な男の作にも微笑んでくれることだろう。
 さて、嬉野温泉の木陰を歩いている時に私の頭に浮かんだのは次の一句。――せみしぐれ 耳にするのは あといく夏―― 古希を過ぎ、来世がにじり寄りつつあると時に感じている身に浮かんだ切ない感慨。山頭火は微笑んでくれることだろうと書いたが、いややはり、一笑に付されるか。
 一年ほど前のこのブログで「咳をしても一人」という句について書いている。山頭火の作かと思っていたがさにあらず、尾崎放哉という俳人の作だった。彼も晩年を山頭火のように放浪流転で過ごした俳人だった。山頭火の作で言えば次の句が知られているかと思う。――分け入つても分け入つても青い山――。味わい深い句だ。私が今手にしている句集では次のように説明されている。「大正14年2月、いよいよ出家得度して肥後の片田舎なる味取観音堂守となったが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であった」と。
 「分け入つても・・・」の句には「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」との前置きがある。そうするとこれは「解くすべもない惑ひ」を憂える句なのであろうか。俗物の私には文字通り、いくら歩を進めても人家が見えず、目の前に広がるのは草木が茂る山また山ばかりであり、旅人にとってはため息の出そうな光景を詠んだと思えたが、人生のあるいは芸術の深淵を探ろうとする決意、迷いをも描いているのだろうか。この句の三句後に「放哉居士の作に和して」と前置きして次の句があった。――鴉啼いてわたしも一人――
 気ままな一人旅にある私などからは想像もつかない俳人の孤独・寂寥がうかがえる。

懐かしき南大隅町へ

 私は本当におっちょこちょいだ。「おっちょこちょい」は標準語だったかなと不安になり、辞書でしらべるとちゃんと記載されている。今回の旅でも自分のこのおっちょこちょい、すなわち落ち着きのなさを改めて認識させられている。
 おっちょこちょいは自慢できないことであり、「公言」などしたくないのだが、このブログは備忘録でもあるから記しておきたい。まず、嬉野温泉の宿にスマホの充電器を忘れた。部屋を出る際に忘れ物がないか入念にチェックしたのにもかかわらず、ドアの近くのソケットに差し込んでいた充電器のことを忘れていた。後刻かかってきた宿の人の電話で初めて気がついた。それで玉名温泉のホテルに宅急便で届けてもらった。届いたのはホテルをチェックアウトする直前。スマホの充電が切れかかっていたため、ホテルのロビーで急ぎ、充電させてもらった。タクシーを呼んでもらい、新幹線の新玉名駅に向かった。駅に着いた直後に充電中のスマホをロビーに忘れたことに気がついた。再びタクシーに飛び乗ってホテルに引き返し、スマホと充電器を回収して駅に戻った。あほとしか言いようがない。
 そして指宿に到着した昨日。指宿は何度か訪ねたことがある。名物の砂蒸し温泉も。指宿駅から砂蒸し温泉まで歩いた。入浴料金は1,500円。普通は10分も熱い砂をかけてもらえば十分らしいが、欲張りの私は30分ほど我慢して砂の下に横たわった。砂蒸し温泉を堪能した後に近くのビジネスホテルにチェックインした。ホテルの人に勧められた寿司屋さんに夕食に向かう。海の幸を堪能した後、会計を済ませホテルに戻る。ホテルに戻って再び自分のおっちょこちょいさに気づく。入れ歯を忘れたのだ。私は左下の奥歯にかぶせるような小さな入れ歯をしている。最近作り替えたばかりのこの入れ歯がどうもしっくりこず、痛いと思うこともしばしば。それで食事するときには時々、外すこともある。この夜もそうした。その外した入れ歯をティッシュに包んでカウンターの脇に置いたまま忘れてホテルに戻っていたのだ。寿司屋を出る際、板前さんに「お忘れ物のないように」と言われていたことを思い出す。この後のドタバタ劇まではここに書きたくない。入れ歯をホテルまで届けて頂いたタクシーの運転手さんがとても親切だったことだけは記しておきたい。
 さて一夜明けた火曜日。指宿からどこに向かおうかしら。新幹線のターミナルの鹿児島中央駅に引き返し、そこから宮崎方面に進む手もある。指宿のある薩摩半島の対面は大隅半島。新聞記者時代に何度も取材した南大隅町がある。地元のTさんに会いに行く手もある。指宿の港からフェリーも出ている。よし、南大隅町の根占港に向かうか。近くにネッピー館という宿泊施設があり、そこの温泉もサウナも大好きだ。フェリーが出るのは山川港。指宿駅前から出ているバスで340円。山川港から根占港まで800円。フェリーに乗るのは滅多にない経験だから少し気分も高ぶる。50分程度で根占港に到着した。
 Tさんは地元の町役場に勤務されている。港から役場までとぼとぼと歩き、Tさんに挨拶してしばし懇談。その後、ネッピー館までTさんの車で送ってもらった。とりあえず、温泉に浸かり、身体を癒やしたい。Tさんからは今夜はぜひ我が家で一杯やりましょうと誘っていただいた。朋あり遠方より訪ねる、又嬉しからずや!

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