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英語でさるく 那須省一のブログ

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台湾からナイロビまで

 YouTubeにはまっていることは既に何回か書いたかと思う。大リーグやプロ野球中継がシーズンオフなのでテレビをつけない日はあっても、パソコンを立ち上げYouTubeを見ない日は皆無。それほど私の日々の生活には欠かせない存在となっている。これがいいことかあまり好ましくないことか正直分からない。社会評論家の大宅壮一氏がかつて危惧した日本国民の「一億総白痴化」はテレビを念頭に置いた警告だった。大宅氏も平成・令和の時代の今のYouTube隆盛までは視野になかったことだろう。
 最近よく見ているのは日本人の若者が一人で海外を旅してグルメを中心にアップしているYouTube。無邪気というか楽天的というか、さまざまな国々の街を臆することなく歩いている彼の珍道中は見ていてなかなか面白い。コメント欄を見ると、数多くの固定ファンを引きつけているようだ。今はケニアを旅していて、日曜日には現地からライブ配信するとか。ケニア国内の動物サファリの様子を生配信するものと思われる。
 彼がナイロビに到着した時の配信を先に見たが、懐かしいナイロビの街並みが流れ、楽しく見させてもらった。私がナイロビを最後に訪れたのは2010年だからもう14年も昔のことだ。私一人で楽しむのはもったいないと思い、新聞社のナイロビ支局で勤務していた当時(1987-1990年)からの付き合いがある何人かの友人に「懐かしい光景が見られるかも」とラインメールを送った。
 笑ってしまったのは彼がナイロビのホテルにチェックインした後、近くのレストランで食事しようとして、びびりまくりながら通りを急いでいた時の様子。彼が抱いていた恐怖感が画面から伝わってきた。本当は笑えない話だ。そうした怖い思いを隠すことなく正直にレポートしてくれる姿勢には好感を抱いた。この種のYouTuberに見られる「上から目線」の尊大さもなく、見ていて不快な気分にさせられることもほとんどない。彼は直前には台湾からもレポートしているようだ。懐かしいケニアはおいそれとは足を運ぶことはできないが、大好きな台湾ならばその気になればすぐに飛べる。近く再訪したいと考えてもいる。ぜひ参考に見なくてはと思っている。
 さて、ナイロビに巻き戻そう。ナイロビの街が依然、外国からの旅人には「危険」な地であることは上記のYouTubeからもよく分かった。私にしても今ナイロビを訪れたなら、たとえ日中でも一人で街を歩く勇気はない。仕事がなく、将来の展望もなく、不満を募らせている若者たちがたむろする街を一人で歩く行為は、ひったくりあるいは強盗の格好のカモ。そうしたことが十分に予測できる街を気ままに散策するのは蛮勇でしかない。
 それにしても、私がナイロビ勤務を終えてから34年。あの当時もさすがに夜間は街を一人で歩くことはできなかったが、日中ならそう危険を感じることなく街を歩くことはできた。日本を始め普通の国なら普通にできる行為ができないのは残念だし悲しい。紀行本『ブラックアフリカをさるく』を執筆するために2010年にケニアを再訪した時も複雑な心境になったが、治安状況は一向に改善していないようだ。一番辛い思いをしているのはナイロビにそしてケニアに暮らす庶民の方々だろう。煎じ詰めれば政治腐敗・堕落が諸悪の根元か。どこかの国の国政も目を覆いたくなる惨状を呈しているようだが・・・。

古希を祝う会

20240225-1708848262.jpg 郷里の幼馴染みたちと古希を祝う会が宮崎市内のホテルで開かれ、泊まりがけで参加した。故郷は西都市の奥深い山間地にある。銀鏡という地名で今では限界集落と呼ばれる地区になっており、母校の銀鏡中学校も山村留学生を招き入れ、小中合同の学校となって命脈を保っている。卒業したのは昭和44年(1969年)。当時の時代を思い出そうとしても容易ではないが、明るい未来がきっと待っていると信じるに足る世の中だったのではないか。私は地元の宮崎大学に進学したが、教育学部の専攻に沿って教師とはならず、夢と冒険を求めて新聞記者の道を選択した。
 これが躓きの始まりだったのかもしれない。うーん、分からない。大学時代の仲間は皆教師となり、地元に密着した暮らしを営んだ。郷里を同じくする幼馴染みたちもほぼ同様だ。私は彼らと人生が交差することはなく、たまに会う程度の緩い付き合いとなった。それは苦でもなく、何の罪悪感もなかった。まだ明るい未来が先に待っていると信じることができた時代が続いていた。
 10年前、還暦を祝う会で幼馴染みと再会した時にはさすがにそのような幻想は抱いていなかったかと思う。でも、まだ望みは捨ててはいなかったような。私は新聞社を早期退職して直後の海外放浪の旅も終え、大学で英語の非常勤講師として糊口を凌ぐ日々だったが、人生の残り時間をそう意識はしていなかった。
 そして昨日の土曜日の古希を祝う会。我々は山間部の小さな中学校ゆえ、同級生は48人程度だったと記憶している。当時父親の山仕事でやってきた転校生も何人かはいたが、大半は小学校から机を並べた竹馬の友だった。古希の会に集ったのは幹事役のT君の人徳もあり、20人の友だった。48人で20人だから悪くない数字だと私は思う。
 我々の世代は男女が自由に何でも語り合った、語り合うことができた世代ではない。小中9年間を一緒に過ごしてもそうした思い出はあまりない。いや、皆無に近いと言うべきかもしれない。仲が悪かったというわけではない。男子が女子と屈託なくおしゃべりできる時代ではなかったかと思う。決してほめられたものではない。古希の集まりではこれまであまり会話を交わすことのなかった女子(今では妙齢のご婦人?)とも話をすることができた。彼女たちから私が全然覚えていない中学生の頃のエピソードを聞かされもして驚いた。人の記憶というのは面白い。断片的に記憶として残っているのが人それぞれなのだ。当然と言えば、当然のことかもしれないが。
 半分ほどの参加者が2次会と称してカラオケのお店に流れた。驚いたのはこれまで歌を聞いたことのないH君のカラオケ慣れした様子。彼は地元神社の宮司として銀鏡の地の振興に奮闘してくれている。Mさんも趣味の民謡で鍛えた歌唱力で楽しませてくれた。
 一夜明けた日曜日朝。私は宮崎駅から新八代駅まで高速バスに乗り、そこから九州新幹線に乗り換え、福岡に向かう。今、この項をバスの車内でラップトップに打ち込んでいる。同級生と10年ぶりに語り合った喜びも残っているが、「祭りの後の寂しさ」みたいなものも感じている。嗚呼、私はこんな感傷的な男ではなかったはずなのに! 古希の次に控えるのは喜寿か。いやそこまで待つことはないか。そう遠くない将来また集えることを願う。

“mom-and-pop store”

 職場の机の中に常時置いて使っている三色ボールペンの赤ペンのインクが切れてしまった。赤ペンは採点などでよく使うのでグレーや青に比べて早くなくなったようだ。このボールペンはいつぞや人にもらったもので重宝していたが、赤ペンが使えなくなると不便を感じることは必至。新しい三色ボールペンを購入することになるかなと思ってはみたものの、赤インクのペンだけ補充することもできるかなと、時々利用している小さな文房具店をのぞいてみた。果たせるかな、私の三色ボールペンに使用可能な赤ペンがあった。88円。
 私は100円玉で支払いながら複雑な心境になった。いや、この文房具店をのぞくといつもそんな心境になる。あまりここで書きたくはない。要するに私はこの店では安価な文房具の類をたまに買っているに過ぎない。もっと高価なものを購入してあげたいとも思うが、いかんせん、そういうわけにもいかない。コンビニや百均ショップなどに押されてこうしたお店は苦境にあるのだろう。英語ではこうしたお店のことを “mom-and-pop store”(家族経営の小さな店)と呼んでいることを思い出した。「ママパパ店」という訳も見られたが、実際は “grandma-and-grandpa store” と呼びたくなる感じのお店だ。
 日本の繁栄は長年、こうしたお店によって下支えされてきたに違いないと思うが、淘汰されていく運命にあるのだろうか。申し訳なく思う気持ちが沸き起こるのはなぜだろう?
                  ◇
 オンライン英語教室で題材にしていたアメリカの短篇集「オー・ヘンリー賞」の最新2023年版を書店で買い求めようとしたが、さすがになかった。ネットで注文した。– The Best Short Stories 2023, The O. Henry Prize Winners—
 届いた堤を開封して愕然とした。中ほどの何十頁かが斜めに閉じられており、読むのに一苦労。不良品だ。普通の書店で買い求めたものだったら、間違いなく取り替えてもらえるだろう。ネット注文だとどうなるか。手続きがよく分からないから我慢することにした。不具合がある部分も何とか読めないことはないし、大半の頁は問題ない。
 それで暇を見て少しずつ読み進めている。読み進めてはいるのだが、これまでのオー・ヘンリー賞の短篇集と比べ、なんだか拍子抜けする感じがしてならない。これは読んで良かったと思える作品とはあまり出会わなかった。例えば、“The Blackhills” というアイルランドが舞台となった作品。北アイルランド紛争が背景にある作品と思われたが、登場人物がなぜ警察の捜査から逃亡しようとしているのかよく分からなかった。登場人物の肉付けが不足していて、消化不良のまま終わった。
 “The Mother” はアフリカ・ザンビア出身の作家の作品。幻想的な書きだしですぐにアフリカのどこか田舎の村が舞台となっていることは推察できた。オー・ヘンリー賞の受賞作品の中にはこの種のミステリアスなものがあり、私は嫌いではない。だが、この作品はいまいちという印象は拭えなかった。薄味とでも言おうか。
 オー・ヘンリー賞は毎年、受賞作品を選ぶ選者が変わる。今回の選者は優秀な作品ばかりで20の受賞作品を絞り込むのに苦労したと述べていた。おそらく選者が別の人だったら異なる作品が並んでいたことだろう。いや、きっとそうに違いない!

「减肥」は上がり調子で?

 テレビを見る生活からはすっかり遠ざかってしまった。それはそれでいいことだが、テレビの代わりにパソコンやスマホでYouTubeを見ることが当たり前の日々となっただけのことだから胸を張れないか。ただ、YouTubeだと気乗りのしない番組は見なくていいから、テレビよりは主体性があるような気がする。
 YouTubeでよく見るのは決まっている。韓国語を韓国人の青年が分かりやすく教えてくれる講座。土曜日夜の1時間半ほどはこれにはまっている。生きた韓国語の基礎が学べる。問題は講座が終わると、その日に学んだことはほぼ忘れてしまっていること。ただ、講師が出題する韓国語の簡単な問題はまあまあ理解できているし、少しは力をつけているような気はしている。気分は悪くない。
 中国語の方は上記のような講座に巡り合っておらず、NHKラジオの講座を忘れない限り聴き続けているだけだから、力がついているとは思えない。正直に言えば、習得したと思っている語彙や文法が怪しくなる一方だから情けない。二三日前に「私はダイエット中です」という文章が紹介されていた。ダイエット。私はもう何度この語彙を目にして、そして記憶しようと努めてきたことか。頭の中にはすぐに「我在减肥」という文章が浮かんだ。ダイエットは「减肥」(ジェンフェイ)でいいはずだ。問題は声調。私はjiǎnféiのピンイン表記の声調は「三声+四声」つまり最後の「肥」は上から一気に下る「四声」だと思った。確かそんな感じだったのでは?講座を聴いた後、テキストを取り出して確認してみると、下から上に一気に上がる音の「二声」ではないか!
 残念。私の耳には講師の先生方の発音は「四声」に聞こえていたのだ。私には往々にしてこの「四声」と「二声」という正反対の音の上がり下がりが聞き分けられない。おそらくこれからも一生こうなのではないかと恐れている。正しい声調を身につけることは中国語上達の必須条件と幾度となく言われ、本でも読んだことがある。日暮れて道遠し・・・。
 話が横道に逸れた。韓国語の講座の他によく見ているのはその他、かわいい飼い猫が登場する番組。見ていて飽きない。アメリカのコメディアン、スティーブン・コルベア氏が舌鋒鋭くトランプ前大統領の愚かさを皮肉る風刺番組も欠かさず楽しんでいる。最近なぜかよくパソコンのスクリーンに飛び込んで来るのは、ベトナム辺りらしき国の山間部で農業を中心に生活を営んでいる若者の簡素な暮らし。今の私が憧れる自然と共生した生き方で、羨ましい思いで眺めている。
 そして今またよく見るようになっているのが台湾のグルメもの。以前によく見させてもらっていたが、ここしばらくはすっかりご無沙汰していた。ふとしたことで久しぶりにクリックして見ると、台北の懐かしい食事風景が流れてきて、見入ってしまった。そうだな、台北も4年かそこら足を運んでいない。一か月という短い期間、語学留学した大学を再訪し、 老师(老師)と中国語で言葉を交わしたい。おそらく、私の中国語はあれから全然進歩していないことを恥ずかしく思うが、これは致し方ない。当時定宿にしていた安ホテルを懐かしさからネットで検索してみた。ホテル代はさすがに上がっていた。今や1泊1万円を覚悟しなければならないようだ。私には辛い!

遂に古希!

 コロナに罹患して伏せっている間にもときはいつものように過ぎ行き、ついに私は古希の年齢を迎えてしまった。あっけない。昔中学時代(高校?)に読んだ論語の中に、これっていいな、羨ましいなと思った文章があった。記憶が正しければ、「70歳になると好きなことを気ままにやっても、他人に迷惑をかけることはなくなった」といった趣旨のことだったか。子供心に思ったものだ。これって理想的な境地ではないか!と。自分も早くこのような境地に達したいと!
 今改めてネットで調べると、以下の記述を見つけた。転載を許してもらおう。あの「十有五にして学を志す」で始まる孔子先生の言葉だ。「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」とある。意味するところは「70歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない」ということのようだ。
 何と言う素晴らしい境地だろう。「矩」とは広辞苑によると「標準として守るべき事柄。おきて。法令」などと説明されている。ついに私も年齢的にはそういう齢に達してしまった。果たして中身は?
                  ◇
 以下に記すことは嫌なことで、できれば黙ったままに留めておきたかったが、このブログは備忘録でもあり、きちんと記しておきたい。長年購読してきた愛読紙のジャパン・ニュースの購読契約を先月末で打ち切った。ジャパン・ニュースはかつて私が勤務していた社でもあり、残念な思いが今も消えない。いろいろ理由はあるのだが、ここでそれを詳述するのははばかられる。いつかまた心境の変化いや人生の歩みの変化があって再び購読することになればいいなと願う。
                  ◇
 体調不良もあって韓国語と中国語の独学もなかなか思うようにいかない日日が続いていた。それでなくとも、自分の力不足を痛感することばかりで「俺って才能ないな」とぼやきたくなることばかり。
 数日前、仕事帰りに、とある神社に足を運んだ。読売新聞夕刊に、神社境内に咲く桜の花にメジロが蜜をついばみにやって来ているという話題が写真付きで紹介されていた。所在地は職場から遠くない。それで有り難い桜の花を拝ませてもらおうと向かったのだが、例によっての早合点で訪ねた神社ではなかった。それでも折角だから新年の幸運を祈り、ついでにおみくじ(200円)を引いた。
 たかだかおみくじのことで一喜一憂する歳でもないことは承知しているが、書いてある文言が今の自分にぴったりだったので嬉しく思い、忘れないようにここに記しておきたい。冒頭にしたためてある言葉は「学 我が道を愚直に進め 不可能に見えることも情熱をもって学び続けなさい」。まさに今の私にぴったりの励ましだ。項目別の「願望」では「一心に願えば叶う」、「学業」では「一つ一つ達成していく 焦らず進め」、「恋愛」では「理想の人と出会う 積極邸に行動しうまくいく」とある。私は「矩」に縛られ続けている「小人」ゆえ、このような些細なことでも心が晴れやかになる!

今度はコロナ!

 2023年の出だしも最悪だったが、2024年も大差ないようだ。煎じ詰めれば、不徳の致すところとなるのだろう。新学期がスタートして間もない先週月曜日朝。ちょっと身体がだるいなあと感じていた。お昼前の授業はそれでも問題なく終えた。校門を出て帰途に就く。路線バスでも来れば、駅まで乗ろうと思ったが、路線バスは見えない。仕方なくてくてくと歩いた。大体20分程度の歩きだからたいした距離ではない。
 普通に歩いているつもりだった。傍目からはそうではなかったようだ。駅にだいぶ近づいた頃、後ろから「あの、那須さん、体調悪いようですね。ちょっとお店で休んで行かれたらどうですか。休むだけでもいいですよ」というような言葉が聞こえてきた。私が週1の頻度で利用しているレストランの人だ。「あ、いえ、駅もうそこですし。大丈夫です。ありがとうございます」と応じたような。要するに私の歩き方がよほど覚束なく見えたのだろう。実際、決して万全ではなかった。
 最寄り駅に着き、内科医に行く。昨年末のインフル時にもお世話になった医院だ。例によって医院の外に設けられた場で診察を受けた。鼻に綿棒みたいなものをぐいっと突っ込まれ、あえいでいると、「コロナですね」と冷徹な診断。アチャー、これでまた一週間仕事を休むことになる。非常勤講師の仕事は時間が限られているだけに辛いが、罹患してしまった以上はどうすることもできない。
 帰宅後、倒れ込むようにベッドへ。熱はそうでもないのだが、コロナに罹患、それも初めて罹患したことが残念で、虚脱感に襲われる。何もする気になれない。処方してもらった内服液はのどの腫れや痛みなどを軽減する漢方薬と38℃の発熱時などに服用するカロナール錠の二種類だけ。少々拍子抜けする薬だ。これで本当に直るの? 素人流に解釈すれば、ウイルスが自然と弱体化するのをじっと待てということか? よく分からないが・・・。
 そして本日は金曜日。頂いた薬が切れる日だ。熱は平熱に戻った(ようだ)。体調は万全とまではいかないが、悪くない。その証拠に今こうやってパソコンに向かって雑文を打てている。今朝は何日かぶりにNHKラジオの韓国語と中国語講座も聴く気になった。もう大丈夫だろうと感じてはいる。それでもいまだに完治した感じではない背中の帯状疱疹、年末にかかったインフル、そして今回のコロナ。あちきはかくも虚弱体質だったのかなと嘆かざるを得ない!いずれの病もこじれることなく、回復の途上にあることを神様に感謝すべきことは百も承知しているが・・。
 かくして1月もあっという間に過ぎ去り、2月の到来。私はほどなく古希を迎える。1月中にやっておきたいことが幾つかあった(ような気がする)が、はて何だったか? 取り急ぎは日曜日に迫っている短編小説を読むオンライン英語教室。課題文の翻訳をまだ済ませていない。受講生からも訳文が届く頃だ。早く済ませなければ。今読んでいるのはカズオ・イシグロの短編小説集だが、これを読み終えたら、以前に読んだ彼の長編小説 “Klara and the Sun” をもう一度読もうかと考えている。今の受講生は読んでいない。私はイシグロ氏の作品はどれも好きだが、“Klara and …”は間違いなく彼の代表作と数えられるだろうと評価している。

Not broke but badly bent!

 ソウルの旅はまだ脳内のどこかに残っているようだ。嗚呼、あの写真が消えてしまったのはもったいないと時に思い出す。もうどうしようもないのだが。(韓国の友人はまた同じ写真を撮るために韓国に来なさいという神様の思し召しだと慰めてくれた)
 韓国にまた行くとしたなら、誰か一緒に旅をする相手が欲しいとつくづく思った。一人では若干厳しい。ランチはいいのだが、夜の食事となると、一人だと気軽に入れる店は限られている。台湾だとそうでもない印象だ。いずれにしろ、お一人様の旅は韓国ではいろいろ「制約」がある。私はこれまでずっと一人旅で取材を重ねてきており、弱音など吐きたくはないのだが、さすがにそう感じざるを得なかった。
 ソウルや釜山といった大都市圏を旅しているからそう感じたのだろうと思わないでもない。日本でもそうだが、のどかな地方に足を伸ばせば、きっと韓国ならではの旅の味わいを楽しめるのではないか。次に韓国を訪れる時はソウルや釜山ではなく、ちょっと遠方のいわゆる田舎を訪ねたいと思う。それには拙い韓国語に磨きをかけなければ。いっそのこと、いつぞや、台北の大学に1か月間、短期語学留学したように、ソウルか釜山に一定期間語学留学する手もあるかなと思い始めてもいる。金はかかるだろうが・・・。
                    ◇
20240127-1706332129.jpg 毎朝読んでいるキリスト教の祈祷書(devotional)に以下の記述があった。I ain’t broke, though I may be badly bent. どうやらアメリカの古いカントリーソングに上記の一節があるらしい。ネットで調べると、確かにあった。そのカントリーソングのタイトルでもあった。
 この英文の意味はだいたい類推はできた。おそらく「俺は無一文ではないが、がたはあちこちきている」といった程度の自分を卑下した歌だろうと。broke(一文無し)とまで落ちぶれてはいないが、badly bent(ひどく曲がってしまって)とても人様の前に出る状態ではないんだよ・・・。
 ネットにこの歌の歌詞が出ていて、私の印象が間違っていないことが確認できた。一番と二番の歌詞を紹介すると—
 I’m goin’ back to the country, I can’t pay the rent/ Though I’m not exactly broke, brother I’m sure bent/ Can’t understand where my money went/ I ain’t broke but I’m badly bent—
 Well, I had a lot of money, but to the city went/ I met too many good looking girls and that’s where my money went/ Yeah I know just where it went/ No I ain’t broke but I’m badly bent
 私は年明け早々、驚いた。今の私の心境を見事に活写しているではないかと。すでに10年以上住んでいる今のアパート暮らしも年金生活者にはそう楽というわけではない。退職金を含め一時はあれほどあった銀行口座の預金は今どこに? 上記の歌い手はお金は都市の綺麗な姉ちゃんの懐に行っちまったと嘆く。そう俺は無一文になったわけではないが、がたはきている。だから田舎に戻ろうとしているわけさ・・・。
 ネットでこの歌を聴くとアメリカの古き良き時代がうかがい知れるかのようだ。マーサ・エリスという女性が1953年に作詞したとか。トランプさんが今なお跋扈するアメリカとはほど遠いのどかな時代の郷愁ソングのように聞こえる!

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