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思わぬ訃報

  • 2014-05-12 (Mon) 10:20
  • 総合

 先週半ば、連休明けで大学の授業が休みだったこともあり、数日間宮崎の山里に戻っていた。長姉の家に帰り着き、夜にくつろいでいたら、携帯にメールの着信ありの点滅が見えた。パソコンの方はネットは不能だが、携帯は部屋によっては通じる。居間と台所は圏外だが、外に近い廊下に出しておくと、メールは拾ってくれる。
 携帯を開くとナイロビ支局時代に共同通信の特派員だったMさんからのメールだった。私の勤務していた社の「Hさんがなくなった」と告げていた。え、あのHさんが・・・。2年ほど前にがんを患い、手術を受けたことは承知していた。最後に頂いた手紙では職場復帰して多忙な日々に戻ったが、一緒に暮らしている孫との触れ合いに癒されていると書いてあった。
 Hさんはナイロビ支局の私の前任。国際部や英字新聞部でも上司となり、色々お世話になった先輩だ。訃報を知った以上、知らないふりをしているわけにはいかない。土曜日の告別式に駆けつけることにした。土曜朝一番の飛行機で上京するために、金曜午後にバスで宮崎市に出て、ホテルで一泊。翌土曜早朝、羽田に飛んだ。喪服は葬儀場(市川市)の近くの貸衣装店でレンタルすることにして、電話で予約していた。 
 告別式前にHさんの奥様のK夫人と言葉を交わすことができた。K夫人はご主人が亡くなった後、私の携帯に電話を入れておられたとの由。数年前に盗難に遭った携帯だから当然通じない。私が遠路、駆けつけてくれたことを感謝された。
 当時のアフリカ特派員は前任の自宅もそっくり引き継いだ。その時、当時はまだ幼い二人のお子さんに私はある印象を残したようだ。Hさんが後年、この引き継ぎ時のエピソードを笑いながら振り返られたことがある。「君がカップラーメンを美味そうにすするのを、(子どもの)Tたちは羨ましそうに見ていたよ」と。私には記憶は残っていないが、引き継ぎの合間に私はどうも東京から持参したカップラーメンを食べたのだそうだ。アフリカで3年過ごした子どもたちには日本から「直輸入」の麺類をパクつく私の姿がとても羨ましく映ったのだろう。
 27年前のことだ。私も若かったが、Hさんも若かった。私は4年前に早期退社して、現在に至るが、私より3歳年長のHさんは編集局の部長職を歴任して社外に転出、このところは関連会社の理事長の重職を担われていた。間違いなく仕事のできる人だった。これからも花も実のある人生が待ち受けていたはずだ。
 告別式では会葬のお礼の言葉をK夫人の代わりに長男のT君が述べた。成長したT君の風貌はかつてのHさんに似てきつつあった。T君は淡々とお礼の言葉を口にした。Hさんは急に逝ったために、特段の別れの言葉は交わしていなかったという。だが、今は一児の父親であるT君にとって、理想とする父親像はHさんだったとか。HさんはT君たちによく「自分には大切な宝物がある。それは妻のKさんだ」と語っていたという。T君は「これからは父が大切にしていたその宝物の母を妹と一緒に大切にしていこうと思っています」と涙ぐみながら語った。私も思わず、両目から涙が流れた。
 告別式でこれまで耳を傾けた会葬のお礼の言葉としては最も印象に残る挨拶だった。合掌。

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