- 2025-08-26 (Tue) 09:49
- 総合
八月はまだ一週間残っているが、非常勤講師の仕事を頂いている学校は二学期が始まった。休みモードから仕事モードに切り替えなくてはならない。と分かっているのだが、だらけきった身心が果たしてそうなるのか、よく分からない。とりあえず、目の前に迫ったことから着実に片付けていこう。
韓国語と中国語の独学も中だるみ状態が続いている。NHKラジオの語学講座もぼぉーとした状態で聴き続けているものの、身についているとは言い難い。正直に書くと、中国語にしろ、韓国語にしろ、これから力をつけるとすれば、留学してみっちり語学漬けの日々を過ごすしか手はないのではと思い始めている。それは今の私にはできない相談だが。とにかく今は語学講座をじっと聴き、流れてくる音声ですっと文章が頭に浮かぶかどうかを試している。韓国語も中国語も初級レベルなので、普通なら楽に文章が頭に浮かぶはずだが、悲しいかな、これがなかなか難しい。特に中国語の場合は簡体字を正確に思い出すのが至難の業。声調となると、お手上げになる。恥ずかしい話、昇り調子の第二声と下がり調子の第四声がいまだに正確に聞き取れないことがしばしば。投げ出したくなるというものだ。
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このブログで写真のアップができなくなっていたが、お世話になっている出版社(書肆侃侃房)に相談したところ、問題をクリアして頂いた。それで今回の項から再び写真をアップしている。先の九州湯の旅で足を運んだところの写真を紹介したいところだが、やはり説明がないと寂しい。それで昨日久しぶりにのぞいた焼き鳥屋でいつも食している料理をアップしておく。焼き鳥はやはり美味い。アルコールはしばらく控えたいと思い、生ビールではなく、ノンアル(450円)を注文した。二杯目は焼酎に気持ちが揺らいだが、ぐっと我慢してウーロン茶。この歳になってノンアルとウーロン茶で焼き鳥を食することになるとは思いもしなかった。
旅の間に読んでいた『山頭火句集』はほぼ読み終えた。色々と考えさせられることの多かった句集だった。この俳人は天涯孤独の身ゆえに各地を行乞(托鉢)して歩いたと思っていたが、結婚して妻子ある身だったことを知った。そして彼が常に頭に宿していたのは句作のことだった。「述懐」と題した随筆で書いている。「私にあっては生きるとは句作することである。句作即生活だ。私の念願は二つ。ただ二つある。ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ。そして他の一つはころり往生である」。ころり往生については先に書いた。
もう一つ二つ付記しておきたいことがある。山頭火は若くして自死した母親のことをいつまでも敬慕していた。「母の47回忌」と前置きした次の句が心にしみた。――うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする――母親が32歳で自死を選択した時、山頭火少年は10歳だった。私の母親が天寿を全うした時、私はすでに初老の域に達していた。慈母を想う念は比べるべくもないだろう。
もう一つは彼がこよなく酒を愛していたこと。山口県生まれの山頭火の場合は日本酒だったのだろう。私はどちらかというと焼酎派。次の句――独り飲みをれば夜風騒がしう家をめぐれり――は何となく考え込んでしまう。