Home > Archives > October 2017

October 2017

 芥川竜之介のユーモア

 先週末、宮崎に戻った。例によって新幹線と高速バスを乗り継いでの帰郷。宮崎から新八代までの帰途の高速バスは珍しく満席だった。台風が近づいており、空の便を心配して陸路を選択した県外からの来訪者が多かったみたい。この路線がいつも活況だと宮崎の観光も明るいのだが・・・。
 ところで宮崎を発つのは午後5時前だったが、台風の北上を予感させる曇天。宮崎ではあまり見かけない陰鬱な雰囲気だった。大袈裟な形容をすれば、地球の終わりが来るとすればこういう空模様かと思うほどの陰惨さ。年齢とともに健康が衰えていく姉たちを見舞ったことも幾分気分を沈痛にしていたかもしれない。
                 ◇
 気分が少し沈んでいたのは岩波文庫の近著『芥川追想』(石割透編)を読んでいたことも一因したかもしれない。書店で中国物を物色していて『芥川竜之介紀行文集』(岩波文庫)に行き当たり、延長線上で『芥川追想』を読むに至った。
 『芥川追想』を読んで、この明治末期から大正時代を駆け抜け、昭和2年に自死を選択した作家の人柄にひかれた。睡眠薬自殺に臨んで彼が記し、今も我々の記憶に残っている「将来に対する唯ぼんやりした不安」という表現とともに、我々がよく目にする作家の遺影のイメージから、この作家が何となく「クール」な性格の人物という印象を私は抱いていたが、この追想記を読むと、芥川が来る人を拒まない心の温かい人物だったことが分かった。
 「彼の如き高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統及び趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味に於て、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次ぎの時代に於ては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから」と盟友、菊池寛は書いている。
 『芥川竜之介紀行文集』では1921年に「大阪毎日新聞」から中国の上海、北京などに視察員として特派された折のルポ「上海游記」が興味深かった。例えば、湖心亭という茶館のそばの池で一人の支那人が悠然と小便をしているのに出くわしての述懐。菊池寛は自分(芥川)が下等な言葉を度々使うと指摘していることを紹介した上で、「しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時時は礼節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思ったら、試みに誰でも書いて見るが好い」と述べている。
 当時の日本人にとって支那が「下等な地」と見なされていたことを改めて知り、私は複雑な心境となった。夏目漱石の中国紀行の文章を読んでも、似たような記述に何度か遭遇する。
 「上海游記」にある次の描写。芥川が上海在住の著名な思想家を訪ね、その高説を傾聴した際の記述で、彼はこの時、薄着をしていたので寒さがこたえたようだ。「私は耳を傾けながら、時時壁上の鰐を眺めた。そうして支那問題とは没交渉に、こんな事をふと考えたりした。————あの鰐はきっと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知しているのに相違ない。して見れば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合せだった。どうか私を憐れんでくれ。まだこの通り生きている私を。・・・・・
 こういう文章に出合うと、私は芥川への親近感がさらに増してくる。

Just gutsy!

 あまり野球のことばかり書きたくないのだが、いいゲームを見せられると、これは致し方ない(かと思う)。木曜早朝(日本時間)の大リーグ、アメリカンリーグのプレーオフ優勝決定戦第5戦がそうだった。先発の田中マー君は7回を3安打8三振無失点の力投を演じ、ニューヨークヤンキースを勝利に導いた。これでヒューストンアストロズとの対戦成績を3勝2敗として、ワールドシリーズへの進出にあと1勝にこぎつけた。
 マー君は今年一年、特に前半戦ではピリッとしない投球が続き、辛口のヤンキースファンから猛バッシングを受けていた。私はケーブルテレビの生放送で彼のピッチングを見ていて、これではこき下ろされても仕方ないと思っていた。終盤にきてやや持ち直していたが、プレーオフに入って俄然、彼の秘めたる力を発揮した。特に木曜のゲームは出色だった。
 大リーグのホームページに掲載されている試合後の戦評をざっと読めば、彼のパフォーマンスが味方の選手たちにどう映っていたかよく分かる。トッド・フレイジャー選手(三塁手)は次のように語っている。"He was just dominant. He does all this crazy stuff and then the ball just disappears on batters. I couldn't be more happy for him. He's a great guy, on and off the field. What a performance. Just gutsy. Big time win for him."(彼は圧倒的だった。何しろ投げる球が打者の前で突然消えるんだから信じられないだろ。彼のためにもこれ以上喜ばしいことはない。凄い男だよ。グランドの中でも外でも。何というピッチングだ、気迫だ。彼にとってもとても大きい一勝だった)
 この戦評の書き手は次のように記している。The normally stoic Tanaka didn't bother to contain his excitement, screaming and pumping his fist before jogging to the first-base line. In all facets, this is no time for holding back.(いつもはストイックなタナカはこの日は興奮を隠そうとしなかった。マウンドで声を上げ、ガッツポーズをして、ベンチに引き上げた。プレーオフの時期に至ると、感情を抑えるようなときではないのだ)
 私もまさに同感だ。シーズン中にヤンキースのベンチの様子が時々テレビで映しだされたが、マー君は仲間と談笑しているシーンはほとんどなかった。関係は良好なのだろうが、やはり苦手の英語がハンデとなっているのだろう。それだからこそ、彼がプレーオフで見せた気迫のあるプレーは仲間の評価を上げ、絆を強める。
 ところで、大リーグのホームページを閲覧すると、英語の勉強にもなる。例えば、この日のマー君の快投を紹介した記事の一つの見出しは、Masa-zero! Yanks blank Astros, lead ALCS 3-2 となっていた。田中投手のファーストネームである将大(Masahiro)と、彼が7回を零封したことをひっかけた文言だ。この見出しを実際に口にしてみると、書き手のユーモアが伝わってくる。
 ヤンキースがこのままワールドシリーズに勝ち進み、ナショナルリーグの覇者となる可能性大のロサンゼルスドジャースと対戦することになってくれれば、マー君とダルビッシュ有、前田健太両投手が投げ合うシーンが見られるかもしれない。日本人投手同士の対戦となれば、英語のネイティブにしかものにできない、さらに一ひねりした見出しが見られるかもしれない。それも楽しみだ。学生たちに授業で紹介できる傑作を期待したい。

友ありケニアより来たる

20171016-1508155794.jpg 東アフリカ・ケニアから懐かしい友人が来日し、先週末、福岡の私の元を訪ねてくれた。友人の名はデニス・コーデ氏。私が1980年代末、読売新聞ナイロビ支局に勤務していた頃、デニス氏は隣の共同通信社ナイロビ支局で助手として働いていた。
 最後に彼に会ったのは『ブラックアフリカをさるく』を書くためにアフリカ大陸を歩いた2010年。だから7年ぶりの再会だった。彼の印象はお互いに若かった頃からずっと変わらない。いつも笑顔のデニス君だ。福岡には3泊したが、現役時代の私なら市内のホテルに部屋を取って歓待していたであろうが、非常勤職の今の私にはそうもいかない。それで最初の2泊は私のアパートに泊まってもらった。
 彼が到着する一週間前からトイレ、シャワー室、台所などをきれいに掃除。布団や毛布を連日、ベランダで干した。マンションとは名だけの狭苦しい住まいが彼の目にどう映るか案じていたが、デニス氏は自宅のようにくつろいでくれた。
 福岡観光の定番、太宰府の天満宮にも連れて行った。新幹線でもない在来の電車の清潔快適な座り心地がいたく気に入ったよう。それ以上に彼の心を打ったのは、国内各地で人々が彼に示してくれている親切心だという。ますます日本が好きになったようだった。夕食は天神界隈のレストランで。彼は酒をやらない。それはいいのだが、豚肉とかスパイスが効いた食事もパス。刺身も大好物というわけではないので、いささか注文には腐心したが、現在のケニアやアフリカ一般の情勢などを語り合い、旧交を温め合った。
 デニス氏はケニアの恵まれない子供たちに手を差し伸べる福祉活動に参画しており、今回の来日はその延長線上の活動。デニス氏と語らっていて、改めて思ったのは、アフリカの窮状だ。ケニアはアフリカでは比較的安定した国だが、それでも部族融和など克服すべき課題は残っている。貧富の格差の解消は言うまでもない。1980年代末、地元紙「デイリー・ネーション」は一部3シリング(当時約30円)だった。私が再訪した7年前は40シリングに跳ね上がっていたが、現在は60シリングだとか。凄まじい値上がりだ。人々の給与がそれに見合って上がっているかというと、当然のことながら、そうではない。失業率も高く、犯罪、それも凶悪犯罪が増加の一途であり、単に往時を懐古していては申し訳ない。
 デニス氏はずっと政治活動にも積極的にかかわってきてもいる。彼は拙著『ブラックアフリカをさるく』の中で次のように語っている。「われわれがやらなければならないのは、有権者に投票によって政治を変えることができるということを教育していくことです。トライバリズム(部族主義)を利して議席を得ようとか政治的優位な立場に立とうとするような政治家は排斥されなければなりません」。残念ながら、まだそういう社会は遠い。
 ケニアでは今夏の大統領選が決着しておらず、今月下旬には再選挙が行われる予定だが、与野党、主要部族を代表する候補の対立が激化しており、2007-08年の前々回の大統領選で起きた流血の事態も憂慮されている。私はデニス氏と語らっている際、失礼ながらケニアのそしてアフリカの現状を “pathetic”(痛ましい)と何度も形容した。彼はそうした現状を打破する草の根の取り組みを続けており、デニス氏の努力がやがて結実することを心から願う。彼が土産にくれたケニアのコーヒーを有難く飲みながらこの項を書いている。

冬瓜

 イギリスの作家、カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した。NHKを筆頭に日本のメディアは大騒ぎしている。予想外との声も多かったようだが、私は前から彼は必ずノーベル文学賞を取ると思っていた。返す返すも残念だったのは新聞社のロンドン支局勤務時代に彼にインタビューする話があったのだが、先方の都合でドタキャンされたことだ。
 私は彼の作品の大半は読んでいる。”Never let me go”(邦訳『私をはなさないで』2005年)も良かったが、“The Unconsoled”(邦訳『充たされざる者』1995年)が一番印象に残っている。イシグロ氏とのインタビューの話が舞い込んできた時に急いで読んだ記憶がある。カフカを彷彿とさせるよう不可思議な展開の物語だった。支局助手のルーシー嬢は「ミスターナス、私、こんな支離滅裂な小説、付き合いきれません」とあきれていた。以下の一文は拙著『英語でさるく』(2008年)でイシグロ氏のことについて書いたものだ。彼の代表作の一つ、“The Remains of the Day”(邦訳『日の名残り』1989年)が念頭にある。
 We do not need to wait until the “evening” of his literary work to recognize that Ishiguro has a sparkling talent as a storyteller.(私たちはイシグロが物語作家としてほとばしる才能を秘めていることを、彼の作家としての晩年を待つまでもなく知ることになるだろう)
                  ◇
 大家さんから少し前に冬瓜を頂いた。大きさが半端ない。ラグビーボール二つ分ぐらいある。大家さんからはざっと料理法を説明してもらったが、料理音痴の私には一度聞けばそれで分かるというものではない。ただ、当分の間は台所の片隅に放置しておいても何ら問題はないと言われたので、しばらく放っておいた。
 台北から持ち帰った文旦は放っておいたら、瑞々しさがいくらか失われていた感じがした。冬瓜はいかにと思い至り、まな板の上で包丁を入れた。やっとこさ、二つに切り分けた。インターネットの料理法のサイトに書いてあったやり方を真似して短冊状に切った。まず味噌汁の具にしてみた。あまり期待はしていなかったが、これが案外いけた。
 塩麴を混ぜるだけで美味い漬物になるという指摘もあったので、これも真似てみたが、こちらは期待したようには出来上がらなかった。まあ、しかし贅沢は言えない。味噌汁の貴重な具にできただけで満足だ。まだ、たくさん残っている。
                  ◇
 プロ野球。気乗りしないまでも応援はしてきた巨人は4位に終わり、プレーオフへの進出は断たれた。これでいいのかもしれない。今年のようなぶざまな戦いぶりで優勝チームの広島に間違って勝ち、日本シリーズに出るような事態に至れば、返って恥ずかしい。
 米大リーグは田中マー君とダルビッシュ投手が所属するチームがプレーオフに残った。残念なのは本来ならエースとしてプレーオフ初戦に登板してしかるべきマー君が3戦目の登板へと「格下げ」されたことだ。彼の今年の戦績・内容からはこれは妥当な判断だろう。5ゲーム制のプレーオフ第一弾で3戦目がどういう意味合いを持つ試合となるのかまだ分からないが、マー君のプライド、意地を見てみたい。

More...

Home > Archives > October 2017

Search
Feeds

Page Top