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「生きていることが愉しい」時代?

  • 2015-07-14 (Tue) 14:10
  • 総合

 台風シーズンの到来だ。気分がふさぐ。(なぜ気分がふさぐのか以前に書いたような記憶があるが、また説明するのは難儀だ)。地球温暖化(global warming)の影響だろうか、台風のスケールも発生回数も増しているような気がする。今世紀末には今では考えられないような規模の巨大な台風が日本に襲来することになるという。その頃は自分たちは生きていないと気にもとめないのは罰当たりというものだろう。パソコンの衛星画像のスクリーンを見つめ、太平洋上の台風の雲に向い、“Get lost!”(失せやがれ!)と叫んでいる。
                 ◇
 先週から岩波文庫の『日本近代短編小説選』の昭和編を何冊か買い求め、暇に任せて読んでいる。太平洋戦争をはさんだ時期に活躍した作家の力作が紹介されている。名前を知っている作家もあれば、初めて目にしたような作家もいる。
 二年ほど前に読んで強く印象に残っていた作家の名前をここでも再び目にした。自伝的小説『放浪記』で知られる林芙美子(1903-1951)。当時読んだのは長編『浮雲』と短編『風琴と魚の町』など。私はこのブログ上で「いや、実に存在感逞しい作品だった。もっと早く出合っておればと悔やまれた」と読後感を書いている。『日本近代短編小説選』に掲載されていたのは『水仙』という作品。編者の冒頭の文章では、女工や売り子などさまざまな仕事を転々とした林は「戦時中は軍国主義には疑いの目を向けながらも従軍作家としてしばしば戦線に赴き、兵士たちを激励。戦後は、この負い目を抱えながら、荒涼たる現実をあてどなくさまよう人々を描く。(中略)何本もの執筆を抱えた絶頂期に心臓発作により亡くなった」と紹介されている。
 『水仙』も期待にたがわない作品だった。日本占領下の台湾で生まれ、駆け落ちで東京に出て来た19歳の少女、たまえが戦中戦後の混乱の中、自分を捨てて逃げた男との間にできた一人息子を抱え、生きていくために綱渡りのように男を求めて暮らす様子が描かれている。息子も流されるように時を過ごすだらしない若者に。そんな自堕落な息子にたまえは「金持の娘でもだませないものかね・・・」と語りかけるような母親だった。「ママは悪党だな・・・」と切り返す息子に、母親は「悪い事ならどんな事でもいまはかまわないような気がした。いま十年も経てばそうした気力もなくなってしまうのだ。偽善の道徳というものに、まだみんなが迷っているような気がする。偽善のなかで、支配や権力や富の好餌を得ようと人間はししふんじんの勢いでいる。その人間たちの生活力のなかには、湯気の立つような和楽がある。笑いがある」と考える。
 持て余していた息子が北海道に働きに行くことになり、厄介払いを済ませた母親は気分が落ち着く。師走の暮れなずむ商店街で彼女はキャンディーと瀬戸物の醤油瓶の小瓶を万引きする。彼女にはポケットの重さが心地良かった。急に若返ったような錯覚にも陥る。広告塔からは甘い流行歌が聞こえてくる。新聞社の電光ニュースも最新の政局のニュースをきらきらと走らせている。
 彼女は「ふっと、生きている事も愉しい気がして来た」と書かれている。そういう時代だったのだろう。貧窮を極めていても「生きている事が愉しく」思える時代・・・。

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