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改めて『歎異抄』

  • 2019-11-15 (Fri) 10:38
  • 総合

20191115-1573781922.jpg 一昨日、このブログを打っていると、パソコンが突然、上書きモードとなった。以前にも何回かそうなったことがあり、キーボードを適当に触っていたら、いつの間にか元に戻っていた。今回も多分そうなるだろうと考え、適当にかちゃかちゃとキーボードを触っていたら、ますます泥沼にはまった。入力モードがローマ字とひらがなの「混在?」のようになり、ひっちゃかめっちゃか状態に陥ってしまった。
 困った時はパソコンを再起動させるといいことを思い出し、再起動させたが、効果なし。そのうち、パスワードまでが拒絶されるようになり、パソコン自体が開かなくなった。仕方なく、パスワードを変更し、新しいパスワードをスマホで二度も受け取り、パソコンを立ち上げようとしたが、これもはねつけられた。
 パソコンが動かないと、仕事にならない。だが、私にはもうどうにもならないので、昨日、天神に出かけ、パソコンに詳しい友人のS君にみてもらった。そうしたら、どうもナンバーロックがかかっていたみたいで、ほどなく元通りにしてくれた。やはり、「生兵法は大怪我のもと」のようだ。今、こうして心穏やかにパソコンのキーを叩いている。
                  ◇
 NHKのテレビを何気なく見ていたら、うろ覚えだが、「知の巨人」と称して、哲学者の井筒俊彦氏(1914-1993)のことを取り上げていた。私も名前ぐらいは知っているが、著作は読んだことがない。番組ではこの哲学者が「イスラムに愛された」人物で、東西の文化・宗教の架け橋たらんと奮闘されていたことが紹介されていた。
 言語学者でもあった井筒氏の著作を読みたくなり、書店で岩波文庫の棚を漁ったら、『意識と本質』があったので購入。結論から言うと、途中で投げ出した。難解な哲学用語にも閉口した。悔しいが、私の知能ではとてもついていけない。
 それでふと思った。これなら、以前に購入して「積ん読」状態になっているあの書の方がずっと読み易いのではと。その書とは親鸞聖人の語録を記した『歎異抄』。読み始めたら、直後の読売新聞の広告欄で奇しくも『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)という本の広告が目に入った。広告文によると、哲学者の西田幾多郎氏は「一切の書物を焼失しても『歎異抄』が残れば我慢できる」と語ったとか。読者(東京都・70歳・男性)の声も紹介されていた。<もう何十年も前に「無人島に一冊だけ本を持っていくなら『歎異抄』だ」という司馬遼太郎の言にふれて、人生、ある時期に達したら『歎異抄』を読みたいと、ずっと思っていました。私のあこがれの書でした>
 私が積ん読状態にしていた『歎異抄』は岩波文庫で金子大栄校注の書。100頁にも満たないが、私はなぜか、この書を途中で投げ出していた。改めて手にしてみると、『意識と本質』に比べればはるかに取っ付き易い。よし、これからじっくり読み進めていくことにしよう。
 親鸞聖人(1173-1262)は広辞苑によると、念仏弾圧で越後に流された後、「愚禿」と称して非僧非俗(僧侶でもなく俗人でもないこと)の暮らしに入ったとか。私は友人へのメールの末尾に「愚禿凡夫」と書くこともあるが、これは単に自分の禿げ頭を自嘲しているに過ぎない。幸か不幸か、完璧な禿げ頭ではないが、凡夫であることは間違いない。

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