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August 2017

遂に私もスマホ!

 遂にスマホを購入してしまった。すでに数日経過するが、使い方がよく分からなく、ガラケーで十分だったのではないかと少し後悔し始めている。
 ラインが便利とか吹き込まれていたが、考えて見ると、私はラインといった類のものからは縁遠い日々だ。アフリカを旅していた7年まえに携帯電話を不覚にも盗まれたこともあり、新聞社勤務時代の同僚の番号もほぼ喪失した。当時のブログをのぞいてみると、次のように付記している。(私と個人的に関わりのある方々へ。日本で使っていた私の携帯は盗難に遭い、今後、電話や携帯メールなど連絡が一切不可能になったことをご了解ください)。そう私の「過去」はあの時、大半が失われたのだ。
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 中国語を学習していると、どうしても日本語のことを考えざるを得ない。それで日本語に関する本も拾い読みすることが多くなった。先日は図書館で『図説・日本語の歴史』(今野真二著・河出書房新社)という本を借りた。2015年の刊行だから最近の本だ。著者は大学教授であるだけに博学であることは間違いないが、内容が難しい上に文章が硬く、門外漢の私には読み進めるのに難儀した。
 最終第五章の「明治・大正時代」の項で、「明治の文豪」として森鷗外、夏目漱石の文章が紹介されていた。夏目漱石は好きな作家であり、代表作の幾つかは再読したことがあるが、森鷗外は残念ながらそう熱心に読んだ経験はない。上記の書では森鷗外の作品『山椒大夫』が称賛されていた。確かな記憶ではないが、小中か高校のいずれかで、『山椒大夫』のさわりを読まされたような。どうも気になったので、書店で文庫本を買い求めて読んでみた。
 著者はこの作品が「平易で落ち着きのある文章で綴られている。それは現代日本語とあまり『距離』を感じさせない文章であり、そうした意味合いにおいては、現代日本語の『書きことば』の源流をこのあたりの時期に求めることができると思われる」と述べている。
 少しショックだったのは文庫本に収められていた『阿部一族』。読み進めていて、途中で「あれ、俺、これはいつか読んだことがあるぞ」と気が付いたこと。読んでいたことをすっかり忘れていた。作品で描かれる江戸時代の武家社会の「殉死」の無慈悲、無意味さに腹立たしさを覚えたことも思い出した。まあ、忠臣蔵の討ち入りだってそうではあるが。
 『図説・日本語の歴史』は最後に「新しい表現の追究」と題して、芥川龍之介の『羅生門』の文章を紹介していた。私は2年ほど前このブログに記した、芥川の作品『秋』を読んでの感想を思い出した。ブログでは次のように書いている。——独特の文体が印象に残った。次のような文章だ。「彼女は・・・我知れず耳を傾けている彼女自身を見出しがちである」。「夫は夜寒の長火鉢の向うに、いつも晴れ晴れと微笑している彼女の顔を見出した」。「彼女はふと気がつくと、いつも好い加減な返事ばかりしている彼女自身がそこにあった」。英語だと I found myself …. She found her …という構文の文章が頭に浮かぶ。「瑣末な家庭の経済の話に時間を殺すことを覚えだした」という文章もあった。「時間を殺す」は英語のkill time の直訳だろう。作家は英語やフランス語に明るかった印象がある。自然と英仏語の表現を自分の文章に取り込み、活かしていったのだろうと推察される——。

batcrap crazy

20170824-1503543118.jpg トランプ米大統領が流血の事態を招いた白人至上主義団体に対する手ぬるい対応ゆえに非難の矢面に立たされている。CNNテレビの報道番組では各パネリストから彼は結局、大統領には「不適格」(not fir for office)ではないかと痛烈に批判されていた。憲法の規定を最大限活用し、ペンス副大統領が大統領から実権を奪取する手続きに着手するべきだとか、大統領の精神状態を専門家にきちんと診てもらうべきだとか、などといった意見も出ていた。
 パネリストの一人は “If people around him don’t think this guy is absolutely batcrap crazy, they are mistaken.” (大統領は全くの狂人だ。周辺の人々がそう思わないとしたなら、彼らは間違っている)と述べていた。batcrap とは何ぞや? 直訳は「蝙蝠の糞」。ネットで調べて見ると、教会の鐘楼(belfry)が長い間使われずにいると、蝙蝠(bat)が居つくようになり、鐘楼はやがてその糞(crap)にまみれる。人間の脳を鐘楼に見立て、正気とは思えない人のことを batcrap crazy と形容するらしい。“the craziest of crazy people” とも。
 公共の電波でこれほどの罵倒を浴びせられるようになっては、トランプ大統領の「終わり」が始まっているのかもしれない。それはそれで結構なことだが、北朝鮮の核問題が危なっかしい情勢だけに米政権が揺らぐのは「対岸の火事」ではない。
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 これまで中国語(簡体字)を入力するのに四苦八苦していた。パソコンの画面上で入力する方法を知らなかったので、ネットで何とか、中国語のサイトにとび、簡体字表記を見つけてはコピーして貼り付ける方法でしのいできた。だが、フォントや字体のスタイルが異なったり不自然だったりで、何だかなあと憂鬱な気分で作業を進めていた。
 ところが最近、私のパソコンでも中国語による入力が比較的容易にできることに気づいた。やって見ると、実に簡単にできるではないか。これまでの苦労がウソのようだ! 
 それで今は次のような一文もたちどころに打つことができる。——听说,茶馆能看到变脸等一些表演。—— NHKテキストでは「茶館で変面などの出し物が見られるって聞いたんですけど」という訳文が載っている。听说は「・・・だそうだ」「耳にしている」。茶馆は「茶館」。变脸は「隈取りのお面を一瞬で変える演技」「変面」。表演は「パフォーマンス」。
 あえて英語で逐語訳を落とすと、おそらく次のような英文となるだろう。变脸の定訳を知らないのでここでは face-changing としておく。I hear, teahouse can see face-changing, and other performances. これでは teahouse が主体でさまざまなパフォーマンスを見ることができると述べているようだ。正しい英文ならば、I hear, in the teahouse you can see … とするべきだろう。日本語では中国語の逐語訳的な「聞くところによると、茶館は見ることができる、変面やその他幾つかのパフォーマンスを」と言ったとしても、ほぼその意味合いは理解できる。中国語では日本語の語順にほぼ沿った表現が可能という指摘に何回か出合っているが、これもその一つだろう。英語を母国語とする人々は上記の文章には戸惑うのではないか、日本人にはすっと腑に落ちるのに、と私は思った。
 上記の文章は先に書いた、日中韓の「話題優越型言語」(topic-prominent language)の特徴である、文頭に主語ではなく、主題がくる例であろう。

主語について

 田舎に一週間ほど帰省して帰福。長姉が不在の郷里はさすがに寂しかった。人の住まない家は朽ち果てるのが早いという。まさか、長姉の家がこうも早く主不在となるとは思いだにしなかった。甥っ子たちと呑気なひと時を過ごしたが、これからはどうなることやら・・・。
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 田舎で『中国語のしくみ』(白水社 池田巧著)を読み終え、その後も寝転んで拾い読みした。大いに参考になった。記憶の新しいうちに、幾つか記すと。
 日本語でもっとも簡単な会話は、津軽弁の「け!」「く!」(「食え!」「食う!」)だと言われていますが(自分で直接確認していないので、もし違っていたら、ごめんなさい)、試しにこれを中国語に訳してみると、日本語とは違う中国語のしくみがよくわかります。
 你吃吧! 我吃!
 逐語訳すると左の文は「おまえ/食べろ/よ!」、右の文は「オレ/食べる!」となります。まず気がつくのは、中国語では誰が食べるのかを明示していることです。日本語の「食べる」は「食べます」「食べれば」「食べろ」のように形が変化しますけれども、中国語の‘吃’は、誰の動作であっても、いつ行われても、形も発音も変わりません。(中略)文末の‘吧’は「~なさいよ」「~でしょう?」といった勧めたり推測したりする気持ちを添えていて、これがないと命令口調になってしまいます。

 そう中国語は英語に似て、主語を明示することの多い言語のようだ。この点、日本語とはかなり趣を異にしている。挨拶の項では次のようなことが指摘されていた。
 中国語の‘你好!’は、日本語の「こんにちは!」に相当すると思いがちですけれども、初対面あるいは久しぶりに会ったときに使うかなりフォーマルなあいさつです。しかも1930年代頃から使われ始めた比較的新しい表現らしく、ロシア語の「ズドラーストヴィチェ」からの翻訳ではなかったかと考えられています。同様に、‘再见!’も、フランス語の「オルヴォワール」あるいはロシア語の「ダスヴィダーニャ」からの翻訳だと言われています。日本語で「こんにちは」「さようなら」を家族に使わないのと同様、‘你好!’や‘再见!’も家族間では使いません。‘谢谢!’も、家族では他人行儀な感じがして、使われることは少ないようです。(中略)目上のひとに対しては、‘(~)老师,您早!’「(~)先生、おはようございます!」のように相手の呼称や名前を添えるのが自然ですし、丁寧な感じがします。相手の名前や呼称を呼ぶのは親しさの表明であり、親しみは敬意につながるという考えかたがあるからです。その極端な例として、学生同士などではあいさつ語抜きであいさつを交わすという面白いコミュニケーションも見られます。たとえば、友人とすれ違ったときに、(相手の)名前だけを呼んで声をかけ合うのです。(ロシア語やフランス語の表現はもちろん、それらの言語でスぺリングが記してあったが、ここでは割愛)
 名字だけでなく、フルネームで呼ぶのが丁寧で好感を持たれる呼び方だとも書かれていた。日本では普通、相手をフルネームで呼ぶとかなり奇異な印象を与える。呼称については、例えば大学のキャンパスで「那須先生!」と名字を添えて呼ばれたとしたら、悪い気はしないかと思うが、私の場合は単に「先生!」と呼ばれるのが関の山だ。

夏休み

 心配した台風は福岡ではほとんど影響を感じることもなく過ぎ去ってしまった。郷里の宮崎もそうたいしたことはなかったようだ。神様に感謝だ。パソコンの天気概況の衛星画像にしょっちゅう「念」を送っていた甲斐があった。
 それにしても、今回も西日本を中心に大量の雨が降り、住宅の浸水などの水害をもたらしているようだ。最近はかつての日本では見られなかったような雨が降っている印象がある。こういう現実を目にすると、地球温暖化(global warming)による異常気象は確実に現代人の暮らしを蝕みつつあるように思えてならない。「記録的豪雨」(record rainfall)という表現がやがてあまり意味のない語句になるのではないか。そうならないことを祈りたいが。
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 米プロゴルフの世界選手権シリーズ、ブリヂストン招待。松山英樹選手が胸のすくような優勝を遂げた。最終日は午前5時に起きてテレビの前で応援したが、彼は終盤も落ち着いたプレーでバーディーを連取、終わってみれば2位に5打差つける圧勝だった。ブリヂストン招待はメジャーに次ぐ重みのある大会だ。今週末に行われる今季メジャー最終戦、全米プロでの活躍が期待される。
 英字新聞ジャパン・ニュース紙にAP電の記事で、英北アイルランド出身の超一流プロ、ローリー・マキロイ選手が松山選手を称える言葉が載っていた。 ——“Once he gets going, he just keeps the hammer down and keeps it going. It’s very impressive.” —— 「ヒデキは調子に乗ると手が付けられなくなる。目を見張るようだ」といったニュアンスのほめ言葉だろう。マキロイ選手からこう称えられるのも素晴らしい。
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 『中国語のしくみ』(白水社 池田巧著)に次の指摘があった。時間順に連続する動作をつなげて文にする「連動文」という文の説明で、紹介されていた文章は「我们去餐厅吃午饭吧。」。「私たち(我们)はレストランに行って(去餐厅)昼食を食べましょう(吃午饭吧)」。次のように説明されていた。誘いかける場合、日本語ではわざわざ「私たちは」と言いませんが、中国語ではきちんと主語をつけます。もし主語を省略してしまうと、場合によっては相手に対して命令口調で言っているように聞こえますので要注意。なるほど、この点では中国語は英語に似ていると言えなくもない。
 ブログを書いていることの利点の一つは過去のブログを日記帳のように読み返すことができることだ。私の場合は「備忘録」的なブログだけに一段とそうだ。
 それで去年の今頃は何を書いているのかと思って、スクロールしてみると、次のようなことを書いている。—— 私は間もなく宮崎の郷里の山中に籠る。パソコンは使えず、携帯も圏外。世の中の喧騒とは無縁の静かな日々を過ごすことになる。スポーツ中継の熱狂からも幾分遠ざかることになる。NHKラジオ(語学講座)も山間地だから雑音が入って、聴取があまり芳しくないのが少し残念だが、致し方ない。そういう事情でこのブログもしばしお休みです。皆さま、楽しい夏休みをお過ごしくださいませ。アンニョン!——
 なるほど。今年も大差ない・・・。

久しぶりに聖書

 本日も暑い。ただ今、机の上の温度計は36.9度。前期定期試験の採点も終わり、大学の仕事は一段落。これから夏休みに入る。非常勤講師はその間、稼ぎはなくなるが、気楽に気長に好きなことをする時間が増えるので、まあいいか。まあいか、毎夏のように、この時期、郷里の山里に帰郷していたが、今夏は様相が異なる。私を故郷につなぎとめていた唯一の存在、長姉がついに施設に入所する身となったからだ。長姉がいない故郷に戻っても意味はない。亡き両親の墓前で手を合わせることぐらいだ。とかく人の世は諸行無常・・・。
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 嘆いてばかりもいられない。宮崎のゴルフの友と久しぶりのプレーを約束した。それで暑い中、打ちっ放しの練習場に出かけた。クラブを手にするのはたしか4月以来。おそらくろくに当たりもしないだろうと危ぶんでいたが、結構、当たってくれた。これなら、本番でもそう恥ずかしくないプレーができそうだ。台風が九州に近づいており、週明けにかけ大荒れになるのが必至の情勢。陸送のトラックの足も乱れるかもしれない。それで練習を終えるとすぐに宅急便でゴルフバッグを宮崎のゴルフ場に送る手続きをした。私にしては珍しく段取りがいい。
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 9月にとある集まりでルワンダのことを講演するよう依頼されている。2010年のアフリカをさるく旅でもルワンダは現地を歩き取材しており、話したいことは少なからずある。それでも最近の情勢はいかがとこのところ、時折、ネットでルワンダの新聞も読んでいる。インターネットは本当にありがたい。
 ルワンダの首都キガリで近く女性の経済的自立を考える国際会議 “All Women Together” が開催されるという記事を目にした。少しく手がとまったのは、次のくだりだ。The conference is inspired by the bible scripture in Psalms 68:12; “Kings and armies flee in haste; the women at home divide the plunder.” (この会議は旧約聖書の詩篇68:12の一節に啓発を受けている。「王様と軍隊は急いで逃げた。逃げなかった女性たちは略奪品を分け合った」)
 聖書は一通り、読んだことはあるが、無論、覚えているシーンはごくわずか。それで本棚から久しぶりに聖書を取り出した。詩篇の該当する個所をめくってみる。活字(英語)が懐かしい。なぜか心が落ち着く。私の聖書では上記の詩篇の一節は次のように書かれていた。The enemy flees. The women at home cry out the happy news: “The armies that came to destroy us have fled!” Now all the women of Israel are dividing the booty. See them sparkle with jewels of silver and gold, covered all over as wings cover doves! God scattered their enemies like snowflakes melting in the forests of Zalmon.
 私は聖書を読んでいて、私が女性なら、女性であることを誇らしく思うことはあまりないだろうなと思いながら読んだような記憶がある。それはともかく、ルワンダやアフリカに限らないが、女性が男性と対等に活躍できる世の中こそ21世紀に求められる社会だと思う。第一線を退職して還暦を過ぎた今、その思いを強くしている。

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