May 2017
솔직히(ソルチッキィ)面白い!
- 2017-05-25 (Thu)
- 総合
断酒生活に入って以来、知らず知らずのうちに寝入るなんてことはなかったが、昨夜、不覚にもベッドに横になってNHKラジオを聞きながら寝入ってしまった。灯りを消すことも、歯を磨くこともなく。授業で疲れてしまったのと、それにもかかわらず、帰宅後にプールで少し泳いだことも一因したのかもしれない。たまにこうなるのも返って「新鮮味」があって気分はそう悪くはない。
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読売新聞の広告に「英語はやっぱりNHK英語」というのが目に入った。これまでも出ていたことがあるのかもしれないが、私は初めて目にした。「コスパ最強 NHK英語を使い倒せ!」「国民的学習法の金字塔」などといった文言が並んでいる。全くその通りだ。決して歯の浮くような「美辞麗句」ではない。
こういう広告が出るということは、NHKの英語講座が静かなブームとなっているのだろうか。そうなっているのであれば嬉しい。私は最近学生によく語りかけている。「英会話をものにしたかったら、別に街中にある語学教室に通う必要なんかはないよ。NHKラジオ(第2放送)を暇があるときに聞けばいい」。少し難しいと感じるなら、毎月500円程度のテキストを買えばいい。十分元手は取れるからと。
私は朝8時台の「韓国語」「中国語」の講座に続き、「英会話タイムトライアル」(10分間)を聞き、夜9時台の「基礎英語」をIからIIIまでと「ラジオ英会話」、それに10時台の講座を幾つか聞いている。中韓の講座以外はテキストは買っていないが、とにかく耳を傾けるだけで参考(復習)になる。これまでも大きな災害時にはNHKのありがたみを認識していたが、語学講座でもその良さを再認識するとは・・・。何だかNHKの回し者みたいな文章になってしまった。
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久しぶりに韓国語のこと。以前にこのブログで書いたことがあるかもしれないと検索してみたが、出てこないので、あえてまた触れたい。今日の講座で「行って正直に話してみてください」という文章の韓国語訳が紹介されていた。가서 솔직히 이야기해 보세요. 敢えてカタカナ表記すると、「カソ ソルチッキィ イヤギヘ ボセヨ」。
これだ、これ、これと思った。「솔직히」とは韓国語のドラマでしょっちゅう出てくる表現。「ソルチッキィ」。私の耳には「しょうじきっぃ=正直っきぃ」と聞こえる。「正直に」という意味だ。でも漢字で書くと、「率直に」となる。「正直」も「率直」も似たようなものだと言えばそれで済む話だが、でも、これはなぜか耳に残る言葉だ。参考までに書けば、「ソルチッキィ」には私たち日本人が意識しないでも普段から発声している「濃音」と「激音」の要素が後ろの方に含まれている。韓国語は「ソルチッキィ」面白い!
思い込みと言えば、中国語の講座6月号のテキストの末尾の連載コラム。著者の語学講師の森田六朗氏が次のようなエピソードを書いていた。大型トラックがバックする時、女性の声で「バックします」と流れる警告音がなぜか「ガッツ石松」に聞こえる人がいるのだという。これも「ソルチッキィ」面白い!
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"no filter" ねえ!
- 2017-05-21 (Sun)
- 総合
トランプ米大統領が型破りの為政者であることは海の向こうから送られてくる連日の報道でよく分かる。最近の英字紙の紙面で目にしたのは、匿名で報じられた政権関係者のトランプ大統領評。“He has no filter; it’s in one ear and out the mouth.” というものだった。「大統領はフィルターを持ち合わせていない。耳にした情報はすぐに口から出ていく」という感じか。「大統領は超口軽!」と揶揄りたくさえなる。
トランプ大統領が渦中にあるロシア疑惑を巡って、独立性の高い特別検察官が任命される事態に至った。この暗雲が政権の今後にどういう影を落すことになるのか予断を許さない。それはそれとして、彼がこれまでの為政者と決定的に異なるのは、上記の皮肉(批判)が物語っているように、「放言癖」と紙一重の「歯に衣着せぬ」発言だ。私はそうした発言が報じられる度に“loose cannon”(何を言い出すか分からない人)という表現が頭に浮かんでいる。英英辞典にはこの表現は “a person, usually a public figure, who often behaves in a way that nobody can predict” と載っている。
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今年2月初めに、中国語の学習での気づきについて次のような趣旨のことを書いた。———最近気になったのは次の文章。我嗓子疼。<私は喉が痛い>。嗓子は喉を意味する。疼は<痛い>。声調を無視してカタカナ表記すると、<ウォサンズトゥン>。英語にそのまま落とすと、I throat sore. となる。自然な英文にすると、I have a sore throat. とか My throat hurts. といった文章になるかと思う。英語では上記の文章でI の直後にthroat と続けることは無理がある。中国語は自然に続けることができる。日本語は係助詞があるので、<私は喉が>と言えば、何の差し障りもなく自然な文章となる。この点だけを見れば、日本語を母国語とする我々は中国語により容易に近づくことができると感じる。————
『日本語の謎を解く 最新言語学Q&A』(橋本陽介著)という昨年刊行されたばかりの本を読んでいて、次のような記述に出くわした。———私自身は、「象は鼻が長い」「私は足が痛い」の「象は」や「私は」は「主題」であって、「鼻が」「足が」が主語だと説明するのがいいと思っています。専門家の間では、「主題」は語用論の概念であり、文のレベルで使用するのは適切ではないという意見も多いのですが、私は語用論と統語論と区別しない立場であり、また「は」の実際の機能を考えるならば、「主題」という概念を文レベルでも認めるべきだと思っています。(中略)二重主語文や主語の省略は中国語や朝鮮語にも存在します。例えば「私は足が痛い」は中国語では「我(私は)脚(足が)疼(痛い)」となるように、日本語をそのまま直訳することができます。より文法的に近い関係にある朝鮮語は言うまでもありません。————
橋本氏は中国語を中心とした文体論が専門で、ほぼ独学で7か国語を習得した異才の人物とか。その橋本氏によると、日本語は欧米の言語とは異なり、「主題卓越型の言語」と呼ばれているのだという。確か、中国語もそういう特徴があるとどこかで読んだ記憶がある。こうした指摘に触れると、日本人として中国語を学習する意欲を大いにそそられる。初学者の私が気づいていない日本語、中国語の類似性はまだ多々あるのだろう。楽しみだ。
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Not yet the last leaf
- 2017-05-19 (Fri)
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好天が続いているのはありがたいが、西日が肌に刺すように感じつつある。自宅で午後4時。目の前の温度計は27.2度。この程度だとまだそう気にならないが、そのうち分からない。書類の山の中から古い雑記帳を引っ張り出して見る。4年前の2013年は7月8日から室内の温度を書き出している。それまでは特段の暑さではなかったのだろうか。5月4日から室温を書き始めている年もある。5月15日午前10時34分、25.9度。「まだ十分普通に過ごせる程度」と走り書きしている。二週間後の5月30日には午前8時3分、27.4度。メモは「少し蒸す感じかな? 我慢はできるが」。
まあ、まだ当分は大丈夫のようだが、クーラーが欲しくなるのはいずれ時間の問題。できるだけ我慢するとしてもだ。(午後5時を過ぎ、温度計は28.2度。西日が直接差し込む私の部屋はこれから温度が上がっていく)
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新しく購入した水泳のゴーグル。ただ一つ難点は度が入っていないことだった。それで、これまで使用していた度入りのゴーグルを引き続き使おうと、ゴーグルの縁の切れた部分に接着剤を塗って修復することにした。接着剤は100円ショップにあった。
何度か塗ったが、どうも頼りない。それで数日かけて辛抱強く塗り重ねた。かさぶたのような厚みができた。試しにこれをつけて泳いでみる。やはり、視界がより鮮明だと泳ぎやすい。プール全体を見渡して他の利用者の顔が「判別」できるのも、度入りゴーグルだから可能なこと。問題は接着剤で縁を強引に固めたゴーグルがどれだけもつかということ。1年ももてば御の字だろう。駄目になったら、今度は度入りの新しいゴーグルを買い求めよう。
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謝恩会でもらった花束。いい加減処分しようと思ってはいるが、まだ葉っぱの部分は元気なようだ。命あるものを勝手に絶つのは気が引ける。最後の葉っぱが朽ちるまで面倒を見るべきか。それで、大きな花瓶から小さなコップに替えて毎朝水を入れ替え、活け続けている。こちらの方は果たしていつまでもつだろう。これはこれで楽しみだ。
短編小説の名手、オー・ヘンリーの佳作に "The Last Leaf"(邦訳『最後の一葉』)というのがあったことを思い出す。病に倒れた薄幸な少女が世を憂え、ベッドから見える外の木の葉がすべて散りゆけば、自分も息絶えるのだと決めつける物語で、それを知った老画家が嵐の夜に、はしごを持ち出し、隣のビルの壁面に一葉の葉っぱを描く。嵐が過ぎた翌日、少女は最後の葉っぱが耐え続けているのを見て、自分も生きるのだと思い直す。老画家はそれと引き換えのように直後に肺炎をこじらせて死ぬ。嵐の夜の無謀な作業(創作)がたたったのだ。だが、老画家の熱意は少女に伝わる。老画家の労作のことなど露知らない少女は最後に残った葉っぱを見て、自分の面倒を甲斐甲斐しく見てくれていた親友(Sudie)に語りかける。“I’ve been a bad girl, Sudie. Something has made that last leaf stay there to show me how wicked I was. It is a sin to want to die.”
葉っぱだけになっても、コップから吸い上げる水の量で花(植物)は日々生きていることを教えてくれる。私の思いは・・・It is a pleasure to know that even a little leaf is alive.
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頭の中も一新したい!
- 2017-05-15 (Mon)
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中国語を学習していると、いや、これは韓国語であれ、英語であれ、どの外国語でも言えることだが、日本語の特徴に思いを馳せることにもなる。私が感じた最近のケースでは、主語って何?という素朴な疑問がある。
ご承知のように、日本語は主語がなくとも文章が成立する。逆に主語が複数あると感じることもある。主語がない例では、例えば「寒い!」。これは「(私は)寒い」ということだ。前回書いた『中国の小学生はどう中国語を覚えるか』(李凌燕著)という本を読んでいて、次の文章に出くわした。「彼は試験の結果がよかった」。ふと思った。これを文法的に説明する場合、主語は何になるのだろうかと。「彼」だろうか「(試験の)結果」だろうか。ネットで調べてみると、この文章は「彼」は主題、「結果」は「主体」と呼ばれるものであるようだ。「主体」=「主語」ということなら、「(試験の)結果」が主語となる。
参考までに、『中国の小学生・・・』で上記の文章は中国語では<他考试的结果很好。>と記されていた。門外漢の私が思うに、日本語の文章をそのまま順番通りに中国語に落としたような文章だ。動詞や時制のことなど一顧だにする必要がない。これはいい。英語で同様のことをやろうとすれば、
私が何を言いたいのかいうと、こういうことだ。中国語は文法的に日本語よりも英語に近いと感じることもあるが、上記のケースのように日本語に類似していると思うことも少なくない。それに漢字という共通の「土壌」を考慮すると、ある程度の壁をクリアすれば英語など比べるべくもない「近似性」を実感する日がやって来るのではないかと思い始めている。そういう日がやって来ることを心から願う。いつのことになるやら分からないが・・・。
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最近は段々足が遠のきつつあるものの、プールで泳いだり歩いたりする運動はまあ継続している。身に付けている水着、キャップ、ゴーグルもだいぶ古くなり、鏡に自分の身を映して見るのも恥ずかしい。それでこの際、三点セットを一新することにした。
スポーツ用品店に出向くと、上記の三点セットが特売されていた。締めて3,999円。これは確かに特価だ。早速買い求めて、泳いでみた。いや、さすがにずっと泳ぎやすい。よく考えれば、これまでの水着は水泳には不向きのものだった。アイルランドを旅していた時、乗船したフェリーのサウナに入る際に買ったもので、どちらかというとジョギング用のパンツだった。キャップは今のジムで買ったものだが、ゴムが切れてしまい、泳いでいると抜けそうになることがしばしば。ゴーグルもゴムの付け根のところが朽ちかけていた。
「装備一新」。これからは少し上手な泳ぎができそうだ。ただ一つ難点は新しいゴーグルには度が入っていないこと。度入りのゴーグルに慣れてしまった身には、泳いでいてなぜか不安な気持ちになる。不思議だけどそう感じる。
参考までに、水泳は中国語では游泳(yóuyǒng)、韓国語では수영(スヨン)。発音はいずれもとても似ている(ように私は感じる)。
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日本鬼子
- 2017-05-12 (Fri)
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『中国の小学生はどう中国語を覚えるか』(李凌燕著)という本を読んでいる。複雑な心境にさせられる項もある。例えば、本論から外れた「中国の子供たちの日本人観」と題したエッセイ風の文章。この中で「日本鬼子」(rìběn guǐzi)という中国語独自の表現が紹介されている。日本人を指す最大級の侮蔑の表現だという。同じ漢字文化圏ながら、我々にはそうピンと来ないが・・・。
『中国の小学生は・・・』では「日本鬼子」は「日本の畜生野郎」と訳されていた。母国(中国)に対する強烈な愛国心が日本及び日本人への反感、蔑視となってこの表現が定着しているようだ。日中間で政治的問題が生じる度に、愛国心を鼓舞する教育を受けた若者たちが日本人一般を「日本鬼子」と見るようになるのだろう。お互いの国にとってこれほど不幸なことはない。
このブログで書いたことがあるかどうか覚えていないが、新聞社に勤務していた10年ほど前に別府市にある立命館アジア太平洋大学(APU)で何人かの留学生を集め、日本とアジア諸国との交流を扱った特集紙面のための座談会を差配したことがある。その時に中国人の女子留学生が語った言葉が今も印象に残っている。彼女は来日後、日本に対する印象が一変したと語った。それまでは旧日本軍の残虐さを描いた映画や物語ばかりを見て育ったためだ。だが、彼女は中国に帰国した時、6歳の姪っ子から「お姉ちゃんは裏切り者よ」と罵られたという。
私は彼女の言葉を聞いて奇異に感じたが、尖閣諸島問題に端を発する2012年の中国各地での反日デモや日系企業への破壊行動のニュースに接して、なるほどそういうことかとその辺りの事情が理解できたように感じた。『中国の小学生は・・・』は1998年に刊行されているのでほぼ20年前だが、中国社会の基層部にたまっている反日・嫌日のマグマは今もそう変わっていないのではないか。そうでなければ嬉しいが・・・。
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購読している英字新聞「ジャパン・ニュース」。スポーツ面に少し手がとまった記事が掲載されていた。ドーピング疑惑の渦中にあったあのマリア・シャラポワ選手(ロシア)がトーナメントに復帰し、結局、二回戦で敗れたことを報じた記事だった。
彼女を破ったのはone of the most outspoken players against Sharapova’s return to tennis following a doping banだったウージニー・ブシャール選手(カナダ)。彼女には試合前、これまであまり話したこともなかった他の選手たちがやって来て激励の言葉をかけられたとか。その上でブシャール選手は次のように語っていた。“It showed me that most people have my opinion, and they were just maybe scared to speak out.”
この部分を読んで、何だか日本人学生が書く英文のようだなと思った。彼女はフランス語がカナダで唯一公用語とされているケベック州出身。もちろん、フランス語だけでなく英語も堪能に相違ないが、より流暢と推察されるフランス語に影響された表現ではなかろうか。It showed me that 以下のくだりは普通 most people share my opinionとか most people are feeling the same way となるのではと思う。私の英語の「師匠」のアメリカ人の友人からも「賛意」を得た。
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食物連鎖?
- 2017-05-06 (Sat)
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雨に降られたゴールデンウィークだった。まあ、寝ては食い、食っては寝るだけの休みだったので文句は言えない。美味い肉や魚を食っていると、たまには焼酎でも、と少しだけ気持ちが揺れたが、すぐに忘れた。
雨が上がった一日、山に筍掘りに出かけた。筍掘りというより、筍切りという方がより適切かもしれない。竹林からそこかしこに大小さまざまな筍が林立しているからだ。ついこの間まで筍シーズンには姉夫婦がせっせと掘り出し、貴重な収入源としていたが、今は「野放し」状態。猪や山鹿のご馳走となっているようだ。甥っ子と目につくところにある筍を8つほど切り取って持ち帰り、姉が適当にさばいたものを大釜で湯がいた。
ところで、山道の本道から竹林へ通じる道の入り口に近いところに鹿の侵入を防ぐ網ネットが張ってあるのだが、甥っ子が「あれ見て!」と言うので、ネットを見やると、何やら角のようなものがぶら下がっている。山鹿が網に角をひっかけ、脱出できずにいるところを狸か狐か野獣に食われ、角だけが残っていたのだった。哀れと言えば哀れだが、これも「食物連鎖」の一つと呼べるのだろう。
◇
司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』を読み終えた。読み応えのある物語だった。2200年前の中国大陸で覇を競った豪傑たちがあのような会話を交わしたのであろうかと、門外漢としての素朴な疑問を抱くことも少なくなかったが、作家のあのような味付けの肉声があったからこそスムーズに読み進めることができたのだろう。
中国語の初歩の学習者にとって、興味深いシーンもそこかしこにあった。例えば、次のような記述————。
この大陸については、よくわからないことが多い。
「江南」と、のちによばれる揚子江以南の地は、この時代(紀元前二〇〇年代)、北方の中原(黄河流域)の人々からは、異国めいた地域としてみられ、そこにいるひとびと(呉とか越、あるいは楚)は、異民族とみられていたにおいがある。
むろんこのあたりのひとびとも、北方で発明され、発達した漢字を導入し、意思の伝達につかいはじめている。その文字によって、民族詩集もできた。北方の漢民族の『詩経』に対し、『楚辞』である。楚とは、江南の一地域をさす。他の文化も、うけ入れた。たとえば都市を城廓でかこむという中原の方式である。
しかし中原とは異なる点のほうが多い。中原の人は騎馬民族との混血のせいもあるだろうが、長身の者が多い。顔は長い。この南方のひとびとは圧倒的に矮人(ちび)が多く、顔はまるく、二重まぶたで、土俗は————漢民族には考えられないことだが————文身(いれずみ)をした体をもっている。
古代、中原では、江南の連中のことを蛮族とし、「荊蛮」(けいばん)と呼んでいた。荊一字だけでも、その地域をあらわす。
「中原」と「江南」。今の中国ではどのような受け取り方をされているのだろうか。そのあたりがとても知りたいと思った。これはずっと将来の学習課題の一つ。
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『項羽と劉邦』
- 2017-05-04 (Thu)
- 総合
ゴールデンウィーク。例によって宮崎の田舎に戻っている。九州自動車道が混みそうとかテレビで言っているので、右回り、JR日豊線で帰ろうかと考えたが、小倉経由で(確か)6時間前後かかる。迷った末に、いつものように新幹線で新八代駅まで下り、そこから高速バスに乗って宮崎駅まで行くことにした。問題は新八代から先の九州自動車道の混み具合。
少々の渋滞は覚悟していた。ところが、バスは比較的スイスイと走行。定刻から15分ほどの遅れで、博多駅を新幹線で出て3時間20分後に宮崎駅に到着した。博多―新八代間の新幹線も自由席に座ることができた。新八代からの高速バスも満席ではなかった。メディアでこの時期に賑々しく報じられる行楽地の雑踏からは程遠かった。私のような利用客にはありがたいことだが、しかし、これが宮崎の現状を如実に物語ってもいるのでもあろう。ゴールデンウィークの真っ只中でも楽に帰省できて複雑な心境になる。
◇
長姉の家で体力的にも結構きつい山仕事を最後に手伝ったのはいつだったか。姉夫婦が体調を崩してからはそういうこともなくなった。これも寂しいことだが、人間はどんなことにも慣れるものらしい。今はこうした気楽な帰省が普通になった。
のどかな山中で読破しようと思っているのが司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』。中国語を学習している関係で、中国史に残る英傑の物語なども少しは読んでおこうと、図書館から文庫本を借り受け、上中下の下巻までこぎつけている。中国の史実に即した物語にはこれまであまり興味がなかった。「項羽」と「劉邦」といった人物名や、「四面楚歌」とかいった故事も彼ら二人の戦いに由来することぐらいはぼんやりと知っている程度だった。
合戦の様子、登場人物の心理の描写などに引き込まれながら面白く読んでいる。そしてふと思った。あれ、これいつの時代の物語だったかな。これはまだ紀元前の物語だ。時代は紀元前200年頃で、日本は稲作文化が芽生える弥生時代の頃のお話。『項羽と劉邦』には二人の他にも幾多の歴史上の人物が登場する。翻って、日本で弥生時代の歴史上の人物を我々は何人知っているのだろうか。私は一人として知らない。いや、考えたことさえない。
日本で文字、書き言葉が誕生するのは中国から漢字が伝わる奈良時代以降という。弥生時代はそれよりはるか以前の時代だ。『項羽と劉邦』(下巻)に以下のくだりがある。
武の極は個人に帰せられる。刀槍(とうそう)を舞わし、相手と一騎打ちすることだが、項羽はこれを劉邦にもとめようとし、口述して側近の者に帛(きぬ)に書かせ、矢に結んで漢城へ射こんだ。「戦乱のために天下が飢え、たれもが匈々として安らがないのは、要するにわれら二人がいるためである」と、項羽がいう。どちらかが死ねば世は安らぐ。によって余人をまじえず、一騎打ちによって勝負をつけようではないか、と項羽はいうのである。 「如何」 最後に、劉邦の返事をもとめている。劉邦はごくそっけなく、「私は、智恵でたたかいたい」とのみ返事を書き送った。項羽の申し出が素朴すぎるために、これ以外に返事の仕様もなかった。
このようなやり取りが紀元前3世紀頃の中国大陸であったことも驚異的だが、そうした史実が残されていることにも愕然とする思いだ。
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