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アメリカをさるく

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J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)③

 これまでの高校生活でただ一人自分を理解してくれると思われた若いアントリニ先生の家を訪ね、ホールデンが先生と交わす会話も興味深い。彼の行く末を案じる先生はいろいろとホールデンを諭す。先生はホールデンがすでにして「転落」の人生を歩んでいるのではないかと危惧する。30歳になるころには、どこかのバーで酒浸りになっており、入ってくるお客の誰に対しても嫉妬や敵意を抱くようなさもしい男になっているのではと。
 例えば、そのお客が自分通えなかったような大学で(花形スポーツの)アメフトをやっていたように見えるとか、あるいは、逆に例えば、正しい文法の英語表現では ”It’s a secret between him and me.” (それは彼と私との間の秘密なのです)というような場面で、”It’s a secret between he and I.” と語るようなお客だったりしたら。
 彼には10歳になる仲のいい妹フィービーがいる。なかなか大人びている妹で、深夜に泥棒猫のようにこっそり帰宅した兄が成績不振で高校を退学になったことを察知すると、六つも年上の兄を手厳しく追及する。お父さん(富裕な弁護士)が今回の退学を知ったら、お兄さんは殺されるわよ、お兄さんは人生で好きなことってあるの、いったい、将来は何になろうとしているの? ホールデンはたじたじとなりながらも、真剣に考え、通りで子供が口ずさんでいた歌(詩)を念頭に、将来は、広大なライムギ畑で遊んでいる大勢の小さな子供たちが崖から落ちないように見守っていて、落ちそうな子がいたら、キャッチするんだと答える。署名の “the catcher in the rye” がここで登場する。なかなか深い表現だ。
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 小説の末尾でホールデンとフィービーとのやり取りが描かれる。一人で家出するという兄についていくため、妹は昼食で帰った自宅から自分の衣服を詰め込んだスーツケースをひきずって来る。ホールデンは妹について来るんじゃない、午後の授業に戻れと諌めるが、妹は頑として聞き入れない。仕方なくホールデンは家出をしないことを妹に約束する。二人は回転木馬がある場所に歩き、ホールデンはフィービーに木馬に乗らせる。彼女は昔から木馬が大好きなのだ。仲直りした妹が乗る回転木馬を見ていると、バケツをひっくり返したような雨が降ってくる。雨に打たれながら、ホールデンはなぜか、幸福な気分に浸る。
 I felt so damn happy all of a sudden, the way old Phoebe kept going round and round. I was damn near bawling. I felt so damn happy, if you want to know the truth. I don’t know why. It was just that she looked so damn nice, the way she kept going round and round, in her blue coat and all. God, I wish you could’ve been there. (僕はフィービーのやつが木馬に乗って何度も何度も回っていくのを見ていて、突然とても幸せな気分になった。ほとんど叫びだしたいくらいだった。本当なんだ。とても幸福に感じたんだよ。なぜだか自分でも分からない。妹は青いコートを羽織っていて、何度も何度も回っているんだが、見栄えが抜群に良かった。ほんと、みんな一緒にいたらいいのにと心から思ったよ)
 (写真は、リバティー島からグラウンド・ゼロのあるマンハッタンの高層ビル群を望む。この写真ではそうでもないが、絵葉書のように美しい光景だった)

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)②

 ホールデンはさらに寂しさから昔多少の付き合いのあった美少女のサリーをデートに誘い、スケート場のバーで駆け落ちのようなことをやろうと語りかける。もちろん、サリーは全然乗って来ず、ホールデンは急に相手に対する気持ちが冷めてしまい、席を立つ。よせばいいのに、その際、次のような痛烈な一言を発してしまう。
 “C’mon, let’s get outa here,’ I said. “You give me a royal pain in the ass, if you want to know the truth.”
 この ”a royal pain in the ass” も強烈な表現だ。3日続けて痛飲すると、通院したくなるほどの「痔主」の兆候がある私には、単に “a pain in the ass” だけで十分恐れおののきたくなる気分だ。 ”royal” (王室の)という箔が付いたところで、うれしくもなんともない。字面通りの訳ははばかられる。幸い、辞書には ”a pain in the ass” は「頭痛の種」という訳が出ている。ここはおとなしく、次のような訳でいいのだろう。
 「さあ、ここを出よう」と僕は彼女に言ったんだ。「今の自分の気持ちを正直に言うと、君は今の僕にとってうんざりするほどの厄介者だよ」
 ここまで侮辱されて、サリーが怒髪天を衝いたのは当然だろう。ホールデンは平身低頭、謝罪するが、彼女は許してくれない。
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 この小説ではホールデンや他の登場人物のいわゆるswear word(ののしりの言葉、口汚い言葉)が頻出する。“ya goddam moron” とか “For Chrissake” (Christ’s sake)、あるいは sonuvabitch (son of a bitch) などといった表現だ。このあたりが若者の当時の「肉声」を反映して、注目を集めた一因かもしれない。
 ホールデンは酒は飲むわ、たばこも吸うわ、落第するわと優等生からは程遠い少年だが、一本心が通っている少年だ。彼は世間一般でまかり通っているphony(いんちき野郎)やそうした人々のphoneyな言動が許せない。以前に通っていた高校では、身なりの良い裕福な親とは笑顔を振りまいていくらでも話に花を咲かせるが、そうでない親とは単に握手をしてさっと過ぎ去ってしまう校長先生に我慢ができなかった。彼は男であれ、女であれ、そういう人たちを見ると、嫌悪感を抑えきれず、吐き気さえ感じてしまう。そこに読者は共感を覚えるのだろう。
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 小説が発表されたのは1951年のこと。サリンジャーは1919年の生まれだから、当時32歳の若さ。小説は発表後すぐにベストセラーとなり、サリンジャーは一躍流行作家となる。普通なら、理想的な展開だろう。ところが、これはサリンジャーにとって全然好ましくない展開だった。彼はこの後も作品を執筆、発表するが、段々と表舞台から遠のいていく。1963年以降は彼の作品が出版されることもなくなり、隠遁生活の作家として名を馳せることになる。昨年1月、91歳で死去。
 (写真は上が、小説にも出てくるメトロポリタン美術館。ここも多くの観光客で賑わっていた。下は、そこで見かけた19世紀の油絵の一つ。これを見ただけでも訪れた甲斐があった)

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)①

 サリンジャーと言えば、『ライムギ畑でつかまえて』だろうか。英語のタイトルは ”The Catcher in the Rye” という。私ははるか昔の学生時代に英語科の後輩がこの作品を卒論のテーマに選んでいることを知っていたが、実際に読んだことはなかった。ふと思い立ち、読んだのはつい数年前のような気がする。
 こんなに面白い作品だとは思わなかった。抱腹絶倒といったら言い過ぎだろうが、思わず吹き出したくなるシーンが幾度かあった。絶対に今回の旅の中に含めたかった小説だ。
 物語は、ニューヨークに住む16歳の少年、ホールデン・コールフィールドが自分の人生を読者に語りかける形で進んでいく。冒頭のシーンではホールデンが成績不振で四つ目の高校を退学することになったため、恩師の一人、スペンサー先生を自宅に訪ね、別れの挨拶をする。この老齢の恩師はホールデンの話にうなずきながら聞いていたが、そのうちに鼻をほじりだす。ホールデンはさすがに愉快には感じない。
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 Old Spencer started nodding again. He also started picking his nose. He made out like he was only pinching it, but he was really getting the old thumb right in there. I guess he thought it was all right to do because it was only me that was in the room. I didn’t care, except that it’s pretty disgusting to watch somebody pick their nose.
 (スペンサー老は再びうなずき始め、それから鼻をほじりだしたんだ。鼻をつねっているだけだかのように装っていたが、実際には自分と同い年の親指を鼻孔に入れていたんだよ。部屋の中にはいたのは僕だけだったので、先生は許される行為だと思ったのだろう。僕はまあどうでも良かったが、人が鼻をほじるのを目の当たりにするのはあまり気分がいいものではないよな)

 次のシーンでも本当に声に出して笑ってしまった。ホールデンが退学処分を受けた高校を去って、ニューヨークの実家に帰る前に繁華街に遊びに行く場面だ。ホールデンは泊まったホテルのバーで有名芸能人見たさに西海岸のシアトルからやって来た、あまり愛想の良くない3人のお姉ちゃんたちと、退屈しのぎにダンスをしようと悪戦苦闘する。
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 I danced with them all – the whole three of them – one at a time. The one ugly one, Laverne, wasn’t too bad a dancer, but the other one, old Marty, was murder. Old Marty was like dragging the Statue of Liberty around the floor. (僕は彼女たち三人全員と一人ずつ踊った。ラベルネという名の一人だけ見てくれの良くない子は踊りはそう悪くなかったが、もう一人のマーティーという子はいやはや凄かった。彼女と踊るのは、自由の女神像をダンスフロアで引きずり回すようなものだったよ)
 (写真は、これがニューヨーク港内のリバティ島にそびえ立つ、本当の「自由の女神像」(Statue of Liberty)。合衆国独立100年を記念してフランスが寄贈。アメリカの自由と民主主義を象徴している。台座から上の像自体の高さだけでも46メートル。これを引きずり回すのは大変だ。フェリーで訪れる観光客にも連日大人気)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)⑤

 フィッツジェラルドはこの作品に着手する前も書き終えた後も、かなりの手応えを感じていたようだ。当時住んでいたパリからアメリカの編集者に書き送った手紙には、”I think that at last I’ve done something really my own.” (私はついに真に私自身のものと呼べるものを完成させたと思う)と述べている。
 しかし、1925年の刊行直後の書評はあまり芳しくなかった。ある批評家は ”We are quite convinced after reading The Great Gatsby that Mr Fitzgerald is not one of the great American writers of today.” (The Great Gatsbyを読み終えて、フィッツジェラルド氏が今日、アメリカの偉大な作家の一人とは言えないことを私たちは思い知った)とまで酷評したという。そこまで言うか。売れ行きも思わしくなかった。
 彼の晩年もあまり静穏なものではなかったようだ。熱情的恋愛で結ばれ、パリで暮らすなど派手な生活を一緒に送った愛妻は精神を病み、最後には施設に収容された。彼は西海岸のハリウッドで映画のシナリオを書く仕事に就き、病妻や一人娘の生活を支えたが、時に酒に溺れる日々もあったという。最後まで創作意欲は衰えなかったものの、1940年、持病のようになっていた心臓発作で死去。皮肉にも死去後、作家と彼の代表作に対する評価は一気に高まっていった。
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 NY在住でフィッツジェラルド協会の代表でもあるルス・プリゴリ教授は小説を読み解くかぎは、南北戦争を経て第一次大戦後の米社会で起きていた、農業国から工業国への、さらに大資本ビジネスが勃興する激しい変化にあると指摘する。「誰もが成功を求めてNYのある東を目指したのです。主要登場人物が中西部出身である必然性があったのです。語り手のニックは結局、ギャッツビーが敗れ去った華やかさの陰の部分や腐敗に辟易して、一時的にせよ、中西部に戻ることになるわけです」
 私がNYに来て公立図書館でたまたま借り出して読んだ ”The Great Gatsby” (1998年版)はプリゴリ教授がIntroductionを書いていた。その中で教授はその序論を “ At the end, despite the powerful image of loss, we share Gatsby’s romantic hope; like him we are beating against the current. Surely that image of the individual pursuing his destiny, however fruitless that pursuit may prove, is the greatness of Gatsby, and perhaps of us all. (最終的に喪失の大きなイメージにもかかわらず、我々はギャッツビーのロマンチックな希望を共有している。彼のように我々も流れに抗して突き進んでいる。疑うことなく、個人が自分自身の運命を追求する姿は、その探求がいかに実りのないものであったとしても、ギャッツビーの偉大さと重なるものであり、それは我々すべての者にとって等しく言えることだ)と締め括っている。
 先に紹介したドライサーの “An American Tragedy” も同じ1925年の刊行だ。悲劇をテーマにした名作二つの読後感は極めて異なる。
 (写真は、作品にも出てくる33番街のペンステーション)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)④

 ”The Great Gatsby” の中でギャッツビーは “old sport” という呼びかけを多用している。何と訳せばいいのだろう。この作品は若者に人気のある作品だけに今なお新訳が刊行されているようだ。確か村上春樹氏の新訳本ではあえて日本語に訳することはせず、「オールド・スポート」と記していたような記憶がある。これも一つの訳し方だとは思うが、それでも、「日本語」としては意味をなさない呼びかけであることに変わりはない。
 私が使っている電子辞書の英英辞典にはこの表現は「主に男同士で親しい間柄で使う呼びかけ」と紹介されている。「マイフレンド」といった表現では不十分なようだ。私は何となく「お前さん」という表現が頭に浮かんだ。夫婦関係で使われる「お前さん」ではない。ある程度の親しい関係にあり、使う方が多少なりとも年長、優位な立場にある時に使われる「お前さん」だ。例えば、ギャッツビーがニックに向かって次のように言う時は、「お前さん」がぴったりとも思えないでもない。“If you want anything just ask for it, old sport.” (欲しいものは何なりと声をかけてくれ、お前さん)null
 「お前さん」という呼びかけはそう呼ばれることに相手が不快感を抱くような場合は使えない。”old sport” が「お前さん」と「似ているかな」と思ったのは、恋敵の金持ちの男、トム・ブキャナンがギャッツビーからこう呼ばれて激怒するシーンに出くわした時だ。
 “Don’t you call me ‘old sport’!” cried Tom. Gatsby said nothing.(「俺のことを『お前さん』などと呼んでくれるな!」とトムは叫んだ。ギャッツビーは何も答えなかった) 
 この応酬の前にも、トムとギャッツビーの間で次のようなやり取りがある。
 “That’s a great expression of yours, isn’t it?” said Tom sharply.
 “What is?”
 “All this ‘old sport’ business. Where’d you pick that up?”
 
 「それはあんたのすげー表現だな。思うに」とトムはとげとげしい口調で言った。
 「え、何がだい?」
 「さっきからあんたが口にしている『お前さん』って物言いだよ。いったいどこで覚えてきたんだい?」
 
 この旅を始めてからも多くの場所でアメリカの人たちに、この表現について尋ねてみた。誰もが認めるのは、意味は分かるが、もう誰も今はこんな表現などしないということだった。さらに、もし誰かがこういう呼びかけ仲間内でしているのを耳にしたなら、「あいつ、なんだか気取った物言いをしているな。偉そうに」と思うかもしれないということだった。
 ギャッツビーがあえてこの呼びかけに固執したのは、当時のイングランドの上流階級のような物言いをすることで、自分の貧しい出自を「薄め」、周囲に「成金」と思われたくないという思惑があったからではないか。
 私の現時点での結論は “old sport” は「貴公」と訳すべしだ。
 (写真は、NYのセントラルパーク。大都市の真ん中でもこのような静寂感が)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)③

 語り手のニックに親しみを覚えるシーンがある。次のような記述のところだ。 
 I took dinner usually at the Yale Club—for some reason it was the gloomiest event of my day—and then I went up-stairs to the library and studied investments and securities for a conscientious hour. There were a few rioters around, but they never came into the library. So it was a good place to work. After that, if the night was mellow, I strolled down Madison Avenue past the old Murray Hill Hotel, and over 33d Street to the Pennsylvania Station.
 I began to like New York, the racy, adventurous feel of it at night, and the satisfaction that the constant flicker of men and women and machines gives to the restless eye. I liked to walk up Fifth Avenue and pick put women from the crowd and imagine that in a few minutes I was going to enter into their lives, and no one would ever know or disapprove. Sometimes, in my mind, I followed them to their apartments on the corners of hidden streets, and they turned and smiled back at me before they faded through a door into warm darkness……
 (私はいつもは、エールクラブで夕食を取った。ともかくも、これは一日のうちで最も陰鬱なひと時だった。食事を済ませると、上階の図書室に上がり、投資や有価証券について1時間ほど入念に勉強した。下の階では大騒ぎする者たちもいたが、図書室までやって来ることはなかった。学習するには適した場所だった。その後は気分の良い夜であれば、私はマディソンアベニューを古びたマレーヒルホテルを見やりながら歩き、33番通りにあるペンステーションまで散歩した。
 私はニューヨークが好きになりつつあった。夜のきわどい心が躍るような感触、男と女や自動車や列車が絶えずせわしなく行き交うのを目にする時の満足感。私は5番街を歩き、群衆の中から好みの女性を選び、彼女たちの生活に入っていく自分の姿を想像したものだ。誰にも知られることなく、とがめられることもない。時には心の中で、人目につかない通りの角にある彼女たちのアパートまでつけて行く自分を思い浮かべたりした。彼女たちは振り向き、私に微笑みを投げながら、ドアを開け、柔らかい暗闇の中に消えていく)
 
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 私も連日、NYの五番街を中心に歩き回っている。まだ、肩をむき出しにしたサマーウエアで闊歩する肉付きの良い若い女性は少なくない。時に、ニックのような「妄想」に身をゆだねたくなる時がないこともない。いや、訂正。ほとんどない。
 上記の文章に出てくるエールクラブはアイビー・リーグの一つ、エール大学の卒業生が集うクラブで、今も同じ場所にある。先夜、知人に連れていってもらったが、ジーンズにスニーカーといういつもの装いだったため、ドレスコードに触れ、お引き取りを願われれてしまった。黒っぽいジーンズでスニーカーも黒だから、ぎりぎりセーフかと期待していたが、さすがに見破られてしまった。
 (写真は、伝統と格式を重んじるNY市のエール・クラブの正面玄関)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)②

 ギャッツビーがニックに近づいたのは、単にご近所になったからだけではない。彼がずっと恋焦がれていた恋人、デイジーと近しい関係にあったことを知ったからだ。ギャッツビーはこの昔の恋人と再会できるよう取り計らってくれることをニックに懇願する。
 そして、彼の望む通り、二人の仲は復活する。この時すでに、デイジーにはトムという傲岸不遜な夫がいたのだが。だが、夢が長続きすることはなかった。物語の終盤では文字通り、悲劇が待っている。ギャッツビーは富も愛もそして命までも失ってしまう。最愛のデイジーがギャッツビーの元に再び駆け寄ることはなかった。
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 語り手のニックが小説の最後にギャッツビーの短い人生、悲劇を思うシーンは以前に読んだ時には気にも留めていなかったが、再読して改めて考えさせられた。次の場面だ。
 That’s my Middle West – not the wheat or the prairies or the lost Swede towns, but the thrilling returning trains of my youth, and the street lamps and sleigh bells in the frosty dark and the shadows of holly wreaths thrown by lighted windows on the snow. I am part of that,…..I see now that this has been a story of the West, after all – Tom and Gatsby, Daisy and Jordan and I, were all Westerners, and perhaps we possessed some deficiency in common which made us subtly unadaptable to Eastern life.
 (これが僕にとっての中西部だ。小麦やプレーリーでも消滅したスウェーデン人の開拓町でもない。若い時分に胸をときめかせながら、よその町から戻ってきた列車の旅であり、霜の降りた暗い通りに立つ街灯であり、聞こえてくるそりのベルであり、雪の積もった窓辺に見えるクリスマスの花輪の影であった。・・・僕は今はこれがつまるところ、西部の物語だったということが理解できる。トムもギャッツビーも、デイジーもジョーダンも僕も皆西部の人間だった。そしておそらく、我々は皆何か足りないものがあって、だから、東部での暮らしにどこかしらなじめなかったのだということが理解できる)

 これまであまり米国の地域的差異は意識してこなかった。この作品でも語り手のキャラウェイが中西部のどこかの都市の出身であることは理解していた。トムもしかり。デイジーはケンタッキー州のルーイビル。ギャッツビーは作家と同じミネソタ州の出身だった。
 彼らにとってニューヨークは「異国」だったのだろうか。そういえば、今回の旅、珍しい客人として歓待された中西部では、私がやがてNYに行く予定と伝えると、ほぼ誰もが「気をつけなさい。東海岸の人たちは抜け目ないから。言葉も早口で理解に苦しむかもしれない」と「忠告」してくれた。日本とアメリカのそれぞれの土地柄を同じように比較できないだろうが、ニューヨークを東京に置き換えれば、日本の地方出身者が上京して暮らしていこうとする時にとらわれる思いに似てはいないだろうかと思った次第だ。宮崎出身で大学までずっと宮崎だった私は少なくとも就職で上京する際、何とも言えない複雑な思いを抱いたことを昨日のように覚えている。今も少し残っているような気がする。
 (写真は、NY中心部の公園でピンポンに興じる人たち。実に居心地のいい公園だ)

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