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December 2021
良いお年を!
- 2021-12-27 (Mon)
- 総合
南アフリカの宗教家、デズモンド・ツツ元大主教が死去したというニュースに接した。マンデラ元大統領とも親しく、マンデラ氏とともに南アの忌むべきアパルトヘイト(人種隔離政策)を打破するのに尽力した人物。私は記者としてツツ氏を直接取材した経験はないが、彼の言動を報じたことは何度もある。ツツ氏の言葉で印象に残っているのは北の隣国、ジンバブエが南アの民主化後に混乱の極みにあった時、ジンバブエのムガベ大統領(当時)のマンデラ氏に対する嫉妬心がムガベ大統領の施政混乱の主因だと喝破したこと。合掌。
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日曜日のオンライン英語教室も無事終わり、今年の予定はすべて終了した。公民館の中国語講座も今週はもちろんなく、ぼけっとした年末が過ごせる。コロナ禍もあり今年も帰省せず。もっともこの歳になると帰省するところもない。高齢の長姉が施設に入って以降は故郷もあってなきがごとしだ。悲しくもあるが、致し方ない。すべて神様の思し召しだろう。
ところで上記のオンライン英語教室。ずっと読んできたカズオ・イシグロの作品 “Klara and the Sun” も大半を読み終え、余すところ2章だけとなった。教える側の私にも大いに勉強になっている教室だ。このブログは備忘録だから、ここで一つ二つ記しておきたい。
少年の母親がかつての恋人に訴える一言。恋人は彼女が息子を入学させたいと切望している大学の幹部職員。諸事情からこの大学は息子が入学を望める唯一無二の大学として描かれている。“Yes, we are asking you for a favor. We know you have it within your gift. …”
受講生がgift という語に戸惑ったと書いてきた。私はすっと読み飛ばしていたが、指摘されると確かに?だ。我々が知っているgiftは「贈り物」「才能」を意味する語だ。その他に「与える権限」という意味がある。これはちょっと難しい。辞書に掲載されている例文を読むと、合点が行くだろう。The office is not in his gift. (その役職を与える権限は彼にはない)。
もう一つ。母親の昔の恋人が少年に向かって言う。彼は母親との関係はともかく利発な少年のことは気に入ったようだ。“I’m wanting to help you. But …” 学校英語で今こうした表現が可能であると教えているかどうか私は知らない。私の世代はlove, like, hope, want といった状態動詞(stative verbs)は現在進行形にはならないと教わった。でも今はこうした表現も時には許されるようだ。「切迫感」が醸し出されるからだろうか。ファーストフードのテレビCMで一頃よく流れていた言葉を思い出す。“I’m lovin’ it.”
“Klara and the Sun”はおそらく年明け1月の2回の教室で読破することになろう。その後はどうするか。受講生2人に過ぎない教室だからそれで打ち切りとなっても構わないが、受講生が続けたいというのであれば喜んで継続したい。それで次に読みたい小説をネットで探し、先日、書店に足を運び買い求めた。私の教室に適した短編集。今、少しずつ読んでいるが、印象に残るものが幾つかあった。この年末年始でもっとはっきりするだろう。
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このブログを年内アップすることはないかと思える。皆様、良いお年を! そして来る2022年がコロナ禍の21年を吹き飛ばすような実りあるいい1年となりますように!
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I wish I learn good enough Chinese in a few more years.
- 2021-12-22 (Wed)
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専門学校で教えている今年最後の英語の授業が終わった。パソコンでパワーポイントの教材を作っているが、ちょうど30回目の授業で今年の打ち止めとなった。正月明けまでしばらくお休みとなる。それで関西方面への旅を企図した次第。
最後の授業では「新年の誓い」という表現も話題にした。英語では “New Year’s resolution” というのが一般的な言い方だろうか。例えば次のような文章。「私の新年の誓いは英語を一生懸命勉強することです」。英語では “My New Year’s resolution is to study English hard.” これを “My New Year’s resolution is to learn English hard.” とすると奇妙な英語になるよと説いた。日本人は studyも learnも「学ぶ、勉強する」と覚え込んでいると、課程と結果がごちゃまぜになりがち。
海外を旅していて向こうの人から “Where did you learn your English?” と言われたいものだとも説明したが、果たしてどこまで分かってくれたか。
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日本のメディアだけに触れているとあまり感じないが、英米のメディアをあさっていると、心が穏やかでない生ニュースを目にすることが少なくない。最近の報道ではミャンマー発のニュースがそうだった。政府軍が反政府勢力が地盤とする村を襲い、村人を惨殺した疑いが報じられていた。mass killings という語が見えた。それだけで尋常ならざることが起きたことが分かる。少なくとも40人以上の村人、それも無防備の人々が拷問の末に惨殺されたのだという。同じアジアの地でこのような惨殺事件がしかも21世紀のこの時代に起きるとは! 暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
情けないのはこうした事態を声高に糾弾する世界の指導者が皆無に近いことだ。アメリカのバイデン大統領? 中国の習近平国家主席? アセアン(東南アジア諸国連合)の指導者に至ってはその顔も名前も頭に浮かばない。
アフリカのニュースも日本では報じられることはまれだが、アフリカでも信じ難い殺戮のニュースが報じられることが増えている。イスラム過激派が無抵抗の村を襲い、殺戮、略奪のテロに狂奔している様は信じ難い。中央の政府が有効な手を下せないことも理解に苦しむ。マンデラさんが存命だったらどれほど嘆き、国際社会の注意を喚起したことだろう。
平和な日本の片隅で安穏とした日々を貪っている身の小市民さに思いを馳せざるを得ない。せめてなりたや、漱石先生の宣った高等遊民に!
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イギリスの友人から今年もクリスマスの小包が届いた。開封すると、いかにもイングランドらしいお菓子の数々が出てきた。焼酎のつまみになるものもあるようだ。喜んで頂くとしよう。英国を最後に旅したのは2012年のこと。年が明けるとあれから10年となる。そういえば、ロンドン五輪で賑やかだった2012年だった。いつか再訪しようと思ってはいるが、やはり台湾や韓国とは異なり、経済的に気軽に飛べる国ではない。コロナ禍が完璧に収束していれば、再来年辺りには足を運びたい気持ちはある。また一人旅になるのだろう。さすらいの(元)ギャンブラーだ。
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久しぶりに関西へ
- 2021-12-16 (Thu)
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「勉強になりました」は英語では何と言うのだろうと前項で書いた。その直後にNHKラジオの英会話番組を聞いていたら、この表現が取り上げられていた。スマホの翻訳機能では “I learned a lot.” という文章だったが、番組では “That was very informative.” という文章が紹介されていた。なるほどこれもよく分かる。日本語表現ににじみ出ている相手に対する謝意を伝えるためには “Thank you.” と付け加えることも説明されていたかと思う。あまりにグッドタイミングだったためにここに付記しきおきたいと思った次第。
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カズオ・イシグロ氏の小説 “Klara and the Sun” を読むオンラインの英語教室も残り少なくなった。年内最後となる今月26日の教室でパート4を読み終える。作家得意の近未来の物語ゆえに想像力をたくましくして読み進める必要があったが、やはり何度も読み返していると、それまでは気づかなかったことなどが分かるようになり有意義だ。
例えば、以下のようなやり取りが挿入されている。主人公の少女ジョージーと友人の別の少女が劇場街で人を待っているシーン。ジョージーにはロボ友のAFクララが付き添っている。中年の高級服を着た見ず知らずのご婦人が近づいてきて、失礼だがこのマシーンを劇場内に連れて入るつもりかと尋ねる。このぶしつけな態度にジョージーの友人が激怒するが、ご婦人は言う。“First they take the jobs. Then they take the seats at the theater?”
作家は近未来がどのような社会であるのかについて明確には描写していない。だが、少なくとも上記のやり取りから、人工知能(AI)のロボットが人間の仕事の領域に進出していることが語られている。そういう現実を受け入れることができない人々がいることも。有能なジョージーの父親も失業した身だが、志を同じくする知的階級の人々と同じコミュニティーに住み、充実した人生を送っていると考えていることが描かれている。決して「負け惜しみ」ではないようだ。
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今年も寝正月で過ごそうと思っていたところ、京都に住む実兄から遊びに来たらという誘いの電話があった。3人もいた兄たちも次兄、長兄と相次いで病魔に奪われ、今は3番目の兄が残るだけ。誘われれば行かずばなるまい。とそんな次第で正月明け早々の日曜日に京都に向かうことにした。神戸で途中下車すれば恩義のある芦屋の教会に立ち寄り、新年の礼拝に参加することができる。いつもオンラインで牧師Pさんの説教を拝聴しているが、生で聞くのは久しぶり。数日後の帰途には関西に住む旧知の人たちと歓談する計画も立てた。コロナ禍でずっと会っておらず、2年ぶりの再会となる。
新幹線の切符はネットで予約したが、こうした作業もずっと遠ざかっていたため、ちょっと手間取った。予約の仕方をすっかり忘れていたのだ。やがて海外の旅が「解禁」されればまたネットで格安切符を入手しようと苦労するのだろう。こちらのやり方も忘れてしまった。果たして来年はそういうことがまた可能になるのだろうか。とりあえずは台北に飛び、馴染みの(と自分では考えている)安くて旨い朝飯屋に行き、日本では味わえない朝食を楽しみたいと願う。お店の人はもう私のことなど覚えていないことだろう、きっと!
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「勉強になります」
- 2021-12-13 (Mon)
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アメリカで刊行されているキリスト教の祈祷書 “Daily Guideposts 2021” を毎朝読んで一日をスタートさせていることは何度も書いているかと思う。年末が近づき、2022年版を買い求めようとネットで何回か試みたが、長いことネットで本を注文していないこともあって、どうもうまくいかない。困ったあげくにこの祈祷書を毎年プレゼントしてもらっている芦屋市の敬愛するHさんにメールした。「今年からは自力で入手しようと思い立ちましたが、うまくいきませんでした。費用はお支払いしますから、今年も送って頂けませんか」と。Hさんからは何事もなかったかのように2022年本が贈られてきた。感謝!
この祈祷書は50人ほどの敬虔なキリスト教徒の方々が交代で365日、それぞれの思いを綴っている。末尾には執筆者の顔写真と簡単なプロフィールが掲載されている。新版を見て高齢の人が執筆陣から消えていると心がざわつく。2022版をさっと繰って気になっていたご夫人の名前がないことに気づいた。2021年版を読んでいて、彼女が最愛のご主人に先立たれ、視力もほとんど喪失したことを知り、危惧していた。詳しい事情は知る由もないが、実に残念に思う。彼女の安寧な余生を願うしかない。本日の日付の項では南アフリカを訪れた思い出を書かれていた。91歳となり白髪、歩行器を使って歩く彼女は行く先々で南アの人々の関心を集めたとか。むべなるかな。実際にお目にかかる機会に恵まれていたら、私たちの話は盛り上がっていたことだろう。
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「勉強になります」。日本語ではまだ死語にはなっていない表現だろう。普段の生活でも思わぬところで何か新しいことを知ったりすれば、そうしたことを教えて頂いた方々に「いやあ、勉強になりました」と自然にお礼を言ったりしているかもしれない。
ふと、思った。この「勉強になりました」は英語では何と表現するのだろう。いや、そもそも英語の感覚では「勉強になりました」という表現自体が違和感のある文章となるのでないか。そうした謙虚さは英語では「勉強」と一緒に表されないのではないか。スマホの翻訳機能で調べてみた。“I learned a lot.” という文章が出てきた。なるほど。意味は問題ない。しかし、相手に対し「教えて頂きありがとうございました」という謝意までは表現されていないように思える。
韓国語ではたしか、日本語と似たような表現があったような記憶がある。スマホの翻訳機能にかけてみると、「공부가 되었어요.」という文章が出てきた。「勉強=공부」であり、日本語表現と酷似している。こちらも謝意が込められているような気がする。私にはすっと腑に落ちた韓国語の文章の典型的例だ。中国語の方をスマホで調べてみると、「学到了很多。」という文章が出てきた。意味は分かるが、相手に感謝する気持ちが込められているかまでは私には分からない。英語のように単に、それまで知らなかったことを今は知っている、学んだという事実関係が述べられているだけではないかという気がしてならない。
この辺りにも私は英中両言語、そして日韓両言語の「近似性」を感じる。とはいえ、韓国語も難易度が上がると、日本語からは到底類推できない語彙が登場して、脳内には?マークがあふれる。日暮れて道遠しの思いが募る。
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If you don’t have a wife, she can’t betray you.
- 2021-12-09 (Thu)
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ウクライナを巡るロシアの好戦的な強気の姿勢が報じられている。バイデン米大統領はプーチン露大統領とのオンライン首脳会議で、露軍がウクライナ侵攻を強行すれば「強力な経済制裁」を取るとともに、ウクライナへの軍事支援にも踏み切ると警告した模様だ。読売新聞夕刊によると、露大統領府はプーチン氏が「北大西洋条約機構(NATO)がウクライナ領の征服に向けた危険な試みを行っており、我々の国境付近で軍事的な潜在能力を高めている」と逆に非難しているとか。ジョージ・オーウェルが描いた世界が近づきつつあるようだ。そう考えれば、トランプ氏の出現もオーウェルがとっくに描いていたのかもしれない・・。
そういうこともあって普段は目を通さないロシア・ウクライナ情勢も最近は読むようになっている。購読しているジャパン・ニュース紙に興味深い記事が載っていた。英タイムズ紙のベテラン記者のコラムの転載だった。主見出しは Putin is playing a dangerous game であり、袖見出しは Russian leader’s combination of over-confidence, paranoia and spite could lead to all-out war となっていた。all-out war(全面戦争)の可能性があるとは何とも気が塞ぐではないか。
このコラムではプーチン大統領がウクライナとの全面戦争を厭わない背景を説いていた。せんじ詰めると、かつてソ連邦を構成していたウクライナがNATOや欧州連合(EU)に近づき、ロシアの影響圏から離脱することが耐え難いことのようだ。記者はロシアに伝わる古い格言を引用していた。英文だと以下のようになる。“If you don’t have a home, it can never burn down. If you don’t have a wife, she can’t betray you. If you don’t have a dog, your neighbour won’t poison it.” その上でプーチン氏の企みは part over-confidence であり part paranoia であり part spite であると断じている。妻帯していなければ妻の不貞に悩まされることはないとのくだり、私は笑ってしまった。笑う資格などないのだが・・・。
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徳島市の英会話サークル活動にオンラインで参加して “glass cliff” という表現に出くわした。文脈から “glass ceiling” に類似の意味合いを持つ語彙であることは類推できたが、このような表現があることを初めて知った。
企業や職場で成功の見込みが甚だ薄い職責やプロジェクトの責任者に、立場の弱い人、往々にして女性を祭り上げることを意味するようだ。「ガラスの天井」ならぬ「ガラスの崖」である。職責を果たせなかったり、プロジェクトが失敗すれば、その後釜にしかるべき人(男性社員)を据える。後釜には「傷」がつくことはない。何とも冷酷無慈悲な処遇であることか。この表現を目にした時に私の頭に浮かんだ日本語表現は「火中の栗を拾う」だった。「火中の栗」を拾わされた人がやけどを負うのは必定。誰だってそんな役回りは嫌だろう。
これからの社会はさっさと「ガラスの天井」や「ガラスの崖」を片付けることが求められる。タリバンが返り咲いたアフガニスタンのように女性がスタートラインにさえたどり着くことができない国や社会が存在する21世紀はまだまだ理想からはほど遠い。もちろん、日本がその点、素晴らしい社会であるとは無論言えないが・・・。
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「我和我家乡」
- 2021-12-05 (Sun)
- 総合
しばらくブログのアップを怠っていたら、何だかさぼり癖がついたみたいだ。書きたいことがないことはないのだが、どうも意欲がわかない。いや、これは言い訳か。本当に書きたいことがあれば、パソコンに向かうのが苦でないはずだ。やはり、これは自分の「精神生活」が充実していないから怠惰に向かいがちになるのだろう。まあ、情けないが、昔からそうした「素質」は十分有していた!
先週日曜日(28日)に福岡市の総合図書館に足を運び、中国の映画を鑑賞した。「福岡日中文化センター」などの恒例の共催イベントで、「愛しの故郷」というタイトルの映画が上映された。中国語のタイトルは「我和我家乡」。家乡は郷里という意味らしい。宣伝チラシには「中国映画界の新たな才能が集結。涙と笑いで心満たされるふるさとの物語」とうたわれていた。確かに「看板に偽りなし」で見応えのある作品だった。なにしろ、5つの物語からなるオムニバスで、全体で2時間半の長さ。
監督総指揮はあの著名なチャン・イーモウ氏。私は「初恋のきた道」を見て以来、彼のファンになった。今回の作品は毀誉褒貶があるだろう。中国の現在の政治体制に対する批判精神が完璧に欠落していると言えばその通りだ。それでも2021年にこうした中国映画が公開されること自体に意味があるのだろう。
オムニバスの一つは初期のアルツハイマー病にかかった老教師がかつて教壇に立った田舎の小学校を再訪する作品。遡ること30数年だろうか。息子が昔の教え子たちに頼み、彼らは朽ち果てた教室を再現し、子どもたちにかつての自分たちを演じてもらう。ホースから放たれた水が屋根から雨となって滴り落ちる。教室内では鶏がうろつき、子どもたちはカラークレヨンがないから、暗い色彩の絵を描いている・・・。
私は宮崎の山間部で育ったが、私が小学生だった60年前でも上記のような光景は見られなかった。このことは何を物語るのか。中国ではそれほどの猛スピードで社会が急激な変遷を遂げつつあるのだと思う。そうした変化に危うさを感じる人も少なくないだろう。それがいいのか悪いのか・・・。
もう一つ記しておきたい。西部の砂漠のような故郷を再訪する男女のお話があった。都市部で華やかな仕事に従事している女性が出てきた。彼女はとても魅力的だった。日本の女優さんであのような魅力を発散できる人がいるのだろうかと思わず自問した。中国のソフトパワーや恐るべしだ!
ところで、私はこの映画を観ていて、笑いを抑えるのに苦労した。抱腹絶倒のシーンも少なくなかった。それで思った。もちろん、字幕があったから大笑いできたのだが、ひょっとして中国語を多少なりとも理解できたので笑いに拍車がかかった可能性ありやなしや。もしそうだったら嬉しいのだが、こればかりは分からない。作品の中で話される中国語を少しは理解できたような気がしないでもないが、でも、それは字幕があったからなのだろう。
まあ、字幕がなくても耳からだけで十分理解できるまでにはまだだいぶ時間がかかるのだろう。地道に普段の努力を続けていくしかないのは分かっている。韓国語もしかりだ。それでも韓国語より中国語の独学の方が楽しいと思うようになって久しい。
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“Do you believe in the human heart?"
- 2021-12-01 (Wed)
- 総合
一番最後の項で「これから暇な折に読みたいと思った長編小説を図書館から借りてきたばかり」と書いた。実際、文庫本で上下の2冊。細かい字でびっしり頁が埋まっており、おまけに翻訳本ゆえの難解さに満ちており、読み進めるのに大層難儀した。夢うつつの幻想的世界が描かれたり、門外漢にはついていけない哲学的さらには医学的用語が頻出するところも少なくなく、こちらも夢心地で頁を繰ることがしばしばだった。
という次第で期日内に読破すること能わず、下巻は借り出し期間を延長して昨日、ようやく読破した。果たして読破と呼べるものか自信がないが。この間、拙ブログを更新する気も起きず、こちらは怠惰に任せた。昨日、週一の英語非常勤講師の仕事を終え、帰途の電車の中でようやっとラップトップを膝に置き、久しぶりに拙文を打っている。
悪戦苦闘した小説の名前すら書いていない。このブログは備忘録ゆえに書き留めておこう。ドイツの大文豪、トーマス・マン(1875-1955)の代表作『魔の山』。恥ずかしながら、これが彼の作品を読む初めての体験だった。ドイツの作家の作品はあまり読んだことがない。この小説を読もうと思い立ったのは購読している読売新聞の書評欄のコラムで紹介されているのを目にしたからだ。書評氏が教えている大学で学生に読ませたところ、学生の評判が芳しかったと書かれていた。それで私も好奇心をそそられ、図書館から借りた。
いろいろ思うことがあったが、まだ「整理」ができていない。いつかまた別の機会に読後の印象など改めて書き記したいと思う。
◇
月2回オンラインの英語教室で読み進めているカズオ・イシグロの小説 “Klara and the Sun” も佳境に近づきつつある。やはりさっと一読した時には読み落としていたり、あるいはあまり気にとめていなかった箇所があることに気づかされている。
最近の箇所では以下のくだり。伏せっている少女、ジョージーが万が一、命を落とすことになれば、彼女の母親は科学的な被造物のAF(私はロボ友と呼んでいる)のクララにそっくり新しいジョージーとなってくれるように求める。ジョージーの癖や話し方、考え方、行動形態などを学び尽くし、親しい家族が見ても見分けがつかないほどに彼女に成り切ることを求められる。
ジョージーとは離れて住む離婚した父親は懐疑的だが、優しいクララと心を開くようになり、クララに次のように尋ねる。“Do you believe in the human heart? ... Do you think there is such a thing? Something that makes each of us special and individual?” 科学技術が今後最高点に達して将来、ある個人の死亡を受け、その人を「継続」する個体を科学的に「誕生」させることは可能か不可能かという問いでもある。多くの人が the human heart はコピーできない、すなわち、自分でも時として分かりかねている自分をそっくり「コピー」できる人造人間なりロボットを製造できるとは思えないと答えるのではないか。
それでは人間は類を見ない特別な存在であり、神様だけが「関与」できる崇高な存在だと胸を張れるのか。この地球上で起きている我々人間が引き起こした数々の惨事を想起すると、そういうことなどおこがましくてとても口にできないような気がしないでもない・・・。
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