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August 2019

九州北部豪雨に思う

 九州がまたもや豪雨に見舞われている。今度は佐賀県や長崎県、福岡県などの九州北部だ。私が住む福岡市東区もしつこく雨が降り続けているが、大きな川は近くには流れておらず、水害の心配はとりあえずない。住宅地では取り急ぎ、大小河川の氾濫を防ぐ手立て、防げなければせめて床上浸水を阻止する効果的な対策を見いだすことが急務だ。
 私は昨年7月にこのブログで以下のように書いている。——何という災難だろう。にわかには信じられないような水害が西日本各地を襲った、いやまだ続いている。広島、岡山は特に被害が甚大なようだ。被害総額は最終的にどれだけになるのだろう。私の住んでいる福岡市の東区は特段のこともなかったが、久留米市の方は住宅の浸水被害が深刻だとか。「数十年に一度の大雨」とか「これまで経験したことのない豪雨」などといった形容が耳に残っている。しかし本当に怖いのは、今回のような水害がこれからはそう珍しくない時代に突入しているのではないかという疑念があることだ。太平洋から襲来する台風の気圧をネットで見ても、915ヘクトパスカルなどといった猛烈な気圧となっていたりする。スーパータイフーンとでも呼ぶのだろう。現代に生きる我々日本人は、南海トラフ大地震など未曽有の天変地異を覚悟せよとも言われる。何とも心がふさがる。——
 このブログで何度か書いているが、地球温暖化のゆえかかつてなかったような凄まじい規模の豪雨が襲来するようになっている。私は南太平洋の熱帯・亜熱帯地方のような雨が日本で今降っているのではという気がしてならない。門外漢ゆえにそれを裏づけるものは何も手にしていないが。豪雨に象徴される異常気象が日本の日常の光景となりつつあるのではと危惧する。英語だと Abnormal is now kind of normal, I’m afraid. とでも表現するのだろうか。
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 雨が降るので香椎浜でのスロージョギングもお休みの日々となっている。正直に書けば、心中ほっとしている部分もあるのだが、でも走りたい気持ちもないことはないので複雑な心境だ。ジョギングは中国語では「跑步」(pǎo’bù)と「慢跑」(mànpǎo)という二つの語があるとか。「慢跑」の「慢」は「遅い、のろい」、「跑」は「走る」という意味だと辞書に載っている。私の場合「スロージョギング」だから「慢跑」の方がぴったりの感じだ。
 明け方まで結構激しく降っていた雨が今は上がっている。天気予報だとこれから先もずっと雨マークが見える。間隙をついてぱっと外に出て走るしか手はなさそうだ。
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 ふと気づくと、ケーブルテレビで毎日のように楽しんでいた韓国語と中国語のドラマをこのところ全然見ていない。韓国のドラマは一度はまると全100回とか150回といったロングランのものに付き合わされることになるから覚悟が必要だが、中国のドラマはそう長いものはないからはまっても構わないと思っている。とは言え、最近は食指が動くものに出合っていない。
 台北ではまったアニメの「それいけ!アンパンマン」(麵包超人)の中国語版が放送されたら、毎日でも見たいのになあと思うこの頃だ。

"He went out laughing."

 “I had a wonderful alone time with him.” という英文を見たら、私はおそらく違和感を覚えるだろう。“I had a wonderful time alone with him.” と直した方がいいでのはないかと思ってしまう。でもネイティブスピーカーではないので自信はない。英字新聞などでこうした文章を目にすれば、あ、こういうのでもOKなのかと納得するしかない。
 映画俳優のピーター・フォンダ氏が死去したというニュースをジャパン・ニュース紙で読んでいて、上記の表現に出合った。姉のジェイン氏が次のように弟の死を悼んでいた。“I am very sad. He was my sweet-hearted baby brother. The talker of the family. I have had beautiful alone time with him these last days. He went out laughing.”(私は悲しみに沈んでいます。私にとっては優しくて可愛い弟でした。家族で一番のおしゃべり好きでした。最期の数日間は二人だけで素晴らしいときを過ごしました。弟は笑いながら旅立ちました)
 なるほど beautiful に alone を重ねてもOKなようだ。何となく形容詞を重ねる時にはand を間に入れたくなるが、そうしなくても良さそうだ。
 ピーター・フォンダ氏はヘンリー・フォンダ氏を父親に持ち、姉のジェーン氏とともに華麗なる芸能一家の一員。享年79歳。映画「イージー・ライダー」の主演で人気を博した。偉大なる父親との若い時の確執が知られるが、映画監督としても数々の作品を制作し、俳優としても長く活躍を続けた。姉の言葉にあるように「笑いながら旅立った」という死に際は羨ましいと思う。
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 手元の「中国語・韓国語雑記帳」が2冊目に入った。ぜひ覚えておきたい事柄を小さいノートにメモ書きし始めたのが2016年12月だから、2年と8カ月で一冊目が一杯になったことになる。まことに遅遅とした歩みだ。時々読み返しているが、忘れていることが多い。これ一冊だけでも頭に叩き込んでいれば、相当の力がついているはずと思わなくもないが、悲しいかな、そうではない。最近は中国語のメモ書きが目立ち、韓国語はあまり目立たない。日韓関係の冷え込みは全く関係がない。中国語がそれだけ面白い、刺激的だからだ。
 最近の書き込みを紹介すると。他说的话我一直记着。(彼の言ったことはずっと覚えている)。中国語の語順と日本語の語順は全く同じ。日本語では「私」と言う必要はないが、中国語では「我」を明記する必要がある。中国語をすべからく日本語の語順で話せるならこんなに楽なことはないが、そうもいかないのが現実。それでもこのような文章に出合うと気が随分楽になる。発音の世界はまた全く別の話だが。
 NHKラジオの中国語講座。我会游泳。(私は泳ぐことができる)。これまでこの游泳がどうも苦手だった。発音もyóu yǒng でこれまで何度辞書で確認したか分からない。似たような語が並んでいることや日本語とそっくりなことも「災い」したように思う。今度は覚えたかと思っている。「游」は「油」と同じyóu だ。敢えてカタカナ表記すれば「ィオウ」だ。努力してできるようになれば、「会」(huì )という助動詞を使う。能力があってできるのであれば「能」(néng)を使い、我能游五百米。(私は五百㍍泳ぐことができる)。このケースだと「游泳」は使わず、単に「游」とだけ言う。この辺りは私には説明がつかない。

瓢箪から駒?

 ほぼ毎日のようにネットでのぞいているアメリカのトークショーがある。スティーブン・コルベアという才気あふれたテレビタレント(TV personality)がホスト役の番組で、彼の歯に衣着せぬブラックユーモアにはいつも感心しながら楽しませてもらっている。
 最近の例を紹介すると————。どうやらニューヨークのある通りを改名する運動が起きているとか。有名な五番街の56丁目から57丁目にかけての通り。ここをバラク・オバマ前大統領の名前を取り、President Barack Obama Avenue と改名すべく、署名活動が進められているという。面白いのはこの通りにはあのトランプ大統領のトランプタワーがあり、もし改名の手続きが成就すれば、トランプタワーの住所は 725 President Barack Obama Avenue となる運びとか。トークショーのスタジオに集まった反共和党、反トランプ層と思われる聴衆からは一斉に拍手喝采が起きた。
 この改名キャンペーンは一人の女性が冗談(joke)として始めたものだったとか。コルベア氏は次の言葉でその女性に語りかけるように締め括っている。“Careful…some things that start as a joke, end up as president.” (気をつけて。冗談として始まったものが場合によっては大統領となってしまうこともあるんですよ)。トランプ大統領の大統領選出馬も当初は冗談として見る向きも多かったが、米国民が気づいた時には手遅れで、彼は大統領に選ばれてしまったことを痛烈に揶揄っている。「おーい山田君、座布団1枚!」いや “Give him a floor cushion.” か。
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 このブログで少し前に大リーグを見る熱意が失せつつあると書いた記憶がある。大谷翔平君を筆頭に日本人プレーヤーの調子が今一つだったからだ。特に西武ライオンズからシアトルマリナーズに鳴り物入りで移籍した菊池雄星君はこのところポカスカ滅多打ちにされ、哀れな惨状を呈していた。日本時間月曜未明に彼が投げる試合がケーブルテレビで放送されることを知った。どうせまた打たれるのだろうと思ったが、松山英樹選手の調子がだいぶ上向いている米ゴルフの生中継もあったので、チャンネルを合わせた。
 そうしたら、西武時代を彷彿させるかのように生き生きとした表情で彼がマウンドに立ち、堂々の投球を見せている。球数も少なく、9回を96球で投げ切り、奪三振8個の完封劇を演じた。チームも7点を挙げて援護。もちろん、この一試合だけで彼の評価が急激に上がることはないだろうが、少なくともチーム内での評価は好転したようだ。サービス監督は次のような言葉で菊池投手をほめたたえた。彼がこの日のような素晴らしい投球がこれからもできる才能にあふれた投手であるという評価だ。そうであればいい。
 “Yusei is a very talented pitcher, and we know that. He has the ability to have outings like this. There’ll be rough ones along the way, like anybody has, but I’m really happy and proud of him.” 
 日本のプロ野球は悲しいかな、巨人が調子いいと、やはり見てしまう。浮世の些細な楽しみ事に過ぎないことは分かっている。黄泉の国ではもっと崇高な楽しみ事があるのだろうかと考えてしまう。もっとも地獄ではなく、天国に行けたとしたらの話だが。

故郷のお墓

20190818-1566129087.jpg 20190818-1566129120.jpg青島のホテルには3泊した。温泉に何度も浸かり、鬼の洗濯板で有名な青島神社にも歩いた。ホテルを離れ予定通り、山里の実家を訪ね、お袋や父親、長兄、次姉が眠るお墓にも手を合わせた。父親と長兄が好きだった焼酎をお墓にかけた。お袋と次姉のためにはお袋が好きだった健康飲料をかけた。古里の名産品をお土産として沢山買い求めもした。気持ちがいい好天の故郷はこの日は明るく輝いて見えた。
 最後の夜は西都の幼馴染のいとこの家に泊めてもらった。いとこ夫婦と私の妹との4人でビールに焼酎を飲みながら、楽しく歓談した。居間でカラオケも楽しんだ。音楽の才のあるいとこは歌がうまい。私は足元にも及ばないが、それでも久しぶりに私の演歌を耳にしたいとこは昔よりずいぶん上手くなったとほめてくれた。
 今、特急にちりんの座席に身を委ねながら、多少二日酔い気味のぼぉーとした頭でパソコンのキーボードを叩いている。色々な思いが頭に浮かぶが、とりとめのないことが多く、ここに記すのは憚られる。私にはすでに両親はなく近しい肉親も相次いで黄泉の国に旅立っている。現世のはかなさは承知している。宇宙の無限・広大さに比べれば1個人の人生など取るに足らない刹那的なものに過ぎないだろう。
 だから、故郷に拘泥することはあまり意味のないことかもしれない。この地球でさえ未来永劫存続するものかどうかも分からない。そういうことを受容した上で、私は思う。ずっと故郷、あるいは故郷に近い土地に住み続ける人は幸福だ。もちろん彼らには彼らの苦労があるだろうが。
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 青島。私が泊まっていたホテルから別のホテルが見えた。以前に泊まったことがあるような気がしていた。そうだ、宮崎大学時代の恩師、バタワース先生の歓迎会をした時、私は福岡から来てそこに泊まったような。ひょっとしたら過去にブログでそのことを書いているかもしれない。そう思ってスクロールしてみたものの、記述はない。今のブログは英国の旅を終え、福岡に再び落ち着いた2012年11月からスタートさせている。どうもその前のことのようだ。
 過去のメールを確認すれば、分かるかもしれない。古いメールをチェックすると、分かった。2012年3月下旬に上記の歓迎会がもたれている。バタワース先生を驚かすために私の参加は内緒にされていたようだ。日本人の恩師2人に卒業生2人が中心となり、そのグループに私が飛び入り参加する形でサプライズ歓迎会となったようだ。その時の歓迎会の宴の場となり、宿泊先となったのが目の前のホテルだったことが分かった。
 そうか、あれからもう7年近く経っているのか。ついこの間のような気がしていた。バタワース先生とは今も時々メールのやり取りをしている。彼が宮崎をまた再訪したく思っていることも知っている。先年奥様を亡くされた。再度彼をアメリカから宮崎に招待することを考えてもいいかもしれない。袖振り合うも他生の縁とか。そうした縁のある人とはできうる限り、袖を振り合わせて生きたいものだ。そうしたくてもできないでいる、かつての友人たちも少なくないが。

台風一過

20190816-1565912840.jpg 宮崎市の青島。宮崎県人であれば郷愁を誘う地名だ。山間部出身者には青島と聞けば、憧れの海を連想する。私もはるか昔の子供の頃、青島の海に何度も来たはずだが、残念ながら何も覚えていない。当時は泳げなかったからかもしれない。
20190816-1565912870.jpg 今回妹の差配で宿泊したのはその青島にある老舗のホテル。天然温泉でも知られている。そうは期待していなかったが、予想以上に良かった。一つには台風の余波で泊り客が少なかった(ように見受けられた)ことも一因しているだろう。天然温泉のお風呂場はそうは大きくなく、利用者が多ければ、かなりの混み具合になると推察されたが、快適に楽しむ余裕があった。特に朝風呂はがらがらで露天風呂にサウナとのんびり利用させてもらった。
20190816-1565912895.jpg とここまで書いて、台風のことを全然記していないことに気づいた。チェックインしてほどなく暴風雨となり、夕食時には風雨の強さが見て取れた。これでは深夜から翌日にかけて凄く荒れ模様になるのではと心配した。ところが、そのうち風雨が収まったようだった。未明の3時頃に目が覚めたので窓の外を見やると風は少しあるものの全然、台風襲来という雰囲気ではない。
 木曜朝に目覚めると、台風は過ぎ去ったような感じだ。予報では本日こそ大荒れになると報じられていたが、どうもそうではなさそう。朝食後、上述の通り、朝風呂に行き、露天に浸かっていると、突然セミが一斉に鳴き始めた。うるさく感じるほど。セミも台風が去ったことが分かっているのだろうか。少なくとも宮崎ではもう案じることはなさそうだ。
 ホテルは青島の海に面している。10階のベランダから浜辺を見ると、さすがにまだ強い波が押し寄せていた。これではまだ泳ぐのは無理だろう。天気が回復すれば明日金曜は泳げるかもしれない。まあ水泳パンツもゴーグルも持参していないから今回は諦めよう。
 今回の台風に関し、テレビでその報道を見ていて感じたことを一つ記しておきたい。空の便は西日本を中心に当然のことながら大きく乱れ、欠航が相次いでいる。そのニュースを見ていて、以下のような表現に違和感を覚えた。「〇〇空港では機材繰りができず、多くの便が欠航を余儀なくされました」。機材繰り? 文脈から「飛行機のやり繰りがつかず、乗客を運ぶことができない」という意味なのだろうと推察できた。それでも「機材繰り」はかなり無理のある造語ではないかと私は思った。ネットでチェックするとこの語ですぐにヒットするから今では普通に使われている新語のようだが、「資金繰り」から「機材繰り」は相当な飛躍ではないか。また、飛行機そのものを「機材」で表すのも無理があるように感じた。「飛行機の手配ができず」とか「飛行機が未着のため」などの表現でいいのでは。
 活字メディアでも放送メディアでも字数・語彙は少なければ少ないほどいいのは同じだ。だから無駄な字や語彙は削ぎ落としていく。The shorter the better. とはいえ、物事には限度があるのではないか。That’s a bit over the top, I’m afraid.
 もっとも言葉は「生き物」であり、「生きて」いる。多くの人がそして主要メディアが普通に「機材繰り」と言うようになれば、これが正しい日本語の語彙となるのだろう。「市民権」を得たと見なされる。「鳥肌が立つ」が今や「凄く感動した」を意味して使われるように。私には「鳥肌が立つ」はまだネガティブな意味合いの語彙でしかないが。

特急にちりん

20190814-1565780725.jpg お盆の週。ずっと福岡で暇を持て余すつもりでいたが、急きょ宮崎の山里の郷里に帰ることにした。帰ると言っても実家のそばにあるお袋や姉のお墓に手を合わせるだけのこと。お袋の墓に手を合わせたいと願ったのには訳がある。母親のお墓を拝む理由など世間の人には特別の理由もなかろうが、親不孝者の私にはそれがある。このブログでこんなことを書くのは恥ずかしいが、あえて記すと、私は昔から身体の不調があると、あ、お袋に不義理をしているのではないかいなと思っている。きちんとお墓参りをしていないのでは。
 最近右肩に違和感がある。手を上げて上にある物を取ろうとする時などに鈍い痛みが走る。嫌な感じの鈍痛。すぐに収まるので日常生活に何ら支障はないのだが、気になるといえばなる。それでふと思った。お盆の季節なのに帰郷さえしないのでお袋がシグナルを送っているのでは。それで急きょ帰郷することにした次第。宮崎まで帰れば、あとは妹が車で送ってくれる。お墓に手を合わせれば、右肩の違和感がなくなるかもしれない。
 心配事が一つ。台風だ。テレビで連日、超大型の台風が西日本を直撃するべく太平洋上を北上していると報じている。宮崎への上陸はなさそうだが、ほぼ間違いなく暴風雨に見舞われるだろう。最悪の場合、往路の電車が途中でストップすることだってあり得るかもしれない。それで水曜朝早起きして最寄りの香椎駅から宮崎駅行きの特急の始発に乗った。福岡は快晴とまではいかないまでも雨は降っていない。本当に大きな台風が近づいているのかと思えなくもなかった。
 JR日豊線。大分駅で特急ソニックから特急にちりんに乗り換えた。4号車自由席に入って見てびっくり。乗客は私の他には一人だけ若い男性が前の方に座っている。グリーン車にでも乗車したような開放感。台風の関係で乗車を見合わせた人が多いのだろうか。まあ、確かにわざわざ台風の真っ只中に突っ込んでいく旅の人はあまりいないだろう。佐伯を過ぎて延岡に向かう車中から外は雨が降りだしたことに初めて気づいた。風はないようだ。
 香椎から宮崎まで5時間40分の旅程だから、スマホのらじる&らじるでNHKラジオを聞く。第二放送で物語の朗読をやっていた。「耳なし芳一」。お盆の時期にはうってつけの朗読だろう。何となくイヤホンで聞いた。芳一という名の若い琵琶法師が源平合戦に敗れた鎧兜の悪霊に取りつかれる。悪霊が芳一を連れ出さないように寺の和尚さんが抱一の裸身にお経を書く。その夜、悪霊がまたやって来る。芳一の名をいくら呼んでも芳一は和尚さんに言われた通り、返事をしない。悪霊はしかたなく、お経を書き忘れたがために目に入った二つの耳に近づき、・・・という佳境で放送が突然途切れた。電車がトンネルに入ったのだ。日豊線ではトンネルが多い。短いトンネルなら放送中断はないが、ちょっと長めのトンネルではその度に中断する。
 まあ、贅沢は言えない。風雨が強まり、電車が途中で止まる事態に比べれば何でもない。実際、高鍋に入った辺りから左に見える海岸に押し寄せる白波が不気味に映った。
 この調子だと宮崎までは何とか到着することができそうだ。本日の夜以降も大きな被害を出すことなく台風が駆け足で通過してくれることを願う。郷里に向かうのは土曜日の予定。それまでは宮崎市内のホテルの温泉に浸かるつもりだ。右肩も少しは癒されるかもしれない。これは妹が手配してくれた。実にありがたい。

多言語教育の時代

20190812-1565567901.jpg 連日暑い日が続いている。私のように根が怠惰な者には暑さを理由につい、安逸なときをむさぼりがちになる。それではいけないと、午後にはなるべく例のスロージョギングに励んでいる。この週末も香椎浜のジョギング路をゆっくり走った。走路のトイレの近くに水飲み場があり、いくら水を出しても生ぬるいのだが、水分補給はできるからありがたい。
 最近ふと気づいたことがある。ジョギング路への順路に広場があるのだが、普段は歓声を上げながら遊び回っている子供たちの姿が消えてしまっていること。テレビで連日熱中症に注意と報じているからであろうが、せっかくの夏休み、もったいないような気もする。
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 古巣の読売新聞は毎朝きちんと目を通している。久しぶりに興味深く読んだ企画があった。教育欄に連載されていた「多言語教育」というテーマの5回シリーズ。前文に「全国の高校のうち、授業で英語以外の外国語を教えている学校は1割強に上っている」とあった。例えばある都立高(北区)では2年生約240人全員が英語の他に、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の5か国語の中から一つを選択し、週2コマ(1コマ50分)の必修科目となっているとか。半数の約120人が中国語を選択したという。へえ、そうなの? 公立校でもそういう時代なのか。
 最終5回目には外国語教育に精通している2人の専門家の卓見が紹介されていた。簡略に抜粋すると。「英語圏以外にも視野を広げさせるため、英語とは別の外国語の学習も必要だ。高校教育では二つの外国語を必修にすべきだ」「言語には相性がある。英語が苦手でも他の外国語ならできることは珍しくない。全国一律の英語だけの教育が『国際人の芽』を摘み取っていると考えている」「国際戦略としても英語を使える人材だけを育てる教育でいいのだろうか。欧州などでは『母語+2言語』を学ぶ言語政策が一般的になされている」「英語に加え、さらに別の外国語を学ぶ利点に目を向けたい。複数の言語を学べば言語間の構造や文法の違い、類似性などが見え、各言語の理解が促される」
 私自身はこれまでほぼ英語一辺倒でやってきた。新聞社で国際部に配属された直後に韓国語を少し勉強したが、アフリカ特派員になった時点で頓挫。そのアフリカではスワヒリ語やフランス語をかじったが、これも同じく頓挫。中国語に対してはずっと無関心だった。そういう私が今になってこう書くのは気がひけるが、学校教育の場で英語以外の外国語、特に中国語と韓国語に選択肢を広げるのはいいことだと思う。ぜひ、そうなって欲しい。
 教員をどう確保するのかという問題はあるが、高校レベルから英語以外の外国語を学べるような制度になっていれば、生徒に多様な選択肢を提供できる点でも画期的だ。高校時代に学ぶのは基礎の基礎でいい。基礎を身に付ければ、あとは独学でもやっていける。私自身は還暦をとっくに過ぎてから中国語と韓国語を独学で学び始めたが、今の世は外国語学習に便利な「教材」が巷にあふれている。
 中国語や韓国語を不自由なく操れる若者が増えていけば、アジアに座す日本にとって心強い。上記の専門家が語るように、英語では案外でも中国語や韓国語では思わぬ適性を秘めている生徒が少なからずいるかもしれない。

地球も人類もグロッキー?

20190808-1565224885.jpg 台風一過、猛暑が戻ってきた。スロージョギングでもグロッキーになりそう。そういえば、この語も英語が語源だと思い、辞書を繰って見ると、groggyという語が出てきた。「(疲労・病気・衝撃などで)足元がふらつく、意識がもうろうとして」という意味。グロッギーの方が原音に近いか。昭和世代の我々は子供の頃、例えばテレビでプロレスを見ていて英語の語源を意識もせずに「あのレスラーはグロッキーだ。今に倒れるぞ」などと思っていた。
 昨今の環境や気象に関するニュースを見ると、地球自体がgroggy になりつつあるのかなと思えてもくる。まだ異論を唱える科学者もいるようだが、諸悪の根源は文明が吐き出している二酸化炭素の排出による地球温暖化。世界各地の今夏の猛暑もおそらく温暖化がもたらしている異常気象の一つなのだろう。
 最近のジャパン・ニュース紙にちょっと手がとまるニュースが掲載されていた。見出しは ‘Artificial snow’ could shore up collapsing Antarctic ice sheet というもの。本文を読むと、南極を覆う氷床に人工的な雪を降らせることで氷床が海に融け落ちることを防ぎ、海面上昇に歯止めをかけることが可能という研究結果が発表されたという。そうでなければ今後、海面の3㍍上昇は不可避の情勢なのだとか。そうなれば、ハンブルク(独)や上海、香港、ニューヨークはやがて水没する運命にあるとか。日本の都市は言及されていなかったが、おそらく同じ苦難に遭うのではないか。
 専門的なことはよく分からないが、南極の氷床の近くで12,000 もの風力タービンを設置して海水を高度1,500 ㍍に吹き上げ、雪として降らせることで氷床を「補強」するのだとか。そんなことが果たして可能なのか私には分からないが。
 この研究結果をまとめた科学者の一人の次の言葉が印象深い。“We have already awoken the giant at the southern pole. We are already at a point of no return if we don’t do anything. We can bring it back to the stable point by a small interference now – or by larger and larger interference later.”
 地球文明は a point of no return (引き返すことのできない地点)に差しかかっているのだとか。我々はまだいい。過酷な尻拭いを強いられるのは我々の後の世代だ。 
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 大リーグを見る熱意が失せつつあるのは猛暑とは何ら関係はない。一つには大谷翔平君の調子が今一つなこと。彼が属するロサンゼルスエンジェルスも低迷し続けている。投手陣が情けない。あまり覇気も感じられない。一生懸命に応援しようという気が起きない。
 プロ野球は絶好調だった巨人が絶不調に陥っている。原辰徳監督は監督としての1,000勝達成ではしゃぎ過ぎたか?どこかに慢心があったのかもしれない。どうでもいいが・・・。
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 福岡市の出版社・書肆侃侃房から無料のPR小冊子「ほんのひとさじ」7月号(Vol.12)が出た。今回の特集のテーマは「風」。私も拙文を寄稿している。ご興味のある方は以下のサイトへ。http://www.kankanbou.com/honnohitosazi/ 「ほんのひとさじ」の取り寄せ方法なども書いてあります。

A smiling Cinderella

 久しぶりに気持ちのいいスポーツ中継を見た。イギリスで開催されていたゴルフのメジャー大会、全英オープン。日本の新鋭、渋野日向子選手が見事に初優勝を飾った。プロ入りして間もない弱冠20歳の若手。胸のすく快挙だった。
 ケーブルテレビの英語放送の中継で最初に彼女の名前が画面で Hinako Shibuno と紹介された時には正直、誰だろうと不思議に思った。BBCアナ(と思われる人))が彼女は今や、現地では “a smiling Cinderella” と話題になっていると語った時、合点が行った。今年初優勝した新人プロに笑顔が印象的な子がいたことを覚えていたからだ。
 果たして彼女だった。岡山市出身の渋野日向子選手。決勝ラウンド3日目を終えて2打差の首位に立った時、ひょっとしたらこのまま逃げ切るのではとも思われたが、メジャー大会はおろか、海外の試合も初めての彼女にとって、韓国や米国、英国の百戦錬磨のプロを抑えての勝利は大変だろうと推察された。
 そして迎えた最終日の日曜日。時差があるので、日本時間では夜の10時過ぎ頃から渋野選手は最終組としてスタートを迎えた。最初の数ホールを見たところで、あ、これは難しいかなと思った。最後まで付き合って負けるのを見るのは見ている方でも辛い。それで一旦テレビを消して横になった。
 だがどうも気になる。途中で目覚めたこともあり、スマホで途中経過を確認すると、首位の座から落ちてはいるが、トップと2打差で踏みとどまっている。彼女は確か後半・インの方が成績が良かったことを思い出し、よし最後まで応援しよう。どうせ気になって眠りに落ちることは難しそうだし。果たせるかな。彼女は驚異的な粘りを発揮し、15番でトップを走るアメリカ人の選手に追いついた。この選手は最終18番で絶交のバーディーチャンスを手にしながら、パットをミスした。これに対し、渋野選手は18番で距離のあるバーディーパットを決め、逆転優勝。ギャラリーからは大きな歓声と拍手の渦。渋野選手がパットを決めた瞬間、高く突き上げた左手は実に感動的だった。良くやった!お見事!
 日本語放送では大先輩の岡本綾子プロが味わい深い解説をしていたが、男性アナの興奮気味の実況がちょっと耳についたので、最後の方では英語放送に切り替えていた。BBCのアナが再三、英国の人々は今やこの “smiling Cinderella” に魅了されていると語った。そして彼女の落ち着いたプレーは実に “nerveless, absolutely nerveless” と激賞した。そうか、こんなケースではnerveless が適しているのか。辞書では①元気のない、弱々しい②冷静な、落ち着いた・・・という訳が載っている。nervous (不安な、神経質な)の反対の意の②の意で、つまりほめ言葉として使えるのだと勉強にもなった。Thanks, Hinako-chan.
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 福岡市の出版社・書肆侃侃房から無料のPR小冊子「ほんのひとさじ」7月号(Vol.12)が出た。今回の特集のテーマは「風」。読み応えのある小品が並んでいる。私も拙文を寄稿。ご興味のある方は書肆侃侃房のホームページの以下のサイトにアクセスを。http://www.kankanbou.com/honnohitosazi/ 「ほんのひとさじ」の取り寄せ方法なども書いてあります。

小倉競馬場再訪

20190805-1564967914.jpg 日曜日。久しぶりに小倉競馬場に足を運んだ。もちろん競馬を楽しむためだ。といっても実際の馬券は買わない。予想してその結果を楽しむだけだ。当たれば良し、外れても痛くも痒くもない。究極のギャンブルの楽しみ方のようにも思える。競馬にしろ、パチンコにしろ、カジノにしろ、身銭を賭けるのは愚の骨頂。傍観者として楽しむのが一番というのが私の持論だ。この境地に達するまで実に高い「授業料」を支払ってきた。
20190805-1564967946.jpg パチンコから足を洗って何年になるのか。手帳を見れば分かるのだが、4、5年かそこら、いやもっとそれ以上になるかもしれない。長くやっていれば必ず負ける、それになにより時間がもったいないというのが遠ざかった理由だ。今はジョギングの途中でお手洗いを借りる時に店内に足を入れることはあるが、台の前に座りたいとは露思わない。
 競馬。これは長年の付き合いがあるので、週末予想だけはさせてもらう。競馬はある意味、「馬の血筋が重要な要素」だから、記憶が物を言うギャンブル。だから、馬券は買わなくとも予想(推理)するだけで十分面白い。JRA(日本中央競馬会)が膨大な資金を投入してお膳立てしてくれるレースを元手ゼロで楽しめるのだからこんな贅沢な遊びはない。
 前置きが長くなった。そういう次第で普段はアパートでケーブルテレビを通して競馬を楽しんでいるが、今の時期は小倉競馬場で夏競馬を開催中。現役の頃は福岡から電車やバスで何度足を運んだことか。たまにはいいだろうと日曜日、電車に乗って出かけた。小倉記念というご当地のレースが行われることもあってか、私がこの競馬場で経験した中では一番混んでいた。お昼を食べるのも一苦労だった。
 場内にいる限りは冷房が効いていて快適なのだが、馬が走っているところをこの目で見ようと場外に出るといや、焼けつくように暑い。こんなに暑ければ、騎手はもちろんだが、競走馬も大変だろうなあ。じっくり予想して結果を楽しもうと思っていたが、あまりに暑さにその気も失せた。パドックでぼけーっと馬を見ていたら、後ろの学生らしき若者2人の会話が聞こえてきた。「おい騎手の後ろに書いてある体重のようなものは何だ? 均等ではないようだが」「あれは馬がレースで背負う斤量だよ」「何だ?その斤量ってのは?」
 一人は明らかに競馬の初心者のようだ。女優が楽しそうに語らうJRAの華やかなCMに誘われて競馬に足を染めつつあるのかもしれない。やめておきなさい。その歳で始めたらろくなことはないよ。競馬を楽しむのは定年後で十分だよ。遅すぎることはない!
 小倉のメインレースが終わった時点で競馬場を後にした。以前は他場の最終レースまでみっちり勝負して人様には言えない額の大敗を喫して帰路に就いていたものだが。もはや馬券に対する「情熱」は枯れてしまった。80歳にでもなって健康で小銭が自由になるような身分だったら、その時また改めて考えよう。
20190805-1564967974.jpg この日、一つだけ感心したことがあった。勝利騎手が表彰後、ファンに色紙にサインする光景がよく見られるが、この日、表彰式が終わっても、結構長い時間、ファンの要望に応えてサインする騎手がいた。次のレースに騎乗予定がなかったこともあるだろうが、もういいのではと思うくらい、辛抱強くサインに応じていた。福永祐一騎手。私は好きでも嫌いでもない騎手だったが、これからはできるだけ応援したくなった。

日韓、いつまで吵架?

 日韓関係が一段と厳しさを増しつつあるようだ。今回の件に関しては韓国政府に非があるように思えるが、ここまで悪化しては落としどころを見いだすのは至難の業だろう。願わくは政府の対立が一般の市民レベルにまで生じないことを祈るばかり。釜山市の例が物語るように地方自治体でも日本の自治体との交流イベントの中止を表明するなど懸念される動きが出始めている。
 国と国との関係はともかく、市民レベルでは日韓の付き合いは年々強化されているように感じている。先日の太宰府でもそうだったが、韓国の旅行者は日本の良さを満喫しているように見受けられた。私にしてもひところは釜山によく出かけていたが、不快な思いをしたことは一度もない。国と国との関係が危うくなればなるほど、市民レベルの交流を密で親なものにしたい。その意味で釜山市の行政が取っている行動は理解しがたい。ここは日本に住む我々が大人の対応を示したいところだ。
 このところ、台湾ばかりで韓国訪問がおざなりになっていた。実はこの秋は久しぶりにまた釜山を訪ねようかと思っていた。懐が怪しくなっていることも一因。第一、目と鼻の先にある釜山に足繁く通わないことには、福岡に住んでいる利点がない。フェリー便でネット予約すれば、交通費は宮崎に帰郷するよりも格段に安く済む。それで涼しい秋になったら釜山再訪を考えていたが、はてさてどうなることやら・・・。
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 とても難儀な日課のように感じていたNHKラジオの中国語講座「まいにち中国語」が楽しく感じられるようになっている。理由は単純至極。ラジオから流れてくるさまざまな単語、会話のやり取りが初めて耳にしても意味が分かるからだ。もちろん、初級だからではあるが、去年の今頃は考えられなかったことだ。今はテキストさえ購入していない。テキストに頼ってしまいがちなことも購入を控えている理由だが、テキストがなくともついて行くことができ、新出の単語も辞書をひけばすぐに理解できるようになっている。
 最近の講座で次の文章が流れてきた。「他们又开始吵架了。」。彼らがまた「吵架」を始めたということはすぐ分かった。「吵架」は知らない。辞書で調べる。「口論する」という意味が分かった。「口が少ない」と書く「吵」が「口論する」という意味とは面白い。「又失败了。」という文章は耳にすれば何となく推測はつく。「また失敗した」という意味。ピンイン表記のshībàiは「シーバイ」であり、「しっぱい」と聞こえなくもない。似たような漢字を使っていても発音が日本語とはかけ離れた語彙が多い中、時に「あ、似ている」と感じる語が出てくるとそれだけで中国語をぐっと身近に感じるのは私だけではないだろう。この調子でこれからも学習を続けることができればと切に願う。
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 7月に入ったと思っていたら、もう8月。小倉のよみうり文化センターでの英語教室は8月も続けるが、天神の英語教室はお休みとなる。初級はまだ受講生が皆無に近く、9月の第2水曜日夜から改めて再スタートする。興味のある方は「本のあるところajiro」の次のサイト(http://www.kankanbou.com/ajirobooks/ )をご覧ください。

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