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December 2010

ラム肉のバーベキュー

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 静岡県浜松市出身の水谷文美さんは北海道大学獣医学部を卒業後、アフリカのジンバブエに渡航。その後、英ケンブリッジ大学の大学院で野生動物と家畜の共生をテーマに研究してきた。ロルダイガ農場との関わりはその延長線上にある。
 「家畜と野生動物は同じ草を食べますが、食べる部分が異なります。例えば、トムソンガゼルなどのガゼル種は草の丈が長いと食べられません。それで最初に長い丈の草はゼブラが食べ、続いて、バッファロー、牛が食べ、インパラ、ガゼル、羊などの順番です。だから、家畜と野生動物は共生できるんです。家畜がいる草原では野生動物の数が増えていっています。人間の経済活動、自然保護をそれとどう絡めていくか」
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 「私が今、考えているのは、農場周辺にある乾燥地帯の小規模農家の人々の暮らしを農場とともに向上させていくことです。ケニアは西部や中央部には肥沃な大地もありますが、国土の75%はここのような乾燥地帯です。乾燥地帯は人口が少ない地域ですので、これまで海外からも含め支援活動が希薄でした。だから、私はロルダイガ周辺の農家の暮らしを改善することは他の乾燥地域への波及効果が期待できると考えています」
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 さて、ロルダイガ農場の滞在もいよいよお仕舞いに近づいた。それでこの日はハインド夫妻が住んでいた母家に面した庭でバーベキューをご馳走になった。舌鼓を打つ前に、文美さんがもう一つ、興味深いところに案内しましょう、と車で30分ほどの距離にある岩山の洞窟に連れていってくれた。
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 ライオンやバッファローに出くわす心配がないわけではないので、銃を持った警備員に同行してもらって洞窟に。真っ先に見えたのは白い紋様だが、その下に赤茶色の紋様も見える。「地元の人たちは以前から知っていたのですが、2004年に専門家に調査してもらった結果分かったのは、赤茶色の幾何学的紋様は3500年前のものだったことです。狩猟採集民のピグミーが当時この一帯で暮らしていて、その後、遊牧民の黒人に追われてアフリカ大陸を南下したのではと考えられています」。ここにも有史以前のロマンがある。
 バーベキューはラム肉だった。ドーパーと呼ばれる羊の肉だという。うまい。ラムと聞いていなければ、何の肉だか分からなかったかもしれない。農場が営んでいるゲストハウスに滞在しているスウェーデンからの夫妻もおいしそうに平らげていた。
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 この旅の最後に友人のロルダイガ農場を訪れたのは、アフリカにはこういう世界もありますと紹介したかったからだ。農場の一角に文美さんは英国の大学の助成金と私費で研究者用の仕事場兼宿泊所のコテッジを建てていた。私はこのコテッジに一人寝泊りしたが、深夜は近くでハイエナの鳴き声が聞こえてきた。どうせならあのライオンの鳴き声も聞けないものかと恐いくせに少し期待した。大自然に抱かれた忘れがたい数日間だった。
 (写真は上から、家畜のラクダの群れとも遭遇。私を見て好奇心一杯の感じだった。私が滞在したコテッジ。洞窟の幾何学的紋様。ほぼ真ん中に紋様が見える。洞窟から草原を望む。ラム肉のバーベキュー。スウェーデンからの夫妻に給仕しているのが文美さん)

ハインド夫妻

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 ロルダイガ農場の歴史を説明しなければならないかとも思う。以下はお世話してもらっている文美さんから聞いた話を簡略にまとめたものだ。
 農場の創設者は英国人のハーリー・ダグラス・ハインド氏。1901年生まれ。英ケンブリッジ大卒後、ニュージーランドの大学で農業を学び、英国が植民地にしていたケニアに渡航。世界大恐慌前の27年に英政府からロルダイガの土地を借り受け、農場を開いた。妻のセシル夫人は1904年生まれ。ケンブリッジ大の学生時代にハインド氏と知り合い、結婚後、ロルダイガ農場で新生活を始める。
 ハインド氏が農場を開いた当時はまだ、ケニアの黒人社会で本格的な反英闘争は起きていなかったが、50年代に入ると、キクユ族の人々を中心とする人々がマウマウ団と呼ばれる反英武装組織を結成。当初は土地奪還闘争だったが、後に独立運動に発展していった。ロルダイガ農場にもマウマウ団の襲撃に備えたお城の篭城塔のような砦が残っている。
 ハインド夫妻はそうした歴史にもまれながら、ケニア独立後も農場を経営。降雨量が年間500ミリに満たない乾いた大地が延々と続くロルダイガでは農場経営は至難の事業だったことは容易に想像できる。牛車とシャベルで土を掘り起こして雨水をためるダムを作り、潅木や藪を切り開いて家畜が食べる草を育てていった。
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 ハインド氏は牛の品種改良の腕で知られ、特にボラン牛では数々の優れた種を作り出した。ハインド氏が1978年に死去したのを受け、夫妻の孫に当たるロバートさんが3年後にその跡を継いだ。文美さんは野生動物の研究で農場を訪れたのが縁でロバートさんと出会い、91年に結婚した。
 ハインド夫妻が質素な生活をしていたことは今も当時のままに残る家からうかがえる。暖炉の煙でいぶされたふきねけの屋根は黒光りしている。本棚には背表紙に歴史が刻まれた書籍が並ぶ。セシル夫人が93年に死去後、文美さんたちはこの母家に移った。文美さんは「私はセシル夫人の晩年の4年間を一緒に過ごすことができました。きっぷのいい素敵な女性で、昔の話をよく聞かせてもらいました。当時飼っていた豚が病気で全滅して、彼女は豚の体重を量る仕事をしていたのですが、その後はハインド家にやって来るお客さんの体重を豚の仕事で使っていた体重計で量り、お客さんが必ず来た時より太って帰るようにした話などを笑って語ってくれました」と振り返る。
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 夫妻がかつて住んでいた家は今は発電機などで電力があり、井戸を汲み上げた水道水もある。当時は今では考えられないような生活だったのだろう。「セシル夫人は土曜日の夜に限り、ご主人と一瓶のビールを分け合って飲んでいたそうです。ロルダイガの自然が野生動物とともに残り、今があるのは夫妻のような方たちがいたからだと思います」
 (写真は上から、ロルダイガ農場の高台から周辺の高原を望む。右手向こうは雨が降っているのが分かる。ハインド夫妻が眠る墓地。ここからの眺めも素晴らしい。ハインド夫妻が住んでいた家の居間。壁の野生動物のはく製にも歳月を感じる)

ラクダみたいなボラン

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 ロルダイガ農場2日目。午前5時過ぎに小鳥の(と思しき)鳴き声で目覚める。外はまだ薄暗い。6時過ぎに起床して洗面。肌寒い。温度計で確認すると12度。ほどなくすがすがしい朝が到来し、日中になると汗ばむ陽気となり、夕刻はまた心地良い涼気に包まれる。文美さんが昨日言っていた言葉を思い出す。「ここは一日に春夏秋冬の四季がやって来るんですよ」。ごもっとも。
 農場の総面積は5万エーカー。私はこのエーカーとかアールはいつまでたってもぴんと来ない。ほぼ2万ヘクタールに相当というから、100メートルかける100メートルの1万平米(1ヘクタール)の土地が2万個あることになる。とここまで「翻訳」すると、私のアナログ頭脳はその土地の広大さを少し理解できる。
 大雑把に言うと、農場では140人の従業員が働いており、牛3千頭、羊2千匹、ラクダ160頭の飼育に当たっている。この日は牛の「薬浴」の作業日だというので、見学させてもらった。牛の体についている病原菌のダニを薬剤の入った狭いプールに一頭一頭追いやり、消毒するのだ。
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 ここの牛の主力は肉牛でボランと呼ばれる種。頭部やあごのしたに脂肪の塊が付いているのが特徴だ。牡牛に至っては私にはラクダのようにさえ見えた。牧童の人たちが棒切れで牛を入り口に誘導する。ざぶん、ざぶん。牛たちは水しぶきを上げながら、首だけ水の上に出して、プールを泳いで(駆け抜けて)行く。
 昨日車窓から見た池にも連れて行ってもらった。ゼブラが近くにいたが、私たちの姿を認めると、それ以上水場に近寄って来ない。木々の間に身を潜めてみたが、効果なし。
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 ロルダイガ農場には大小104の池がある。ダムにして雨水をためた池で、もともとは家畜のために造られたのだが、当然、象やキリン、ゼブラ、ガゼルなどの野生動物にとっても貴重な飲み水源となっている。「実は牛が水を飲んでいると、象などの動物は近づいて来ません。牛が飲み終わると、象の番なんです。自然界のルールがここでは出来上がっているかのようです」という文美さんの説明を興味深く聞いた。「それはライオンやヒョウなどにもある程度言えます。彼らが放牧中の家畜を襲うことはまれです。まるで日中は人間と家畜のための世界、夜間は野生動物のための世界という了解があるみたい」
 牛や羊を夜間、木材やパイプなどで囲って野生動物から守る場所を「ボーマ」と呼ぶことも初めて知った。ロルダイガ農場ではボーマを一週間程度で移動させる。ボーマの跡地に残された家畜の糞がやがて新たな草を育て、それが家畜だけでなく野生動物の食料となるからだ。
 ロルダイガ農場が「家畜と野生動物そして人間が共生する」ことを目指していることが分かる。
 (写真は上から、「薬浴」を受ける牛たち。ボランと呼ばれる牛の中でも一際風格が漂う牡牛。頭部の脂肪の塊は体温調節に大切な役目を担っている。ゼブラとグランツガゼルの小さな群れ。これ以上近づくと逃げて行く)

ロルダイガ農場

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 私は今、ナイロビを離れ、ケニア山のふもと、ナニュキという町の近くにあるロルダイガという農場にいる。日本では考えられないぜいたくな気分を味わっている。周囲にあるのは手付かずの自然。いや、正確には牛や羊などの家畜と象やライオン、キリンなどの野生動物が共生する自然だ。農場経営者が営むコテッジでの滞在はかつてテレビで見た「大草原の中の小さな家」のイメージに近い。
 ナイロビの国内線用のウイルソン空港を12人乗りの小型双発プロペラ機で出たのが午前8時。どこでも好きな所に座れと言うので、パイロットの隣の副操縦席でもいいかと尋ねると、OKとのこと。複雑な計器を見やりながら、シートベルトを締め、自然と笑みがこぼれてしまう。高所恐怖症のくせにこの手の小型飛行機は嫌いではない。はたで見ていると、これなら自分でも運転(操縦)できるのではと不遜にも思ってしまう。
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 眼下には緑の大地が広がる。ケニアのこの一帯は土地も肥沃なのだろう。先週ジュバへの旅で見た光景とは異なる。ほどなくパイロットのお兄さんが「ほらあれがケニア山だ」と右前方の「突起物」を指し示す。先ほどから気になっていた突起物だ。ケニア山だとは思わなかった。ケニア山はアフリカでキリマンジャロ山に次いで高い山で、最高峰は標高5199メートルもある。左右に緩やかな裾野があるこの突起物がケニア山だとは信じ難い。頂上近くは氷河か万年雪か白く光っているのが見える。なぜか、桃源郷という言葉が頭に浮かんだ。
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 ナニュキの空港に到着するまでに二度、草原を切り開き、大地をローラーで踏み固めて造られた滑走路に降り立った。着陸寸前までどこに滑走路があるのか全く分からなかった。コンクリートの滑走路でないため、着陸時の振動、その後の滑走の揺れが何とも言えない。クリスマス休暇を野生動物のサファリで過ごす白人観光客の家族連れが乗り降りしていた。
 大地が緑から乾いた茶色に変わり、三度目に着陸したところがナニュキの空港。ウイルソン空港から直で飛べば30分程度で来れるが、途中で「寄り道」したため、1時間半ほど経過していた。迎えに来てくれた旧知の水谷文美さんと挨拶を交わす。文美さんはケニア在住21年の獣医で人類生態学の専門家でもある。ロルダイガの農場は夫のロバート・ウェルズさんが経営しており、文美さんはライフワークの研究をここで手がけている。
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 見るからに頑丈そうな四駆の軽トラックに乗ってロルダイガ農場に向かう。ナニュキの町を過ぎて1時間近く走っただろうか。警備員がガードする門が見えてきて、文美さんが「ここからが私たちの農場です」と言った。いや、想像はしていたが、それにしても広大な土地だ。目の前をグランツガゼルが通り過ぎる。左手に水をたたえた池が見えてきた。「ここの暮らしで最も大切な水です。ダムにして水を確保しています。時々は象が水を飲みにやって来ているのを見ることもできますよ」と文美さんは語る。
 (写真は上から、小型双発プロペラ機の計器類。出発直後に見られた緑の大地。ケニア山。ロルダイガ農場の中。こんな感じの道を走ってコテッジに着いた)

110歳の生気

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 クリスマス・イブの日中、ナイロビ近くの町に住むキクユ族の友人、ジョージの家を訪ねた。8月に「友との再会」で記した人物だ。別れの挨拶を兼ね、足を運んだ。
 スーパーでチョコレートやお菓子を大量に買い込んだ。何人もいる子供たちのためだ。デジカメに収まっているこれまでに撮影した写真をその子供たちに見せた後、ジョージとしばらく、ケニアの政治について話し合った。彼はケニアの政治に部族の確執が影響していることを憂えていた。曲がったことが嫌いな一本気な男。現在の仕事、牧師に向いていると言えば、言えなくもない。
 お腹一杯ランチをいただいたのと、気持ちのいい微風がほほをなでるので、行儀悪いが失礼してソファーに横になり少し寝入ってしまった。
 目覚めた後、思いつくままにジョージと話していて、そういえば、2003年にナイロビを一週間ほど再訪した時、彼の祖母に会ったことを思い出した。彼女は確か100歳かそこらの高齢の女性だった。あれから7年も経過している。他界されている可能性が高い。「ジョージ、この前ここに来た時、あなたのおばあさんに会ったこと思い出したよ」と言うと、「ああ、そうだった。今も元気だよ。行ってみるかい」と答えるではないか。驚きを隠せぬ私に「1900年生まれだから、110歳になるはず」と続けた。
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 ジョージの家から歩いて20分ほどのところに、そのおばあさんは住んでいる。エリザベス・コイナンゲ。コイナンゲ家はキクユ族の名家で、英国の統治下にあった植民地時代には独立闘争でコイナンゲ家の多くの若者が命を落とした。そのコイナンゲ家のチーフの5番目の妻として迎えられたのがエリザベスさん。ジョージにとっては祖父に当たるチーフはケニアが独立を果たす3年前の1960年、獄中から釈放されて2週間後に79歳でなくなっている。先週の土曜日、没後50年の記念祭を催したばかりだという。
 エリザベスおばあさんは私のことを覚えていてくれた。キクユ語で語る言葉をジョージが通訳してくれた。「よく再訪してくれたね。うれしく思うよ」。「お元気そうですね。日本もお年寄りは沢山いますが、100歳を超えて、しかも110歳でおばあさんのように元気な人は珍しいかもしれない。何が健康の秘訣ですか」「そうだね。あたしは蜂蜜と豆、バナナが好物だよ。神に感謝を捧げて暮らしているし」とこんな感じでおしゃべりをした。
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 別れ際に私が10年後、2020年にまたアフリカ諸国を再訪することを考えていると告げると、エリザベスおばあさんは「そうするといい。私もきっとまだ生きているだろう。ケニアに来たら、またここに立ち寄るんだよ」と細い目を一層細くしながら笑った。握手を交わした彼女の手はふっくらとしていて生気にあふれていた。本当かも・・・。
 (写真は上から、特に懐いてくれた子供たち3人。エリザベスおばあさん(中央)とジョージ。左上部の額に入っているのが、おばあさんが嫁いだチーフ・コイナンゲ。そのチーフ・コイナンゲのお墓。彼には6人の妻がいて、すでに5人の妻たちがそばで眠る。エリザベスおばあさんのお墓は右端に「用意」されているのが見える)

早い者勝ち?

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 ジュバからナイロビに戻って来た。今回の旅で何度目のナイロビか記憶も定かでない。もう改めて書くこともないような気もするが、ケニアにあと1週間余滞在して帰国する予定だから、もう少しお付き合いを。
 ジュバからナイロビへの飛行機便もなかなか考えさせられた。予約していたのはスーダンの航空会社。初めて耳にした会社だったので、スーダン周辺の限られた路線を飛んでいる小さい航空会社なのだろう。出発は正午。国際便の場合はアフリカでも出発の2時間前に空港に着いてチェックインすれば大体問題はない。それで私は午前10時きっかりにジュバ空港に入り、チェックインカウンターに出向いた。ところが、誰もいない。正確には私のような乗客が2人いて右往左往している。事情を聞くと、彼らは私より少し前に着いたが、その時点でカウンターは閉まっていて、職員らしき人はだれもいないのだという。
 冗談でしょ、と思いながら、この二人と一緒に航空会社の事務所を探し出し、そこにいた職員に詰め寄ると、彼は「私は何も知らない。私の仕事はチケットを発行することだ。カウンターが閉まっていたとするなら、すでに乗客で満席になったからだろう。あなた方はもっと早く来るべきだったのだ」と主張、取り付く島もない。これでは予めチケットを予約してもいても何にもならないではないか。first-come, first-served(早い者順、早い者勝ち)の世界だ。
 らちがあかないので、3人で空港の総括責任者のオフィスに押しかけ直談判。彼にとっては管轄外の話であり、本来なら、門前払いを食っても仕方のないことだったのだが、とても紳士的に応対してくれた。名刺までもらった。彼の部下が善後策を探ったところ、幸運にも、この日、南部スーダン自治政府の大統領がハルツームからジュバまで利用したケニアの航空会社の飛行機が駐機しており、これからナイロビに「空で」戻る予定であることが判明。この飛行機に乗せてもらいナイロビに向かうことになった。結局、この便には私たちのような予約済みの客が20人ほど乗り込み、当初の予定の時間よりわずか1時間遅れでナイロビ着となった。
 一悶着の末に、暑いジュバから快適なナイロビに戻って来ると、それだけで得をした気分になる。日差しはきついが、木陰にいる限り、十分涼しい。ケープタウンとまではいかないが、それでも十分心地良い。
 これまではナイロビでは長年の友人の邦人宅に泊まらせてもらっていたが、滞在も残り少なくなったので市内中心部にある中程度のクラスのホテルに投宿することにした。昔はこのホテルの1階部分に「赤坂」という名の日本食レストランがあって、私は昼に夜にお世話になったものだ。定食の味噌汁の味が薄いのでいつも少し醤油をたらして食べたのが懐かしい。今はレストランがあった部分とその周辺はカジノになっており、私にとってはとても「危険極まりない」場所になっている。
 (写真は、さわやかなクリスマス前のナイロビの中心街)

グッドラック、サウス・スーダン!

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 前回紹介した映画の制作者に会えないものかと思っていたら、幸運にも明日にはナイロビに戻るという日に会うことができた。ルリス・ムラさん。1982月6月生まれ、28歳の女性だった。
 彼女が自主制作した映画が南部スーダンの若者に対する力強いメッセージだと思ったという感想を述べると、彼女は「ありがとうございます。そのような意図で制作しました。我々には北部のアラブの人々から奴隷として収奪されてきた歴史がありますが、ここは本来アフリカ全体に大きな影響力を誇った文明を抱えていた地です」と語りだした。
 「エジプトのピラミッドは有名ですが、北部スーダンにはもっと古いピラミッドがあります。我々の祖先はアラブの人々から追い立てられ、南部に移ったのです。南部スーダンはスーダン全土、さらにはアフリカに残る最大の神秘を秘めた地なんです。残念ながら、そうした物語は外部ではほとんど知られていない。私はそうしたものをきちんと発掘していきたい。それが、我々の真実、アイデンティティーとなるからです」
 彼女は現在のスーダンとエジプトがクシュ王国と呼ばれていた紀元前の時代に、政治社会の根本を成していた「マアト」という名の理念を熱を込めて説明してくれた。マアトは当時、正義の女神が象徴していた「真理、本質」であり、私がおぼつかないながらも理解したところでは、死後の世界で神に裁かれる際、心臓と羽が天秤にかけられ、憎しみや恐れなど邪念に駆られた人の心臓は羽と釣り合うことがないので「正体」がばれ、罰せられるとか、そんな話だった。そうした神秘に満ちた物語が(南部)スーダンには海外に知られることなく埋もれているのだという。
 ルリスさんはジュバで生まれ、2歳の時に英国に渡り、大学までずっと英国で教育を受けた。2004年に今回の和平協定が調印される直前に20年ぶりに祖国の土を踏んだ。しかし、9歳ぐらいの少女のころから祖国のために働くことを「使命」のように考えてきたという。祖父の代から南部スーダンの解放闘争に身を投じてきた家柄に育ったことも関係しているのだろうか。「父から南部スーダンの子供たちが飢餓で苦しむ写真を見せられた時の印象が強烈だったのです。ああ、私は何と幸運な星の下に生まれたのだろうと。それなら、いつか帰国して同胞のために働きたいと」
 帰国後、法律の専門家だったこともあり、裁判官の仕事を委嘱された。しかし、どうも自分の考えていたイメージとは異なる。第一、仕事柄、自由に意見を述べることができない。それで思い切って仕事をやめ、映画制作の仕事を選んだ。私が読んだ新聞では南部スーダン初の女優と紹介されていたが、「女優ではありません。映画の制作者です。南部スーダンの人たちに誇りと自覚を与える作品を作っていきたい。それが当面の目標です」
 来年初めにはアフリカの54番目の国家として独立することが確実視されている南部スーダン。彼女のような若い世代が育ってくれば将来は明るい。そうなることを心から願う。
 (写真は、南部スーダンの未来を語るルリスさん)

「南部の伝統に誇りを」

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 ジュバ大学を訪れた際、土曜日夜に独立の是非を問うレファレンダム(住民投票)を祝うコンサートを告知したビラを目にしていた。南部スーダンの歴史にまつわるドキュメンタリーと思われる映画も上映されると記してある。のぞいてみよう。
 ビラにはドア・オープンが5時半、映画の上映開始が9時と記されてあった。きっとコンサートが佳境に入るのは深夜になるのだろう。ジュバでこの二三日よく使っているバイク・タクシーのジェイムズ君も誘った。彼は今年に入り、妻の後を追って出稼ぎにやってきたウガンダ人だ。妻もコンサートに連れていきたいと言うのでOKした。
 その土曜日。午後8時過ぎに行けば十分かと思い、その時間に待ち合わせて車を呼んで出かけた。会場について、野外のコンサート会場であることを知った。時間もあるし、3人とも夕食はまだだったので、売店でチキンとチップスを買って腹ごしらえを済ませた後、会場の広場に。ステージの真ん前にあるテーブルに座り、幕が開くのを待った。昼間はとても暑いが朝夕は気温も下がり、湿度がないからしのぎやすい。
 ジェイムズ、ビールでも飲もう。冷えたタスカー(ケニアのビール)はないかな。(奥さんの)アネット、あなたもいかがですか、といった感じで気分は上々だった。
 ところが、夜9時になっても、まだ始まる気配がない。9時半、全然。10時、まだステージのスピーカーの調整をしている。10時半、スターが到着した気配はない。ジェイムズが言う。「ショウ、アフリカ時間だよ、これが」。「あんたもアフリカ人だろ。なら、これはジュバ時間と呼ぶべきだ」。アネットが「カンパラ(ウガンダの首都)だったら抗議の声がとっくに上がっているわ」と口をはさむ。
 テーブルの前にはタスカーの空き瓶が9本。11時近くなり、もういい加減ホテルに戻ろうかと思い始めたころ、ようやくドキュメンタリー映画の上映が始まった。
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 そんなに期待していなかったが、これが力作だった。南スーダン出身の若い女性が自主制作した小品で、スーダン南部の人々がなぜ北部のアラブの人々との共存ではなく、独立の道を求めなければならなかったのかということが簡潔にまとめられていた。印象に残ったのは彼女がこの映画で伝えたかったのは、かつては北部のアラブの人々から野蛮、未開とさげすまれた祖先の文化、伝統は何ら恥ずべきではく、自分たち若い世代は誇りを持つべきだというメッセージであることがよく理解できたことだった。国作りの根幹は海外の視線が注がれる石油ではなく、多くの人々が生活の糧を得ることができ、また日々の暮らしの礎となる農業であると訴えていることにも共感を覚えた。
 コンサートが佳境に入った午前2時過ぎにホテルに戻った。本日、町で英字紙を買って読んでいたら、上記の映画を制作した女性のインタビュー記事が載っており、彼女は南部スーダン初の女優であることを知った。
 (写真は上から、映画上映の後のコンサートの盛り上がり。残念、この写真は盛り上がっていません。会場の片隅で見かけた南部スーダンの美女三人さん)

5年で2軒から1000軒に

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 ジュバの通りの新聞売り場で数紙の英字新聞を買うことができる。そのうちの一つ、シティズン紙を訪ねた。ホテルからバイク・タクシーの助手席に乗って走ること10分ほど。倉庫のような建物の壁面に ”The Citizen” “South Sudan Independent Daily Founded in 2005” という文字が見えた。ジュバで刊行されるようになって5年になるということか。
 インタビューの相手は編集局長のニアル・ボル氏。受付を通って案内されたのは道路から見えた建物ではなく、そのそばの茅葺の伝統的な小屋の方だった。
 「ジュバは今、世界で最も成長している都市だと思います。私たちがここで編集作業を行うようになって5年たちますが、当時はジュバにはレストランは2軒しかなかった。今はホテルやゲストハウスを含めると食事ができる場所は1000軒を超えたと聞いています」とニアル氏は語り始めた。
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 「私も南部スーダン出身です。ジュバ生まれではありませんが、13歳のころからジュバで学校に通っているので、よく知っています。ジュバの人口ですか。100万人ぐらいでしょうか。ただ、ジュバでは今、ウガンダ、ケニア、エチオピアなど周辺の東アフリカから働きにやって来ている人が多くて、彼らを足した人数の方が南部スーダン人の数より多いはずです」。南部スーダンは東アフリカでは珍しい産油地帯を抱えている。レファレンダム(住民投票)後の発展への期待が仕事を求める人々を吸い寄せているようだ。
 スーダンは国土面積で言えば、アフリカ最大。このため、分割されても南部スーダンは約60万平方キロの国土を有しており、日本の約1・5倍の面積に当たる。人口はネットなどでは850万人と紹介されているが、ニアル氏は「少なくとも1200万人」と語った。
 ニアル氏に南部スーダン独立後の青写真を聞いた。「もちろん地上の楽園ができるわけではありません。コラプション(汚職・腐敗)から無縁でもないでしょう。我々の国は内戦やコラプションを抱えた周辺国に囲まれています。そうした影響を受けないはずがない。それで、私は新聞紙上でも訴えているんです。独立後はここの石油を欧州に輸出するのではなく、周辺国への投資に向けるべきと。周辺国の経済がともに発展することが我々の国の安定につながると思うのです」
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 新聞社に来ているのだから、シティズン紙のことを聞かないわけにはいかない。「2005年にスタートした時には部数3,000でした。今は12,000。記者の数で言えば、4人から33人。33人のうち15人は正社員です。今はハルツームで印刷したものを空輸していますが、中古の印刷機を購入したばかりです。間もなく現地印刷ができるようになります。これからますます部数を増やしていきますよ」とニアル氏は語った。
 (写真は上から、編集局長のニアル氏。右の男性も日本ならかなりの長身なのだが、その人が小柄に見えるほどの大柄な男性だった。シティズン紙。右の小屋のような建物に編集局があった。ジュバ中心部の通りの新聞の売店。英字新聞のほかアラビア語の新聞も並べられていた)

学校は木の下だった㊦

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 前回、スーダンは北部と南部が初めから一緒になるべきでないのに単一の国として独立させられたと書いた。それは以下の理由からだ。
 北部のアラブの民は歴史的に南部の黒人の村々を襲撃、奴隷の「供給地」としていた。欧州列強が奴隷貿易を始める前に、アラブの民は黒人を奴隷としていたのだ。南部の人々はスーダンが独立に向かって歩み始めた時、自分たちも協議の場に参画することを求めた。連邦制など南部としてのアイデンティティーを明確にする独立の道があるからだ。しかし、圧倒的力のある北部社会は南部の意向を無視して単一国家としての独立を選択。宗主国の英国とエジプトは南部の願いを汲み取ることはしなかった。
 私はウイリアム氏の話に耳を傾けながら、前々から聞きたいと思っていた別の素朴な疑問をぶつけた。
 「ケニアやナイジェリアなどでは独立後半世紀たっても未だにエスニック(民族・部族)的なしこりが国作りの足かせになっています。トライバリズム(部族主義)を悪用して権勢拡大を図る指導者さえいる。南部スーダンは大丈夫でしょうか」
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 「我々の社会ではそういう指摘は当たりません」とウイリアム氏は次のように解説した。
 「ここには他の多くのアフリカ諸国と同様、二つの系統の黒人が住んでいます。一つはナイロティックの人々で放牧住民です。もう一つはバンツーの人々で定住農業の住民です。ディンカ族、ヌエル族などナイロティックの人々は外見で分かるように、長身痩躯(そうく)が特徴です。我々南部スーダンの黒人はハルツーム政権が部族の分断を図ろうとする企みとも戦ってきました。これからも我々の和が乱れることはありませんよ」
 ウイリアム氏の言葉が現実を反映していることを願う。ただ、一部で早くも最大部族のディンカ族の人々が主要ポストを牛耳りつつあるとの懸念の声を耳にし始めている。
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 ジュバ空港には毎日、沢山の荷物を抱えた南部出身者が各地から帰還している。ジュバ空港と言っても、老朽化した平屋の建物で到着便の案内が片隅の古い黒板にチョークで走り書きされてる。ここがやがては一国の首都の国際空港となるのだ。皮肉っているのではない。それだけ、ここではこれからのインフラ整備が急がれるということを言いたいのだ。和平協定調停後に再開されたジュバ大学のキャンパスにも足を運んだが、施設はどこも老朽化しており、キャンパスのど真ん中に洗濯物を干した学生寮があり、学生たちは「水道から水が出ない。毎日水の確保が大変」と嘆いていた。
 ウイリアム氏が期待する「女子教育」を充実させる教師たちの大半はこのジュバ大学から輩出されていくはずだ。
 (写真は上から、学校から帰る途中の高校生の男女。学校も部族も異なるが、幼馴染とかで仲が良さそうだった。中心部の通りの側溝。ペットボトルのごみの山だった。これからの町作りの大変さがしのばれた。ジュバ大学のキャンパスの学生寮。洗濯物が干されている光景に、70年代に学生生活を送った私は懐かしささえ覚えた)

学校は木の下だった㊤

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 今回の旅で最初に訪問したナイジェリアでもそうだったが、スーダンも初めから一緒になるべきでない南部地域が住民感情を無視され、宗主国から北部とともに単一の国として独立させられたのがこの国の悲劇を生んだ。スーダンの宗主国は英国とエジプトだった。
 「スーダンが独立したのは1956年。我々南部スーダンの住民は独立当初から北部の圧政に苦しんできました。南部を見てください。半世紀以上経過して満足なインフラ一つさえない」とウイリアム・ジャバカナ氏は語る。SPLAの政治組織、スーダン人民解放運動(SPLM)に身を投じ、銃ではなく、教育で南部スーダンの解放運動に従事してきた人物だ。
 1957年に南部スーダンのワオという地で生まれた。誕生した時、SPLAは存在しなかったが、南部住民は自治を求め、ハルツームのアラブ政権に対して武装闘争を始めており、自宅の近くでは銃弾が飛び交っていた。それで、両親は生まれた赤ん坊にジャバカナと命名した。彼らの言葉で「銃弾」を意味する。赤ん坊は後日、教会でウイリアムという洗礼名を受けるが、両親はジャバカナを赤ん坊の名字として残した。
 「私は恵まれていました。ジュバで高校を卒業した後、エジプト政府の奨学金を得て、カイロの大学で教育学を学ぶことができた。その後、英国で修士課程に進み、1987年それが終わるとエチオピアのアジスアベバに飛び、SPLMに加わりました」
 「この時の同志の多くは今、SPLAで偉くなっています。私は教師が天職です。南部を隷属的位置から解放するのは銃だけでなく、子供たちの教育だと当時考えました。それで、今回の和平が成立するまでずっと南部のブッシュ(茂み)に身を潜めながら、教師の育成、子供たちの教育に当たってきました。木の下が学校でしたから、アンダー・ア・トリー・スクール (Under a Tree School)と呼んでいました。命名が良かったのか、海外の多くの援助団体から支援を受けてやってこれました」
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 南部スーダンで政府軍の攻撃をかいくぐって教育活動に奔走する一方、ナイロビに家庭を築いた。子供は16歳から4歳まで4男1女。和平協定の調印を受け、2007年にジュバに戻り、今は和平協定で出来た南部スーダン自治政府の副大統領の下で働いている。
 「手がけたいのは女子教育の充実です。正直言って、南部スーダンでは女子教育はあまり重視されていません。地方の村々では女の子は13歳にでもなれば嫁に出し、持参金として新郎から牛の100頭を受け取る、その程度の存在として見なされています。我々の社会はこの点ではプリミティブ(原始的)です。だから、独立後は女子教育を積極的に推進していきたい。一人の女の子をしっかり教育することは国全体を豊かにすることだと私は思っています」
 (写真は上が、南部スーダンの国作りの希望を語るウイリアム氏。下が、中心部の露天のカフェで靴磨きで生活費を稼ぐストリートチルドレンの子供たち。カメラを向けると、サービス精神一杯のポーズを取ってくれた)

さすがに暑い

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 初めての特派員に出るころ、国際部のベテランデスクから、現地の「におい」(臭いであれ、匂いであれ)が行間から漂ってくるような原稿を書いて送れ、と激励された記憶がある。そうしたにおいを原色鮮やかなマーケット(市場)の賑わいとか通りの混沌などで何とか伝えようとしたが、いかんせん私にはできようはずがなかった。
 スーダンではにおいよりもまず暑さだ。北部にある首都ハルツームのラマダン(断食月)時期の暑さは後にも先にも経験したことがない。早朝、爽やかな水のシャワーを浴び、8時過ぎにホテルを出て通りに出て5分もすると、再びホテルに取って返すことになる。二度目のシャワーを浴び、外に出て、5分も歩くと、またシャワーを浴びたくなる。仕事にならない。そんな感じだった。
 ジュバはそれほどではない。しかし、南アやナイロビの快適な温度に慣れた身には十分暑い。宿泊しているホテルは平屋のコテッジなので、部屋の温度計は日中35度を表示している。地元の人によると、それでも今は季節で言えば、冬の時期であり、3月から5月の夏に比べれば過ごしやすいという。これを冬と呼ぶとは信じ難い。
 こう書くと、ジュバの暮らしはさぞ大変そうだが、実はなぜかそうでもない。木陰に入るとしのぎやすい。湿度がそれほどでもないのと、微風があるからだろうか。
 午後3時ごろから中心部の広場に面した露天の店で紅茶を飲みながら、しばしたたずんだ。周囲にいるのは地元の黒人の人々ばかりではたから見たら、私の存在はきっと場違いだったに違いない。ひげをはやした風変わりな中国人がいるとでも思われていたことだろう。でも、ここでも自分が招かれざる客でないことは空気で分かる。
 地元の英字紙を読みながら、道行く人々を眺める。白装束のアラブの民が圧倒的多数派のハルツームとは明らかに異なる世界だ。時折ものすごく背の高い男の人が通る。ルワンダのツチ族の人も長身だったが、この日見かけた幾人かの人にも目を見張った。おそらく2メートルを超しているのではないか。駆け寄っていって写真を撮りたい衝動に駆られたが、拒絶されることは分かっている。こういうことが重なるとストレスがたまる。
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 近くのイスに座った人が探していた別の英字紙を手にしている。目が合ったので「その新聞を探していました。読み終わったら、私に売ってください」と頼むと、「いいですよ。お金はいいです。読み終わったら差し上げます」。「それじゃ悪いからお茶をご馳走させてください」と言い、お茶代を払う。1スーダン・ポンド。町の両替屋では100ドル=252ポンドだったから、日本円だと35円程度だろうか。
 広場の木の下では年配の男の人たちがプラスチックのイスに座っておしゃべりをしている。昼日中からそんなに話すことがあるのだろうかと思うぐらい、長々とおしゃべりしている。大きなお世話か。
 (写真は上が、ホテル近くの住宅街で出会った物売りの若者。サッカーボールや懐中電灯などを売っていた。下が、広場の木の下で延々と長話に興じる人々)

ジュバ入り

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 ナイロビから空路、隣国スーダン南部の中心都市ジュバに入った。ここにはスーダンの首都ハルツームから飛んだことがある。1988年か89年ごろのことだ。恥ずかしい話だが、ジュバからどういう記事を書いて送ったのか覚えていない。当時はスーダン人民解放軍(SPLA)が激しい反政府武装闘争を展開していた。飛行機はSPLAの対空砲火を警戒し、きりもみ降下しながらジュバ空港に着陸した。
 SPLAが南部住民の民族自決を求めて1983年に決起したのがいわゆるスーダン内戦だ。北部のイスラム教徒であるアラブ住民に支配され続けてきた南部の非イスラム教徒(一部はキリスト教徒)の黒人の人々が北部に反旗を翻した戦いだ。ひところはアフリカ最長の内戦とよく表現された。この内戦は紆余曲折を経て、2004年に和平が実現、南部に自治政府を置くこと、さらには南部の独立の是非を南部住民にゆだねることなどをうたった包括和平協定(CPA)が調印された。
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 その注目の住民投票が年明けの1月9日に実施されるのを前にジュバを訪れた次第だ。ナイロビ空港を飛び立った飛行機が地上の光景が終始目にできる低空飛行を続けること約1時間30分、ジュバ空港に着陸した。途中の風景は土漠とでも呼びたくなるような乾いた大地の連続だった。空港近くになって初めて民家が見えた。アフリカの中心都市なら当たり前の高層ビルの類は目にしなかったような気がする。
 ジュバへの入国ビザそのものはナイロビにある南部スーダン政府の連絡事務所で取得した。事務所にはSPLAをかつて率いた指導者の故ジョン・ガラン氏の肖像が飾られ、来る住民投票の大切さを「あなたは自分自身の国の中で十分な権利を有していない市民として扱われても構わない方に投票したいと思っているのですか」と語った氏の遺訓が紹介されている。
 さて、ジュバを再訪して最初の印象は町が随分大きくなったというものだ。20年以上も前にはホテルを探すのに一苦労した。外国人が泊まれるようなホテルはただ一軒「ジュバホテル」というのがあった。コテッジ風のわびしい宿で、部屋の水道の蛇口をひねると茶色い水が出てシャワーを浴びることなど考えもしなかった。ホテルのオーナーは毎朝、夜にはおいしいスープを出すと言いながら、最後までそのスープは出てこなかった。
 昔話はともかく、ジュバの電話帳のような本をめくると、今は優に30を超えるホテルがあるようだ。若者がタクシーとして走らせているバイクに同乗して町をざっと見学した。町の人々の顔に結構笑顔が見える。私は初めての町では通りや商店の軒先などにたたずむ人の「笑顔の量」でその町(国)の「幸福度」「治安の良さ」などがある程度分かるのではないかと考えている。あくまで個人的な「物差し」だ。
 人々の笑顔が刻一刻と近づいてきた住民投票ゆえのものなのか。あるいは住民投票を超えた先行きに対する期待感を反映したものなのか。
 (写真は、交差点にあった住民投票までのカウントダウンを告知した塔。日数なら25日、時間なら622時間、分で計算すれば3736分と告知されていた)

男子3日会わざれば

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 私が読売新聞ナイロビ支局に勤務していた時は、同業他社は朝日新聞と共同通信がいた。それぞれの支局に地元出身のアシスタントが働いていて、資料整理や会見のアポ取り付け、取材の補足などの仕事を託していた。(読売新聞の支局は今は南アフリカに移動)
 共同通信にはデニス君がいた。今は軽々しくデニス君などと呼ぶのははばかられる思いがする。この間までケニア国鉄の局長をしていたが、今は首相府のアドバイザーの要職にある人物だからだ。当時は支局の部屋が隣同士だったため、普段からよく顔を合わせていたし、日本の習慣や伝統など彼が興味を覚える事柄について質問されたのを覚えている。
 そういう昔のよしみもあり、今回の旅でナイロビに戻るたびに、連絡を取って落ち合い、話を聞かせてもらった。彼の語る話は非常に心強かった。
 デニス氏は47歳。記者生活を経て、政治の世界に身を投じた。1998年には自らの政治理念に基づき政党を立ち上げた。Liberal Democratic Party (LDP)。日本語にすると「自由民主党」になる。「ケニアでは政治理念に基づく政党はそれまで存在しなかったのです。私が実現したいのは民主主義とグッド・ガバナンス(良い政治)。ケニアやアフリカの多くの国々でまだ定着していないものです」とデニス氏は説く。
 彼が旗揚げしたLDPには当時の野党勢力もその後結集し、2002年の総選挙では野党党首のムワイ・キバキ氏(現大統領)を担いで、1978年以来長期政権の座にあったモイ政権を退陣させる下地になった。「我々はキバキ氏に期待した。しかし、残念ながら政権を奪取した彼は旧態依然のトライバリズム(部族主義)にとらわれ、出身部族のキクユ族主導の政治に走った。目指したグッド・ガバナンスからは程遠かった」とデニス氏は語る。
 彼は3年前にその政治理念を実現するべく、シンクタンクを立ち上げた。Institute for Democracy and Leadership in Africa (IDEA) というNGOだ。「ケニアでは政治思想のない国会議員がまかり通っているのが現実です。悲しいかな、当選後は自分や取り巻きが金持ちになることに奔走している。IDEAではそういう政治家ではなく、これからのアフリカ諸国をしょって立つ見識のある指導者を育てることを目指したい」。IDEAの理念に共鳴する動きはアフリア全土に広がりつつあるという。
 デニス氏はモイ政権の末期には身の危険を感じ、家族から離れ隠れて住んだ経験もある。キバキ政権になると今度は大金を積まれたり、アジアの有力国の大使への任命を打診されたりして「身内」になるよう迫られたが、政治信条を裏切るわけにはいかないと拒絶した。
 「我々がやらなければならないのは有権者に投票によって政治を変えることができるということを教育していくことです。トライバリズムを利して議席を得ようとか政治的優位な立場に立とうとするような政治家は排斥されなければなりません。ケニアの有権者はこのことが段々と理解できるようになっている。私はそう思っています。我々は同時にIDEAの理念を共有する政治家を国民に知らしめる責務があるとも考えています」
 (写真は、ケニアのそしてアフリカの政治を変えたいと語るデニス氏)

メードとの再会

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 再びナイロビ。ベースキャンプのようなものだ。住めば都とはよく言ったもので、昔も今もここに戻って来ると、心が落ち着く。
 ナイロビ特派員時代に住んでいた家に住み込みで働いていたメードとふとしたことで再会することになった。セーラ。20年の歳月が経過しているから、今では40歳代のおばちゃんになっているはずだ。電話をした。受話口から元気のいい声が返ってきた。「ミスター・ナス。懐かしいわ。本当に久しぶり!」といったような感じの言葉が響いてきた。
 「セーラ。元気そうで何より。お茶でも飲もう」と誘って、後日、近くのカフェで待ち合わせた。少し太ったけど、ほとんど変わりのない風貌で、彼女はやってきた。
 「暮らしはどう? 子供たちはどうしている?」
 「まあ、何とかやっています。子供は二人。上の男の子を肺炎で8年前に失った。下の男の子が22歳になるけど、経理の勉強をしていて、この子に希望を託している」と今もメードの仕事をしているセーラは饒舌に話した。雇い主とメードの関係だった昔はこんなに気さくに話すことはなかった。
 日本人に限らないが、アフリカで暮らす外国人は自宅でメードや警備員、庭師といった仕事に地元の人を「薄給」で雇っているケースがほとんどだ。私も当時、セーラのほか数人を日本のレベルから見れば「申し訳ない」お給料で働いてもらっていて、当初は複雑な思いをしないわけではなかった。それが地元の人々の雇用につながっているのではあるが。
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 「セーラ、私は当時、あなたにいくら払っていたのだろうか。覚えているかい?」
 「1500シルから2000シルの間かしら。でも、当時はいいお給料だったわ。だって10シリングあれば、(住み込みの)家から町までバスで出て、チップス(ポテト)を食べて、それでまたバスで帰ってこれてたもの。今はそういう風にはとてもいかない」
 こう言われて、正直、少しほっとした気分にはなったが、それでも、彼女たちが今も苦しい生活を余儀なくされていることに変わりはない。ケニアの通貨、シリング(シル)は私がいた当時は1シル=10円の価値があった。今は、ほとんど、1シル=1円に近い感じだ。地元紙が当時、一部3シルだったのが、今は40シル。物価はざっと10倍以上になっている。セーラのような一般大衆の稼ぎはそれに見合って上がっていない。
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 私の旅も残り少なくなったので、日本から持参した品々で不用になったものを彼女に上げようという考えがあった。別れ際にそうした不用品に加え、ささやかな額のお金を手渡した。「サンキュー、ミスター・ナス。クリスマスに田舎に住んでいる母にお土産を買って帰れるわ」と彼女はとても喜んでくれた。私にはこんなことをしている「余裕」など本当はないのだが・・・。
 (写真は上から、再会を喜んでくれたセーラ。12月12日はケニアの独立記念日。お祝いの式典が催された会場でこの写真を撮った直後に、警備担当者に外に出るよう求められた。招待客でないので仕方ない。会場の外でお祝いの記念撮影をする人々)

サンキュー、ピーター

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 ヨハネスブルク最後の日はやはりこれをせずにはいられない。ヨハネスでは初のゴルフだ。(ゴルフに興味のない人はご容赦ください)
 幸い、宿にしているリボニアB&Bの近くにゴルフ場があった。例によって電話を入れ、貸しクラブはあるか、ジョギングシューズでプレーさせてくれるか、尋ねた。「OK」というので出かけた。ケニアやナイジェリアに比べ値段は高めだったが、文句は言えない。早速コースに出た。
 月曜日というのにとても混んでいた。自分としてはキャディーをつけてもらい、ゆっくり一人でプレーを楽しみたいと思っていたが、白人の若者4人が順番待ちをしているティーグラウンドに連れていかれ、「今すぐドライバーを打ってくれ。それで、前にいる2人組みと一緒にプレーしてくれ」と言われた。準備運動などもってのほかで、キャディーに渡されたドライバーを振っただよ。当たっただ。野球のゴロのように走っただ。
 自虐的表現はこれくらいにして、フェアウエイにいた二人の黒人男性のグループに加えてもらった。ピーターと名乗った一人は地元の元プロゴルファーで今はレッスンプロとして教えているとか。64歳になると言っていたが、いや、さすがに飛ぶ。パー5はほとんどツーオン。もう一人の男性はピーターに教えてもらっているとかで、こちらはピーター以上に飛ばす。
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 私は多少、恥じ入りながら、そう飛びもしない、左に曲がるばかりのドライバーを打っていた。そうしたら、ピーターが「ショウ、もう少しゆっくり振ったらいい。あんたは自分で考えている以上に上手だ。何年もやっていることはスィングを見れば分かる。ダウンスィングをゆっくりするんだ」とアドバイスしてくれた。
 彼の言う通り、気持ちを落ち着け、ゆっくりクラブを振り下ろしたら、あれ、真っ直ぐ、しかも結構距離も出るではないか。ピーターからは「それがゴルフ・スィングだ」とほめられた。それからはドライバーだけでなく、アイアンもよくなり、その後はパーが三つ、ボギーをいくつかで自分としては久しぶりにいいプレーが出来た。
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 いや、これは良かった。自分のゴルフがこれで本当に変わるかもしれない。プレーを楽しんだ後、ピーターに「一杯、ご馳走させてくれ」と言葉をかけ、ゴルフ場をのぞむ、クラブハウスのレストランのテラスでビールを飲みながら、彼が来るのを待った。近くにいたのはほとんどが白人の人々だった。「来る」と言っていたピーターはついに来なかった。周囲にいたのが白人だけで、気後れがしたのか、なんなのか、理由は分からない。急に用事が出来たか、気が変わったのかもしれない。彼に改めてお礼の気持ちを伝えたかったのだが。
 (写真は上から、美しいゴルフ場だった。フェアウエイの向こうにはビジネス街のサントンが見える。一緒にプレーした人たち。途中から一人増えた。一番右がレッスンプロのピーター。プレーの後は地元の生ビール。ピーナツはサービスだった)

南ア経済

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 ヨハネスブルクに「南ア人種関係研究所」(SAIRR)というシンクタンクがある。南ア取材ではよくここを訪ねていた。今回の旅でも、このシンクタンクのセミナーが催されていたので、二度ほど足を運んで南アの政治・経済の現状について勉強させてもらった。
 経済に関するセミナーでは4人のエコノミストや大学教授らが卓見を披露。その内の一人、エコノミストのマイク・シュスラー氏の話は門外漢の私にも理解しやすいものだった。金やダイヤモンドなどの地下資源に恵まれ、アフリカ一の経済大国ながら、同氏は南ア経済がいびつであることを税収の面から次のように説明した。
 「南アは狭小な税収基盤にあえぐ国の一つです。人口約5千万人のこの国で納税登録をしている国民は590万人に過ぎません。さらに所得税にせよ法人税にせよ、この内、わずか130万人が税収の75%を担っています」
 シュスラー氏にもう少し話を聞きたくて、ヨハネス郊外ランドバーグにあるオフィスに足を運んだ。
 民主化から16年。南ア経済の一番の問題は何でしょうか。
「この国の成人人口は3200万人。それに対し、従業員を4人以上抱えている会社・商店・工場・事業所の数は30万1千。これでは足りません。どうやって就業の場を増やしていくのか。これが喫緊の課題です。政府は今後10年で500万人の雇用を創出すると言っているが、どうやってそれが可能なのかは明らかにしていません。労組団体も雇用の創出、賃上げの要求をしているが、どうやって可能なのかまでは語れない」
 どこかで、この国は働くよりも社会保障で暮らしていくことを欲する人が多いのが問題だという新聞記事を読んだ記憶があるのですが。
 「わが国の現在の就業者数は1300万人。これに対し、子育て、障害者、年金など何らかの社会保障を受けている人の数は1430万人に上ります。これでは国の財政がやっていけないことは説明するまでもないでしょう。社会保障費に上限を設ける一方、就業者を拡大する必要に迫られている次第です」
 「一つだけ強調して置きたいのですが、南アの大多数の人々は働くことを願っています。ただ、最近は気になる風潮を耳にすることも事実です。例えば、農場などで働いてきた季節労働者が以前のように働くことをいやがる。収入は減っても、ある程度の社会保障を手にできれば、そっちを選択するという風潮です。これはゆゆしき事態と言えます」
 ヨハネスで時々コーヒーを飲んでいたカフェで働くウエイトレスの黒人女性は「あたしの月の稼ぎは3500ランド(約3万9千円)程度。子供が二人いるけど、いい教育を受けさせることだけが夢だよ」と語っていた。こういう人がやる気をなくす社会にしてはいけないし、そうならないことを心から願う。
 (写真は、シュスラー氏。柔らかい表情にしたいから話し続けてと要望したら、こんなユーモラスな仕草をしてくれた。机の上には妻子と一緒の写真。ご家族ですかと尋ねると、そうです、結婚が遅かったもので、子供はまだ3歳ですと微笑んだ)

「エイズは治療できる病気」

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 今月1日が世界エイズデーだったこともあり、このところ、エイズ関連の記事や番組をよく見かける。サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカでエイズが深刻な問題であることは今更言うまでもない。南アもしかりだ。HIV(エイズウイルス)感染率では南アを上回る国はあるが、人口約5千万の大国ゆえ、感染者数で言えば世界一だろう。
 最近発表されたエイズ関連の統計では、この国の推定HIV感染者数は約560万人。15歳から49歳の年齢層の17.8%に当たるという。昨年、エイズで死亡した人は31万4千人。その大半は成人でこの結果195万人が孤児となったと見られている。単純計算で毎日900人近い人がエイズで死亡していることになる。家庭や社会経済の中枢を占める人々がこれだけの割合で死んでいけば、国家としての損失はいかばかりか。
 希望があるとすれば、妊産婦の間での感染率がこの4年ほど、29.2%程度に「安定」してきていること、ARVと呼ばれる抗レトロウイルス薬の治療を受ける人の数が増えてきていることだという。
 クワズールー・ナタール州のダーバンに滞在していた時、郊外にあるヒルクレスト・エイズセンターを訪れた。そこではHIV感染の有無を調べるチェック、感染が判明した人の治療、相談などのほか、感染者が出た家族を経済的に支える活動を展開していた。その中でも印象に残っているのが、センターに集う女性たちが「リトル・トラベラー」という名のビーズの可愛い人形を作っていたことだ。これを持って世界を旅行し、人々にエイズに対する注意を喚起して欲しいという狙いだが、人形の売り上げ自体がセンターで活動する感染者及びその家族に対する大きな支えとなっている。
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 私は「少女趣味」は全くないと思っているが、これらの人形をセンターの売店で目にした時は、買わずにはおれなかった。値段は1個20ランド(約220円)から30ランド。センターで案内してくれたクローディアさんは「可愛いでしょ。すごく人気があるんです。リトル・トラベラーというぐらいですから、“パスポート”と一緒に売っています。インターネットでも購入できます。ぜひ、日本の方にも紹介してください」と語っていた。
 センターがあるクワズールー・ナタール州は南アの中でもHIV感染率が最も高い地区。クローディアさんは「問題なのはエイズに対する偏見です。感染者は恥辱と見なされ、家族や地域から疎まれる。私たちはそうした偏見をなくすことも訴えています。エイズは今やARVなどで治療できる病気(a treatable disease)です。HIVに感染した妊産婦から生まれた赤ちゃんだって健康に育つことができる。我々のセンターに来る感染者の半数以上は絶望の淵から立ち直り、将来の希望を抱いて出て行ってます」とうれしそうに話した。
 「リトル・トラベラー」のホームページのアドレスは次の通り。どうぞご覧あれ。
 http://www.littletraveller.org.za/
 (写真は上から、ヒルクレスト・エイズセンターで売っているリトル・トラベラー。私が購入したリトル・トラベラー。「ワザ・モヤ」はズールー語で「聖霊よ来たれ」の意味)

再びヨハネス

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 ケープタウンから再びヨハネスブルクに戻ってきた。何と言うべきか、ある種の虚脱感に襲われている。ケープタウンは周辺のタウンシップを視野に入れなければ、南アとは別の国だ(とさえ思う)。どこかでヨーロッパの都市のようだと書いたかもしれないが、ヨーロッパなど問題ではない。
 まず、気候が素晴らしい。湿気が少ないから、ほぼ一日中爽快な気分で過ごせる。白い雲がかかっているテーブルマウンテンの眺めはいいし、目を転じれば、大西洋の海が見える。昼下がり、カフェに座って読みかけの本や新聞など読んでいれば、時間を忘れてしまう。正直に言うと、このままずっとケープタウンに居座りたいと思った。日本で仕事が待っているわけでもないし、このアフリカの旅もきちんとした旅程があるわけではない。
 ただ、南アからナイロビに一旦戻るケニア航空の便を来週初めに取ってあり、さすがにこれはお金のこともあるので、無駄にするわけにはいかない。ならば、ぎりぎりまでケープタウンにいようかと考えたほどだった。しかし、ヨハネスでインタビューを予定している人もいたし、やはり、いつまでも「極楽気分」に浸っているわけにはいかない。実際にはない「後ろ髪」を引かれる思いでヨハネスに戻ってきた。
 ヨハネスの人々でも、黒人の人々はケープタウンに行ったことのない人が多いのだろうと思う。海を見たことがないとも表現できる。ヨハネスでよく利用しているタクシー運転手のモーゼス氏はしきりにケープタウンのことを聞きたがった。「そうか。良かったか。俺の妹は結婚してケープタウンに住んでいるが、俺はまだ一度も行ったことがない。妹はヨハネスに戻りたいなどと言ったことがないから、いいところなのだろう。一度は行ってみたいと思っているんだ」と空港からホテルへの道すがら話していた。
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 南ア滞在も残り少なくなってきたので、本日夜、ソウェトに住んでいるズング夫人をホテルに近いレストランに招いて一緒に食事した。「ナス、ケープタウンはそんなに良かったか。あたしはいい思い出はないけどね」と彼女は興味なさそうに応じた。すっかり忘れていた。彼女は夫のモファットが獄中にあった1970年代末から80年代にかけ、毎月ケープタウンに行き、沖に浮かぶロベン島の刑務所に収容されていたモファットを訪ねていたのだ。
 食事の途中から、モファットの昔の同僚、ウイリー氏も加わった。ソウェタン紙のデスクをしている彼は私が同紙にモファットの消息を尋ねた時、電話口に出てくれた人だ。彼自身もかつては白人政権から反政府活動に従事しているとしてモファットとともに投獄されたことがある。私より2歳年長の彼とは初対面だったが、長年の知り合いでもあるかのように話に花が咲いた。ズング夫人はレストランの食べ物の値段が高過ぎるとぼやくことしきりだったが。
 (写真は上が、ケープタウン中心部のグリーンマーケット広場。観光客がカメラを見える形でぶら下げて歩けるのもこの都市ぐらいかもしれない。ズング夫人とウイリー氏)

カラード(混血)

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 ケープタウンで夕刊紙の「ケープ・アーガス」を訪ねた。編集局長とのインタビューを取り付けていた。編集局長室に案内されていささか驚いた。あまりに若々しい人だったからだ。ハサント・アバダー氏。年齢を尋ねると32歳だという。私はこの年齢の時、新聞社の国際部で一番下っ端の記者として忙しく(忙しそうに)動き回っていた。
 私の口から出た最初の質問は失礼ながら、「今の要職にはどういう経緯でおつきになったのですか」というものだった。
 「私はケープタウンで育ちました。先祖は植民地時代に東南アジアから奴隷として連れて来られました。アパルトヘイト(人種隔離政策)の人種区分で言えば、カラードのグループに属します」とアバダー氏は語り始めた。ケープ・アーガスは1857年の創刊の新聞。「私のような者がこの新聞の編集局長をしていることなどアパルトヘイトのころには考えられなかったことでしょう」
 アバダー氏はネルソン・マンデラ氏が獄中から釈放され、南アがアパルトヘイトから民主化の道を歩み始める1990年代前半に「エキサイティングな高校時代」を送り、その経験がジャーナリストになることを決意させ、大学でも政治学とともにジャーナリズムを専攻した。「南アには特にこのケープタウンにはまだまだ語られていない話が多々あります。だから、ジャーナリストになりました」
 このブログでしばしば、エスニシティー(民族・部族)のことに触れてきたかと思う。非常に微妙な問題であり、あまりこの種のことにこだわりたくない気持ちはあるのだが、アフリカを考える時、避けて通れない事柄の一つだ。国内で政治的対立が起きた時、一般大衆の怒りが時として自分たちと異なるエスニシティーに対する理不尽な暴力となってきたことは、アフリカの歴史が物語っている。
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 南アのアパルトヘイトはエスニシティーを否定的にとらえた極論だ。「南アは黒人が多数派」という現実を覆い隠すため、黒人もズールー、コザ、ソト族など言語や風習の違いに沿って複数のエスニシティーに分類された。インド亜大陸の出身者はアジア人として、東南アジアからの移住者と白人、先住民との混血で誕生した人々はカラードとして区分けされた。
 カラードの人口は現在、白人と大差のない約450万人。ケープタウンがある西ケープ州に限って言えば、黒人を上回る多数派だ。アバダー氏は過去よりも未来志向を強調した。「私の妻は白人です。これもアパルトヘイト時代だったら、(雑婚禁止法で)私は犯罪者だったでしょう。子どもが二人いますが、私は自分の子供たちにカラードの歴史を重荷にするつもりはありません。彼らには南アフリカ人として、アフリカ人として、誇りを持って生きていってもらいたい。この国には希望があります」
 (写真は上から、ケープ・アーガスのアバダー編集局長。ケープタウンにクリスマスシーズン到来を告げる夜の灯りが点灯された。写真を撮ってと元気良く駆け寄ってきた4人の美少女。2人は明らかにカラードの風貌をしている少女だ)

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