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ハインド夫妻

  • 2010-12-29 (Wed) 03:35
  • 総合

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 ロルダイガ農場の歴史を説明しなければならないかとも思う。以下はお世話してもらっている文美さんから聞いた話を簡略にまとめたものだ。
 農場の創設者は英国人のハーリー・ダグラス・ハインド氏。1901年生まれ。英ケンブリッジ大卒後、ニュージーランドの大学で農業を学び、英国が植民地にしていたケニアに渡航。世界大恐慌前の27年に英政府からロルダイガの土地を借り受け、農場を開いた。妻のセシル夫人は1904年生まれ。ケンブリッジ大の学生時代にハインド氏と知り合い、結婚後、ロルダイガ農場で新生活を始める。
 ハインド氏が農場を開いた当時はまだ、ケニアの黒人社会で本格的な反英闘争は起きていなかったが、50年代に入ると、キクユ族の人々を中心とする人々がマウマウ団と呼ばれる反英武装組織を結成。当初は土地奪還闘争だったが、後に独立運動に発展していった。ロルダイガ農場にもマウマウ団の襲撃に備えたお城の篭城塔のような砦が残っている。
 ハインド夫妻はそうした歴史にもまれながら、ケニア独立後も農場を経営。降雨量が年間500ミリに満たない乾いた大地が延々と続くロルダイガでは農場経営は至難の事業だったことは容易に想像できる。牛車とシャベルで土を掘り起こして雨水をためるダムを作り、潅木や藪を切り開いて家畜が食べる草を育てていった。
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 ハインド氏は牛の品種改良の腕で知られ、特にボラン牛では数々の優れた種を作り出した。ハインド氏が1978年に死去したのを受け、夫妻の孫に当たるロバートさんが3年後にその跡を継いだ。文美さんは野生動物の研究で農場を訪れたのが縁でロバートさんと出会い、91年に結婚した。
 ハインド夫妻が質素な生活をしていたことは今も当時のままに残る家からうかがえる。暖炉の煙でいぶされたふきねけの屋根は黒光りしている。本棚には背表紙に歴史が刻まれた書籍が並ぶ。セシル夫人が93年に死去後、文美さんたちはこの母家に移った。文美さんは「私はセシル夫人の晩年の4年間を一緒に過ごすことができました。きっぷのいい素敵な女性で、昔の話をよく聞かせてもらいました。当時飼っていた豚が病気で全滅して、彼女は豚の体重を量る仕事をしていたのですが、その後はハインド家にやって来るお客さんの体重を豚の仕事で使っていた体重計で量り、お客さんが必ず来た時より太って帰るようにした話などを笑って語ってくれました」と振り返る。
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 夫妻がかつて住んでいた家は今は発電機などで電力があり、井戸を汲み上げた水道水もある。当時は今では考えられないような生活だったのだろう。「セシル夫人は土曜日の夜に限り、ご主人と一瓶のビールを分け合って飲んでいたそうです。ロルダイガの自然が野生動物とともに残り、今があるのは夫妻のような方たちがいたからだと思います」
 (写真は上から、ロルダイガ農場の高台から周辺の高原を望む。右手向こうは雨が降っているのが分かる。ハインド夫妻が眠る墓地。ここからの眺めも素晴らしい。ハインド夫妻が住んでいた家の居間。壁の野生動物のはく製にも歳月を感じる)

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