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テネシー・ウィリアムズ (Tennessee Williams)②

  • 2011-11-12 (Sat) 04:23
  • 総合

 ウィリアムズは1911年にミシシッピ州の町コロンバスに生まれた。2歳上に仲のいい姉がいたが、彼女は若くして精神を病み、彼の人生に影を落とすことになる。1944年に発表して大ヒット、劇作家としての道を確立する作品 ”The Glass Menagerie” (邦訳『ガラスの動物園』)に登場する、劣等感から現実の人生を恐れ、ガラス細工の世界に逃避する気弱な女性ローラは姉をモデルにしているとされる。
 ウィリアムズ自身は幼少時から体が弱く、14歳にして、作家の道を志したという。手元にある米文学案内の小冊子では、自分がゲイ(同性愛者)であると告白して著作活動に励んだ最初の時期の作家であると記されている。
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 その彼が愛して長く住んだのが、ニューオーリンズの町だった。その理由はここに来て理解できたような気がする。何人をも受け入れる土壌がここにはあるように感じるからだ。実際、この都市の「観光課」のような部局を訪ね、担当者のジェニファー・デイさんにいろいろ話をうかがっていたら、彼女はこう語った。
 「テネシー・ウィリアムズはゲイでした。ここはさまざまな個性を受容する風土が昔からあるのです。彼が南部の保守的な町からここに来て、一人の人間としてありのままに生きる喜びを感じたのはごく自然の成り行きだったと思います」
 だいぶ前に「ミズーリー歴史博物館」の項で書いたが、アメリカはニューオーリンズを含むミシシッピ川の一帯を1803年にナポレオン治下のフランスから「ルイジアナ購入」と呼ばれる買収で入手する。アメリカはミシシッピ川を越え、西海岸への領域拡大を狙っており、一方、ナポレオンはこの一帯が憎きイングランドの手に渡るよりは親仏国のアメリカに売却することを選択した。米国領土はこの買収で一気に二倍に拡大した。
 ルイジアナは南部の州であり、黒人奴隷が辛酸をなめた地であることは言うまでもない。南北戦争後も白人の保守層は黒人の権利拡大を頑なに拒否、人種衝突で多くの黒人が惨殺されている。フレンチクオーターにあるルイジアナ州立博物館を訪れると、そうした悲惨な歴史が紹介されている。しかし、ニューオーリンズの人種的、文化的多様性は当時から傑出していたようで、1853年にここを旅した欧州人の感想が展示してある。「あらゆる人種の人々が混在していて、食べ物、習慣、マナー、考え方も多種多様」と記されている。
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 ジェニファーさんは、ニューオーリンズが伝統的に異文化に対して寛容なのは、ここを支配したフランスやスペインのカトリック教の影響も大きいと指摘する。「プロテスタントの人々が酒を遠ざけ、質素な生活を志したのに対し、カトリックの人々は酒を楽しみ、ダンスに興じ、新たに来た人々を歓迎した。その伝統が現在に至るまで息づいているのだと思います。ニューオーリンズでは毎週のようにフェスティバル、パーティーがどこかの通りで催されています。こういう都市は他にはないでしょう」
 (写真は上が、ルイジアナ州立博物館。下が、フレンチクオーターのお店の一軒に飛び込んだら、カラオケバーだった。安くていい店だったが、私よりひどい歌い手もいた)

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