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October 2011

「充電完了」

null 「勝手知ったる」とまでは言わないが、かつてお世話になったことのあるヒックス夫人の家に来て、この6日間ほどゆっくりさせてもらった。食事付きである。ただである。友人の母親の家とは言え、やはり、国籍が違えば、多少は遠慮はある。気兼ねもしようというものである。だが、実家に帰ってきたように気持ちよく過ごさせてもらった。
 天候にも恵まれた。インディアンサマーとはこういう天候を言うんだろうなあと思いながら過ごした。ヒックス家はラグレインジ大学のすぐ近くにある。大学にも何回か足を運んだ。昔住んでいた寮は記憶に残っていたが、ほかはあまり覚えていない。この大学は学生数は千人ぐらいの小さな規模の大学だ。私が在籍していた時は日本人は私のほかに年上の女子学生が一人いただけだった。学生課のようなところに行って尋ねたら、今は一人だけ日本人学生が在学しているとのことだった。
 実は “Gone with the Wind” を読んでいて、LaGrange Female Institute という表現が出てきて驚いた。大学はその昔は女子専門学校のようなところだったようだ。
 さて、「充電」ができたところで、また、旅に出なくてはならない。あと少なくとも3人の作家のゆかりの深い場所を訪ねたいと思っている。まずはグレイハウンドの長距離バスに乗って、テネシー州のメンフィスを目指す。そこで一泊して、南隣のミシシッピ州のオックスフォードという町に行く予定だ。レンタカーを運転せず、飛行機にも乗らず、列車かバスの旅だから、公共交通機関の不便なところに行くのは並大抵ではない。本来ならメンフィスまで足を延ばすことはないのだが、これがネットや電話で悪戦苦闘の末にようやく見つけたアトランタからオックスフォードへの「足」だった。
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 それにしても、ヒックス夫人にはすっかりお世話になった。いや、過去形にはまだできない。何しろ、重いスーツケースはヒックス家に置かせてもらい、予定通り事が運べば、11月下旬にはまたここに戻ってくるからだ。それから帰国に向け、改めて西海岸に向かうことを考えている。
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 ヒックス夫人が93歳になることはすでに書いたが、いやはや、とても元気だ。昨年のアフリカの旅でも110歳のおばあちゃんに再会したが、ヒックス夫人の場合は車を運転してショッピングに行き、朝から晩まできちんと家族の食事を作り、なおかつ、私は触ったことのないアイパッドとかいう最新の機器を自由自在に楽しんでおられる。脱帽!
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 ラグレインジは近くに「キャラウェイガーデン」という広大な自然公園がある。このガーデンにも車で連れて行ってもらった。車を降りても杖なしで歩いておられる。普段食しておられるのは普通のアメリカ人が食べているものである。そう考えると、健康をつくるのは食べ物だけでなく、生き方、考え方にあるのかなと思わざるを得ない。私など夫人から見ればまだひよっこみたいなものだろう。羽も毛もないが。
 (写真は上から、ヒックス家。車を運転して買い物に出かけるヒックス夫人。キャラウェイガーデン。紅葉のピークではなかったが、目の保養になった。庭園では菊も満開に)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)⑤

 ミッチェルは1900年にアトランタに生まれた。1949年、自宅近くを夫と歩いていて車にはねられ死亡。48歳の若さだった。“Gone with the Wind” は生涯ただ一つの作品だった。作品が発表された翌年の1937年に栄えあるピュリッツアー賞を受賞している。
 彼女が描いたスカーレットの魅力は決してあきらめない心の強さだ。それがよく表現されているのは、スカーレットが戦火のアトランタからタラに戻り、故郷が北部軍に無残に破壊され、最愛の優しい母親は既に死亡、父親も生ける屍のように気力を失っている現実に直面した時であろうか。食べるものもろくにない状況。あるのは荒廃と飢餓の危機だ。
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 Hunger gnawed at her empty stomach again and she said aloud: “As God is my witness, as God is my witness, the Yankees aren’t going to lick me. I’m going to live through this, and when it’s over, I’m never going to be hungry again. No, nor any of my folks. If I have to steal or kill—as God is my witness, I’m never going to be hungry again.” (飢餓感が彼女のすきっ腹を再びさいなんだ。彼女は声に出して叫んだ。「神に誓って、神に誓って、私はヤンキーたちに負けなどしない。私は生き延びて見せる。これが終わったら、二度とひもじい思いはしない。そう、私の一族郎党に決してひもじい思いなどさせはせぬ。たとえそのために物を盗んだり、人をあやめたりすることになったとしてもだ。神に誓って言う。私は二度とひもじい思いをしない」)
 父親のジェラードは21歳の時にアイルランドからやって来て、無一文の身からタラの農園主となった男だった。小説の冒頭部分で農園を継承することなどどうでもいいと言う長女のスカーレットにジェラードは怒って次のように諭す。”Land is the only thing in the world that amounts to anything, for ‘tis the only thing in this world that lasts, and don’t you be forgetting it! ‘Tis the only thing worth working for, worth fighting for—worth dying for.” (「土地はこの世で価値ある唯一のものだ。永久に続くものは土地の他にはありはしない。忘れてはならないぞ。そのために汗を流し、戦う価値のある唯一のものなんだ。命をかける価値のあるものなんだ」)
 ミッドウエストを舞台にウィラ・キャザーが描いた開拓者の小説でも酷似している記述があった。そういう意味ではアメリカらしい小説と言えるだろう。
 私は映画では夫のレットを愛していることに初めて気づいたスカーレットが、彼女に愛想をつかして立ち去る彼を引き留めようとするシーンが印象に残っている。レットはスカーレットの懇願を一蹴して別れ際に言い放つ。”Frankly, my dear. I don’t give a damn.” (正直言って、お前さんがこの先どうなろうと俺の知ったことじゃないよ)。小説では、単に ”My dear, I don’t give a damn.” となっているが。
 それでも彼女はへこたれない。小説は ”I’ll think of it all tomorrow, at Tara….After all, tomorrow is another day.” という彼女がよく口にする言葉で終わっている。
 (写真は、タラのモデルとなった著者の祖父母の家を描いた絵=タラへの道博物館で)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)④

 これまでに何回か引用してきた参考図書の小冊子 “Outline of American Literature” ではなぜか、“Gone with the Wind” を取り上げていない。著者のマーガレット・ミッチェルについても一言も言及していない。本来なら、20世紀中葉の米南部の作家の一人として紹介されてしかるべき作家であり、作品だと私は思う。
 私がかつて在籍したラグレインジ大学で英語学を教えるジョン・ウィリアムズ准教授に尋ねた。彼は同じ時期に生きた同じ南部の作家であるウィリアム・フォークナーの作品に比べればその「差」は歴然としていると語った。
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 「フォークナーの作品の登場人物は深みがあります。これに対し、ミッチェルが描いている人物は南部のステレオタイプの人物像です。ミッチェルは南部の神話を切り崩したり、挑戦しているのではなく、この作品で彼女自身が南部の神話の一部になってしまった」
 「もちろん、物語としては優れた作品です。上質のエンターテインメント作品です。映画を通して作品のことを知らない人はいないでしょう。米社会に大きな足跡を残した大衆文化であることは間違いない。そういうとらえ方をすべき作品だと思います」
 ゲティスバーグの南北戦争の史跡を見学していた時、一冊の短い回想録に遭遇した。”At Gettysburg, or What a Girl Saw and Heard of the Battle”。著者はゲティスバーグで暮らしていた当時15歳の少女で、激戦の25年後の1888年に書き残された冊子だ。北部に属していた少女には進軍してきた南部軍はどう映ったかが淡々と綴られている。
 What a horrible sight! There they were, human beings! clad almost in rags, covered with dust, riding wildly, pell-mell down the hill toward our home! shouting, yelling most unearthly, cursing, brandishing their revolvers, and firing right and left. ( 何という光景だったでしょうか。ぼろをまとい、ほこりにまみれ、荒々しく馬にまたがり、隊列などめちゃくちゃになって丘を下り、我が家に向かってやって来ていたのです。まともな人間にはとても見えませんでした。彼らは口々に何か叫んでいました。この世のものとは思えない言葉や罵りの表現でした。彼らは拳銃を振り回しながら、右に左に発砲していました)
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 ミッチェルが “Gone with the Wind” の中で北部軍兵士をモラルのない野蛮な連中とこき下ろしているのに対し、ゲティスバーグの少女の目には南部軍の兵士がまさにそのように映っている。南北戦争は1865年に北軍の勝利で終結。しかし、南部の人々がその後も、北部からやってきた人々やこれに取り入った同胞により、さらに困窮の暮らしを余儀なくされたことは、小説が描いている通りだろう。だから現在に至るまで、南部の人々のいわゆるヤンキー嫌いが続いているかに思われる。ほんの150年前の出来事である。
 (写真は上が、米南部の文学について話してくれたウィリアムズ准教授。下は、アトランタの歴史センターで催されていた、南北戦争にまつわる展示。このパネルには「南部の人々は連邦を離れ独立する当然の権利があると考えていた」と記されている)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)③

 『風と共に去りぬ』にまつわる記念館はアトランタ以外にもある。南に約30キロ走ると、ジョーンズボロという町があり、ここに “Road to Tara Museum” という名の小さな博物館が立っている。『風と共に去りぬ』の小説、映画に関するアイテムのコレクターで知られるハーブ・ブリッジズさんが長年かけて収集してきたものが展示されている。
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 この町に乗客を乗せる列車が走っていたころの駅舎を活用した博物館だ。電話で連絡していたので、ハーブさんがにこやかに出迎えてくれた。82歳。かつては郵便関係の仕事に就いていたとか。
 一説によると、“Gone with the Wind” は今なお毎年25万冊以上が世界各国で(翻訳)出版され続けており、これは聖書に次ぐ数字だという。博物館ではそうした各国での出版本や、映画で使われた衣装、南北戦争関連の品々などが展示されている。ハーブさんがかかわり、日本の某有名デパートが日本全国で催した展示会のポスターも目についた。
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 映画でおなじみのスカーレットの等身大の写真も展示されていた。今回初めて知ったのはスカーレット役の女優、ビビアン・リーが意外と小柄だったことだ。等身大の写真と向き合ってみると、私の方がほんの少し背が高い。ますます「好感度」を深めた。そう言えば、アトランタの「マーガレット・ミッチェル邸」の受付にいた女性スタッフが「彼女は5フィート3インチぐらいだったかしら」と語っていた記憶がある。私は5フィート4インチぐらいだから、計算は合う。彼女のあの生気にあふれた演技は日本人女性でも今では小柄な部類に属する体から発せられていたのだ。
 一通り見学を終えた後で、ハーブさんに尋ねた。
 「いつごろから、収集されたのですか?」
 「1960年代末です。私もジョージア州生まれですから、地元の作家の作品が世界中で脚光を浴びるのに興味を覚え、映画にまつわる品々を含め、集め始めました。このように一般に公開するようになったのは80年代末からですが」
 「私は小説を読んでいて、登場人物が黒人を猿扱いしている発言やKKKに関する記述に正直驚きました。黒人社会から見れば容認できない表現ではないでしょうか?」
 「それはその通りでしょう。ただし、彼女があの作品を執筆していた当時はああいう表現が当たり前だったのです。何の不自然さもなかったのです。私はあの作品をそうした歴史を踏まえて読んで欲しいと願っています」
 ハーブさんの博物館の名前にもなっている「タラ」という地名は作家が考え出した架空の地に過ぎない。博物館の周辺はのどかな雰囲気で、なるほど「タラへの道博物館」と名乗るのにふさわしいと思った。残念なのは旅客列車やバスの便が一切なく、私のような観光客には来訪するのが一苦労することだ。
 (写真は上が、展示品を前にしたハーブさん。博物館自体は地元のクレイトン郡観光局が運営している。下が、展示されている映画や劇のポスターの数々)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)②

 アトランタにある「マーガレット・ミッチェル邸」及び記念館では、1939年制作の大ヒットした同名の映画 “Gone with the Wind” の難航した俳優選考の逸話や撮影の苦労話などをビデオやパネルで紹介している。
 同年12月15日にアトランタの劇場に出演の俳優、スタッフが集い、この映画は封切られ、アトランタは歓喜に包まれるが、マミー役を演じた女優のハッティ・マクダニエルなど黒人俳優陣は参加できなかった。当時はまだ激しい人種差別の時代であり、劇場で黒人が白人と一緒に座ることはタブーだったからだ。マクダニエルはマミー役の演技が評価され、この年のアカデミー賞の助演女優賞を受賞する。式典で彼女が謝辞を述べるシーンを見たが、受賞の喜びよりも晴れの舞台に白人と同席している戸惑いを強く感じた。
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 この小説の物語の力強さ、瑞々しさを否定するものではないが、首を傾げたくなる記述にも何回か「遭遇」したように思う。例えば、次のような記述だ。これはスカーレットの幼馴染で北部軍の追及を逃れてきた人物が戦況不利を憂え、発する言葉だ。
 “Soon we’ll be having nigger judges, nigger legislators—black apes out of the jungle—“ (「すぐに我々は黒んぼの裁判官や黒んぼの議員を仰ぐことになるだろう。連中はジャングルから出て来たばかりの黒いサルだというのに」)
 これがどれだけひどい表現であるかは説明するまでもないだろう。
 この国でKKKの通称で呼ばれる、悪名高い黒人排斥の秘密結社、クー・クラックス・クランが南部諸州で誕生した経緯については次のように「肯定的」に描かれている。
  It was the large number of outrages on women and ever-present fear for the safety of their wives and daughters that drove Southern men to cold and trembling fury and caused the Ku Klux Klan to spring up overnight. And it was against this nocturnal organization that the newspapers of the North cried out most loudly, never realizing the tragic necessity that brought it into being.(南部の男たちが身を切るような怒りに体を震わせながら、クー・クラックス・クランを一夜にして成立させたのは、南部の女性に対する数多い凌辱行為が頻発したことや、自分たちの妻や娘の身の安全への不安感をぬぐいきれなかったからだ。北部の新聞各紙は夜間に密かにうごめくこの組織が発足せざるを得なかった痛ましい必然性が理解できず、声高に非難したのであった)
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 KKKは白人優位主義、人種差別主義の時代の米社会が生んだ醜悪な落とし子だ。中西部を含めて、今回の旅で立ち寄ったいくつかの博物館では、その地方で一時期暗躍したKKKについてきちんと記録、紹介していた。全身白装束で頭巾をかぶった不気味な彼らの集合写真を目にする度、見てはならない人間の憎しみの深みを垣間見たような気がした。
 (写真は上が、「アンダーグラウンド・アトランタ」と呼ばれるダウンタウンの商店街。アトランタは米国の中でも太った女性が目立つ印象。下は、コカ・コーラ社の土地の寄贈を受け、公民権や人権の大切さを訴えるセンターができるダウンタウンの建設予定地)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)①

 日本でも今なお人気のある小説 “Gone with the Wind”(邦訳『風と共に去りぬ』) は南北戦争の嵐が吹き荒れたアトランタが舞台となった作品だ。アトランタ生まれの作家マーガレット・ミッチェルが1936年に発表した。刊行直後に大ベストセラーとなり、3年後の1939年にはビビアン・リー、クラーク・ゲーブル主演で映画化され、これも大ヒットしたことは改めて説明するまでもないだろう。作品を読んだことのない人でも映画は見たことがある人は多いことかと思う。
 この物語の書き出しは1861年4月で、奴隷制度の是非などを巡り、北部と南部が戦火を交える南北戦争の前夜だ。プランテーションと呼ばれる綿花を栽培する大農園で暮らすヒロインのスカーレット・オハラはフランス系の母親エレンとアイルランド系の父親ジェラードの血を引く16歳の美貌の少女。少年のように元気よく溌剌とした彼女の唯一の不満は自分が密かに思いを寄せている幼馴染でどこから見ても非の打ちどころのない好青年、アシュレーが全然自分を振り向いてくれないことぐらいだ。
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 スカーレットが生まれ育っている北ジョージアではサバンナやオーガスタ、チャールストンなど海岸部の都市と異なり、教育を受けているとか洗練されているとかは重要視されず、いい綿花を栽培するとか、乗馬がうまいとか、射撃の腕があるとか、ダンスに秀でているとか、実務的才があれば、それで十分に評価された。奴隷制度真っただ中の州であり、黒人そのものが例えば、黒人奴隷100人を抱えた白人農園主の元で雇用されていれば、その黒人奴隷の社会的ステータスは保障されているようなものであり、少人数の黒人奴隷しか雇用できない白人の小農園主を多くの黒人奴隷を抱えた農園で働く黒人は小馬鹿にしていたとも記されている。そういう時代だったのだろう。
 誤解を恐れずに言えば、そういう大農園でこき使われる黒人奴隷、特に農園主の白人の子供たちとその世話をする黒人奴隷との関係は、単に「白人の主人と奴隷」以上の親密な関係にあった。ニューヨークで先日 ”The Help” という同じ南部のミシシッピ州の町を舞台にした映画を見たが、黒人に対する人種差別が依然として残る1960年代に、白人の女性が自分を愛情豊かに「育てて」くれた黒人の乳母に思いを馳せるシーンが、作品の大切な伏線となって描かれていた。“Gone with the Wind” で言えば、スカーレットと黒人奴隷の乳母、マミーの関係だ。南部のレディーとして逸脱した行動に出るスカーレットをことあるごとに厳しくかつ温かく諌めるたくましさの塊のようなマミー。これは当時の北部では考えられなかったような白人と黒人の「親密さ」だろう。
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 かつての奴隷制度や人種差別時代の米社会を「擁護」しているわけでは毛頭ない。小説自体、”nigger” とか “darky” といった現代から見ればタブーの表現や、黒人社会には到底受け入れることのできない記述も少なからずあり、そうした点は次に触れたい。
 (写真は上が、当時作家が住んでいた「マーガレット・ミッチェル邸」。下が、展示品の一つで、彼女は当時このようなタイプライターで代表作を書き上げた)

センチメンタルジャーニー

 この年(57歳)になって上記の表現は自分でもどうかと思わないでもないが、「人生7がけ論」の私はまだ精神的には30歳代のつもりだから、ご容赦願おう。
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 アトランタを数日うろうろして、今、アトランタから南西に約100キロ離れたラグレインジという町に向かっている。何度も書いたが、1974年から1年間、ここの小さな大学に留学していたことがある。正確に言うと、ナイロビ支局勤務を終え1990年春にアメリカ経由で帰国した際に数日間立ち寄ったことがあるが、それさえも記憶のかなたにあるから、37年ぶりの再訪のような感覚だ。
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 これから可能ならば、このラグレインジを拠点に米南部を旅しようと思っているが、漠然とそう願っているだけでどうなることやら分からない。何しろ重くなる一方のスーツケースとキャリーバッグを抱え、秋が深まっているというのに汗ばみながら移動するのは少しばかり辛い。ラグレインジに拠点にさせてもらえそうな家がある。37年前に世間知らずの青二才でここに来た時、親しくなった友人の母親が90歳を超えてもなおお達者で、そこにお世話になる予定だからだ。
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 ヒックス夫人。当時も友人のジョーが週末にはよくこの家に連れて来てくれた。金のない貧乏留学生の私にはジョーの家に来て、ヒックス夫人の手料理をご馳走になるのが楽しみだった。いつも会う度に、何だか日本人の女性のような温もりを感じた人だった。ジョーや彼の妹と連絡を取っていて、ヒックス夫人が私の再訪を楽しみにしていることを知り、とてもうれしかった。という次第で、これから何か所か訪ねることを考えている南部の旅の「ベースキャンプ」にさせてもらいたいと願っている。
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 37年前にアトランタからラグレインジに向かった時にはグレイハウンドの大きなバスだった。4月ごろでもう暑かったような記憶がある。バス停で降りて、心細く感じながら、大学の寮を目指して歩いたことを覚えている。今回は10月の下旬。アトランタに到着した時は寒いと書いたが、このところ、温かい日が続いている。日中は暑くも寒くもなく、とても過ごしやすい日々だ。ラグレインジを再訪するには最適だろう。今回もバスで行くことにしている。アトランタ空港から出ているシャトルバスで乗車料金は31ドル。時間にして1時間。車窓の景色に見とれながら、時の流れを思うことだろう。今回は心細さにとらわれることもない。
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 (写真は上から、アトランタならではの「もの」。まず、アトランタ発祥のケーブルテレビのCNN。15ドルを払ってCNN内部を見るツアーに参加したが、「子供だまし」の拙劣極まりないツアーだった。コカコーラもアトランタ発祥。ここもツアーが人気だったが、CNNに懲りて素通りした。世界一大きいと聞いたアトランタの水族館。世界一大きい「水槽」(日本製)から眺める海水魚の群れは確かに見応えがあった。アトランタはマーティン・ルーサー・キング牧師が生まれた地でもある。牧師夫妻が埋葬されている墓地は終日炎が灯されている。牧師が12歳まで住んだ家=左から二つ目=は記念館となっていた。この家は14部屋あり、牧師は比較的裕福な隣人たちに囲まれて幸福な少年期を過ごした)

アトランタ着

 南部ジョージア州の州都アトランタに来た。6月21日にカリフォルニア州のロサンゼルスからスタートしたこの旅もほぼ4か月が経過し、私が37年前に1年間だけ学生生活を送った町があるこの州には特別な思いを抱かざるを得ない。その町を再訪する前にアトランタで名作 “Gone with the Wind”(邦訳『風と共に去りぬ』)の下調べをしたい。
 昨日ワシントンの近くにあるバージニア州のアレクサンドリアでアムトラックの列車に乗り込んだのは午後7時ごろ。夜を越し、今朝の8時半ごろ、アトランタに着いた。例によってあまり眠ることができなかったが、それよりもアトランタが寒いので驚いた。米国に持参している冬着はジャンバー1着。あと2か月持ちこたえることができるだろうか。
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 ホテルにチェックインして、近くにある “Gone with the Wind” の著者、マーガレット・ミッチェルが住んでいた旧家の記念館を訪ねた。入場上22ドルを払う。ガイドの女性がほどなく出てきて、居合わせた10人ぐらいの観光客を相手に説明を始めた。説明に入る前に、彼女は「皆さんの中で、“Gone with the Wind” の映画を見たことがある人は手を挙げてみて下さい」と質問。ほとんど全員が手を挙げた。「それでは原作の小説を読んだことがある人は手を挙げて下さい」。今度は手を挙げたのは2、3人だけ。
 私は自信を持って手を挙げた。何を隠そう、今回の旅に出る前に原書を買って読み始め、太平洋を超える飛行機の中でも本を開き、西海岸のどこかでようやっと読了した。英文自体は分かりやすかったが、何しろ、私が買った本でも1400頁を超える分量。読み終えるのに四苦八苦した。
 記念館をざっと見学すると、隣の建物では映画製作の舞台裏に関するビデオが見れると聞かされた。何気なく見始めたら、これが意外と面白い。面白いのはいいが、なんだか延々と続く。はっきり時間を測ったわけではないが、2時間かそこらの上映時間だったのではないか。普通の映画をまるまる1本見た感じだ。こういう類のものは通常、30分程度の参考ビデオに簡略にまとめてあるのではないだろうか。いや、原作について調べている私には実に興味深い内容だったので、文句を言ったら、罰があたる。この日の見学で面白いと思ったことについては後日改めて書いてみたいと考えている。
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 アトランタの町を駆け足で歩いてみる。37年前にはアトランタはほとんど来たことがないから、初めての町のようなものである。期待していたよりも人通りが少ない感じがした。活気もないような気がする。海外の観光客であふれていたニューヨークやワシントンを見た印象が強いからかもしれない。
 ダウンタウンの中心にある公園ではここでも、ニューヨークの「ウォール街を占拠せよ」のアトランタ版で、公園の敷地内で参加者が夜を過ごしていると思われる多くのテントが林立していた。
 (写真は上から、地下鉄を上がると青空が見えたが、寒さが少しこたえたアトランタのダウンタウン。ここでも政治の現状・経済格差に異を唱える若者の抗議活動が)

ゲティスバーグ

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 ペンシルベニア州にあるゲティスバーグ。南北戦争で米国の歴史上最も凄惨を極めた戦いが繰り広げられた地で、この戦いの4か月後、リンカーン大統領が当地を訪れ、これも歴史に残る「人民の人民による人民のための政治」という表現で知られる演説を行った。
 現地の国立墓地に立つ記念碑の文言を改めて読んでみると、”It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us—and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.” とある。
 日本語に正しく訳すのは難儀そうな名文だ。
 リンカーンがここを訪れたのは戦争勃発3年後の1863年11月のこと。ゲティスバーグでは両軍がこの年の7月1日から3日間激突し、総計5万人前後の兵士が死傷、捕虜、行方不明になったと言われる。南北戦争自体、60万人以上が死亡した凄まじい内戦だが、ゲティスバーグでは少なくとも7000体の放置された兵士の死体に5000頭ほどの馬の死体も加わり、鼻を衝く死臭が戦いの数か月後まで漂ったという。
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 南北戦争勃発から数えると今年が150年に当たるため、ゆかりの地では多くの記念行事が催され、米国民の関心も高いようだ。私がこの日加わったゲティスバーグの史跡を訪ねるツアーバスの乗客約40人の大半も米国内各地からやって来たシニアのご夫婦だった。バスの中ではゲティスバーグの戦いを史実に沿って再現した歴史ビデオが上映されていた。南軍兵士が隊列を組んで進んでいく。丘の上では大砲や銃を構えた北軍兵士が待ち構える。南軍兵士の不利は歴然だ。当然のことながら、南軍の兵士は次々に倒れていく。私が思わず、「これは(集団)自殺行為だ!」と後部座席の初老の男性に叫ぶと、彼は「イエス、カミカゼ攻撃」と応じた。
 ツアーガイドは以下のことを述べていた。ゲティスバーグの戦いは南軍を率いるロバート・リー将軍がここで北軍に大打撃を与えることにより、和平、早期終戦の道を模索する思惑があり、あえて、北部の要衝の地まで進軍。それまで彼が連勝を続けてきたのは戦いの地が南部だったからであり、ペンシルベニアの兵士も参加したゲティスバーグでの勝利を望むには無理があった。リー将軍はこの戦いの後、南部に退却し、戦略を練り直すが、以降は敗色濃厚になり、1865年に降伏を余儀なくされる。
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 紅葉に時に目を奪われたツアーでは、両軍兵士の死体が散乱した「死の谷」と呼ばれる草地や、北軍が大砲の陣地を敷いた場所、当時のままに残る民家などを訪れた。
 余談を一つ。現地で手にした観光案内に「南北戦争資料館ではリンカーン大統領の演説が聞ける」と記されていた。私のツアーのプログラムにはない。昼食の時間に急いでその資料館に走ってみると、「いや、生録音ではありません。現代のテープです」との由。
 がっかり。リンカーン大統領の演説は時間にして2分間ほど。ガイドの男性は大統領の声は重厚ではなく、むしろ甲高かったと説明していた。ぜひ、聴いてみたかった。
 (写真は上から、南北戦争の戦跡が広がるゲティスバーグ。「死の谷」を眼下にする丘の上。リンカーン大統領の歴史的演説が刻まれた国立墓地の記念碑)

ジェームズタウン

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 ニューヨークを離れ、間もなくディープサウスとも呼ばれる米国の深南部に向かう。その前にいくつか訪れたい場所があるので、再び首都ワシントンで途中下車した。
 足を運びたかったのはバージニア州にあるジェームズタウンという歴史的な場所だ。1607年にイングランドから3隻の船に乗った少年を含む104人の男たちがここに入り、米国でイングランドの初の恒久的入植地を築いた。ピューリタン(清教徒)たちがメイフラワー号でマサチューセッツ州に入植する1620年より13年も早い。
 ジェームズタウンの名前は当時イングランドを治めていたジェームズ国王に由来する。ジェームズタウンの跡地に立つ「見学者センター」で10ドル支払い、跡地を歩く観光ツアーに加わる。ガイドの男性は「ジェームズ国王が新大陸の入植を決意したのは、プライド、プロフィット、フィアの三つの要因からです」と流暢に説明する。17世紀初頭、世界はカトリック教のスペインが席巻していた。プロテスタントの英国国教会の信者を増やしたいというプライド(自尊心)。当時イングランドは経済不況で食えない国民が多く、新世界に富と働き口を求めたプロフィット(権益)。手をこまねいていればスペインが新大陸もすべて支配下に置くのではというフィア(恐れ)。
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 プロフィットに関しては、入植者たちが頭に描いていたのはゴールド(金)だったが、ゴールドは得られなかった。その代わり、金になるタバコの栽培に適していることが判明。収益を上げるためにはタバコ農園で働く多くの労働力が必要になり、アフリカから黒人を奴隷として強制的に連行。新大陸と奴隷貿易を結びつけたと言う意味でも、現在のアメリカという国の「道筋」をつけた入植地だった。見学センターで最初に見た15分程度のビデオは確か ”America’ Birthplace” という副題が付いていたが、むべなるかなだ。
 とはいえ、大西洋の荒波を乗り越えて入植したジェームズタウンは食糧難に病気、先住民のアメリカインディアンとの衝突もあり、栄養失調や病気から死亡する入植者が続出した。特に1609年から翌年の厳冬期には食糧が底をつき、入植者300人のうち、冬を越すことができたのはわずか60人だけだったという。ジェームズタウンはその後、入植者の内乱や火災もあり、近くのウイリアムズバーグに町の機能を移転する。跡地には1907年に建てられた「入植300年記念塔」や、入植地のリーダーとして名を馳せた傲岸不遜の軍人で探検家のジョン・スミスの銅像も立っている。
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 私が訪れた日、うららかな日だった。日本なら小春日和というには早すぎるか。こちらではインディアンサマーとでも呼ぶのだろうか。入植当時の壮絶さを想像することは難しかった。紅葉も見られ始めており、句心のない私も帰りの電車の中で句作に取り組んだ。
 紅葉も 今米国の 生誕地
 (写真は上から、ジョン・スミスの銅像。記念撮影しているのはノースカロライナ州からやって来た高校生のグループ。ジェームズタウンは大西洋にそそぐジェームズ川の河岸に築かれた。その跡地を訪ねる観光客。真ん中に見えるのが入植300年の記念塔)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ⑤

 ボールドウィンは生涯の多くの時間をヨーロッパで過ごす。エッセイの中で次にように記している。I left America because I doubted my ability to survive the fury of the color problem here. (Sometimes I still do.) I wanted to prevent myself from becoming merely a Negro; or, even, merely a Negro writer. I wanted to find out in what way the specialness of my experience could be made to connect me with other people instead of dividing me from them.(私がアメリカを去った理由は、私にはアメリカで肌の色の問題がもたらす憤激を乗り切ることができないのではと思ったからだ。〈今も時々そう思うことがある〉。私は自分が単に一人の黒人と色分けされることが嫌だったのだ。いや、黒人の作家として遇されることもだ。私は私が経験してきた私独特のことがどのようにしたなら他の人々の共感を得ることができるものか知りたかった。私と彼らを隔絶することなく)
 自分が今で言うゲイであることを含めて、「一個の人格」として世界の人々からどう思われるのか突き詰めてみたいということであろうか。それがある意味、アメリカ以上に多人種が「交錯」するヨーロッパなら可能だったのだろう。
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 ボールドウィンはヨーロッパの魅力を大意次のようにも述べている。ヨーロッパは一人の男が例えばウエイターであっても、その仕事に誇りを持てる社会であり、被害妄想的な階層意識に縛られていない。アメリカ人作家はだからヨーロッパに来て初めて誰とでも何の気兼ねもなく話をすることができると。何となく分かるような気がしないでもない。
私が “Go Tell It on the Mountain” で気に入ったパラグラフがある。ジョン・スタインベックの “The Grapes of Wrath” でも似たような一節があったかと思う。ジョンの父親の姉、つまりジョンにとっては伯母に当たるフローレンスがジョンの母親のエリザベスに向かって語りかける場面だ。エリザベスはこの時まだ、やがて自分の夫となるフローレンスの弟に出会っておらず、自殺した恋人でジョンの実父を失った悲しみを友人のフローレンスに初めて吐露する。フローレンスはエリザベスを次のように励ます。
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 “Yes,” said Florence, moving to the window, “the menfolk, they die, all right. And it’s us women who walk around, like the Bible says, and mourn. The menfolk, they die, and it’s over for them, but we women, we have to keep on living and try to forget what they have done to us. Yes, Lord—“(「そうね」とフローレンスは窓の方に近づきながら言った。「男連中はそうやって死んでいくのよ。構やしない。聖書に書いてあるように、その後に残って悲しみに暮れるのはあたしたち女。男連中は死に、それで終わり。でも、あたしたち女はそうはいかないのよ。あたしたちはずっと生き続けなくてはならない。男たちがあたしたちにしたことを忘れるようもがきながらね。ああ、神様」)
 (写真は、NYのビジネス街にある「アフリカ人墓地」の国史跡。重労働などで死去した多くの黒人奴隷が人知れず埋まっているのが判明したのは連邦ビル建設工事中の1991年のこと。黒人の人々の運動が実り、国史跡となった。地元高校生は屈託なく記念撮影)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ④

 “Native Sons” を著したマーゴリーズ氏をニューヨークに自宅に訪ね、話を聞いていたところ、彼も1925年生まれの同世代で、しかも、ボストンで育った氏はマルコムXがボストンのナイトクラブや街頭で靴磨きや存在しないスポーツイベントのチケットを売りさばいていた十代のころのマルコムXを覚えていることを知った。
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 「もちろん当時はまだマルコムXとまだ名乗ってはいませんでした。(肌の色から)ビッグレッドと呼ばれていました」とマーゴリーズ氏は振り返った。ボールドウィン氏とも面識があるが、彼がゲイであることは話題とはならず、むしろ、彼の反ユダヤ感情が物議をかもしていたという。ハーレムでは当時、不動産はユダヤ人が所有し、黒人から容赦なく家賃を取り立てるユダヤ人は時として黒人住民の反感を買っていた。
 マルコムXは同じ公民権運動でも非暴力で知られたキング牧師とは対極にある存在のように見られがちだが、彼が帰依したイスラム教の理解を深めるにつれ、白人=悪の図式から脱却し、レイシスト(人種差別主義者)の白人だけが敵であると見なすに至っている。
 アレックス・ヘイリーがマルコムXとのインタビューに基づき執筆した「伝記」によると、次のように表現されている。“I don’t speak against the sincere, well-meaning, good white people. I have learned that there are some.I have learned that not all white people are racists. I am speaking and my fight is against the white racists. I firmly believe that Negroes have the right to fight against these racists, by any means that are necessary.”(私は真摯で善意のある善良な白人に反対するものではない。私はそういう白人の人々が少なからずいることを知った。私は白人のレイシストに反対するものであり、白人のレイシストに対して戦うのだ。私は彼らのようなレイシストには必要なあらゆる手段を講じて戦う権利があると固く信じている)
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 マルコムXは1965年、イスラム教の教団のかつての仲間の凶弾に倒れた。まだ、39歳の若さだった。ハーレムに来て以来、私の中には素朴な疑問があった。ボールドウィンとマルコムXの人生は交差したことがあったのだろうか。”Baldwin’s Harlem” という伝記を2008年に書いた作家のハーブ・ボイド氏に運よく出会うことができた。
 「二人は黒人解放をテーマにしたラジオ番組などで対談しています。目指すところは同じでも方法論で異なりますから、時として微妙な関係にあったようですが、マルコムXが暗殺される前のころは二人の間には深い理解が生まれていたと思います。マルコムXの暗殺後、ボールドウィンはハリウッドからマルコムXの生涯を描いた映画制作の仕事を引き受けますが、政治色を薄めようとする制作側の意図に嫌気がさし、マルコムXの『セカンド・アサシネーション』に加担などまっぴらと言って手を引きます」とボイド氏は語った。
 (写真は上が、自分の著書を手にしたマーゴリーズ氏。本の写真は氏の若い時のポートレート。この12月で86歳になる。下が、ハーレムで会ったハーブ・ボイド氏。ハーレムに関する著書も多く、インタビュー後、大学で講義があると忙しそうに立ち去った)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ③

 この国では奴隷制度の廃止か否かが対立の一つの要因となり、南北戦争(1861-65年)が戦われ、南部の農園などで隷属的立場にあった黒人は自由人となった。しかし、その後も黒人に対する人種差別は続き、彼らが晴れて白人と同様の権利を獲得するには1950年代から60年代にかけての公民権運動が成就するまで待たなければならなかった。
 だからこそ、race riot と呼ばれる人種暴動の「火種」は全米各地でくすぶり続けてきたし、ある意味、今もそうかもしれない。多様な人種で構成されるアメリカで今も黒人が社会の最下層にあることは多くの統計資料が示している。
 それはさておき、南北戦争後、さらには第1次大戦後、多くの黒人が「豊かな暮らし」を夢見て、南部諸州から北部諸州にやって来る。ボールドウィンの父親(実際には育ての親であり養父)も南部ルイジアナ州ニューオーリンズからニューヨークにやって来た一人だった。だが、北部の暮らしが心地よいものだったとは言えないようだ。
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 アメリカの黒人作家のことを紹介した作品に “Native Sons” (邦訳『アメリカの息子たち』)という本がある。ニューヨークの大学教授のエドワード・マーゴリーズ氏が1969年に著した本で、ボールドウィンの項で次のように書いている。
 In the South, at least, a Negro knew where he stood, however barren and bitter his place. Above all, there existed in the South a pattern of interpersonal relationships among whites and Negroes—rooted, to be sure, in racial preconceptions, but for all that occasionally warm and recognizable—so closely interwoven had been the lives of both races over the centuries. But the white Northerner, when he was not downright hostile, treated Negroes with cold and faceless indifference. If he granted them greater self-expression, he seemed at the same time to be saying, “You may amuse me from time to time with your quaint and primitive antics, but in all significant areas of my life please keep away.” For the Southern Negro migrant, the emotional stresses must have been intolerable.(南部では黒人は少なくとも自分がどういう場所にいるか心得ていた。たとえ、それがどんなに殺風景で辛いところであったとしても。南部ではとりわけ、白人と黒人の間に個人的な関係が存在していた。確かに人種的な偏見に根差したものではあったが、それでも時として温かく、肌で感じることができるものであった。何世紀にもわたって彼らの暮らしは絡み合ってきたのだから。しかし、北部の白人は頭から敵意があるというわけではなかったが、黒人を冷たく、無表情の無関心さで扱った。仮に黒人に自己表現の機会をより多く与えたとしても同時に次のように言っているような感じだった。「お前さんは時々、そのお前さんの奇妙かつ原始的な芸当で私を楽しませてもよかろう。だが、私の人生の大切な分野では私の前からお引き取り願えるかな」。南部から仕事を求めてやって来た黒人の精神的なストレスは耐えられないものであったろう)
 (写真は、ハーレムのレストラン。週末ともなれば観光客でかなりの混みようだ)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ②

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 先に、アメリカという国で黒人に生まれるということがどういうことを意味するのか、と書いた。ボールドウィンが書いたエッセイに次のような一節がある。
 第二次大戦中のことだ。作家はニューヨークの南にあるニュージャージー州の工場で働き始める。工場の同僚は米南部出身の人々であり、ハーレムで育ったボールドウィンにとっては南部の人々と接する初めての体験だった。次のように振り返っている。
 I learned in New Jersey that to be a Negro meant, precisely, that one was never looked at but was simply at the mercy of the reflexes the color of one’s skin caused in other people.(私はニュージャージーで黒人であることはまさに一顧だに値せず、肌の色が他の人々にもたらす反射神経のなすがままにあるということを身を持って学んだ)
 ボールドウィンにとっては辛い体験だった。ナイトクラブ、ボーリング場、レストラン、どこに行っても、相手にしてもらえず、黙って立ち去ることを求められるようになる。そのうちに彼は町中で目立つ存在となる。
 I very shortly became notorious and children giggled behind me when I passed and their elders whispered or shouted—they really believed that I was mad.(私はほどなく悪名をはせ、私がそばを通り過ぎると、子供たちはくくっと笑い、大人はささやき合うか私の背後から罵声を浴びせた。彼らは私が気が狂っていると本気で信じていた)
 誰でもこのような経験をすれば、トラウマに陥ることだろう。
 There is not a Negro alive who does not have this rage in his blood—one has the choice, merely, of living with it consciously or surrendering to it. As for me, this fever has recurred in me, and does, and will until the day I die.(生きている黒人でこうした激しい怒りがその血管の中に流れていない者はいない。それを意識しながら生きていくか、それに身を委ねるかしか選択の余地はない。私はこの怒りの熱病にその後も何度もとらわれ、今もそうだ。私が死ぬ日までこれから解放されることはないだろう)
 私は強烈な人種差別的経験はない。強いて言えば、まだ、アパルトヘイト(人種隔離制度)のあった南アフリカで黒人の取材対象者とレストランで食事していたら、周囲の白人客から憎悪に満ちた視線を浴びたことぐらいだ。食欲が失せるぐらいの敵意を感じた。アメリカの黒人の人々は公民権運動が実り、人種差別的な制度がなくなる1960年代までこうした視線を常に感じながら暮らしてきたのだろう。
 ボールドウィンは “Go Tell It on the Mountain” でデビューし、その後もアメリカ文学に足跡を残す作品を発表していく。その後に続いた黒人の若者たちに「黒人であっても作家になりうる」ことを示した功績は大と言えるだろう。彼はまた同性愛者であることも隠さず、続く作品の中で露骨な性描写も厭わなかった。
 (写真は、ハーレムにある観光名所のアポロシアター。毎週水曜日夜は今も「アマチュアナイト」と称して、明日のスターを目指す若者が歌やダンスなどの技量を競っている)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ①

 ハーレムに来て、最初に足を運んだのは、ショーンバーグ黒人文化センター(Schomburg Center for Research in Black Culture) 。マルコムXアベニューに面している。
 通りの名が示すようにハーレムは白人社会に反旗を翻した黒人公民権運動活動家マルコムXが華々しく活躍した地である。センターではマルコムXの展示が催されていた。
 随分昔にマルコムXの伝記を読んだことがある。アレックス・ヘイリーが彼とのインタビューを基にまとめ、マルコムXが凶弾に倒れた1965年に刊行された本だ。展示ではその本からの引用文も多数紹介されていた。
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 図書室をのぞいてみた。たまたま、手にした本をめくっていて、思わず手をとめた。アフリカとアメリカの著名人や主要な出来事の年表が掲載されている。1924年ジェイムズ・ボールドウィン誕生、その側に1925年マルコムX誕生と記されている。この二人は同世代だったのか。さらにその前には1918年ネルソン・マンデラ誕生、1929年マーティン・ルーサー・キング誕生という文字が見える。マンデラ氏(南アフリカ元大統領)はあの二人より先に生まれているのか、キング牧師も二人とほぼ同世代でないか。
 ボールドウィンは1924年に生まれ、1987年に没している。私は彼の代表作と見なされている、1953年に発表された小説 “Go Tell It on the Mountain” を読んだ。(『山にのぼりて告げよ』という邦訳がある)。アメリカという国で黒人に生まれるということがどういうことを意味するのか。そのことを改めて考えさせる名作だ。
 作品は多分に作家の自伝的色合いの濃い物語で、主人公で語り手のジョンは14歳の少年。兄弟は下に弟1人と妹が2人。彼には教会で執事をしている厳格な父親がいて、この父親との確執が物語の柱となっている。というのも、父親は弟を溺愛しており、ジョンとの間には埋めがたい溝がある。一つにはジョンがハーレムや黒人社会の枠にとらわれず、広い社会で羽ばたきたいという抑えがたい欲求があるからだ。彼は休みの日になると、街の映画館に行き、まだ見ぬ世界に胸をときめかせるような少年だった。
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 父親はジョンのそうした気質を見抜き、次のように言って彼に警告する。
 His father said that all white people were wicked, and that God was going to bring them low. He said that white people were never to be trusted, and that they told nothing but lies, and that not one of them had ever loved a nigger. He, John, was a nigger, and he would find out, as soon as he got a little older, how evil white people could be. (彼の父親は白人はすべて邪悪であり、神はやがて白人を貶めるであろうと言った。父親はまた、白人は決して信用してはならず、白人が言うことは嘘ばかりであり、黒人を好ましく思った白人など誰もいない、ジョン、お前は黒人であり、もう少し大きくなれば、白人がどれだけ邪悪になれるかすぐに分かることだろうと言った)
 (写真は上が、ショーンバーグ黒人文化センター。下が、ハーレムを歩いていて見つけた、カフェで行われていたジャズセッション。ビール2杯飲んで心地よいひと時を過ごした)

ハーレムへ

 ニューヨークに着いて1か月が経過した。ニューベッドフォードやボストンなどニューイングランド地方を訪ねていた時期もあるので、なんだかあっという間の1か月という印象だ。ニューヨークもそろそろ後にしなくてはならない。その前にきちんと訪れたい場所があった。ハーレム地区だ。
 ニューヨークはマンハッタン島に限れば、9・11テロの現場となったグラウンド・ゼロがあるのは南端のダウンタウン、タイムズスクエアやブロードウェイはミッドタウン、セントラルパーク以北はアップタウンと呼ばれる。ハーレムは北のアップタウンにある地区だ。ニューヨークの黒人の人々が数多く移り住んだことから、全米的に文学や音楽などブラックカルチャーの発信地として知られてきた。
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 ニューヨークで最後に少し書こうと思っている作家、ジェイムズ・ボールドウィンもハーレム生まれだ。あのマルコムXもハーレムで生まれている。せっかくニューヨークにいるのだから、ハーレムで最後の日々を過ごすことにした。ミッドタウンにあるYMCAからハーレムにあるYMCAに移った。経済的理由もある。ミッドタウンのYMCAはニューヨーク中心部では破格の安さとはいえ、一泊115ドルを支払っていた。節約旅行の身にはやはり高すぎる。先週、ハーレムを歩いていてYMCAがあることを知り、尋ねたところ、一泊75ドルで泊まれることが分かった。バストイレは共有であり、部屋にテレビはなく、ネットも一階のロビーでしか使えないという制約はあるが、贅沢は言えない。もっと早くここを知っていればと思わないこともない。
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 誤解を恐れずに言えば、私のような古い世代にはハーレムと言えば、犯罪、治安の問題が脳裏をかすめる。今回初めてハーレムを歩き、そうした懸念が杞憂であることを知った。第一、ここもデジカメを手にした海外からの(と思われる)観光客が談笑しながら歩き、写真を撮りまくっているのだ。家賃の安さからハーレムに移り住む白人も多いと聞いた。
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 日曜日。ブランチを食べるレストランを探して歩いていたら、アフリカの民族衣装をまとった黒人の人々が集まっている光景に出くわした。「アフリカン・デイ・パレード」と称して、目抜き通りのマルコムXアベニューを135番通りから125番通りまで歩くのだという。「自分たちのアイデンティティーであるアフリカ出身という出自に誇りを持とう」と毎年この時期に催しており、今年が5回目のイベントだとか。アフリカのすべての国を「網羅」したイベントにはまだ成長していなかったが、参加者の熱気、パレードを見守る人々の笑顔から、その可能性を十分感じることができた。
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 (写真は、「アフリカン・デイ・パレード」の光景。竹馬のようなものに乗り、闊歩していた若者は「アフリカ合衆国」を意味する “United States of Africa” と書かれたTシャツを着ていた。アメリカ国内から選出された「ミス・シエラレオネ」は20歳。「ミス・ギニア」は19歳。美しい笑顔に魅了された。猫もパレードが見たいらしく歩道に出てきていた。人に慣れているのか、嫌がらずに頭を触らせてくれた。私が触れるのはこの程度だ)

ヤンキースタジアム

 メジャーリーグの聖地、ヤンキースタジアムに出向いた。旧スタジアムのすぐそばに新しいスタジアムができて間もないことぐらいは知っていた。マンハッタン島の北のブロンクス地区にあり、電車で簡単にいけることも。
 私が訪れた日はアメリカンリーグのチャンピオンを決める最終プレーオフに出る地区1位同士の最終戦が行われる日だった。ヤンキースはデトロイト・タイガースと2勝2敗で、文字通り剣が峰の一戦だった。
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 とてもチケットなど売れ残っていないだろうなあと思ったが、万が一ということもある。スタジアムに入れなければ、球場周辺の雰囲気だけでも味わおうと思っていた。
 試合開始は午後8時7分。午後3時ごろチケットを売っているゲートに着いた。観客席の入場ゲートは閉まっているし、歩いている人もまだまばら。ひと気のないチケット売り場に近づき、売れ残りの席があるわけないよねと尋ねると、あると言うではないか。「え、うそ、悪い冗談でしょ?」と思いながら、「ハウマッチ?」と聞くと、売り場の若者、微笑みながら「スリーサーティーワン」と答えるではないかいな。私の頭の中に「331」という数字が印字される。ロサンゼルスではいくら払ったんだっけ? 一番記憶に新しいセントルイスでは確か36ドル支払ったような記憶があるが・・・。
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 バックネット裏の「331ドル」の席ならまだ売れ残っているのがあるが、他の席は完売だという。だめ。私にはとても無理。1ドル=80円で計算しても、2万6千円ではないか。未練たらたらゲートの外に出て、ベンチに座る。そのうち隣にヤンキースのユニフォームのシャツを着た中年男性が座った。聞くと、インターネットで毎週金曜日だけ観戦できる年間チケットを安く購入しており、木曜日のこの夜のゲームのチケットもその延長線上で20ドルで購入することができたのだとか。
 結局試合はテレビで観戦したが、途中からなぜか、ヤンキースが負けるような気がしていた。タイガースの選手からはひたむきさが伝わってきたが、常勝スター軍団のヤンキースからはそうしたひたむきさが伝わってこなかったからだ。(どこかの人気球団のことを言っているのではない)。案の定、ヤンキースは3対2で敗れ去った。
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 今こちらではメジャーリーグを舞台にした “Moneyball” という映画が上映されている。ブラッド・ピット主演。ヤンキースとは好対照の貧乏球団であるオークランド・アスレチックを率いるゼネラルマネジャーの「野球理論」を実話に基づいて描いている。弱小チームを強いチームに育てた手腕を見込まれ、ヤンキースと並ぶ人気球団のボストン・レッドソックスから破格の報酬を提示され、ゼネラルマネージャーに誘われるが、彼は「アスレチックをワールドシリーズで優勝させたい」と断る。決してビッグマネーだけが勝敗を左右しているわけではないメジャーリーグの醍醐味が伝わる作品だ。
 (写真は上から、2009年にオープンしたヤンキースタジアム。ゲートの開門を待つ圧倒的大多数がヤンキースファンの観客。ヤンキース敗退を伝える7日の新聞)

アーサー・ミラー (Arthur Miller) ③

 物語は題名が示す通りの結末を迎えるが、リンダ夫人が墓地でウィリーに語りかける言葉が印象的だ。”I made the last payment on the house today. Today, dear. And there’ll be nobody home. We’re free and clear. We’re free. We’re free…We’re free…” (私は今日、家のローンの最後の支払いをしてきたわ。そうよ。今日よ、あなた。でも、誰も住む者もいないわ。私たちは完璧に解放されたというのに。私たちは自由なのよ。自由、自由なのよ)
 ウィリーはそしてリンダ夫人は一体、何から「解放」され「自由」になったのであろうか。現代のアメリカの人々は、そして日本に住む我々は「自由」になっているのだろうか。
 再びモシャー教授。「もちろん、ローンの支払い、そうした苦闘からの解放を意味しているのだと思います。ミラーは大恐慌時代に育ったのです。お金は彼にとって大事なものだったのです。金銭に貪欲だったと言っているのではありません。彼の生きた時代はそういう時代だったのです。20セントがものを言う時代だったんです」
 この戯曲が半世紀以上にわたって世界各国で上演されているのはよく理解できる。ブロードウェイでも来年1月に公演される予定であり、モシャー教授は「若い人々の反応が楽しみ」と語っていた。
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 そのニューヨークでは今、若者を中心にウォール街のビッグビジネスや政治に物申すデモンストレーションが日ごとに盛り上がりを見せている。”Occupy Wall Street” (ウォール街を占拠せよ)と呼ばれる活動だが、特定のリーダーがいるわけではなく、現在の経済状況に不満を抱く若者の緩やかな集まりのようだ。今では労組もこの運動の「潜在力」に注目し、「合体」を目指す動きも見られ始めている。
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 私はニューヨークに着いた直後の先月中旬に彼らが公園で集っているシーンに出くわしたが、その時はまだ、数十人程度の小さな集まりだった。昨日(6日)は首都ワシントンにも波及したようだ。ニューヨークタイムズ紙は本日(7日)の紙面で来年の大統領で再選を目指すも、支持率低下に悩むオバマ大統領にとっては、”In Protest, Opportunity and Threat for Obama” (この抗議活動はオバマ大統領にとって諸刃の剣)と報じていた。
 余談だが、この作品で二人の息子が父親を呼ぶ時の呼びかけの表現がいろいろあるのも印象に残った。今なら、通常はDadとか Fatherだろうが、息子たちはPopとかDad と呼びかけていた。だが、ビフがウィリーとの口論の果てに激怒した時は、Willy! とファーストネームだった。日本では父親を罵る言葉はここであえて表現しないが、厳として存在するので、ファーストネームで呼ぶことで「怒り」を表現する必要もない。私の父親は怖い親父だった。ファーストネームで呼ぶなど考えもしないが、悪態でもつこうものなら、げんこつの一つや二つが必ず坊主頭に飛んできていた。今ではそれさえ懐かしい。
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 (写真は上から、先月中旬にウォール街近くで遭遇した若者のデモ。「アメリカでは最富裕の400人が全人口の60%以上の富を独占」と非難していた。ニューヨークタイムズ紙でも連日、若者の動きを大きく報じている)

アーサー・ミラー (Arthur Miller) ②

 作品は父親のウィリーと長男のビフの確執を中心に展開する。ビフは父親のことをfakeとかphonyと呼んでその「偽善性」を非難するようになっていく。ある意味、父親と息子の葛藤の物語とも言える。
 タイトル名となっているセールスマンという仕事。この戯曲が発表され、公演が行われた当時、豊かな暮らしを求めた消費拡大のアメリカ社会を象徴する仕事だったようだ。自分の父親との関係など過去のいきさつにこだわりのないボスのハワードから解雇を通告される直前、ウィリーは彼にすがるように語る。”Selling was the greatest career a man could want.”(セールスは人が望みうる最上の仕事だった)と。しかし、それはバイアーに商品を好きなように売りつけることができれば言えることであり、友人から借金を重ねるようになっている「今」のウィリーにとっては過去の栄華に過ぎない。
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 終幕近くの場面で、ビフが父親に冷たく言い放つ。”Pop! I’m a dime a dozen, and so are you!”(父さん、俺は一山いくらの人間なんだよ。父さんも同じだよ!)。自分の人生を否定されたに等しいこの言葉に激しくあらがう父親に対し、息子はさらに二の矢を放つ。”You were never anything but a hard-working drummer who landed in the ash can like all the rest of them!.....Pop, I’m nothing! I’m nothing, Pop. Can’t you understand that? There’s no spite in it any more. I’m just what I am, that’s all.”(父さんは必死に働いてきたセールスマン以外の何物でもないんだよ。他の連中と同様、ぼろぼろになるまで働いて。父さん、俺は何の価値もない男だよ。何の価値もない。分からないのかい? もう俺は恨みなんかないよ。俺はただこれだけの男だ。言いたいことはそれだけさ)
 この作品が今なお輝きを放つ理由をコロンビア大学でアートを教え、数々の戯曲のディレクターとしてトニー賞を2回受賞したグレゴリー・モシャー教授に話を聞いた。
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 モシャー教授はアメリカ文学における ”Death of a Salesman” は音楽の世界で言えば、ベートーベンの「交響曲第5番・運命」のような金字塔であり、多くの作家、作品に影響を及ぼしてきたと語った。その上で、1940年代末のアメリカは世界大不況を克服し、第二次大戦にも勝利し、いわば「わが世の春」を謳歌していた。その最中に、ミラーはこの作品で次のように「警告」したのではないかと。 “Wait a second, wait a second. This is not so quite rosy as everybody have a spree. There is a strain of darkness inside the American dream. It causes people to kill themselves.”(ちょっと待って。世の中、皆が皆浮かれ騒ぐほど希望に満ちたものではない。アメリカンドリームには闇の傾向も備わっている。人々をして自殺に追い込むこともあるよ)
 そのような「警告」は当時のアメリカではショッキングな指摘だったのだろう。
 (写真は上が、モシャー教授。晩年のミラーと親交があり、「背が高くとてもハンサムな人だった」と語った。青空のコロンビア大学キャンパス。インタビューを終えた後、10年前の9・11の時もこの日のような青空が広がっていたと教授は空を見上げた)

アーサー・ミラー (Arthur Miller) ①

 ニューヨークはこのところ曇り空が続き、朝夕は肌寒ささえ感じるようになっていた。秋を通り越して一気に初冬の冷え込みが到来したようだなと思っていたら、今日水曜日は朝から気持ちよく晴れ渡り、気持ちのいい一日となった。
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 ニューヨークはさすが、ここをゆかりとする作家が多い。アーサー・ミラーもその一人だ。1915年にニューヨークで生まれ、2005年に没している。年譜が示す通り、20世紀を生き尽くした作家である。二人目の妻はあのマリリン・モンロー。
 代表作の一つが1949年に発表した戯曲 ”Death of a Salesman”(邦訳『セールスマンの死』)。
 登場するのは、ニューヨークに住むローマン一家。父親のウィリーは米北東部のニューイングランド地方を車で回り、物品を販売するセールスマン。かつては週に170ドル以上を稼ぎ出す敏腕を誇っていたが、時代が移り、彼が親しかったバイアー(仕入れ係)が第一線から身を引くにつれ、稼ぎが悪くなり、保険の支払いや車、冷蔵庫の修理など日常生活のやりくりにも苦労する日々である。そして、63歳となった「今」、40年近く勤勉に働いてきたにもかかわらず、自分が名付け親となったセールス会社の先代のボスの息子、ハワードから解雇を言い渡される。
 ウィリーには息子が二人。長男のビフは高校時代フットボールのスター選手で、将来どの職業に就いても成功が確実視されるような若者だった。二男の朗らかなハッピーともども、父親にとって自慢の種の子供たちだった。しかし、二人が三十代の青年となった「今」は一家の実情はあまり芳しくない。34歳になったビフはテキサスの牧場で働いてはいるが、将来への展望はない。2歳年下のハッピーも仕事には就いているが、始終女の子の尻を追いかけ回しているような生活だった。
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 ウィリーにはビフの人生が根無し草の放浪の日々を送っているとしか思えず、”Biff Loman is lost. In the greatest country in the world a young man with such—personal attractiveness, gets lost.” (息子は自分が進むべき道を見失っている。世界で最も偉大なるこの国で、あれだけの魅力を秘めている若い男がさ迷っているのだ)と嘆く。瓦解しそうな一家を辛うじて支えているのは母親のリンダ夫人。ウィリーを心から愛しており、父親を頭がおかしいと非難した子供たちを次のように言って諭す。
 “Willy Loman never made a lot of money. His name was never in the paper. He’s not the finest character that ever made lived. But he’s a human being, and a terrible thing is happening to him.” (夫は大金を稼いだことはないわ。新聞に名前が出ることもなかった。これまでに生きてきた人間の中で、最上の人格を有しているわけではないわ。でも、彼は一人の人間よ。その彼にとんでもないことが起きているのよ)
 (写真は上が、青空が広がり、気持ちのいい一日となったニューヨーク。ユニオンスクエア近くで。下が、通りの露店の中には、捨て猫の引き取り手を求めたお店もあった)

再びNYに

 ニュージャージー州のクランベリーを出て、再びニューヨークに戻った。いい骨休めとなった。もっといたかったのだが、ホストのバタワース先生夫妻がこの日からトルコ旅行に出かけることになっていて、この日朝、一緒に家を出て、NYのペンステーションで握手をして別れた。
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 先生とは学生時代から懇意にさせてもらったが、そこは学生と先生との関係。やはり一定の「距離」がある。学生時代には私は他の教授同様、「バタワース先生」と「先生」を名字の後に付けて呼んでいた。先生は私のことを「ミスターナス」と他の学生同様、「ミスター」の敬称を名字の前に付けて呼んでいた。今回久しぶりに再会して旧交を温めるに際し、「バタワース先生」と始終呼ぶのも何だかだなあと思っていた。本来なら彼のファーストネームである「ガイ」が一番自然な呼び方である。
 でも、さすがにこれはできなかった。今回の旅で初めて出会うアメリカの人々とは結構最初から、お互いにファーストネームで呼び合っている。それでこちらの頼みごともすんなり話が通じ、ミスターやミズ(ミス)という敬称なしの方が気軽でいいと思うことがしばしばだ。
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 「窮余の一策」で先生のことは「バタさん」と呼び続けた。彼が宮崎大学で同僚の先生たちからそう呼ばれていたことを思い出したからだ。うん、これなら、堅苦しい感じが抜けるし、礼を欠くこともない。「バタさん」は私のことを「ショーイチ」と呼んだ。学生時代は「ミスターナス」だったから、最初はくすぐったい感じがしたが、慣れると何でもない。奥さんとは今年3月に宮崎で一度会っているが、ほとんど初対面に近いから、「ケイティ」「ショーイチ」と呼び合うことに何の違和感もなかった。
 いや、それにしても、歓待していただいた。2日目の夜は近くの、といっても、車で30分ぐらいはドライブしたような感じだが、日本食レストランに連れていってもらった。この店は酒類を置けない店のため、酒の持ち込みが自由。バタさんが持参したビールと日本酒を、枝豆や揚げ豆腐などを肴においしくいただいた。本当はお礼の意味を込め、支払いぐらいはさせてもらいたかったのだが、敢然と拒否され、滞在中、何から何までお世話になった。2階のベッドの寝心地も良く、申し分のない4日間だった。
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 そして再びNY。ここでまだ調べたいと思っていることがある。会って話をうかがいたい人もいる。ブロードウェイの劇場街での観劇はまだ一度だけ。もう少しは足を運びたい。ヤンキースはプレーオフに残っており、メジャーの聖地、ヤンキースタジアムにも行ってみたい。そしてできればゲームを観戦したい。やりたいことだらけで、肝心の文学紀行の筆は進みそうにない。
 (写真は上から、クランベリーの近くにある名門プリンストン大学。古城を思わせる雰囲気ある建物の多いキャンパスだった。英国との独立戦争の激しい戦闘の舞台となったプリンストンの丘。ペンステーションに向かう電車内で夫妻と一緒に記念撮影)

恩師訪問

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 ボストンを出て、ニューヨーク経由でニュージャージー州のクランベリーという町に来ている。大学時代の恩師が住む町だ。彼にはニューヨークに着いて以来、メールで連絡を取り合い、いろいろ貴重な助言を頂いている。
 宮崎大学の英語科で学んだ学生には忘れられないであろうガイ・バタワース先生。私は1970年代にお世話になった。ジョージア州に1年間留学した後、宮大に復学したら、バタワース先生が赴任されていた。先生の研究室に挨拶に行って、”I want to study English conversation.” と告げたら、先生から英会話はstudy するものではなく、”I want to learn English conversation.” と表現すべきだと指摘されたことを覚えている、などといった思い出話は前のブログ「アフリカをさるく」の中の「バタワース先生」の項で既に書いた。
 先生は長く宮大で英語を教えた後、2001年にアメリカに帰国され、故郷のニュージャージー州で奥様のケイティと一緒に住まわれている。今回の旅で機会があれば、ご自宅にうかがいたいと思っていた。その旨伝えると、いつでもいらっしゃいとのことで、昨木曜夜から3泊4日でお世話になっている次第。
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 ニューイングランドも悪くなかったが、ここクランベリーもいいところだ。ボストンを立つ時は生憎雨模様で陰鬱とも表現できるぐらいの天候だった。クランベリーに着き、一夜明けた金曜の今は気持ちのいい天気となっている。先生の家の2階バルコニーに出て、このブログをアップしているところだが、テーブルの温度計は摂氏24度、湿度55%。溜息をつきたくなるほどのどかだ。事実、今一つ溜息をついてしまった。そばで物音がしたので、視線を走らせると、リスがバルコニーまで階段を上がってきて、急いで逃げて行った。
 裏手は高い木が茂った林になっており、その奥は公園だという。車の音もあまりせず、何だか避暑地の別荘に来たような感覚だ。今日は朝、近くのレストランで3人で朝食を食べ、帰り道、先生に通りに面している家々や建物の歴史など話してもらった。
 クランベリーはニュージャージー州の中でも古い町のようで、ガイドブックによると、1680年ごろにはイングランドやフランス、ドイツなどの入植者が暮らしていたという。通りに面した家々にはその家が何年に築造されたかがプレートで示されているが、1800年代中ごろの築造が多かった印象だ。中には1700代の建築物もあり、この国の建物がいかに大事にされているかを改めて感じた。日本と同じ木造の家々でこうだ。日本なら、100年以上経過した木造の家は珍しいのではなかろうか。いや、私はこの方面にも疎いから、間違っていたなら、ご容赦を。
 ニューイングランドを駆け足で回ってきたので、少し疲れている。という理由でこのブログをアップしたら、このバルコニーで心地よい風に吹かれて、ゆったり、本でも読もうと考えている。すぐに眠るかもしれないが。まことにありがたい。
 (写真は上から、カフェの前で、バタワース先生とケイティ。クランベリーの落ち着いた街並み)

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