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September 2011

デッドソックス(Dead Sox)

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 ボストン・レッドソックスのプレーオフ進出はならなかった。それにしても劇的な終幕となった。28日夜のナイトゲーム。レッドソックスは東地区最下位のボルティモア・オリオールズと対戦し、3対2で1点リード。9回裏、抑えのエースが気迫の連続三振を奪い、2死までこぎつけていた。同率で並び、ワイルドカード争いをしているタンパベイ・レイズは既にプレーオフ進出を決めている東地区1位のニューヨーク・ヤンキースと対戦、8回表まで7対0で苦戦を強いられていた。ニューイングランドの人々は誰もが、レッドソックスのプレーオフ進出を確信していただろう。
 ところがである。抑えのエースがここから手痛い3連打を浴び、あっという間に逆転を許し、屈辱的さよなら負けを喫したのである。しかも、最後はレフト前のライナーをレフトの選手が一旦グラブに収めながら、ボールをこぼすという拙いプレーが命取りとなった。このレフトを守る選手は高額のトレードで入団したベテランだが、それに見合う活躍をしたとは言えず、ゲーム終了後、ファンや地元メディアから非難の矢面に立たされていた。
 これに比べ、タンパベイは8回裏から奇跡的な大逆転を演じた。8回裏に6点を返して、最終回にツーアウトからホームランで同点として、12回裏に再びホームランが出てさよなら勝ちを収めた。さよならホームランはレッドソックスがさよなら負けした直後に飛び出した。野球大好きで大リーグファンの私にはこたえられない一夜となった。
 私はボストンのダウンタウンのバーにいて、最初の数イニングを見て、タンパベイが大量失点をしていることもあり、レッドソックスが勝てば良し、負けても29日にワイルドカードの決定戦に出る権利だけは確保するだろうと思いながら、郊外の宿に帰るため、地下鉄の駅に急いだ。バーのお客もこの夜だけはヤンキースに声援を送り、上機嫌だった。ホテルに戻ってテレビをつけてみると、上記の展開となっていた次第だ。
 前兆はあった。レッドソックスは1点リードした後も再三好機を迎えていたが、拙い走塁やワンアウトの3塁ランナーを返せないなどの詰めの甘さで、あれ大丈夫かな、このチームは、と何度か思っていたからだ。少なくとも、プロ野球がお手本とするような好プレー続出のゲームではなかった。レッドソックスは負けるべくして負けたと言えるだろう。
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 当然のことながら、一夜明けた木曜日のこの日、地元メディアでは「大リーグ創設以来の歴史的メルトダウン」だの「壮大なる崩壊」などと、地元チームの惨敗を憂い嘆く大合唱となった。特にレッドソックスに代わりワイルドカードを手にしたタンパベイのプレーヤーの報酬がレッドソックスに比べ格段に低いことも彼らの怒りに火をつけたようだ。
 大リーグは162試合の長丁場ながら、28日に全30チームが全ゲームをきれいにそろって終了した。この辺りはプロ野球には真似のできない芸当だ。
 (写真は、レッドソックスの敗退を報じる29日付けのボストングローブ紙の一面とスポーツ面。チーム名にひっかけて、Red Sox ならぬ Dead Sox とうたっている。立ち寄った同じニューイングランドのコネティカット州ハートフォードの新聞も同じ論調だった)

ボストンへ

 ニューベッドフォードを出て、マサチューセッツ州を代表する都市のボストン周辺に来ている。「ボストン周辺」と表現しないといけないところがつらい。
 歴史の香り漂うボストンのダウンタウンの中心部のホテルはとても高くて手が出ない。それで私でも泊まれる安価な宿を探すと、例によって、郊外の列車で30分ぐらいの距離にある町まで離れなくてはならない。とてもボストンに「滞在」しているとは言えない。
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 私はずいぶん最近まで、ボストンはニューヨークの南にあると思っていた。だからニューイングランドと言えば、ニューヨークも含まれると思っていた。そうではなかった。ニューヨークはニューイングランドには含まれない。ニューイングランドはボストンのあるマサチューセッツ、メーン、ニューハンプシャー、ロード・アイランド、コネティカット、バーモントの6州を指す総称で、ニューヨークは該当しない。
 ボストンとニューヨークの関係は私は良くは分からない。ただ、大リーグに関する限りはそれぞれの地元チームの応援で、まるで「親の仇」のように激しい敵対心をお互いに抱いているようだ。ボストン・レッドソックスとニューヨーク・ヤンキース。ニューベッドフォードに着いて以来、携帯ラジオでボストンから発せられるFMのスポーツラジオ局を聴いているが、いや、レッドソックスファンの「かわいさ余って・・・」か、最近不振の主力選手に対する批判の声がすさまじい。
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 というのも、今、レッドソックスが歴史的な窮地に立たされているのだ。大リーグはアメリカンとナショナルの2リーグでまずチャンピオンを決めるが、リーグチャンピオンはそれぞれのリーグの3地区の1位に、最も好成績の2位のチームを加えた4チームによるプレーオフで決定される。プレーオフに進める2位のチームはワイルドカードと呼ばれる。
 レッドソックスは9月初めの時点ではライバルのヤンキースと東地区の首位を争っており、ワイルドカードの権利で言えば、同じ東地区のタンパベイ・レイズに9ゲームの大差をつけ、少なくとも10月のプレーオフ進出は確実視されていた。それが9月に入って大ブレーキがかかり、ついに今月26日にタンパベイに並ばれ、現時点でともに90勝71敗。今このブログを書いている28日夜、異なる対戦相手と公式戦162試合目の最終戦が行われようとしている。仮に両チームともこの最終戦でともに勝つか負けるかして同率の場合、29日に両チームによるワイルドカードの決定戦が行われる運びだ。
 ボストンの代表的地元紙、ボストングローブのコラムニストは28日付紙面のコラムで「ニューイングランドに住む人々は代々、質実さで知られてきた。また、大いなる困難を克服することでも知られてきた。他の人々や我々自身が無理だと見なしたことさえやり遂げてきた」と述べ、レッドソックスが死力を尽くし、10月のプレーオフまで勝ち残るよう叱咤激励していた。
 (写真は上が、ボストンのダウンタウン。アメリカの建国の歴史に触れる観光客で賑わっていた。下が、アメリカ建国の父の一人、政治家サミュエル・アダムズの銅像)

中濱万次郎のこと

 ニューベッドフォードから川をはさんでフェアヘイブンという町があり、ここは日本とのゆかりが深い。あの中濱万次郎が最初に住んだ地だ。ジョン万次郎といった方が分かりが早いか。かねてから話は少し聞いていたので、足を運ぶつもりではいた。
 ニューベッドフォードの捕鯨博物館を最初に訪れた時のこと。広報担当のモッタ氏は私が日本人と知ると、開口一番、館内にある万次郎ゆかりの展示物に私を案内した。「実は来週(30日)日本から多くの人たちがこの博物館にやってきます。ドクター・ヒノハラという人をご存知ですか。彼が、フェアヘイブンのマンジロウのホームを保存するのに多大な貢献をされており、マンジロウ・フェスティバルで来られるのですが、ドクターは近々100歳の誕生日を迎えられるので、その誕生祝いもあると聞いています」と語る。
 フェアヘイブンにあるという万次郎が住んでいた家を訪ねてみた。万次郎は江戸時代の1841年、現在の土佐清水市から漁に出ていて、船が嵐に遭い、無人島に漂流。当時14歳の少年だった万次郎を含む漁師5人を救ったのが、ニューベッドフォード出港の捕鯨船であり、その船長のウイリアム・ホイットフィールド氏が最年少の万次郎だけを伴い、2年後の1843年に帰港し、自分が住んでいたフェアヘイブンの家に彼を住まわせる。アメリカ本土に住んだ初の日本人が万次郎ということになる。船長は彼をここで学校に通わせ、万次郎は英語だけでなく測量やナビゲーションも学んだ。彼が帰国後、鎖国から明治維新へかけて日本の近代化に貢献したことは歴史に刻まれている。
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 彼が住まわせてもらった船長の家はWhitfield-Manjiro Friendship Houseと名付けられていた。フェアヘイブンにあるホイットフィールド・万次郎フレンドシップソサエティーの理事長、ジェラルド・ルーニーさんに案内してもらった。このフレンドシップハウスがオープンしたのは2009年5月のこと。家が売りに出されていることを知った万次郎ファンの聖路加病院理事長の日野原重明氏が孤軍奮闘し、記念館として残す保存運動に尽力された経緯をジェラルドさんは縷々(るる)説明してくれた。
 10月1日に13回目になるマンジロウ・フェスティバルが催されることもあり、土佐清水市の人々と一緒に日野原氏が来訪する運びになっているという。「博士の100歳の誕生日は10月4日ですが、100歳の誕生日を迎えるに当たっては、我々のところに来ると前々から約束されていたのです。それでフェスティバルの前日の30日に皆でお祝いをする計画です」とジェラルドさんは語った。
 万次郎の子孫の中濱家の人たちとホイットフィールド家の人たちは今も親密な交流を続けていることも知った。少年万次郎は無学に近い身で一人アメリカに連れてこられ、家族や故郷から遠く離れ、手探りで英語をそしてアメリカという国、社会を学んでいったのだろう。その辛苦は私たちや今の若い世代が留学して味わう苦労とは比較することさえはばかられる。
 (写真は、マンジロウの記念館でマンジロウゆかりの品を説明するジェラルドさん)

ハーマン・メルビル (Herman Melville) ③

 ニューベッドフォードの人々はメルビルに対してどういう思いを抱いているのだろうか。捕鯨博物館の広報担当、アーサー・モッタ氏に尋ねた。
 「この町は今も漁業が盛んです。特にホタテガイ(scallop)で知られています。捕鯨は姿を消しましたが、漁業全体の漁獲高では今なお全米一です。多くの人がこの町の名を高めたメルビルに畏敬の念を抱いています。今も高校で“Moby-Dick” を読むことは必須となっています。私も高校時代にその難解さに苦労しました。読破はできませんでしたが」
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 作家に敬意を表し、博物館では15年前から毎年1月に、“Moby-Dick” を25時間で音読してしまうマラソン・リーディングを催している。今では1月の恒例の行事として定着、世界中からメルビルファンが集う場となっている。「でもご承知のように、この作品は音読も難解。あれだけの長編だからどの部分に自分が当たるか予測も困難。でも、多くの愛好家が集っています」とモッタ氏は語る。
 メルビルは自信満々で“Moby-Dick” を発表したが、評判は散々。彼は結局NYで税関に勤め、糊口を凌ぐが、家庭的にも幸福な家族とは言えなかったようだ。1891年に死亡した時、NYタイムズ紙に、「メルビルはとっくに死んでいるものと思っていた」という死亡記事が掲載されたという。彼の作品が再評価されるのは死後20年後のことだった。
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 メルビルの不幸は “Moby-Dick” で訴えようとしたことが、当時の社会には理解できなかったことだ。私の手元にある米文学案内本には、メルビルが描いた捕鯨は人間が知識を追求する a grand metaphor (壮大な隠喩)であると解説されている。エイハブ船長に率いられた船は白鯨に砕かれ、イシュメールただ一人を除き、藻屑となることが象徴するように、いくら自然科学の知識を身に付け、機械化が進んでも、人間(文明)が白鯨(自然)を凌駕することはないとのメッセージが読み取れると。
 捕鯨活動が世界中から疎まれる今日では想像しにくいが、鯨油を求めた捕鯨業は石油が見つかるまでは大事な産業であり、漁港に恵まれたニューベッドフォードのあるニューイングランド地方では都市の発展の原動力となった主力産業だった。その意味ではメルビルが描いている世界は当時はかなりの「普遍性」がある物語だったのだろう。
 手元の文学案内はこうも述べている。「小説のエピローグ(結末)は悲劇性を和らげている。メルビルは作品を通し、友情の大切さ、異文化との交流の大切さを強調している。捕鯨船が破壊され、イシュメールが助かるのは彼の友人となった人食い人種で銛打ちのクイークェグが作った棺桶が海面に浮かんでいたからだ。Ismael is rescued from death by an object of death. From death life emerges, in the end. (イシュメールは死の淵から死にまつわる物体により救われる。死から最終的に生命が生まれる)」。メルビルは人間の無限の可能性を最後まで信じていたのかもしれない。
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 (写真は上から、ニューベッドフォードで遭遇した海の幸を味わうイベント。名産のホタテを揚げているところ。これはグリルしたホタテで一皿7ドル。うまかった)

ハーマン・メルビル (Herman Melville) ②

 ニューベッドフォードに来たら、ここに行こうと決めていた。ダウンタウンにある捕鯨博物館だ。一階の受付で訪問の意図を告げると、入場料を免除してくれた。クジラについて色々と学んだ。leviathan (リバイアサン、海獣)とも称される地球上で最大の動物のクジラが大きいことは承知していたが、巨大なクジラになると、人間2500人分、ゾウの40頭分に当たる200トンの重さになるという。
 目指すは『白鯨』のコーナー。作家のメルビルは1819年に生まれ、1891年に没している。彼が生きた時代はニューベッドフォードが先に書いたように世界の捕鯨業の中心地として栄えた時代とぴったり重なる。NY生まれの彼は生活苦から1940年にニューベッドフォードに来て、小説の語り手イシュメールのように捕鯨船の船員となる。
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 「メルビルがここに来た時は21歳の背の高い、十分な教育を受けていない男でした。彼の船は1941年1月に出港し、彼は途中で航海の厳しさから船から逃げ出すなど苦労を重ね、3年後の44年に帰港。船中で手に入るあらゆる本を読みふけり、帰港後も歴史から宗教、自然科学など幅広く勉強して、作家として独り立ちしました」「小説は二人の男の探求の物語です。自分の左足を食いちぎった白鯨を執念で追うエイハブ船長と、神秘に満ちたクジラと人生の真理を追うイシュメールの物語です」などと紹介されていた。
 再び図書館。小説をめくっていて、思い出した。私がこの小説を読破できたのは7、8年前のことだが、以下のようなクジラを食する国民として興味深い章に出くわして、この章がもっと早く出てきていたなら、もっと早い時期に読破できていたのではと思ったことを。「料理としてのクジラ」(The Whale as a Dish)というタイトルの第65章だ。
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 It is upon record, that three centuries ago the tongue of the Right Whale was esteemed a great delicacy in France, and commanded large prices there. (300年ほど昔、フランスではセミクジラの舌は大いなる美味として珍重され、高価な値がつけられたことが記録として残っている)The fact is, that among his hunters at least, the whale would by all hands be considered a noble dish, were there not so much of him; but when you come to sit down before a meat-pie nearly one hundred feet long, it takes away your appetite. (実は、捕鯨に携わる者の間では少なくとも、誰に聞いても、クジラが立派な料理であると認めることだろう。あれだけの量でないとしたらの話だが。30メートルも長さのあるミートパイを前にしたら、誰でも食欲が失せるというものだ)
 正直、私は欧米諸国が捕鯨に精を出したのは、クジラの肉を求めてのことだとずっと思っていた。だから、灯油あるいは潤滑油としての鯨油が目当てだったとこの小説で初めて知った。だから、第65章を読み終えた時は、思わず、「そうだろ。日本とノルウェーの捕鯨を少しは理解して欲しいよな」と心の内でつぶやいたものだ。
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(写真は上から、小説ではWhaleman’s Chapel と記されているSeamen’s Bethel教会。説教壇が船の舳先のようだ。メルビルが実際に座った信者席だという表示もあった)

ハーマン・メルビル (Herman Melville) ①

 “Call me Ishmael.” という書き出しで始まる小説 “Moby-Dick” (『白鯨』)は1851年に書かれた。私は大学1年生の米文学の講義でこの作品に遭遇。いや、難しすぎて、正直に告白すると、最後まで読み通せなかった。それでもレポートは提出した。いや、何を書いたかろくに覚えてもいないから、惨憺たる内容だったことは間違いない。それでも、単位はもらえた。この旅に立つ直前、何十年ぶりに再会した先生にそのことを問うたところ、「いや、君は確かきちんと講義には出席していたと思う」と温かい言葉をかけてもらった。
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 “Moby-Dick” を読破していないことがずっと気になっていた。それで社会人になってからも改めて原書を買い求め、何度となく読み通そうとして、ことごとく「討死」した。文章が難解なのはもちろんだが、捕鯨のテクニカルなことが記述されていて、途中で投げ出したくなり、事実、投げ出したのだ。今回の旅で出会った読書好きの人々にも、あなたは“Moby-Dick” を読んだことがありますかと尋ねた。多くの人が、いや、途中で読むのをやめたと言った。私だけではない。ネイティブの人でも苦労するのだ。少し気が晴れた。
 ニューベッドフォードに着いて、図書館で改めて“Moby-Dick” を借り出してぱらぱらとページをめくってみる。以下のような文章に出会うと、思わず、ほほが緩むというものだ。
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 So, wherever you go, Ishmael, said I to myself, as I stood in the middle of a dreary street shouldering my bag, and comparing the gloom towards the north with the darkness towards the south—wherever in your wisdom you may conclude to lodge for the night, my dear Ishmael, be sure to inquire the price, and don’t be too particular.
 (お前さんがどこに行こうと、イシュメールよ、と僕はバッグを肩にして憂鬱な通りに立ち、北の陰気さと南の暗さを比較しながら、自分に向かって言ったんだ。お前さんが知恵を働かせて今宵の宿を決める際には、親愛なるイシュメールよ、必ず、値段を確認することだ、細部にこだわってはならないよと)

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 今の私と全く同じだ。私はイシュメールのように、葬式の列に出合うと最後尾について歩きたくなったり、また表に飛び出すと歩いている人たちの帽子を次々にはたき落としたくなったりして、そういう気分の時に無性に海を目指したくなる性分ではない。だが、今回の旅に出て以来、ほぼ連日、ホテルやホテル斡旋業者にメールや電話で一番安い値段を聞いている。ホテルの予約はネットでするのが一番安い。直接電話ですると、割高になる。だが、所詮アナログ人間の私はこれが苦手で、しょっちゅう「ネットがどうもうまくいかない。お願いだから、ネットと同じ値段でこの電話で予約させていただけないか」と泣き付く。2回に1回はこの手が通じる。とここまで書いて、作品の話とは全然関係ないことにふと気づく。この作品は難解だから、私にはあまり書けることはない。
 (写真は上から、次回に書く捕鯨博物館。クジラの骨組みが天井から吊るされていた。展示物の一つで、日本の難波漁船から見つかった江戸時代(1791年)の日本地図。「日向」の上の方に「米良」の地名が逆さに記してある。私の出身地の旧地名で正直驚いた)

モービー・ディックの町へ

 NYを出て、ニューイングランドと呼ばれる北東部に来ている。今いるところはニューベッドフォード。ハーマン・メルビルの名作『モービー・ディック』(Moby-Dick)の舞台となった町だ。
 長距離バスでこの町の停車場に降り立った時は、うら寂しい町に来たなという印象を抱いた。それでも、この町は人口10万人近いマサチューセッツ州南部の中心都市だという。
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 街を歩く。石畳があり、いかにも歴史を感じさせる。通りには町の歴利を説明した案内表示があり、それを読むと、この町が19世紀から20世紀初めにかけ、捕鯨(whaling)で栄えたことが分かる。観光案内所のような事務所を訪れると、町の歴史を20分間のビデオにまとめたものを見せてくれた。タイトルは “The City That Lit the World”(世界を照らした町)。かつて世界の捕鯨の中心地だった誇りがビデオから伝わってきた。
 “Lit” という表現が使われているのは、かつては、クジラの脂肪油である鯨油が灯油として、またロウソクの原料として活用され、世界の夜を照らしたからだ。特にマッコウクジラ(sperm whale)の頭部から採取された sperm oil と呼ばれる潤滑油が重宝された。だが、それも石油の発見で需要が激減し、ここでは1925年を最後に捕鯨船は姿を消す。
 タクシーに乗って、郊外の安ホテルに向かう。ダウンタウンに宿泊したいのだが、ここでも手が出ない。運転手さんが言う。ダウンタウンにいる時はバッグに気をつけて。ドラッグでいかれている連中が多いからとのこと。ここでも図書館をのぞく。いや、ここも無料で私のような者にも本を読ませてくれるし、ラップトップも使わせてくれる。いや、第一、私が地元の住民か旅行者かどうかもほとんど気にしていないようだ。このあたりの懐の深さがさすがアメリカ――。
 図書館受付のわきにパソコンが置いてあって、顔写真付きで名前、住所、人種、髪の毛の色、身長、体重などが付記された画面が次々に変わっていく。何だろうと思ってのぞきこむと、”This individual is not wanted by the police.” (この人は警察が行方を追っている人ではありません) と画面の一番上に書かれている。画面の下には主に幼児・少年・女性に対する性的暴行事件の犯罪歴が記されている。そばに立っていた中年男性が「驚いたかい?ここにはこういう恥ずべき連中が300人ぐらいいると聞いているよ」と声をかけてきた。こうした「告知」が図書館のような公的施設でなされるのもアメリカの現実か。
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 ニューベッドフォードに着いてから、毎朝、朝食を食べに足を運んでいたダウンタウンのレストランがある。パソコンも使えるし、居心地がいい。なぜか夕方は6時で店仕舞い。もったいない。お店の若者に夜もやれば繁盛するのにと言うと、「前は夜8時までやっていたけど、最近は誰も夜はこの辺りは歩いていないので、6時で店仕舞いにした」と語る。
 (写真は上が、ニューベッドフォードのダウンタウン。観光客を対象にしたツアーガイドに何度も遭遇した。下が、図書館前に立つ捕鯨の歴史を象徴するアート)

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)④

 私はこの小説を読んだのは50歳代になってからだが、爽やかな読後感とともに、時代背景も国も異なるが、不思議とイメージが重なる小説を思い浮かべた。19世紀のロシアの作家、ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』だ。
 小説の大団円でカラマーゾフ家の三男アレクセイ(アリョーシャ)が少年たちを集めて激励する場面がある。彼らの友人が夭折したことを受け、その少年の死を無駄にしないよう長く記憶にとどめておくことを訴える感動的シーンだ。彼は自分たちが将来どのような人生を送ることになろうと、今共にしている少年時代は純真な心を持ち合わせていたことを忘れることのないよう力説する。友情で結ばれた少年たちも熱烈に応える。
 私はホールデンが妹のフィービーに対し、「将来は小さな子供たちを危険から守る」仕事をしたいという主旨の希望を語る場面に接して、なぜか、アレクセイの姿が頭に浮かんだ。
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 サリンジャー研究で知られる気鋭の大学教授に話を聞く機会を手にしたので、この先生に尋ねてみた。NYから電車で2時間近い距離にあるニューヘイブンという地にある名門エール大学で文学を教えるエイミー・ハンガーフォード教授だ。
 「私はこの小説を読んで、『カラマーゾフの兄弟』を想起しました。私には青春賛歌に感じました。アメリカの読者はどういう印象を抱いているのでしょうか」
 「アメリカでもそういう風に読み取る向きは昔からあります。ただ、作品自体は当時の社会階級の問題が人間関係に及ぼす緊張、確執が色濃く反映されています。スーツケースの質の違いがルームメートにもたらした微妙な感情(注)についてホールデンが語る場面を覚えていますか。あれなど象徴的な場面です」
 「サリンジャーはこの作品で名声を得て、その後、1960年代以降は世間から隔絶した生活を2010年に死去するまで続けますが、何がそういう隠遁生活を選ばせたのでしょうか。第二次大戦で米軍の情報将校として働き、ナチスの収容所など人間の愚かさについて強烈な経験をしたことが一因していると言われていますが」
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 「そういうこともあるかとは思います。ただ、彼の他の作品を合わせ読むと良く分かるのですが、サリンジャーは彼自身の家族に向けて言葉を発する、つまり、作品を書き続けたのだと思います。彼には名声など迷惑な話だったのです。だから、ずっと、親しい家族にだけ顔を向けて、言葉を発し続けることを選択したのでしょう」
 「他の著名の作家のように、将来、サリンジャー記念館のようなものができる可能性はあるのでしょうか。あるいは、あっと驚くような自伝が出てくるような可能性は」
「私の知る限り、ないかと思います。彼はプライバシーをどこまでも頑なに守る作家でした。作品一切に対し、あらゆる法的な縛りをかけています。当面は彼に関する驚くような新たな書が刊行される可能性は皆無に近いと思います」
 (写真は上が、ハンガーフォード教授。下が、彼女が教える大学のキャンパス。ブッシュ前大統領が先輩だねと学生に声をかけると、あまりありがたくない顔付きをされた)

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ところで図書館が素晴らしい

 アメリカの旅をスタートして、早くも3か月が過ぎた。あと半分だ。何だかアフリカからずっとこの旅を続けている感じがする時もある。
 ブログを更新しながらの旅だが、さすが、アメリカ、泊まるホテルはほぼ無線ランを装備している。ここ最近NYで泊まっていたYMCAは部屋を替わった途端、ネットの調子が悪くなった。一階のロビーに降りると、同じ悩みを抱えた宿泊客がひざに置いたラップトップに向かっている。だが、私のパソコンはここでも無線ランが通じない。隣のイスに座っていたドイツ人の少女に相談すると、彼女は自分のも最初調子が悪かった、揺さぶっていたら直った、みたいなことを言う。本当かな、と思いながら、ロビーに立ってパソコンを揺すってみたが、何の効果もない。赤ちゃんでもあるまいし。
 フロントの黒人のお兄さんに相談してみる。「私のパソコン、昨日まではネットが使えたのに、今日は全然通じない。どうしたんだろう。Wimaxがオフになっているという表示が出るんだけど、私には何のことやら分からない。ヘルプミー、プリーズ」。この男性は黙って聞いていた。らちが明かないので、パソコンのキーをあちこち触っていたら、突然、インターネットのアクセスが再びできるようになった。
 どうやらパソコンの左側面にこのWimaxとかいうもののスイッチがあり、私は何かの拍子でこれを触り、勝手にオフにしていたらしい。ただ、それだけのことだった。だいたい、そんなスイッチがあることさえ知らなかった。くだんの男性スタッフに「直った」と言うと、「そうだろう。今、そのことを指摘しようと思っていたんだ」とのたまうではないか。
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 NYでは特にそうだが、行く先々でカメラを手にした観光客がにぎやかに楽しんでいる光景はほっとする。写真を撮り放題だ。アフリカでもこうだったら写真を撮るのが楽だったのにと思わざるを得ない。
 NYではNYPL (New York Public Library) と呼ばれる図書館で調べものやパソコンに向かうことが多かった。私のような観光客にも期間限定のメンバー証を即座に作ってくれるから、本は自由に館内貸し出しが可能になる。閲覧申し込みを書くと、5分後には手元にその本が来た。持ち込みのラップトップを使用するための広い部屋があり、ネットも使い放題。何よりもすべて無料。館外に出ても図書館が立つ公園内なら無線ランでネットにアクセスできた。私の知る限りこのような図書館は初めて。さすがだ。
 さらに驚いたのは、パソコンに向かって、これから訪れる地のホテル探しや列車、バスの便を探っているそばを、カメラを手にした観光客の人々がひっきりなしに通り、書棚の本やパソコンに向かっている私たちの写真を撮りまくっているのだ。写真を撮りたい気持ちは分からないでもないが、こんな写真は撮っても意味ないだろうになあ・・・。
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 (その意味のない写真が上、これだけのスペースがあれば、いつ足を運んでも、空いているスペースがあった。そのありがたいNYPL図書館の外観)  

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)③

 これまでの高校生活でただ一人自分を理解してくれると思われた若いアントリニ先生の家を訪ね、ホールデンが先生と交わす会話も興味深い。彼の行く末を案じる先生はいろいろとホールデンを諭す。先生はホールデンがすでにして「転落」の人生を歩んでいるのではないかと危惧する。30歳になるころには、どこかのバーで酒浸りになっており、入ってくるお客の誰に対しても嫉妬や敵意を抱くようなさもしい男になっているのではと。
 例えば、そのお客が自分通えなかったような大学で(花形スポーツの)アメフトをやっていたように見えるとか、あるいは、逆に例えば、正しい文法の英語表現では ”It’s a secret between him and me.” (それは彼と私との間の秘密なのです)というような場面で、”It’s a secret between he and I.” と語るようなお客だったりしたら。
 彼には10歳になる仲のいい妹フィービーがいる。なかなか大人びている妹で、深夜に泥棒猫のようにこっそり帰宅した兄が成績不振で高校を退学になったことを察知すると、六つも年上の兄を手厳しく追及する。お父さん(富裕な弁護士)が今回の退学を知ったら、お兄さんは殺されるわよ、お兄さんは人生で好きなことってあるの、いったい、将来は何になろうとしているの? ホールデンはたじたじとなりながらも、真剣に考え、通りで子供が口ずさんでいた歌(詩)を念頭に、将来は、広大なライムギ畑で遊んでいる大勢の小さな子供たちが崖から落ちないように見守っていて、落ちそうな子がいたら、キャッチするんだと答える。署名の “the catcher in the rye” がここで登場する。なかなか深い表現だ。
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 小説の末尾でホールデンとフィービーとのやり取りが描かれる。一人で家出するという兄についていくため、妹は昼食で帰った自宅から自分の衣服を詰め込んだスーツケースをひきずって来る。ホールデンは妹について来るんじゃない、午後の授業に戻れと諌めるが、妹は頑として聞き入れない。仕方なくホールデンは家出をしないことを妹に約束する。二人は回転木馬がある場所に歩き、ホールデンはフィービーに木馬に乗らせる。彼女は昔から木馬が大好きなのだ。仲直りした妹が乗る回転木馬を見ていると、バケツをひっくり返したような雨が降ってくる。雨に打たれながら、ホールデンはなぜか、幸福な気分に浸る。
 I felt so damn happy all of a sudden, the way old Phoebe kept going round and round. I was damn near bawling. I felt so damn happy, if you want to know the truth. I don’t know why. It was just that she looked so damn nice, the way she kept going round and round, in her blue coat and all. God, I wish you could’ve been there. (僕はフィービーのやつが木馬に乗って何度も何度も回っていくのを見ていて、突然とても幸せな気分になった。ほとんど叫びだしたいくらいだった。本当なんだ。とても幸福に感じたんだよ。なぜだか自分でも分からない。妹は青いコートを羽織っていて、何度も何度も回っているんだが、見栄えが抜群に良かった。ほんと、みんな一緒にいたらいいのにと心から思ったよ)
 (写真は、リバティー島からグラウンド・ゼロのあるマンハッタンの高層ビル群を望む。この写真ではそうでもないが、絵葉書のように美しい光景だった)

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)②

 ホールデンはさらに寂しさから昔多少の付き合いのあった美少女のサリーをデートに誘い、スケート場のバーで駆け落ちのようなことをやろうと語りかける。もちろん、サリーは全然乗って来ず、ホールデンは急に相手に対する気持ちが冷めてしまい、席を立つ。よせばいいのに、その際、次のような痛烈な一言を発してしまう。
 “C’mon, let’s get outa here,’ I said. “You give me a royal pain in the ass, if you want to know the truth.”
 この ”a royal pain in the ass” も強烈な表現だ。3日続けて痛飲すると、通院したくなるほどの「痔主」の兆候がある私には、単に “a pain in the ass” だけで十分恐れおののきたくなる気分だ。 ”royal” (王室の)という箔が付いたところで、うれしくもなんともない。字面通りの訳ははばかられる。幸い、辞書には ”a pain in the ass” は「頭痛の種」という訳が出ている。ここはおとなしく、次のような訳でいいのだろう。
 「さあ、ここを出よう」と僕は彼女に言ったんだ。「今の自分の気持ちを正直に言うと、君は今の僕にとってうんざりするほどの厄介者だよ」
 ここまで侮辱されて、サリーが怒髪天を衝いたのは当然だろう。ホールデンは平身低頭、謝罪するが、彼女は許してくれない。
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 この小説ではホールデンや他の登場人物のいわゆるswear word(ののしりの言葉、口汚い言葉)が頻出する。“ya goddam moron” とか “For Chrissake” (Christ’s sake)、あるいは sonuvabitch (son of a bitch) などといった表現だ。このあたりが若者の当時の「肉声」を反映して、注目を集めた一因かもしれない。
 ホールデンは酒は飲むわ、たばこも吸うわ、落第するわと優等生からは程遠い少年だが、一本心が通っている少年だ。彼は世間一般でまかり通っているphony(いんちき野郎)やそうした人々のphoneyな言動が許せない。以前に通っていた高校では、身なりの良い裕福な親とは笑顔を振りまいていくらでも話に花を咲かせるが、そうでない親とは単に握手をしてさっと過ぎ去ってしまう校長先生に我慢ができなかった。彼は男であれ、女であれ、そういう人たちを見ると、嫌悪感を抑えきれず、吐き気さえ感じてしまう。そこに読者は共感を覚えるのだろう。
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 小説が発表されたのは1951年のこと。サリンジャーは1919年の生まれだから、当時32歳の若さ。小説は発表後すぐにベストセラーとなり、サリンジャーは一躍流行作家となる。普通なら、理想的な展開だろう。ところが、これはサリンジャーにとって全然好ましくない展開だった。彼はこの後も作品を執筆、発表するが、段々と表舞台から遠のいていく。1963年以降は彼の作品が出版されることもなくなり、隠遁生活の作家として名を馳せることになる。昨年1月、91歳で死去。
 (写真は上が、小説にも出てくるメトロポリタン美術館。ここも多くの観光客で賑わっていた。下は、そこで見かけた19世紀の油絵の一つ。これを見ただけでも訪れた甲斐があった)

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)①

 サリンジャーと言えば、『ライムギ畑でつかまえて』だろうか。英語のタイトルは ”The Catcher in the Rye” という。私ははるか昔の学生時代に英語科の後輩がこの作品を卒論のテーマに選んでいることを知っていたが、実際に読んだことはなかった。ふと思い立ち、読んだのはつい数年前のような気がする。
 こんなに面白い作品だとは思わなかった。抱腹絶倒といったら言い過ぎだろうが、思わず吹き出したくなるシーンが幾度かあった。絶対に今回の旅の中に含めたかった小説だ。
 物語は、ニューヨークに住む16歳の少年、ホールデン・コールフィールドが自分の人生を読者に語りかける形で進んでいく。冒頭のシーンではホールデンが成績不振で四つ目の高校を退学することになったため、恩師の一人、スペンサー先生を自宅に訪ね、別れの挨拶をする。この老齢の恩師はホールデンの話にうなずきながら聞いていたが、そのうちに鼻をほじりだす。ホールデンはさすがに愉快には感じない。
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 Old Spencer started nodding again. He also started picking his nose. He made out like he was only pinching it, but he was really getting the old thumb right in there. I guess he thought it was all right to do because it was only me that was in the room. I didn’t care, except that it’s pretty disgusting to watch somebody pick their nose.
 (スペンサー老は再びうなずき始め、それから鼻をほじりだしたんだ。鼻をつねっているだけだかのように装っていたが、実際には自分と同い年の親指を鼻孔に入れていたんだよ。部屋の中にはいたのは僕だけだったので、先生は許される行為だと思ったのだろう。僕はまあどうでも良かったが、人が鼻をほじるのを目の当たりにするのはあまり気分がいいものではないよな)

 次のシーンでも本当に声に出して笑ってしまった。ホールデンが退学処分を受けた高校を去って、ニューヨークの実家に帰る前に繁華街に遊びに行く場面だ。ホールデンは泊まったホテルのバーで有名芸能人見たさに西海岸のシアトルからやって来た、あまり愛想の良くない3人のお姉ちゃんたちと、退屈しのぎにダンスをしようと悪戦苦闘する。
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 I danced with them all – the whole three of them – one at a time. The one ugly one, Laverne, wasn’t too bad a dancer, but the other one, old Marty, was murder. Old Marty was like dragging the Statue of Liberty around the floor. (僕は彼女たち三人全員と一人ずつ踊った。ラベルネという名の一人だけ見てくれの良くない子は踊りはそう悪くなかったが、もう一人のマーティーという子はいやはや凄かった。彼女と踊るのは、自由の女神像をダンスフロアで引きずり回すようなものだったよ)
 (写真は、これがニューヨーク港内のリバティ島にそびえ立つ、本当の「自由の女神像」(Statue of Liberty)。合衆国独立100年を記念してフランスが寄贈。アメリカの自由と民主主義を象徴している。台座から上の像自体の高さだけでも46メートル。これを引きずり回すのは大変だ。フェリーで訪れる観光客にも連日大人気)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)⑤

 フィッツジェラルドはこの作品に着手する前も書き終えた後も、かなりの手応えを感じていたようだ。当時住んでいたパリからアメリカの編集者に書き送った手紙には、”I think that at last I’ve done something really my own.” (私はついに真に私自身のものと呼べるものを完成させたと思う)と述べている。
 しかし、1925年の刊行直後の書評はあまり芳しくなかった。ある批評家は ”We are quite convinced after reading The Great Gatsby that Mr Fitzgerald is not one of the great American writers of today.” (The Great Gatsbyを読み終えて、フィッツジェラルド氏が今日、アメリカの偉大な作家の一人とは言えないことを私たちは思い知った)とまで酷評したという。そこまで言うか。売れ行きも思わしくなかった。
 彼の晩年もあまり静穏なものではなかったようだ。熱情的恋愛で結ばれ、パリで暮らすなど派手な生活を一緒に送った愛妻は精神を病み、最後には施設に収容された。彼は西海岸のハリウッドで映画のシナリオを書く仕事に就き、病妻や一人娘の生活を支えたが、時に酒に溺れる日々もあったという。最後まで創作意欲は衰えなかったものの、1940年、持病のようになっていた心臓発作で死去。皮肉にも死去後、作家と彼の代表作に対する評価は一気に高まっていった。
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 NY在住でフィッツジェラルド協会の代表でもあるルス・プリゴリ教授は小説を読み解くかぎは、南北戦争を経て第一次大戦後の米社会で起きていた、農業国から工業国への、さらに大資本ビジネスが勃興する激しい変化にあると指摘する。「誰もが成功を求めてNYのある東を目指したのです。主要登場人物が中西部出身である必然性があったのです。語り手のニックは結局、ギャッツビーが敗れ去った華やかさの陰の部分や腐敗に辟易して、一時的にせよ、中西部に戻ることになるわけです」
 私がNYに来て公立図書館でたまたま借り出して読んだ ”The Great Gatsby” (1998年版)はプリゴリ教授がIntroductionを書いていた。その中で教授はその序論を “ At the end, despite the powerful image of loss, we share Gatsby’s romantic hope; like him we are beating against the current. Surely that image of the individual pursuing his destiny, however fruitless that pursuit may prove, is the greatness of Gatsby, and perhaps of us all. (最終的に喪失の大きなイメージにもかかわらず、我々はギャッツビーのロマンチックな希望を共有している。彼のように我々も流れに抗して突き進んでいる。疑うことなく、個人が自分自身の運命を追求する姿は、その探求がいかに実りのないものであったとしても、ギャッツビーの偉大さと重なるものであり、それは我々すべての者にとって等しく言えることだ)と締め括っている。
 先に紹介したドライサーの “An American Tragedy” も同じ1925年の刊行だ。悲劇をテーマにした名作二つの読後感は極めて異なる。
 (写真は、作品にも出てくる33番街のペンステーション)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)④

 ”The Great Gatsby” の中でギャッツビーは “old sport” という呼びかけを多用している。何と訳せばいいのだろう。この作品は若者に人気のある作品だけに今なお新訳が刊行されているようだ。確か村上春樹氏の新訳本ではあえて日本語に訳することはせず、「オールド・スポート」と記していたような記憶がある。これも一つの訳し方だとは思うが、それでも、「日本語」としては意味をなさない呼びかけであることに変わりはない。
 私が使っている電子辞書の英英辞典にはこの表現は「主に男同士で親しい間柄で使う呼びかけ」と紹介されている。「マイフレンド」といった表現では不十分なようだ。私は何となく「お前さん」という表現が頭に浮かんだ。夫婦関係で使われる「お前さん」ではない。ある程度の親しい関係にあり、使う方が多少なりとも年長、優位な立場にある時に使われる「お前さん」だ。例えば、ギャッツビーがニックに向かって次のように言う時は、「お前さん」がぴったりとも思えないでもない。“If you want anything just ask for it, old sport.” (欲しいものは何なりと声をかけてくれ、お前さん)null
 「お前さん」という呼びかけはそう呼ばれることに相手が不快感を抱くような場合は使えない。”old sport” が「お前さん」と「似ているかな」と思ったのは、恋敵の金持ちの男、トム・ブキャナンがギャッツビーからこう呼ばれて激怒するシーンに出くわした時だ。
 “Don’t you call me ‘old sport’!” cried Tom. Gatsby said nothing.(「俺のことを『お前さん』などと呼んでくれるな!」とトムは叫んだ。ギャッツビーは何も答えなかった) 
 この応酬の前にも、トムとギャッツビーの間で次のようなやり取りがある。
 “That’s a great expression of yours, isn’t it?” said Tom sharply.
 “What is?”
 “All this ‘old sport’ business. Where’d you pick that up?”
 
 「それはあんたのすげー表現だな。思うに」とトムはとげとげしい口調で言った。
 「え、何がだい?」
 「さっきからあんたが口にしている『お前さん』って物言いだよ。いったいどこで覚えてきたんだい?」
 
 この旅を始めてからも多くの場所でアメリカの人たちに、この表現について尋ねてみた。誰もが認めるのは、意味は分かるが、もう誰も今はこんな表現などしないということだった。さらに、もし誰かがこういう呼びかけ仲間内でしているのを耳にしたなら、「あいつ、なんだか気取った物言いをしているな。偉そうに」と思うかもしれないということだった。
 ギャッツビーがあえてこの呼びかけに固執したのは、当時のイングランドの上流階級のような物言いをすることで、自分の貧しい出自を「薄め」、周囲に「成金」と思われたくないという思惑があったからではないか。
 私の現時点での結論は “old sport” は「貴公」と訳すべしだ。
 (写真は、NYのセントラルパーク。大都市の真ん中でもこのような静寂感が)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)③

 語り手のニックに親しみを覚えるシーンがある。次のような記述のところだ。 
 I took dinner usually at the Yale Club—for some reason it was the gloomiest event of my day—and then I went up-stairs to the library and studied investments and securities for a conscientious hour. There were a few rioters around, but they never came into the library. So it was a good place to work. After that, if the night was mellow, I strolled down Madison Avenue past the old Murray Hill Hotel, and over 33d Street to the Pennsylvania Station.
 I began to like New York, the racy, adventurous feel of it at night, and the satisfaction that the constant flicker of men and women and machines gives to the restless eye. I liked to walk up Fifth Avenue and pick put women from the crowd and imagine that in a few minutes I was going to enter into their lives, and no one would ever know or disapprove. Sometimes, in my mind, I followed them to their apartments on the corners of hidden streets, and they turned and smiled back at me before they faded through a door into warm darkness……
 (私はいつもは、エールクラブで夕食を取った。ともかくも、これは一日のうちで最も陰鬱なひと時だった。食事を済ませると、上階の図書室に上がり、投資や有価証券について1時間ほど入念に勉強した。下の階では大騒ぎする者たちもいたが、図書室までやって来ることはなかった。学習するには適した場所だった。その後は気分の良い夜であれば、私はマディソンアベニューを古びたマレーヒルホテルを見やりながら歩き、33番通りにあるペンステーションまで散歩した。
 私はニューヨークが好きになりつつあった。夜のきわどい心が躍るような感触、男と女や自動車や列車が絶えずせわしなく行き交うのを目にする時の満足感。私は5番街を歩き、群衆の中から好みの女性を選び、彼女たちの生活に入っていく自分の姿を想像したものだ。誰にも知られることなく、とがめられることもない。時には心の中で、人目につかない通りの角にある彼女たちのアパートまでつけて行く自分を思い浮かべたりした。彼女たちは振り向き、私に微笑みを投げながら、ドアを開け、柔らかい暗闇の中に消えていく)
 
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 私も連日、NYの五番街を中心に歩き回っている。まだ、肩をむき出しにしたサマーウエアで闊歩する肉付きの良い若い女性は少なくない。時に、ニックのような「妄想」に身をゆだねたくなる時がないこともない。いや、訂正。ほとんどない。
 上記の文章に出てくるエールクラブはアイビー・リーグの一つ、エール大学の卒業生が集うクラブで、今も同じ場所にある。先夜、知人に連れていってもらったが、ジーンズにスニーカーといういつもの装いだったため、ドレスコードに触れ、お引き取りを願われれてしまった。黒っぽいジーンズでスニーカーも黒だから、ぎりぎりセーフかと期待していたが、さすがに見破られてしまった。
 (写真は、伝統と格式を重んじるNY市のエール・クラブの正面玄関)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)②

 ギャッツビーがニックに近づいたのは、単にご近所になったからだけではない。彼がずっと恋焦がれていた恋人、デイジーと近しい関係にあったことを知ったからだ。ギャッツビーはこの昔の恋人と再会できるよう取り計らってくれることをニックに懇願する。
 そして、彼の望む通り、二人の仲は復活する。この時すでに、デイジーにはトムという傲岸不遜な夫がいたのだが。だが、夢が長続きすることはなかった。物語の終盤では文字通り、悲劇が待っている。ギャッツビーは富も愛もそして命までも失ってしまう。最愛のデイジーがギャッツビーの元に再び駆け寄ることはなかった。
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 語り手のニックが小説の最後にギャッツビーの短い人生、悲劇を思うシーンは以前に読んだ時には気にも留めていなかったが、再読して改めて考えさせられた。次の場面だ。
 That’s my Middle West – not the wheat or the prairies or the lost Swede towns, but the thrilling returning trains of my youth, and the street lamps and sleigh bells in the frosty dark and the shadows of holly wreaths thrown by lighted windows on the snow. I am part of that,…..I see now that this has been a story of the West, after all – Tom and Gatsby, Daisy and Jordan and I, were all Westerners, and perhaps we possessed some deficiency in common which made us subtly unadaptable to Eastern life.
 (これが僕にとっての中西部だ。小麦やプレーリーでも消滅したスウェーデン人の開拓町でもない。若い時分に胸をときめかせながら、よその町から戻ってきた列車の旅であり、霜の降りた暗い通りに立つ街灯であり、聞こえてくるそりのベルであり、雪の積もった窓辺に見えるクリスマスの花輪の影であった。・・・僕は今はこれがつまるところ、西部の物語だったということが理解できる。トムもギャッツビーも、デイジーもジョーダンも僕も皆西部の人間だった。そしておそらく、我々は皆何か足りないものがあって、だから、東部での暮らしにどこかしらなじめなかったのだということが理解できる)

 これまであまり米国の地域的差異は意識してこなかった。この作品でも語り手のキャラウェイが中西部のどこかの都市の出身であることは理解していた。トムもしかり。デイジーはケンタッキー州のルーイビル。ギャッツビーは作家と同じミネソタ州の出身だった。
 彼らにとってニューヨークは「異国」だったのだろうか。そういえば、今回の旅、珍しい客人として歓待された中西部では、私がやがてNYに行く予定と伝えると、ほぼ誰もが「気をつけなさい。東海岸の人たちは抜け目ないから。言葉も早口で理解に苦しむかもしれない」と「忠告」してくれた。日本とアメリカのそれぞれの土地柄を同じように比較できないだろうが、ニューヨークを東京に置き換えれば、日本の地方出身者が上京して暮らしていこうとする時にとらわれる思いに似てはいないだろうかと思った次第だ。宮崎出身で大学までずっと宮崎だった私は少なくとも就職で上京する際、何とも言えない複雑な思いを抱いたことを昨日のように覚えている。今も少し残っているような気がする。
 (写真は、NY中心部の公園でピンポンに興じる人たち。実に居心地のいい公園だ)

スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)① 

 以前にも書いたことがあるが、一度読んだ本は大事な要素はもちろん、粗筋など大半の部分は承知していると思いがちだ。何かの折に再読してみて、「おや、こんな記述があったのか」などと意外に思いながら、読み進むこともままある。アメリカ文学の傑作の一つと目されているこの本、”The Great Gatsby” (邦訳『偉大なるギャッツビー』)は私にとってそういう一冊だった。
 この作品は1925年の出版で、1920年代のアメリカ社会のムードを反映していると評されている。第一次大戦が終了して、アメリカが世界に冠たる先進的民主経済国家として自信に満ちていた時代だ。私が読んだ本の背表紙には “The Great Gatsby is a consummate summary of the ‘roaring twenties’ and a devastating expose of the ‘Jazz Age’.(グレートギャッビーは「狂騒の20年代」を余すところなく描き出し、また、「ジャズの時代」を完膚なきまでに暴露している)との紹介文が掲載されていた。”roaring twenties”は私の電子辞書には”the years from 1920 to 1929, considered as a time when people were confident and cheerful”と説明されている。アメリカという国がそして国民が「自信と活気」に満ちていた時代だったのだろう。
 冒頭に近い次の一節などは、今読めば、少しく手が止まる部分だ。え、あのニューヨークのマンハッタンにある五番街がそういう牧歌的な雰囲気だったのかと。
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 We drove over to Fifth Avenue, warm and soft, almost pastoral, on the summer Sunday afternoon. I wouldn’t have been surprised to see a great flock of white sheep turn the corner.(我々はその夏の日曜日の午後、五番街に車で向かった。牧歌的といってもよさそうなほど、日差しが暖かくかつ柔らかだった。通りの角を曲がったところで、白い羊の大群に遭遇しても僕は驚かなかったことだろう) 
 今は「白い羊の大群」ではなく、デジカメを手にした「観光客の大群」が徘徊している。
 物語の語り手であるニック・キャラウエイは主人公のジェイ・ギャッツビーの豪邸の隣に越してきた縁もあり、彼が豪邸で催したパーティーに招かれる。ギャッツビーはその巨万の富の出所が誰にも不思議がられ、やれ、「人を殺した経歴がある」だの「(第一次)戦争中はドイツ軍のスパイだった」だの、ネガティブな謎に包まれた人物だ。目の前にいるギャッツビーが本人だとは気付かずに、ニックは「いや、自分は隣に越してきたんだが、まだ、ホストに会ったことがないんだ。彼のお抱え運転手に招待状を届けられたから足を運んだんだけどね」と出会ったばかりの男に話しかける。その男は言われた言葉が理解できないかのような顔をして、「私がそのギャッツビーだよ」と答える。ニックの当惑は当然だ。取材で電話をかけた相手に話が通せず「失礼ですが、どちら様ですか」と尋ねたりすることがあった私にはこの当惑感はよく分かる。関係ない話だが。
 (写真は、NY五番街の賑わい。ここでNYは東西に分かれる。「ウエストサイド物語」はこの西側の物語。何を食ってもうまい私はなぜかウエストサイズ物語になりつつある)

ニューヨーク雑感

 9・11の10周年は懸念されたNYでのテロもなく、無事に過ぎようとしている。金土日と市内を歩き、だいぶ町の様子が分かってきた。ただ、私は昔から悲劇的な「方向音痴」。町に慣れるのに人一倍時間がかかる。ビルに入って階段を上がり、少し右左しただけで、すでに自分がどこから入ってきたか分からなくなる。もとより、東西南北の感覚がない。地下鉄や列車に乗っていて常に感じるのは、どうも自分が目指している方向とは逆の方向に向かっているのではないかという思いだ。人生もそうかもしれない。
 それはそれとして、NYに滞在して数日。以下に気づいたことを少し。
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 ミッドウエストでは秋の気配を感じる日々で、朝夕は涼しい感じだったが、ここはまだ日中は蒸す感じだ。汗ばむこともある。日本と似ていると言えようか。
 この週末は当然のことながら、行く先々で、9・11の10周年の追悼イベントに出くわした。地元の高級紙、ニューヨークタイムズ(10日)を読むと、にぎにぎしい公式追悼イベントは敬遠し、この週末は郊外に出かけ、家族や近しい人たちだけで9・11日を迎えたいというニューヨーカーも多いとか。
 街に捨てられたごみが多い。地下鉄の線路わきや通路とかにごみが散乱している。汚いとまでは言わないが、もう少し何とかならないか。その地下鉄は便利は便利なのだが、日本の地下鉄と異なり、路線図やプラットホームの案内があまり分かりやすいものではなく、私のような「お上りさん」には戸惑うことしきり。何度も反対側の電車に乗ってしまった。
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 最初に乗った地下鉄の車内の片面全体に、ユニクロが10月中旬にNYに超大型店を開店するとの広告が張り出されていて、目を見張った。
 泊まっている宿(ホステル)のインターネット事情が芳しくないので、街角のカフェでネットにアクセスしてメールを確認したり、ブログをアップしているが、NYの中心部でもネットのアクセスができるお店は少数派。そういうカフェを探して30分ぐらい歩くことはしょっちゅう。とてもニューヨーカーが自慢する「世界の中心」にいるとは思えない。
 NYは邦人の数も半端ではないようだ。居住者だけで6万人以上とか。当然、日本の飲食店と大差ないうまい居酒屋やレストランがある(ようだ)。紀伊国屋の大きな書店もあった。「週刊文春」を立ち読みした後、「週刊新潮」の最新号(9月15日号)を購入する。日本では340円だが、ここでは8ドル(約660円)だから、2倍の値段か。
 地元の人に聞くと、治安はいいようだ。観光客であふれ返っている中心部は特にそうだ。私のホステルは観光ルートから離れた、少し寂れた感じの住宅街にあり、いろいろな肌の色の人たちが住んでいるが、夜中にうろうろしていても大丈夫な感じだ。9・11がNYの人々の「連帯感」を育んでいるのかもしれない。
 (写真は上から、マンハッタンの真ん中にあるブライアント・パーク。テロでなくなった2753人を追悼する意味で、2753人分のイスが並べられていた。その側では、9・11をどう考えるか、通りがかりの人を対象にした「聞き取り調査」が行われていた)

ニューヨーク着

 フィラデルフィアからアムトラックの列車で北上すること約1時間半、ニューヨーク(NY)に到着した。
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 行方不明から戻ってきたスーツケースを結局、読売新聞社のNY支局に預かってもらうことにした。これでしばらく身軽に旅ができる。かつての同僚のNY支局長にいろいろ地元事情を説明してもらい、当面の宿に向かう。さすがにNYはホテルが手が出ないほど高い。フィラデルフィアのホテルと同じ系列のホテルを当たってみたが、一晩300ドル(約25,000円)を超す値段だ。こんなホテルに泊まっていたら、懐が干上がってしまう。
 それで、若者が泊まるホステルをネットで探したが、それでも一泊70ドル程度。4人が二段ベッドに寝る相部屋で、バストイレは10人以上の同宿者と交代で使う。私がもう少し若ければ何でもないかと思うが、この歳になって20歳代の若者との「共同生活」もなんだかなあと思わないでもないが、懐事情を考えると我慢するしかない。
 下らない前置きが長くなった。NYはさすがにNYだ。海外からの観光客で活気にあふれている。この日曜日があの9・11から10周年だ。物々しい警備といった感じではないが、通りには警察官の姿が目立つように感じた。地元の新聞やFMラジオでは11日に「テロの恐れ」とのニュースも流れていた。3人の男がそれぞれ車爆弾を使ったテロをNYで画策している、そういう可能性があるとの報道だった。
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 NYでは何人かの作家の作品を取り上げたいと考えているが、とにかく、9・11の「グラウンド・ゼロ」に足を運ばなくては。到着翌日の9日、地下鉄を乗り継いで「世界貿易センター」(WTC)のツインタワーが立っていた地点を訪れた。ここもカメラを手にした観光客であふれ返っていた。
 「グラウンド・ゼロ」の道をはさんだ向かい側に、セントポール教会が立っていた。ここにも多くの観光客が出入りしているのが見えた。展示物を見ていて分かった。ここは9・11でWTCのビルが崩壊した時、奇跡的に大きな被害を免れたこと。被災者の救出活動が始まると、この教会がそうした献身的活動の前線基地となったことが。観光客の多くは犠牲者を追悼するリボンにメッセージをしたためていた。
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 ほどなく、教会内で追悼コンサートが始まった。NYの若者グループだ。ピアノの演奏でさまざまなジャンルの歌を披露してくれた。40人ぐらいはいたであろうか。10年前には小学生ぐらいだったのだろう。彼らの顔を見ていて、ふと思った。白人、黒人、アメリカインディアン、ヒスパニック系、アラブ系、日系、中国系、韓国系と、実に多様な顔付きの若者たち。こうした場で彼らに「出自」を尋ねるのは適切ではないだろう。彼らは皆「アメリカ人」なのだ。そしてそれを誇りに思っていることも容易に見てとれた。
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 (写真は上から、観光客で賑わうNYのタイムズスクエア。「グラウンド・ゼロ」の地点では、新しいビルの工事が進んでいた。セントポール教会で催されていた若者グループのコンサート。木立ちに囲まれた教会の霊園は涼やかで気持ちも癒される感じだった)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ③

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 『黒猫』の中で私が好きな部分は作家の人生哲学がうかがえる次のような表現だ。
 Who has not, a hundred times, found himself committing a vile or a silly action, for no other reason than because he knows he should not? (他に理由があるわけではない、やってはいけないことを承知しているからこそ、下劣な、あるいは愚かな行為を何度も何度もやってしまう、そういうことを経験していない人が果たしているものだろうか)
 私も身にしみてそう思う人間の一人である。
 ポーはアメリカ文学の中でどういう位置づけをされているのだろうか。フィラデルフィアの名門大、ペンシルベニア大学で文学を教えるデボラ・バーナム講師に尋ねてみた。
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 「彼はとても重要な作家であることは疑う余地のないことです。第一に、彼はアメリカで作家として生計を立てることを目指した最初の人物です。もちろん、19世紀前半の当時は著作権などといった概念もありませんでしたから、彼の優れた短編はヨーロッパで模倣される時代でした。当然、経済的には楽な仕事ではありませんでしたが」
 「ヘミングウェイなどは米文学はマーク・トウェインに始まると述べていますが」
 「トウェインとポーはアメリカ文学の両極にあり、作風も好対照をなしています。ヘミングウェイがトウェインを評価するのは無理からぬことです。平易な文章のトウェインの作風は、枝葉をそぎ取った淡々とした描写のヘミングウェイが継承し、精巧な描写を重ねたポーの作風はヘンリー・ジェイムズが継承したと私は考えています」
 「今の学生もポーの作品を読んでいますか」
 「私は講義でポーを読ませていますが、学生は彼の作品を喜んで読んでいます。(怪奇な出来事を描いた)ゴシック文学として興味を抱いているようですが。あなたが指摘した、誰もが心の中に抱えている ”perverseness” (道理に逆らった言動)などを描いた彼の作品は、これからも読み継がれていくと確信しています」
 ポーは1849年に旅先のボルティモアで死亡。47年には最愛の妻ヴァージニアに他界され、生きる希望を失い、飲めない酒に溺れた様子も見てとれるが、死亡の場面は不明な部分も多い。そうした点も彼のミステリアスさをあおっているのかもしれない。
 私は①でポーに「恩義」があると書いた。38年前にポーの家を訪れた時のことだ。当時家のドアノブの一つに触れると、文章がよく書けるようになるという言い伝えがあり、私も何度もそのドアノブを触った思い出がある。今回再訪してそのような言い伝えはもはやないことが分かった。ドアノブも新しくなっているのかもしれない。当時は新聞記者になることなど考えていなかったが、曲がりなりにも31年もの間、文章を書いて食ってこられたのもポーのお蔭と思わないでもない。私は心の中で2年前に生誕100年を迎えた作家に感謝の念を捧げた。
 (写真は上が、フィラデルフィア中心部の建国にまつわる史跡で目にした観光客の子供たち相手のイベント。下が、ポーの魅力について語るデボラさん。川端康成の『雪国』が好きだとか)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ②

 ポーは「私には難解な作家だ」と書いたが、好きな作品がないわけではない。短編の “The Black Cat” (『黒猫』)はもともと猫が大好きだからというわけではないが、何回か読んだ(気がする)。
 物語の語り手の私は「明日には死ぬことになっている身」であり、自分の心の重荷になっている事柄を明かそうとしている。私にとっては「ホラー」(Horror) 以外の何物でもないが、読者には「奇妙きてれつ」な話として映るかもしれないと警告した上で。
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 From my infancy I was noted for the docility and humanity of my disposition. My tenderness of heart was even so conspicuous as to make me the jest of my companions. (私は小さい時から従順でおとなしい性分だった。その優しさが際立っていたため、同じ年頃の男の子たちからはからかいの対象となっていた)
 このような生い立ちの告白は作家の幼少のそれであろう。そうした性分からペットに目がなく、若くして結婚した妻も語り手と同様、動物好きで、二人は他のペットとともに一匹の黒猫を飼うようになる。大きくて賢く、真っ黒の猫だ。プルートと名付けられた黒猫は私にとても懐くのだが、私がやがて過度の飲酒から常軌を逸する乱暴な言動に出るようになると、プルートでさえ私を避けるようになる。
 ある晩、いつものように泥酔した私は抱き上げようとしたプルートに指をかまれ、怒りの余り、プルートの片目をナイフで切り取る蛮行を犯してしまう。この蛮行に何らの良心の呵責を覚えなくなったころ、今度はプルートの首に縄をかけ、縛り首にしてしまう。悪いことだとは百も承知の上で。
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 その後、私は酒場で見つけたプルートによく似た黒猫を飼うようになるが、この黒猫が懐くにつれ、プルートを想起させずにはおかない黒猫に対し、不快感、やがては憎しみが募っていく。ある日、地下室に降りようとしていた私は黒猫が足にまとわりつき転倒しそうになる。怒りから手にしていた斧で黒猫に一撃を加えようとするが、妻に阻止される。今度はその妻に怒りの矛先を向け、斧で妻を殺害してしまう。
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 犯行後、私は妻の死体を地下室の壁の中に塗り込み、犯行を覆い隠す。犯行後4日目に何人かの警察官がやってきて、地下室を含めた家宅捜索をする。何の異常も認められず、地下室から立ち去ろうとする警察官に向かって私は「勝利」に酔いしれ、「この地下室の壁は強固そのものです」と語りかけ、妻を埋めた部分の壁を手にしていた杖でたたく。
 すると、壁の中から、最初は子供の泣き声のような押し殺した声が、続いて人間のものとは思えない甲高い叫び声が聞こえてくるではないか。茫然自失の私が見守る中、その壁に走り寄った警察官の手により壁が壊されると、そこから現れたのは・・・。
 (写真は上から、ポーが住んでいた家で行われている見学会。ここはポーがおそらく執筆に使っていた部屋。『黒猫』のモデル(?)になったとも言われる地下室。見学者を楽しませるために、おもちゃの黒猫が置かれていたが、十分ドキッとさせられた)

レイバー・デー

 昨日(5日)はアメリカはLabor Day(労働者の日) と称する祝日だった。土日を含めると3連休になり、この国ではこのレイバー・デーで長かった「夏」が終わり、「秋」が始まるらしい。ミッドウエスト(中西部)では夏休み明けの学期はとっくに始まっていたが、ここフィラデルフィアでは学校も今日6日からスタートらしい。
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 この週末は久しぶりにホテルの部屋でのんびり過ごした。疲れている感じではないが、やはり、いつも「移動」している感覚なので目に見えない疲れがあるのかもしれない。読書にいそしむことにした。が、テレビではゴルフや野球、漫画をやっていて、この漫画が実に面白い。いや、時間がいくらあっても、いや、体がいくつあっても足りない。夕刻、ベッドに寝そべって新聞を読んでいると、地元の強豪チーム、フィラデルフィア・フィリーズが同じナショナルリーグ東地区のライバル、アトランタ・ブレーブスと対戦するナイトゲームがあると書いてある。
 フィリーズの球場は今いるホテルからそう遠くはない。タクシーを飛ばせば、わけなく行ける距離だ。「夏」の最後の祝日だし、リーグを代表する強豪チームの対戦だ。切符は残っていないだろうなと思いながら、フィリーズのホーム球場であるCitizens Bank Park に電話を入れてみる。まだ売れ残っているのがあるらしい。急いで球場に駆け付けると、果たせるかな、外野席だが、割といい席(36ドル)が取れた。
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 日本人選手は比較的アメリカンリーグに多いので、ナショナルリーグのことは暗いが、それでもこの日対戦する両チームが好チームなのは承知していた。フィリーズを率いるのは日本でもプレーしたことのあるチャーリー・マニュエル監督。ヤクルトや近鉄時代に「赤鬼」というニックネームで大活躍した選手だ。もうかなりの年齢になっているはずだが、ここではチームの好成績もあって、チャーリーはすごい人気を博している。何の関係もない私もなぜかうれしくなる。
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 試合直前、スタンド内を見て回っていると、長蛇の列ができているコーナーがあった。Crab Fries と呼ばれるフレンチフライを売っているようだ。売店の側で休憩していた店員に「うまいの?」と聞いていたら、「食べたことないのかい。よし、僕がおごってあげよう」と一つただでくれた。いや、そういうつもりで聞いたわけではないが。適度の辛味があって、ビールによくあった。
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 小雨模様の天候にもかかわらず、球場はほぼ満席だった。発表された入場者数は45,267人。見渡す限り、赤が基調のフィリーズのユニフォームのTシャツを着たファンで埋まっている。私もにわかフィリーズファンとなり応援。エースが完封し、9対0で圧勝するゲーム。四番のライアン・ハワードもホームランを放つなど、フィリーズファンには幸せ満喫の一夜となった。私も両隣のファンと何度かハイタッチをすることになった。
 (写真は上から、フィリーズのホーム球場。私の目にはほぼ満席に映った。ただでもらったCrab Fries。フィリーズの圧勝でゲームセット、左隣の女性客2人も大喜びだった)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ①

 1809年にボストンで生まれ、1849年にボルティモアで没しているから、19世紀前半のアメリカを駆け抜けた作家だ。彼に酔心して「江戸川乱歩」と名乗った日本人推理作家を通して、ポーに出会った人もいるかもしれない。正直に言うと、幾つかの短編以外はどうも理解しづらいところがあり、私には難解な作家だ。
 ポーの一般的イメージとしては、「破滅的な生活を送った詩人」あるいは「怪奇な幻想的世界を構築した作家」「推理小説のジャンルを確立した才人」などといったところだろうか。阿片中毒説や人格破綻者といった中傷などから、本国では世紀が変わり、第1次大戦後まで正当に評価されることはなかったが、フランスを中心に海外では熱心な信奉者がいた。
 私は前回記したように、1974年に留学していた時、たまたまフィラデルフィアでポーが住んでいた家を訪れたことがあった。その時の「恩義」があり、今回の文学紀行の題材の一つにした次第だ。
 ポーはともに旅役者のアイルランド系の父親とイングリッシュ系の母親の間に誕生。しかし、父親は生後すぐにいなくなり、母親も彼が2歳の時に死亡したため、彼は養父母の元で育てられる。厳格な養父とは後年そりが合わなくなったようで、特にポーが酒が飲めない体質なのに酒を覚え、ギャンブルに手を出すようになってからは二人の関係は冷え切ってしまう。その後、伯母のクレム夫人の寵愛を受け、ポーは33年、まだ13歳だったクレム夫人の娘でいとこにあたるヴァージニアと結婚する。
 養父の庇護にあった時は大学や士官学校で学んだこともあったが、雑誌の編集の仕事を経て、本格的に作家の道を目指す。ただ、作家としてその名が広く知られるようになってからも貧窮の中での生活を絶えず余儀なくされたようだ。
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 彼が結婚後にフィラデルフィアで住んでいた家の一つが今では国の史跡に指定され、記念館のようになっている。独立宣言にまつわる史跡を見学する観光客で賑わう中心街から7番通りを北に向かって歩く。段々と人通りが少なくなる。歩いている人はほとんど見かけなくなる。夕暮れにはあまり周辺は散策したくないような印象だ。”Edgar Allan Poe National Historic Site” という案内表示が見えてきた。おお、ここだ、ここだった。
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 説明文を読むと、ポーは1843年から44年にかけ、この家でクレム夫人、ヴァージニアの三人で暮らしていた。この家に住んでいた時、彼の代表作の一つと見なされる短編『黒猫』(The Black Cat)や『黄金虫』(The Gold-Bug) が発表された。ポーがここで暮らした日々は彼の短い人生で最も幸せな期間であったのだろう。だが間もなく、病弱のヴァージニアは当時不治の病だった「結核」で寝たきりの生活に追い込まれていく。妻の病気もあり、ポーは控えていた酒に再び手を出すようになり、彼自身が「狂気」と「ひどい正気」 “horrible sanity” の連鎖と呼んだ日々にさいなまれていく。
 (写真は上が、国の史跡になっているフィラデルフィアの一角にあるポーの住居を示した案内表示。下が、その家。来訪者はドアノッカーを一度たたくことになっていた)

懐かしきフィラデルフィア

 ワシントンを出て、ペンシルベニア州のフィラデルフィアに入った。トーマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンらによって、1776年、この国の独立宣言が署名された地として知られている。アメリカはここから生まれた。英国から独立を果たすまではフィラデルフィアこそアメリカを代表する都市、当時はロンドンに次ぐ大都会であり、独立後も1790年から1800年まではここが首都とされていた。
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 実はフィラデルフィアは1974年の冬、留学していたジョージア州から一度だけ足を運んだことがある。37年ぶりの再訪だ。今回の旅でぜひ、訪れたいところがあった。当時、貧乏学生の私を快く受け入れてくれた日本人宣教師、ピーターさん夫妻の家だ。ご夫妻は既に帰国されており、もはやその家に知っている人が住んでいるわけではないが。
 記憶も定かではないが、その家で新年をはさんだ2週間程度お世話になった。クリスチャンでもない私はただ単に日本人というだけで、その家を訪ね、食事から何から面倒を見ていただいた。私は世間知らずの20歳の学生。今から考えると、よく見ず知らずの人の家にお世話になったものだと思う。ずっと南部ジョージア州の小さな町での暮らしだったから、北部の州の大都市の空気が吸いたかったことだけは覚えている。
 ピーターさんの奥様の久子さんは確か、2人目の赤ちゃんが生まれたばかり。上のまだ幼児の男の子と時々一緒に遊んだような、いや、彼が遊んでくれたような。夕方になると、この子が最上階(3階)の部屋をあてがってもらっていた私に “Nasu-saan, the dinner is ready” といつも澄んだ大きな声で呼んでくれたことを覚えている。
 久子さんとは私が大阪勤務の時に再会した。ピーターさんは今では芦屋(兵庫県)を拠点に「子羊の群れキリスト教会」という布教活動を世界中で展開されている。今回の旅の前にも久子さんとは芦屋で会い、旅の無事を祈っていただいた。
 久子さんと私は偶然だが、誕生日が同じ2月5日。ジョージア州の大学に戻って間もなくその年の誕生日に彼女からバースデイカードが届いた。封を開けると、50ドル紙幣が1枚入っていた。「今のあなたにはこれが一番ありがたく思うことでしょう」との添え書きも。事実その通りだった。山間部の農家の出身で、親父がなくなり、長兄が跡を継ぎ、その長兄に無理言って、1年間留学させてもらっていた身。お金がなくて侘しい思いをしたことはないが、可能な限り「質素」な留学生活を送っていたことは間違いない。カードに包まれていた50ドル紙幣が輝いて見えた。
 さて、そのフィラデルフィア。さすがに何も覚えていない。もともと駆け足で訪ねた地である。ここはエドガー・アラン・ポーが一時期住んで代表作が出版された地でもある。彼の住居が国の史跡となっており、私もかつて足を運んだことがある。少しだけ、ポーの文学について書いてみたい。
  (グレイハウンドバスの停車駅はチャイナタウンに隣接していた。あなうれし。最初に目に入ったお店に飛び込み、チャーハンとスープをかき込んだ。味はぎりぎり及第点)

スミソニアン博物館

 首都ワシントンは思ったよりのびのびした印象の都市だった。一つには、シカゴで見かけた超高層ビルが皆無だったことに起因しているのかもしれない。何でも、昔から法令により、中心部のモールの一角に立つThe Capitolと呼ばれる国会議事堂より高いビルは建築できないようになっているとか。
 それもあって、都市全体の見通しがよく、緑や公園も多く、何だか、ほっとした気分にさせられる感じなのだ。このあたりの都市計画はさすがと言うべきだろうか。
 数日間の滞在だったから、欲張らずにかなりの時間をスミソニアン博物館の中の一つ、国立自然博物館 (National Museum of Natural History) で過ごした。ここ一つだけをじっくり見学するだけでも二三日必要かと思うほどの中身の濃さだった。私が特に興味深く見たのは、Race と題した特別展示だった。
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 すでに何度も書いたと思うが、私は人種(レイス)、民族(ネーション)、部族(トライブ)、エスニシティーと呼ばれるものにずっと関心を抱いている。人はなぜ、肌の色が異なるだけで違和感を覚えるのか、不信感を抱くのか。アメリカに関して言えば、白人はなぜ、黒人やアメリカインディアン、アジア系の人々を差別してきたのか。
 特別展では、人は皆、同じ祖先を持つとの観点から、人種的差異にこだわることの無意味さ、愚かしさを指摘する一方、歴史的には目に見える人種的差異から奴隷制度が生まれ、民族迫害が至るところで起きたことを紹介していた。さまざまな肌の色のアメリカ人が自分の人生を振り返るビデオ映像のコーナーで見た白人男性の回想が印象に残った。1951年南部ミシシッピ州生まれのこの男性は自分が6歳の時に何気なく体験し、それが自分のその後の人生を「規定」したエピソードを語っていた。以下がその概略だ。
 暑い夏の日、クリスチャンで教養豊かで心優しい近所の婦人の家で、黒人の庭師と話をしていた。ジョーという名の70歳代の庭師だった。婦人が近づいてきて、何を話しているのと尋ねた。当時、私たち子供は目上の人には男性ならMr、女性なら Mrsと名前の前に付けることを躾けられていたので、私は “I was talking with Mr Joe….” と説明し始めたら、優しさの塊のような婦人は顔をしかめて私に、”Joe is not a Mr. Joe is a n―.” という今ではタブーのNワードを使って、黒人にMrの敬称を付けて呼ぶことをたしなめた。私は6歳のこの時、自分たち白人は黒人より優れていて、彼らより優位な立場を享受するのは理の当然なのだと認識した。そしてその認識のまま、何の罪悪感もなく大人となった。1988年、キング牧師暗殺20周年の特集番組をテレビで見ていて、60年代にキング牧師や黒人の人権活動家を罵っていた白人の群衆が映し出された。彼らは私の父であり、伯父であり、そして私自身だった。私は自分が「加担」してきた罪に初めて気づかされた。 
 私の側では黒人の女性が一人、頷きながらこのビデオに見入っていた。
 (写真は、ワシントン中心部の公園にあるキング牧師の像。今夏完成したばかり。多くの観光客で賑わっていた。首都の新たな観光名所の一つとなることは間違いないようだ)

スーツケース見つかった!

 先にスーツケースが紛失したことを書いた。「貴重品はキャリーバッグに入れているので、たとえ紛失しても大打撃とはならないはずだ」とも。
 しかし、あれからスーツケースに入っているものを思い出していたら、とても憂鬱になった。出発前に両替していたドルの大金とかクレジットカード、パスポートといった死活的に重要なものはスーツケースではなく、旅の途上でも手元に置けるキャリーバッグに入れていたので、その点では心配はなかった。
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 それでも、次のような品々が頭に思い浮かんできた。まだ一度も「お世話」になっていないが、郷里の友人(先輩)がプレゼントしてくれた解熱剤と整腸剤。行き付けの理髪店からいただき、アフリカの旅以来重宝している電池バリカン。坊主頭の私は3週間もほっとくと、ホームレスのような風貌になる。書籍も20冊程度入れてあった。
 衣服。真冬になる前には帰国するつもりだったから、秋が深まるころまでは過ごせるジャンバー、ズボンにもろもろのポロシャツ、下着、靴下。歯間ブラシ。はさみ。おお、そうだ。長兄からもらっていた郷里の銀鏡神社の夜神楽のCD。これは日本の伝統芸能に関心のあるアメリカの人に見せたいと持参したもので、私にとって絶対になくしたくないものだ。
 昨日は憂鬱な気分でグレイハウンド会社からの電話連絡を待ったが、連絡は来なかった。仕方ないので、初めてのワシントンの見学に出かけたが、気分は一日晴れなかった。
 一夜明けて、早朝、バス会社に何度目か思い出せない電話を入れてみる。見つかった。良かった!今日見つからなければ、下着と靴下、ポロシャツを買うつもりだった。
 それで、改めて思った。この国の不思議な現実を。旅先では一番心配なのは貴重品の盗難だ。この2か月、アムトラックと呼ばれる鉄道とグレイハウンドというバスを利用して移動している。アムトラックではスーツケースのような大きな荷物は座席から離れた荷物保管所のようなコンパートメントに置かれる。しかし、タグ(荷札)は付けてくれない。長距離の旅では時には2昼夜も手元から離れているわけだから、さすがに心配になる。途中駅で他人が持ち去らないだろうか。最初のころは心配で時々、保管所まで行ってスーツケースがあることを確認していた。
 バスでは網棚に置けない大きな荷物は先述したように最下部の荷物積載所に置く。これはタグを付けるから、少しは安心する。今回もタグがあったから、無事見つかった。
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 心配性の私はやはり、少しの時間でも手荷物を自分の目が届かない場所に置いておくのはできれば避けたい。だから、なくなったらその先の旅がアウトになる貴重品は常に手元に置けるキャリーバッグに入れておくようにしている。今回の一時紛失はともかく、幸い、今回の旅で私はこれまで盗難の被害に遭っていないことを考えると、この国では上記のようなやり方でも問題がないということか。何と表現していいのか言葉に詰まる。
 (ワシントンはホワイトハウスやスミソニアン博物館など観光名所ばかり。写真上は、ホワイトハウスの前で記念撮影するスペインの観光客。下は、夕暮れ、中心部のモールと呼ばれる公園でソフトボールに興じる人々。奥に見えるのはワシントンモニュメント)

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