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琴線、きんせん、kinsen

  • 2019-09-26 (Thu) 11:36
  • 総合

 前回の項で言語学者の田中克彦氏の著作『言語学者が語る漢字文明論』を紹介した。著者が訴えるように、日本語にとって漢字は甚だ有害であり、国際社会に流布する言語として自立するためには漢字を棄て、かな文字かローマ字表記にすべきなのか。門外漢の私にはよく分からないが、以下に二、三思ったことを記しておきたい。
 日本語を書く場合、漢字を捨て、「かな」か「ローマ字」による表音文字での記述に一新すべきという著者の主張は一見、荒唐無稽のように聞こえるが、私は一考に値すると思う。例えばローマ字表記。携帯電話やネット通信がなかった昔、新聞社のナイロビ支局(ケニア)に勤務していた頃、東京本社の職場からテレックスで留守中の自宅に届いたメッセージ。Kochira Tokyo. Nasu-kun, isogi tsugino genko okutte kudasai. とローマ字で書かれたメッセージを、日本語を全く解しないケニア人のメイドは私に電話口でやすやすと読み上げてくれた。
 私はこの時、日本語はそれを学んだことのない外国人にも日本人が分かる音で口にすることができる言語であることを知った。問題はしかし、ローマ字表記が日本語に適しているとしても、例えば「琴線に触れる」とか「涙腺が緩くなる」といった日本語特有の味わい深い語句・表現は単に「kinsen-ni fureru」「ruisen-ga yurukunaru」で十分なのかということだ。「kinsen」という語彙を学ぶ時に「kokoro-no oku-ni himerareta sensai-na shinjo」とでも説明されたとしたなら、今の我々が「琴線」や「涙腺」という漢字語を目にしたり、耳にしたりした時に感じる、日本語の奥深い味わいを共有できるのだろうか。
 また日本語の「欠点」と見なされている「天下」「点火」「添加」「転化」などの同音異義語も「tenka」と書くだけではその差異を示せない。さらに音声はともかく、漢字を捨てると、我々が享受している書き言葉の「一目瞭然の利点」は消え去る。
 かな表記もローマ字の26字に対し、50音だから、無数にあるように見える漢字に比べれば、間違いなく対処し易い。だが我々のように漢字に慣れてしまった身には「きんせんにふれる」「るいせんがゆるくなった」というかなだけの書き言葉を目にすれば、がっかりすること請け合いだ。
 もっとも、最初からかな表記だけを学んだとしたなら、我々が感じる文章に漢字のない違和感を未来の日本人は感じないのだろうか。また漢字の知識がないと語源を知るのがとても難解になるのではと思わざるを得ないが、こうした点もクリアできるのだろうか。
 著者はあとがきで、22世紀末には日本語から漢字が消滅しているであろうという専門家の予測も紹介している。過ぎ去った20世紀の最初の50年間に書かれた小説の中で使用されている漢字の減少傾向からそう推計されるのだという。漢字はやがて消える運命?
 私のように中国語を学んでいる身に勇気づけられるのは、著者の次の指摘だ。「私は中国語の学習をやめようとか、漢字の研究が無用だとか言っているのではない。それとは全く逆に、自立した日本語をつくるには、中国語と漢字の研究はますます必要になってきている。それはほかでもない、中国語というものを字からだけではなく、ことばそのものとして理解し、さらにその知識を利用して、いい日本語を作るためにである

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