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January 2022

新しい短編集を読もう!

20220131-1643592384.jpg 2022年もはや一月が過ぎようとしている。年の過ぎゆくのが早いはずだ。このところ再び猛威を復活させ始めたコロナ禍が一日も早く消え去ってほしいので、時間の経過は望ましいのだが、人生の残り時間を気にするようになった身としては少々複雑な気持ちにもなる。月が変わればすぐにまた新しい誕生日がやって来る。まあ、いかなる人であれ、永久に生きられるわけではないので、じたばたしたところで始まらないが・・。
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 中国語と韓国語のNHKラジオの初級講座を平日は毎朝聴いているが、最近、ふと思ったことがある。中韓ともに今は昨年前半の再放送となっている。中国語は再放送とはいえ内容はほぼ忘れており、後刻辞書を引き直して復習せざるを得ない。これが大変参考になっている。韓国語も参考になっているのだが、内容が中国語に比較すると凄く「薄い」気がしてならない。韓国語の方が基礎的な事柄を学ぶ必要が多いからだろうか。よく分からない。いずれにしても、中国語の講座は録音して日中に聞き返しているが、韓国語はそうする気にすらならない。同じ時期に「よーいドン」でスタートしたはずなのに、こうした違いがなぜ生じるのか不思議でならない。
 忘れてしまっていた中国語の表現形式に「離合詞」にまつわるものがある。いや、正確には、私はこうした使い方を知らなかったので、「忘れていた」は正確な表現ではないだろう。以下の表現だ。「私は彼に腹を立てた」。 中国語では「我生他的气了」。「生气」が「腹を立てる」「怒る」ということは知っていたが、「彼に腹を立てる」と表現する際には「生气」の間に他(彼)を挟むことまでは知らなかった。これが離合詞の特徴だ。
 離合詞は述語と目的語が1つになった語で、この語には初めから目的語が含まれているから、目的語を重ねることはできないのだとか。面白い。だから、敢えて「生他的气」となる。日本語的発想では漢字を見た印象では「彼に対して怒る」というより「彼の怒りを買う」というような意味ではないかと思ってしまうが、そうではないようだ。「卒業する」という意の「毕业」も離合詞で、例えば「大学を卒業する」は「毕业大学」とは言えず、「大学毕业」となる。何のことはない、日本語と同じ語順だ。
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 オンラインで続けてきている英語教室「短篇小説を読む」は2月から新しい作品に移ります。この項でも記したようにずっと読んできていたカズオ・イシグロの長編 “Klara and the Sun” を読了しましたので、しばらくは短編に挑戦したいと考えています。格好の作品群を見つけました。私の好きな米作家で短篇の名手、オー・ヘンリーの名を冠した最新のオー・ヘンリー賞を受賞した作品をまとめた本です。書店で買い求めて一読しましたが、興味深い作品ばかりでした。幸い、オンラインで読むこともできる作品もあるようです。詳しくは「書肆侃侃房」の次のサイトをご覧ください。http://www.kankanbou.com/ajirobooks/
 なお、小倉駅前のセントシティ11Fのカルチャーセンターで行っている英語教室も継続中です。次のサイトをご覧下さい。https://kokura.mcv.jp/fudangi_eigo/

英語教室 “Klara and the Sun” 読了!

 毎月2回のオンライン英語教室で昨年7月から読み進めてきていたカズオ・イシグロの作品 “Klara and the Sun” を昨日曜日、ようやく読み終えた。退屈することもなく、挫折感を味わうこともなく、期待していた通りに読了できた。受講生はわずか2人だけだったが、英文解釈を教えるという感じではなく、イシグロワールドを一緒に楽しく読み解いたと言うべきだろう。
 作品自体は何度か読んではいたが、英語教室のために一行一行を丁寧に読み返す作業を通し、それまでは見落としていたポイントに気づくことができ、私自身にとってもとても有意義な教室となった。最後の教室ではお互いの読後感を語り合った。このブログは備忘録であるからして、私の読後感を記憶が薄れる前に記しておきたい。
 物語の主人公は「ロボ友」とでも訳したいArtificial Friend (AF)の少女クララ。AFのエネルギー源は太陽光。実に賢く、心優しい彼女が「仕える」のは病弱な少女ジョージー。
 物語の舞台は北米と思われる地で、AFや最先端の機器が社会を支えるようになっている近未来。家庭でも「ロボ友」の少年少女が孤独な子どもたちの遊び相手になっている。貧富の格差は歴然としており、富裕な家庭の子どもたちは遺伝子操作(?)の施術を受け、ますます優位な立場を享受している。国家の枠組みは残っているようだが、人々は価値観を共有する者たちだけで独自のコミュニティを形成している。
 ジョージーは遺伝子操作の施術の後遺症か身体が日増しに弱っている。娘を溺愛する母親はジョージーが他界した時には、彼女の知性、性格、性癖を完コピしたロボ友、つまりクララをそのまま第二のジョージーとして「育成」することも考えているようだ・・・。
 作家はこの作品で人間の heart とは何ぞや、我々がheartと呼んでいるものは人間にしか存在しない特別なものなのだろうかと問いかけている。母親と離婚はしたが、娘への愛は母親に負けない父親は第二のジョージーをこしらえることには懐疑的で、クララに次のように問う。“Do you believe in the human heart? I don’t mean simply the organ, obviously. I’m speaking in the poetic sense. The human heart. Do you think there is such a thing? Something that makes each of us special and individual?”
 クララはジョージーが死ぬ事態に至れば、母親が自分を娘の「身代わり」としたいと考えていることを知り、その日が来ればジョージーを「継続」できるように全力で彼女のことを「学ぶ」。だが、やがてそれが不可能なことに気づく。その人の存在を special かつ individual にしているものはその人の中にあるのではなく、ジョージーの場合であれば、それは母親や父親、恋人のリックや家政婦のメラニアなど彼女を大切に思い、愛している周囲の人々の心の中にあるのだと悟る。これは先述の父親の問いへの答えでもあろう。
 医師が匙を投げたジョージーの病を治すのはクララが祈りを捧げ続けたお日様の光。現実離れした展開とも言えようが、作家はこの作品を大人のための「お伽噺」として考えていたのではないかと推察すれば、十分納得できる。(毎朝神棚を拝むものの)クリスチャンの端くれと考えている身としては、お日様、お天道様を崇敬するクララの姿にも共感を覚えた。エンディングが何とももの悲しく思えたが、感じ方は人それぞれだろう。

圧巻の一打!

20220119-1642554225.jpg 米PGAツアーを見ていて久しぶりに興奮した。日本人ゴルファーのエース的存在、松山英樹選手がハワイで行われたソニーオープンで優勝を飾った。日本人選手では最多のPGAツアー8勝目。アジア勢としても韓国のK.J.チョイ選手に最多タイで並んだ。
 時差があるのでハワイの日曜日午後は日本時間月曜朝。松山選手は首位のラッセル・ヘンリー選手とは2打差の17アンダーでスタートしたが、ヘンリー選手は好調を持続し、前半ハーフを終わってその差は5打に開いていた。どうせ今回もまた惜敗に終わるのだろうなあと思って私は途中からテレビを見るのをやめ、仕事(英語の非常勤講師職)の準備に専念した。お昼前、そろそろ終わっているかなとテレビを付けると何と、最終ホールを残し松山選手は22アンダー、首位に1打差に迫っている。
 そして最終のパー5のロングホールではバーディーを奪い、追いついた。圧巻だったのは同じ18番で実施されたプレーオフの第2打。松山選手が放った一打は270ヤード越えでピンそば1㍍のイーグルチャンスに。ヘンリー選手は3オンにも失敗しており、松山選手はバーディーでも楽に勝っただろうが、文句なしのイーグルで逆転優勝。昨シーズンは世界最高峰のマスターズでも勝利するなど大活躍の一年だったが、今回のソニーオープンも見事な勝利だった。松山選手に競り負けたヘンリー選手も脱帽するしかなかったようだ。次の潔い一言がそれをよく物語っている。“It stings. I played some great golf. So tough to swallow, but Hideki played great all day and happy for him.” Good loser ここにあり!
 テレビを見ていると、ギャラリーが母国のヘンリー選手を上回る声援を松山選手に送っていた。PGAのホームページで次の一節を読んで納得した。Despite playing in the U.S. against an American, Matsuyama was the clear crowd favorite thanks to Honolulu’s strong Asian population. Sony is a very successful Japanese company as well, and …
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 外国語を学んでいて語順の大切さをよく考えるようになって久しい。我々日本語話者が英語を苦手と感じる理由の一つにこの語順の問題があるのではないかと思う。そうでなければ頭に浮かんだ語をそのまま英語に置き換えればいいだけの話ではないかと考えたりもする。そう簡単でないことは分かってはいるものの。
 例えば、次の文章。「私にはテレビを見ている時間がない」。英語では普通、I don’t have time to watch TV. と言うのが妥当だろう。日本語では「テレビを見ている」という情報が最初の方に出てくるが、英語では watch TV が末尾に登場する。英語では大事な情報でも後から追加していく言語のようだ。日本語はできるだけ前に置く(言う)のが特徴の言語のようだ。中国語では「我没有时间看电视」。中国語でも「看电视」(テレビを見る)という情報が末尾に来ている。この点でも英語と中国語は類似のようだ。
 英語と中国語ではとにかく、最初に文の要素、上記ならSVOをしっかりと述べ、その後に追加すべき情報を付け加えていく。日本語は文の要素などおかまいなしに、頭に浮かんだ大事な情報をそのまま置いて(口にして)おけばいいのだ。少し乱暴な言い方になるが。語順の世界から新たな視界が開けないものだろうか?

自分の根っこは?

 関西の旅から戻り、今週から仕事が再スタートした。兄の家では歓待を受け、お腹周りが一段とたくましくなったような気がする。福岡に戻ったこれから、粗食を心がけ、少しやせないといけないと思っている。体重はおそらく80㌔を超えているような気がする。とりあえずは会社を辞める頃の72㌔辺りに戻したい。
 兄の家では磐城のSさんから松茸入りの日本酒と鮭の粕漬けが届き、有り難く頂いた。私が福岡を離れていることを知ったSさんが機転を利かせ、兄の家に送ってくれたのだ。驚いたのは電話を頂いた翌日に届いたこと。あまりのスピードにびっくりしたが、自分は福岡ではなく京都・亀岡にいたので、時間がかからなかったらしい。松茸の香り豊かな酒と鮭の粕漬けで新年のスタートを祝った。
 関西最後の日は神戸で古い知己の方々とお昼を一緒した。これも2年ぶりの歓談であり、楽しいひとときを過ごした。電車が遅れ、道に迷ったこともあり、約束の時間に遅刻した。おまけに会場のお寿司屋さんに着いて、皆さんに挨拶した後、尿意を催していた私は即トイレに走らざるを得なかった。その時に私が皆さんに発した言葉は「ちょっと運動会に行ってきます。よーいどんの心境です」。滑ったようだ。私が好きだった関東のお笑い芸人(故人)のギャグ。頻尿に悩むお年寄りに彼が放った忠告。尿意を催したらすぐにトイレに向かうのですよ。昔から(運動会で)言われたじゃないですか。にょういどん(よういどん)と。
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 最近はブログをアップするのも億劫になっている。寒さのせいでものぐさになっていることも一因か。ネットで興味深い記事を読んだりすると、その記事を紹介しようと思いもするが、数日経過するとすっかりその気は失せている。
 年末に読んで考えさせられたのはネット購読している米ニューヨーカーに掲載されていた記事。中国・重慶市で1990年代に学生に英文学を教えた米人教師がこの30年余、教え子たちがたどった変化を振り返っている。教え子たちは言わば鄧小平が推進した改革開放政策の申し子。今や齢50に達し、定年も視野に入った彼らにフリーランスの記者となった教師が再会し、過ぎ去りし時代を語ってもらっている。彼らは貧困の子供時代を骨身に染みて体験している。両親の世代と決定的に異なるのは、彼らは自分たちの創意工夫で一代で富裕層の仲間入りを果たしたこと。高層マンションの住宅を手に入れ、外国の高級車を乗り回し、快適な日々を送っている者もいる。
 一人のそうした登場人物がつぶやく次の言葉が印象に残っている。「5,6歳の頃が私の家は最も貧しかったと思う。食べるものが潤沢にあったことはなかった。私の家ではしなかったが、隣家では木の葉を湯がいて食べていた」
 私は中国の人々はこの20年、30年、急速な変化の時代を生きているのではないかと思う。いいとか悪いとかいうことではない。一つ言えることは、彼らには貧しかった両親世代の暮らしぶりが頭の片隅に残っているだろう。それが根っこにぶら下がっているのではないか。しかし大人になった彼らが今、育てている子供の世代にはそうした根っこの部分はもはやないだろう。日本に住む我々にもとても気になる未来の世界だ。

新年の誓いは?

 正月2日早朝、久しぶりに新幹線に乗り、一路関西に。新神戸で下車し、三宮経由で芦屋駅へ。そこからバスに乗って「子羊の群れキリスト教会」に到着。午前10時半からの新年礼拝に参加した。普段は一日遅れ、インターネットで礼拝を拝聴しているが、やはり生で聞けるのは有り難い。牧師ピーター島田さんの味わい深い説教に耳を傾けた。
 半世紀遡って彼が米フィラデルフィアの家庭集会などで在留邦人を中心に布教していた頃。私はジョージア州の大学に留学していた貧乏学生だった。島田夫妻の家を突然訪れ、二週間ほど居候。縁もゆかりもない私に実に温かく接して頂いた。特に奥様には今日まで可愛がってもらって、深い恩義を抱いている。
 今回の旅にも奥様から頂いたアメリカの祈祷書 “Daily Guideposts 2022” を携行している。前日の元旦に読んだ今年最初の項が面白かった。S.T.さんが Praying together: New Year, New Revelation (一緒に祈ること:新年そして新しい誓い)と題して執筆していた。S.T.さんは新年の誓いを立てるのが好きらしい。新しい年の誓いを幾つか立てた後、前年の誓いの実践度を振り返る。次のような文章があって思わず笑ってしまった。write a novel. (worked on it for a week, then abandoned it) 。小説を一冊書くというのも誓いの一つだったが、一週間は取り組んだものの、それで諦めてしまったとか。私と同類の三日坊主? 多くの読者が読む “Daily Guideposts 2022” でこのように率直に書けるのは素晴らしいと思う。
                  ◇
 京都駅から亀岡を目指し、各駅停車のJR嵯峨野線に乗った。結構込んでいて、何とか座席に座ることができた。隣の座席には一見して東南アジア出身と思われる頭にスカーフをした若い女性が座っている。私がスマホに没頭していると、彼女が突然、カップに入ったお菓子を差し出し、一ついかがですか?という表情。断るのも失礼なので一つつまんでお礼を言った。それで何となく会話がスタートした。
 最初は英語だったが、彼女が日本語を解するようなので亀岡駅に着くまでの間、しばし日本語でおしゃべり。インドネシア人で亀岡からまだだいぶ先のところで介護の仕事をしている。来日する前に一年間日本語を学んだとかで、分かりやすい日本語を話していた。そのことをほめると、敬語表現が難しいと語っていた。お年寄りに食事の世話をする時に言う言葉は「召し上がってください」。私が「食べてください」でもOKですと言うと、「はい、それでも召し上がってください、と言ってます」と。
 確かに日本語をゼロから学ぶ外国語話者には日本語の敬語表現が難物だろうことは容易に想像できる。我々が中国語を学ぶ時に声調を含むピンインと簡体字に悩まされても、敬語表現には悩まされない。もっとも、今の中国語に敬語表現のあれこれがあったなら、難易度はさらにうなぎ上り確実だ。私はさじを投げるかもしれない。
 彼女はあと2年ほどは今の介護の仕事を続けて母国に戻ることになるらしいが、日本が大好きになったから引き続き日本に関係する仕事に携わりたいとも語っていた。訪れた(住んだ)国を好きになってくれるのは有り難いことだ。彼女が仕事にやりがいを感じ、日本語にますます精通することを願いながら、さようならした。

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