Home > Archives > December 2019

December 2019

良いお年を!

20191228-1577497245.jpg エリザベス英女王のクリスマス恒例のビデオメッセージは英国民及び英連邦の人々に団結・融和を呼びかけるものだった。英国は欧州連合(EU)からの離脱を巡り、国民の間に大きな亀裂が走った一年。イングランドとスコットランドの確執はこれからさらに深刻なものになる可能性が大だ。女王にとっては、次男のアンドリュー王子にまつわる醜聞もあり、個人的にも心穏やかならない年だったことだろう。
 それにしても御年93歳のエリザベス女王はいつまでも美しく凛としていらっしゃる。彼女は間違いなく、英国及び英連邦の団結を維持する最後の「砦」だと言っても過言ではないと思う。エリザベス女王のメッセージの締め括りの言葉は “Merry Christmas!” ではなく、“I wish you all a very happy Christmas!” だった。原意が「ほろ酔い加減」の “merry” ではなく、「幸せ」の “happy” だ。
                  ◇
 NHKラジオが毎朝夜に再放送している中国語講座「まいにち中国語」が60回目を迎えた。来年3月まで全120回放送されるから丁度折り返し地点だ。今のところ、そう苦もなくついていけている。初級の講座だし、何と言っても再放送だから当然と言えば当然だ。しかし、記憶力が鈍化している身にはこれから段々ときつくなっていくのだろう。
 それはそれとして、次のような文章が出てきた。日本語で書くと、「鳥になって空を飛びたいなあ」と「あしたから絶対ダイエットします」。中国語では次のようになる。「我想变成一只鸟,在天空中飞翔」と「从明天开始,我一定要减肥」。日本語の方がずっと簡潔な物言いに思える。中国語では「一羽の鳥」と言わなくてはならないし、「空を」という個所が「在天空中」と仰々しい。ダイエットしたいという文章も「开始」と「减肥」が離れており何だか面倒なあと思わないでもない。まあしかし、その逆の場合もあるような気がするし、慣れていくしか手はないのだろう。余談だが、「鸟」(鳥)の発音はニャオ。「猫」(猫)はマオ。鳥が猫に思えてならない。
                  ◇
 2019年ともあと少しでお別れだ。個人的にはうーんという感じの年だったが、健康で快適に日々を過ごすことができたのだから、文句を言ったら罰があたるというものだ。神様に深く感謝。
 『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)を一応読み終えた(気になっている)。『歎異抄』(岩波文庫)よりは楽しめたみたいな印象はある。それでも難解は難解だ。それで「積読」というか途中で読むのを放棄していた親鸞聖人著の『教行信証』(岩波文庫)を再び寝しなに読み始めた。いや、読むというよりは活字をぼぉーと目で追っている感じだ。あのチコちゃんに知られたら、「ボォーと読んでんじゃないよ!」と喝を入れられること必至。
 晦日からまた北陸に旅する予定。京都・神戸・芦屋を経て5日に帰福する。新幹線を手始めに車中で長い時間を過ごすことになるから、『教行信証』が「睡眠薬」となり心地良い眠りに落ちていることだろう。皆さま、良いお年を!

Word of the Year for 2019 'they'

20191225-1577243412.jpg 料理のレパートリーが少ない私にとって味噌汁はよく作る大切な一品。「焼きあごだし」という名称の出しの素を頂いていたことを数日前に思い出し、普段使っている出しの素の替わりに入れてみた。よく分からないが、口の中に何か残る感じでどうも・・・。それでも私が使っている出しの素よりは高級そうなので利用していた。
 ふとそのあごだし(紙のパック)が入っている袋の裏の説明書きを読んでみた。ざっと目を通したつもりだったが、よく読むと、紙のパックを破らずに、そのまま鍋に入れ、水の状態から煮だすようにと書いてある。私はいつも使っている出しの素のように袋を破って鍋にあけていた。道理で勝手が違っていたはずだ。幸い(?)あと一袋残っている。最後に本来の味を楽しもうと思っている。物事を知らないと損をするものだ!
                  ◇
 先日、小学校では今は児童を男児であれ女児であれ、教師は「さん」付けで呼んでいると聞かされた。男児でも「君」と呼ぶことはないのだという。私にはよく理解できないが、「君」と呼ばれることに抵抗を覚える男児がいることにも配慮した措置だとか。
 英BBCのネットで最近読んだ記事を思い出した。アメリカの辞書出版社、メリアム・ウェブスター(Merriam-Webster)が「今年の言葉」(word of the year)に they を選んだという記事だ。“Non-binary pronoun ‘they’ is word of year” という見出しだった。これだけでは何のことかさっぱり分からない。
 朝日新聞の「天声人語」がこの話題を取り上げていた。参考になるので以下に要点を引用させてもらう。——男女に関係のない中立的な言葉として、近年よく使われるようになったという。女性差別さらには性的少数者への偏見を減らそうという思いが込められている。もともとは複数形のtheyを単数のように使い、「he(彼)」「she(彼女)」の代わりにする。それでも動詞はareなど複数のまま。——
 トランスジェンダーや明確な性認識に迷っている人々はこれから自分のことに言及される時に外見から判断される従来の代名詞(he, she)ではなく、they を使って欲しいということか。例えば、「彼の趣味は何だっけ? 」というような場合には従来の “What’s his hobby, do you know?” ではなく “What are their hobby, do you know?” となるのだろうか。動詞の選択に悩まされるし、慣れるまで時間がかかりそうだ。全く新しい代名詞をこの際、創り出した方が良さそうにも思えるが、そうなったらそうなったで形を変えた「差別」と批判されるのだろうか。
                  ◇
 本日はクリスマス。エリザベス英女王の恒例のクリスマススピーチが現地時間では午後3時からBBCで放映される予定。時差があるので日本時間では日付が変わった直後の深夜午前零時から。ケーブルテレビでは午前2時過ぎから録画放送があるようだ。これはちょっと厳しい時間帯だ。パソコンのネットでは生中継されるのだろうか。楽しみに待とう。女王様が聴衆に語りかける言葉は 伝統的な “Happy Christmas!” であり、ちまたに流布している “Merry Christmas!” ではないはずだ。それを改めて確認したい。

Happy holidays!

 今年も有馬記念がやってきて、終わった。今週の土曜日もあと一日競馬があるようなので、JRA(日本中央競馬会)の今年のレースがすべて終了したわけではないが、有馬記念で一年の一区切りがつく。私は馬券を場外やネットで購入することから足を洗って久しいが、有馬記念は特別な思いでレースを見る。一年の締め括りぐらいは馬券をちょっと買ってみたいと思わないでもないが、買い方も大方忘れてしまった。それでも自分だったら、この馬を中心にしてあれとあれとあれを二三着候補に馬券を買うかな、ぐらいのことは頭の中でシミュレーションはする。推理するだけならただで済む。
 天神で今年最後の英語教室を終えた後、急いで自宅に戻り、有馬記念のレースを観戦した。私の念頭にあった馬は全然ダメだった。評論家・予想屋の圧倒的大多数が絶対視していたダントツ一番人気の4歳牝馬アーモンドアイは最後の直線でなぜか失速し、掲示板にも載らない9着に惨敗した。中山競馬場では群衆が絶叫し、ため息が漏れたことだろう。
 競馬は馬券を買わずに、推理して楽しむだけにすれば、文句なしに楽しめるレジャーだ。馬券を買う人がいなくなれば、公営ギャンブルとして成立しなくなるという指摘もあるだろう。そうなれば、歌舞伎や能のように伝統技能として伝承していけばいい。
 あの歌舞伎だってテレビで見たことはあっても、劇場で観たことのない人は案外多いのではないか。私も劇場ではない。たいして興味もない。でも、歌舞伎を後世に継承することは大切なことであると分かる。競馬もその程度の位置づけでいいのでは。国民のお金を毎週末巻き上げるレジャーである必然性はない。ましてや、人気のある女性タレントたちを使って競馬場内の女性専用カフェを映し、男性タレントが「あそこには馬女(うまじょ)しか入れないのだ!」と叫ぶCMを流し、若者の競馬熱をあおる必要などさらさらない。
                  ◇
 クリスマス。Merry Christmas! がいいのか Happy Christmas! がベターなのか。いや、世の中はキリスト教徒だけではないので、近年は Happy holidays が無難とも聞く。
 今年最後の英語教室(天神)で時節柄、Happy Christmas について若干説明しようと思った。そこでふと思い出した。そう言えば、公民館の中国語講座でちょうど一年前に中国語で書いたこのテーマのトリビア的な一枚の紙をもらったことを。最後の方は私には難し過ぎて、ろくに読んでいなかった。どこかにあるはずだ。机の上にたまった書類・手紙等の山を漁ってみたら、運よく出てきた。
 改めて読んでみると、興味深いことが記してあった。なぜ、当初は一般的だったHappy Christmas! がMerry Christmas! に取って代わられたのか。Happy Christmas & happy new year! と口にする場合、happy を二度言うことになり、これは口調が良くないから、Merry Christmas! が段々と優勢となったという説があるらしい。中国語の表現でも似たようなことが言えると書いてあった。去年はそこまで読めなかった。証左として中国語で「吃两两饭」(ご飯を100㌘食べる)と言う時は「两」(2)と「两」(50㌘)の重複を避け、「吃二两饭」と最初の「两」を「二」に替えて使うとか。確かに同じ語を直近で繰り返すのを回避したいのは理解できる。英語と中国語同様、日本語でもそうかもしれない。

“Help me de-stress!”

20191220-1576812851.jpg トランプ米大統領に対する弾劾訴追が米議会下院で遂に賛成多数で可決された。CNNで生中継されたので見ることができたが、下院では少数派の与党共和党と多数派の野党民主党との間で熱い、それでもやはり退屈な論戦を経ての可決だった。
 これにより、年明けにも上院に場を移し、大統領の罷免の是非を裁く裁判が行われる段取りとなったが、上院では共和党が多数を占めることから、ほぼ間違いなく罷免は退けられる見通しと報じられている。「大山鳴動して」何とやらという結果に終わりそうだが、トランプ大統領のフェイク色を改めて露呈しただけでも意味はあったのかもしれない。
 ただ、理解に苦しむのはそれでも大統領の支持率が上昇と伝えられていることだ。来年秋の大統領選でトランプ氏が再選される可能性が大とも報じられている。日本に住む私たち、少なくとも私が米国民に対して抱いている大多数は良識ある国民というイメージは悲しいかな、瓦解しそうな雲行きだ。
 金曜朝。パソコンでCNNのホームページをのぞくと、次の見出しの記事がトップの扱いだった。“Trump distressed by looming Senate trial delay” 私の脳裏に最初に浮かんだのは、え、トランプ大統領が弾劾裁判の遅れで気分が良くなっているの?という疑問だった。というのも小倉の英語教室で先日、似たような表現を説明したばかりだったからで、ただでさえ、明晰でない脳内が混乱した。よくよく考えて見ると、語が違っていた。
 私の頭に残っていたのは de-stress という語。distress とはスペリングも発音も少し異なる。上記の記事はトランプ氏が民主党が公正な裁判が行われると信ずるに足るまで、訴追案を上院に送付することを見合わせる戦術に出るらしいことにイライラを募らせている(distressed)と報じたもの。これに対し、de-stress は全く逆の意味となり、stressをなくす、つまり「元気を回復する」という意味合いとなる。私が教材にした四コマ漫画では上司に叱られた若手の社員が癒しを与えてくれる犬に抱きつき、“Help me de-stress!”(僕を元気にしてくれよ)とつぶやいていた。
                  ◇
 NHKラジオの中国語のテキストに「好感(ハオガン)」という語が出てきた。日本語の「好感」と同じ漢字で意味も同じ。辞書には以下の文章が載っていた。「我对他有好感。」(私は彼に対して好感を抱いている)。韓国語では「好感」は「호감」(ホガム)。上記の文章なら、「저는 그에게 호감을 갖고 있습니다.」と表現できるのではないかと思う。
 通常なら、日本人にとって韓国語の方がずっと頭に浮かびやすいと思うのだが、最近は上記の中国語のようにすっと腑に落ちる中国語に出合うことが多い。
 さらに次の文章。「弟弟借我三千块,我还他三千一百块。」。「弟は3000元を貸してくれたが、僕は3100元を返した」という訳文が載っている。現在形の訳文でも成立しそうに思えるが、ここでは過去形の文章とされている。これも中国語の不思議の一つ。この例文は中国語の「二重目的語」を取る動詞の例として紹介されていた。他には「告诉」(告げる)や「教」(教える)が「借」(借りる、貸す)、「还」(返す)とともに挙げられていた。
 中国語の文章が上記のようなものばかりだったら、我々にはとても楽なのになあ!

英国の瓦解の始まり?

 英国の総選挙(下院)は世論調査の予測通りに政権党の保守党が圧勝した。私は欧州連合(EU)離脱阻止につながる結果を期待していたが、そうはならなかった。これで英国のEU離脱は不可避となったようだ。
 ジョンソン首相は勝利後に英国民に向けて、離脱派も残留派も意見の相違を乗り越え、融和のときがやってきたという趣旨のスピーチを行っている。英字紙から引用すると、Johnson called for the healing to begin. “I frankly urge everyone on either side of what are, after 3½ years, an increasingly arid argument, I urge everyone to find closure and to let the healing begin.”                   (arid argument=不毛の論争)
 私は今回の総選挙がEU残留か離脱かを問う国民投票の蒸し返しだったら、結果は違ったものになったのではないかと思っている。残留色の強い最大野党の労働党に票を投じたくとも、「鉄道国有化」を再び掲げるような労働党には票を入れられない残留派の有権者も多くいたのではないだろうか。保守党の独走を許した労働党の責任は重い。
 ジョンソン政権はこれで来年末までにEUとの種々の交渉を終える難事だけでなく、内政にも厄介な問題を抱えた。スコットランドの英国からの離脱即ち独立問題は再燃必至の雲行きだ。スコットランドの独立の是非は2014年に住民投票で否決されているが、今度は独立派に強い追い風が吹きそう。スコットランドの人々が元より関係がしっくりしていないイングランドと決別し、EUを選択したくなるのは理解できる。北アイルランドも微妙な立場に立たされる。やがて英国の国体が根底から揺らぐことになるやもしれない。
 ジョンソン首相や離脱を支持する英国民に共通する思いは、自国の歴史と伝統に対する誇りだろう。しかし栄枯盛衰は人の世だけでなく、国や同盟関係でも常と言える。チャーチル元首相はかつてEUの前身である欧州共同体(EC)に加盟する際に「英国は歴史と伝統ある特別な存在。なぜ我々がスペインやポルトガルの位置まで身を貶める必要があるのか」と語ったとか。その彼も今の世に生きていたなら、残留を選択したのではないか。
 私は以前に次のように書いた。その思いは今も同じだ。——英国のEU離脱は日本が中国やアセアン諸国との関係を断ち、アメリカや欧州との交易に活路を見いだそうとするようなものだ。愚挙だろう。チャーチル氏やサッチャー氏が蘇ったとしたなら、あきれ、嘆くのではないか。他に追随を許さない英連邦(Commonwealth)の盟主としての栄光も陰りそうだ。
                  ◇
 NHKラジオのテキストで次の文章に出合った。「她做的菜好吃极了,包你吃了还想吃」。「彼女の作る料理はとてもおいしいですよ。食べたらまた食べたくなること請け合いです」という意味。こういう文章を見つけると、私は嬉しくなる。語順が日本語と似ていて、意味するところもだいたい原意通りに想像することができるからだ。特に後段のくだりは「請け合いますよ」と言っておいて、「(一度)食べたら、また食べたくなることを」と続ければいいのだ。英語だとこうはいかない。乱暴に語順通りに英文にすると次のような文章が頭に浮かぶ。“She makes food very tasty, I guarantee you eat, then again want to eat.” やはり、日本語ほどにはスムーズには聞こえない。日中の方がずっと「近い」。

『歎異抄をひらく』

20191212-1576111271.jpg 先月半ばに『歎異抄』(金子大栄校注)を改めて読もうと思い至った経緯を書いた。それでベッドで眠りに就く前に岩波文庫のまことに薄い文庫本を繰っていた。だが、これも途中で段々と気が重くなった。恥ずかしながら文意がよく理解できないのだ。
 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり・・・。この辺りまでは私も何とか理解はできる。冒頭の一節は、「悪人正機説」として中学か高校の国語(?)教科書にも出て来た有名な文章でもある。広辞苑(電子)にも「自力をたのみとして善根を積む善人でさえ往生できるのだから、他力をたのむのみの悪人が往生できるのは当然である」とその意味するところが載っている。
 だが、その直前にある次のくだりは難解だ。自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いずれの行もよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
 何となく分かるような気もするが、甚だ心もとない。それでブログにも記した広告の本のことを思い出した。『歎異抄をひらく』(1万年堂出版)。書店に足を運び、手に取って見た。こちらは単行本で厚みもある。上記のくだりは次のような意訳が添えられていた。「念仏以外の修業を励んで仏になれる私ならば、念仏したから地獄に墜ちたという後悔もあろう。だが、いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである」。この意訳は実に分かりやすい。
 意訳の他に要約、解説も付いており、一見して門外漢にも取っ付き易い内容・構成となっているようだ。早速買い求め、少しずつ読み始めた。今度は何とか最後まで読み通したいものだと願っている。
                 ◇
 アフガニスタンで献身的な支援活動に長年従事してきた医師の中村哲さんがテロリストの銃弾に倒れた。その無念さに思いを馳せると、言葉もない。
 世界各地でテロや無差別の銃撃事件が跡を絶たない。宇宙のかなたから(当然のことながら)人類よりはるかに高度の文明を持つ異星人が地球にやってきたら、地球の生物は何と愚かで残忍であることかと驚くことだろう。そしてもしかして抱いていた友好・共存の計画を放棄し、人類の滅亡を企図するかもしれない、などと夢想してしまう。
 ロンドンの中心部で市民2人が殺害されたテロ。BBCの記事を見ていて、事件の目撃者の証言に戸惑った。"I saw people die, I saw things that I will never be able to unsee." え、unsee とは何ぞや? 私の辞書には載っていない。ネットで調べると、unsee とはto return to a situation in which you have not seen somethingと説明されている。Once you have seen something, you can’t unsee it. という例文もあった。「それを目にしたからには、もう二度と記憶から消すことなんかできない」という意味だろう。我々にはこのような発想の英語表現はできないかなと思う。ネットには “I wish I could unsee it.” (できることなら、それを見た記憶を消したいです)という例文もあった。凄い表現だ。

再び『三体』

 先週のこと。公民館の中国語講座の忘年会に初めて参加し、楽しいひとときを過ごした。飲み放題ということで、勧められるままに焼酎をあおった。その後、誘われてもう一軒立ち飲み屋みたいな場所に立ち寄った。結構飲んだようで、朝目覚めると、久しぶりに二日酔いだった。明け方に喉の渇きを覚えたが、寒そうなので、我慢していた。それが良かったのか悪かったのか。いずれせよ、午前中はだらしなくベッドに伏していた。
 受講生の方々と会食するのはこれが初めてだった。二軒目にその一人と立ち寄った時に世間話に花を咲かせていたら、私が現役の時に時々のぞいていた天神のスナックが話題となり、その人もどうも常連客だったことが判明した。私はアフリカを旅した時、うかつにも携帯電話を盗まれていた。それで多くの友人・知人、取材先とのコンタクトを消失していた。そのスナックのママさんもその一人。私がアフリカに発つ前後の頃にお店を畳まれており、連絡の術がなく、夜の天神を歩いている時などに、時々思い出していた。
                  ◇
 最近、パソコンにニューヨークタイムズの紙面案内が毎朝届くようになった。記憶はないのだが、いつか間違ってまたどこかのボタンをクリックしたのかもしれない。さすがにニューヨークタイムズだけあって、深みのある記事が連日目白押しだ。
 あまり熱心にフォローしているわけではないが、見出しに思わず引き寄せられるときがある。“How Chinese Sci-Fi Conquered America” という見出し。ひょっとしたら、少し前に読んで強く印象に残っている中国人SF作家の本のことが書いてあるのではと思い、スクロールして読んでみると、まさにその通りだった。劉慈欣(Cixin Liu)の『三体』。記事は『三体』を中国語から英語に翻訳した米国在住の中国系作家かつ翻訳家、ケン・リュウ(Ken Liu)へのインタビューを交えながら、中国の躍進著しいSF界の姿を紹介していた。
 興味深かったのはリュウ氏が『三体』を “The Three-Body Problem” として英訳本として翻訳した時に、物語の時系列を組み替えたことを明らかにしていたこと。リュウ氏が原作者の劉慈欣氏に了解を求めると、劉氏は即座に快諾。“That is how I wanted it originally.” と答えたとか。
 私が読んだ日本語版はリュウ氏の英語版の翻訳だ。道理で読み易かったはず。導入部で中国人民を恐怖に陥れた文革(1966-76)の嵐が吹き荒ぶシーンが容赦のない文体で描かれている。私はよくぞこのような冒頭の描写ができたものぞと驚きながら、物語に魅せられていった。記事では中国の当局を刺激しないために、元々の中国語版ではこの冒頭のシーンはあまり目立たない中ほどに置かれたことが明らかにされている。なるほど。
 近未来の社会や架空の国を描くことで中国のSF作家たちが表現の自由を模索していることも垣間見えた。そうした「制約」には関係なく、彼らが秘めている力は目を見張るものがあるように思える。2020年代は文化・芸術の分野でも中国の底力を身近に感じることになるのかもしれない。遣隋使、遣唐使、ずっと昔にもそういう時代があったような・・。
 参考までにこの記事のサイトは:https://www.nytimes.com/2019/12/03/magazine/ken-liu-three-body-problem-chinese-science-fiction.html

我工作不忙

 カズオ・イシグロ氏の小説 “The Buried Giant” に言及した際に次のように記した。—— ビートリスが “We’re two elderly Britons …” というくだりでは、Briton は今では「英国人」という意味でも使われるため、少なからず脳内が混乱した。ここでのブリトン人とはアングロサクソン系民族が移住し、現在の英国を構成する以前の先住民であるケルト系の人々を指す——。
 水曜日のジャパン・ニュース紙(JN)にこのBriton という語が見出しに踊っているのを見た。—— Prince Andrew sex scandal accuser calls for Britons to back her —— 英王室のアンドリュー王子(59)にまつわるセックス・スキャンダルの記事だ。英米のメディアでは大扱いされている。私自身はあまり興味もないが、アンドリュー王子が富豪のアメリカ人の友人にかつて便宜を図ってもらい、未成年のアメリカ人の少女と性交渉を持ったという疑惑だ。現在は30歳代半ばのこの女性がメディアで実名、顔を曝して告発している。水曜日のJNの記事では彼女は2001年、17歳の時にロンドンに連れて行かれ、王子と初めて性交渉を持ち、翌年にかけて計三度にわたって相手をさせられたという。
 彼女が「私は真実を語っている。英国の人々は私を信じて欲しい」と訴えたのが上記の見出しの記事。アンドリュー王子はBBCとのインタビュー番組で疑惑を真っ向から否定し、火消しに躍起となったが、今のところ、逆効果となっているようだ。この醜聞の渦中にいる、いやいたのが、富豪の故ジェフリー・エプスティーン氏で、彼自身が未成年の少女を性的目的で人身取引した罪で逮捕、収監され、今年8月に獄中で自殺した。エリザベス女王のお気に入りの息子(次男)と言われるアンドリュー王子が地に落ちつつある世評を回復するのは並大抵のことではないという気がする。
                  ◇
 NHKラジオの初級中国語講座の再放送が3か月目に入った。近頃はちょっと歯応えのある内容となっていて「苦戦」し始めた。初歩的な語彙も一度は学んだはずなのにすっかり忘れてしまっている。美丽(美しい)や英俊(ハンサムな)迷人(魅力的な)酷(かっこいい)・・・。発音(ピンイン)となるとことごとく怪しい。
 「象長い」という主述述語文がまた出てきて、いい復習になった。「他工作很忙」(彼仕事忙しいです)。日本語と語順は全く同じだ。私は改めて思う。こんな感じの文章を身につけていけば、いつか中国語の達人になれるのではないかと。いや、なれないかな?! いずれにしても、こういう時には私と中国語の距離はぐっと狭まる。韓国語でも上記の文章は「그는일이바빠요」と日本語と酷似している。
 先日、近くの郵便局に行ったら、小包の受け付けは本日は終了したことを告げるお知らせが張り出されていた。外国人客も多いからだろうか。だが、英文はかなり怪しいものだった。職員さんがスマホか何かの翻訳機能を使って英文をこさえたようだ。
 スマホの翻訳機能がAIを駆使して長足の進歩を遂げれば、外国語(中韓)を学習する必要はなくなるのだろうか。いや、そうなったとしても、外国語を学ぶ意義(喜び)は消滅しないだろうと思う。思いたい。

ゴキブリは蟑螂

20191202-1575269963.jpg 日曜日。久しぶりに香椎浜をスロージョギングした。このところ、何だか熱っぽく感じて走らない方が無難と思っていたからだ。それで体調が戻った日曜日、走った。香椎浜を1周3キロ程度走るつもりだったが、結局2周走った。帰途、香椎の国道3号線で大勢の人垣に遭遇した。そうだ、この日は福岡国際マラソンの日だ。香椎が折り返し地点となっている。
 急いで自宅に戻り、デジカメを手に折り返し地点に戻った。沿道では多くの人たちが声援を送っていた。残念、トップは外国人選手だ。私はあの川内優輝選手が歯を食いしばって駆け抜けるのを見届けて帰宅した。同じ走るでも雲泥の差!
                  ◇
 NHKラジオの中国語講座で次の文章に出くわした。车站旁边有一家拉面店。店里没有客人。桌子上有一只蟑螂!(駅のそばにラーメン店が1軒あります。店の中にはお客さんがいません。テーブルの上に1匹のゴキブリが一匹いる!)
 考えようによってユーモラスな文章だ。客はいないが、ゴキブリはいるラーメン店。食べたくなるようなお店ではない。私が住む福岡はラーメンの美味さでも知られる。大半はトンコツラーメンのような気がする。私も嫌いではないが、あまり食指は動かないので、ラーメン店に足を運ぶことはほとんどない。宮崎に戻るとよくのぞくラーメン店があるが、あそこはトンコツ系ではない。とすると私はあまりトンコツ風味が好きではないのかもしれない。
 東京・千駄木に住んでいた頃、よく通っていた飲み屋街にラーメン店があった。いつ通ってもお客が入っていることは稀だった。当然、一度もお店に入ったことはない。上記の文章を読んでいてそのお店を思い出した。懐かしくはない。週末、ケーブルテレビを見ていたら、「街中華やろうぜ」みたいなタイトルの番組をやっていた。タレントが東京の下町などで長く営業している中華のお店を紹介する番組で、確かに美味そうな品々が目白押し。
 そのうちに千駄木のお店が出てきた。富山出身のご主人が60年以上も営んできた中華のお店だった。私は店名を聞いた時にすぐに分かった。飲み屋街の近くにあったお店でよくその前を通っていた。入店したことは一度あるかないか、なかったかもしれない。新聞社に入社した時、店名と同じ名前の同期がいたので、妙に記憶に残っているのだ。
 番組ではそのお店が間もなく閉店することを伝えていた。80歳を超えたご夫婦が体力の限界を訴え、お店の味を壊す前に引退を決意したという。閉店を惜しむ馴染みの客が次々に訪れていた。お人柄があふれた笑顔のご夫婦を見ていて、しまった、こういうお店だったのか、私も何度も足を運んでおくべきだったと少し悔いた。
 冒頭の中国語に戻ろう。车站旁边有一家拉面店。店里没有客人。桌子上有一只蟑螂!このような中国語がさっと頭に浮かぶようになりたい。ところで、ゴキブリが蟑螂(ジャンラン)。とても覚えられそうにない漢字だが、章郎という名前に虫偏がついたと考えれば何とか記憶の端に引っかかりそうな気がしないでもない。小中学時代に章郎という名の同級生がいたら、「おい、お前は中国に行ったら、ゴキブリだぞ!」などとからかうことができただろうが、当時は中国語は思いもつかない遠い世界の言葉だ。漢字はともかく、蟑螂のピンイン(発音)は例によって厄介だ。

“The Buried Giant”

20191201-1575187314.jpg 先日、宮崎から上福(こんな語あるのか?)した妹と天神に出た際、暇があったので、書店をぶらついていたら、洋書のラックがあったので、手ごろな本がないかなと探すと、この本が目に入った。カズオ・イシグロの小説 “The Buried Giant”(邦訳『忘れられた巨人』)。一昨年にノーベル文学賞を受けたこの日系英国人作家の作品はほとんど読んでいるが、2015年刊行のこれは読んでいない。寝しなにでも少しずつ読もうと買い求めた。
 英国及びイングランドが今の国家となる以前の六世紀始めと思われる時代を背景に、ogre(人食い鬼)や小妖精が跋扈する怪異な社会が描かれている。主人公はブリトン人(Briton)のアクセルとビートリスの老夫婦。伝説的なアーサー王が没した後、ブリトン人の王国とサクソン人(Saxon)の王国が緊張をはらみながら共存していることがうかがえる。
 新聞社のロンドン支局に勤務していた頃は英国やアイルランドの歴史をかじらざるを得ず、少しは分かっていたつもりだが、物語の冒頭近く、ビートリスが “We’re two elderly Britons …” というくだりでは、Briton は今では「英国人」という意味でも使われるため、少なからず脳内が混乱した。ここでのブリトン人とはアングロサクソン系民族が移住し、現在の英国を構成する以前の先住民であるケルト系の人々を指す。スコットランドやアイルランドの人々がケルト系だ。嗚呼、ややこしい!
 物語はブリトン人とサクソン人の確執を軸に、この世のものとも思えないドラゴン(竜)や奇怪な獣も交えながら語られる。ドラゴンの吐息がミスト(霧)となり、人々は集団的健忘症にかかり、過去の異民族虐殺も忘れている。サクソン王の命を受け、ドラゴン退治にやって来たサクソン人の戦士が同胞の少年にブリトン人への報復を誓わせる場面が強烈だ。“Should I fall and you survive, promise me this. That you’ll carry in your heart a hatred of Britons.” “What do you mean, warrior? Which Britons?” “All Britons, young comrade. Even those who show you kindness.”
 この幻想的な小説の印象は読者によってまちまちだろう。民族(国)がいがみ合う現代の国際情勢を絡めながら読むべきなのだろう。forgiveness(許し)よりも hatred(憎悪)や vengeance(復讐)が幅を利かせている現実を想起せざるを得ない。この小説が世に出た時はまだ「アメリカ第一」いや近頃では “me first” しか念頭にないように見えるトランプ米大統領はまだ政権に就いていなかったが。日韓関係を考えるまでもなく、forgiveness が vengeanceのかなたに追いやられる時代は悲しい。
 読者はやがてお互いの身をいたわり合う主人公の老夫婦も心の闇を抱えていることを知る。ドラゴンの死と共にミストが消滅し、昔の記憶が蘇るからだ。二人には思い出したくない記憶だったかもしれない。もっとも、現代に住む我々も皆、そうした記憶の一つや二つは抱えているのではないか。
 この不可思議な小説を(私には縁がない)夫婦愛や、老いることに焦点を当てて読むことも可能だろう。いずれにせよ、私はちまちまと読み進めるつもりだったが、熟練の作家が紡ぐ幻想的世界に引き込まれ、幾晩か深夜まで付き合わされ、一気に読了した。嗚呼、しばらくの間、睡眠薬代わりにするつもりだったのに・・。

More...

Home > Archives > December 2019

Search
Feeds

Page Top