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January 2019

なおみちゃんに敬服!

 普段はあまりテニスの国際試合をテレビで観ることはない。応援しても、日本人選手は最後には負けるからだ。私は心が狭いから応援のしがいがないと思ってしまう。全豪オープンの大坂なおみ選手の場合は違った。パイティン!加油!などと韓中両語の掛け声を交えて声援を送った。決勝の第2セットで5対3とリードし、ラブ40(0-40)と3個のマッチポイントを手にしながら、ペトラ・クリトバ選手(チェコ)の驚異的な粘りに屈し、このセットを逆転で落とした時は、負けを覚悟したが、いやはや、あそこから巻き返すとは!
 月曜日のジャパン・ニュース紙にAP電で敗れたクリトバ選手の言葉が掲載されていたが、その言葉が興味深い。“Amazing achievement. Definitely she is a great one. We’ll see what the future will bring.”(素晴らしい活躍だった。彼女は間違いなく偉大なプレーヤーの一人だ。これからさらに大いなる伸びしろを秘めているわ)
 地元の豪紙の中にはナオミ選手のユニークな記者会見などでのやり取りから “Quirky Naomi” と形容しているものがあった。quirky とは辞書を引くと「一風変わった、くせのある」という意味が出てくる。ネガティブなニュアンスで使われることもあるかもしれないが、なおみ選手の場合に関しては、彼女の口からどんな言葉が飛び出すか「予測不能な」といった好意的な意味合いかと思う。「型破りの」といった訳語が頭に浮かぶ。
 英BBCの次の文章が彼女の魅力を端的に表現している。“Japan’s Osaka has endeared herself to the public with her down-to-earth and slightly awkward public speaking.”(日本の大坂選手は人前での率直かつちょっとぎこちない話し方で大衆を魅了した)
                  ◇
 中国語の辞書を繰っていて、「希望」と「絶望」の両語の発音が酷似していることに気づいた。「希望」と「絶望」をそれぞれピンインで表記すると「xīwàng」「shīwàng」。我々日本人には両方とも「シーワン」と酷似の音に聞こえる。「xīwàng」は日本語とほぼ同じ発音で良さそう。問題は「shīwàng」で、こちらは舌を口内でのけぞらせるように立て、「シー」と言わなければならない。中国語のネイティブスピーカーには明確に異なる発音として聞こえているのだろうが、私には何度声に出してみても自信がない。中国語に精通している元同僚の後輩氏にラインで尋ねたところ、彼は両者の違いを明確に意識して発声しているとの由。まだまだ道は遠い!
 参考までに韓国語では「希望」は「희망」、「絶望」は「실망」。カタカナ表記ではそれぞれ、「ヒーマン」と「シルマン」。希望が肥ぃ満とも聞こえ、以前から何となく面白いと思っていた。韓国語の方は聞き間違えることはほぼないかと思う。
 束の間、はまっていた韓国のドラマ「明日も晴れ」(原題:내일도 맑음)の最終回を見終えた。絵に描いたようなハッピーエンドだった。全121回のドラマで私がまともに見たのはせいぜい10回ぐらいだろうか。1回は40分足らずだったような気がするから、そう長尺のドラマではなかった。これでしばらくは韓国語のドラマからは遠ざかる。また、そのうち、終幕に近づきつつあるドラマを見つけたら、脳味噌をフル回転して物語のおおよその筋立てや登場人物の関係などを推測しながら楽しもう。

hikikomori(引きこもり)

 米CNNや英BBCなどの米英のメディアのネットで時にエキセントリックな日本紹介の記事を見つけると、またかいな、と思いながら、読まされることになる。BBCが最近報じた“Rent-a-sister: Coaxing Japan’s young men out of their rooms”(日本の若者を自室から引っ張り出そういう取り組み:レンタルシスター)という見出しの記事もそういう風変わりな事案を漁った記事だろうと思った。だがクリックして読んでみると、全然そういう類の記事ではなかった。
 日本で問題化している「引きこもり」問題を取り扱った記事で、引きこもりの若者を社会復帰させることに取り組んでいるグループの活動を紹介していた。記事の中では比較的若い女性、特に医療とか福祉とかの資格を有しているわけではないが、そうした女性が引きこもってしまった若者の自宅を訪れ、辛抱強い対話を重ねて、自立に向けた手助けをする姿がとらえられていた。若者の姉(妹)代わりの役割を果たしているので、「シスターを借りる」と表現されたのだ。レンタルシスターとなる女性は相談を受けた家庭から毎週の定期的な訪問に対し、月額で10万円ほどの報酬を手にするという。
 すこし驚いたのは日本では引きこもりの人々が少なくとも50万人いると紹介されていたこと。単純に47で割ると、1都道府県に1万1千人近い引きこもりの人がいることになる。全国の総数は50万人ではなく、100万人に達すると見る専門家もいた。
 記事の中では、レンタルシスターが引きこもりの若者の頑なな心を開き、社会復帰に成功したケースも紹介されていたが、何ら手立てがないと困り果てた父親の声も流されていた。引きこもりはアメリカ、イギリスやイタリア、韓国でも顕在化しているといい、この “people withdrawn from society”(社会から身を退いた人々)がやがて “hikikomori”として英語の中に「定着」していく日もそう遠くないのかもしれない。
                  ◇
 NHKの「まいにち中国語」を平日はずっと真面目に聞いている。(より正確な日本語表現では「聴いている」と書くべきだろうが)現在聞いているのは2017年4月から9月に初放送されたもので、昨秋から二度目の放送にかかっている。私のような者にはありがたい再放送だが、学習したはずの事柄はあまり記憶に残っておらず、多くの単語もほとんど初出のようなもので、そのたびに愕然とすることがしばしば。
 そういう次第だから、時々わりとよく覚えている表現に出合うと俄然嬉しくなる。最近では次の表現。我从来没撒过谎。(私は今までウソをついたことがありません)。撒谎(サーファン)が「ウソをつく」という意味の語彙だ。「撒」は撒き散らすという表現が頭に浮かぶ。「谎」は「言葉が荒れる」と考えれば「ウソ」を意味すると言えば言えなくもない。
 二年前の夏にはすっと理解することができなかった中国語の表現がまあ今は何とか頭に入るようになってきてはいる。これも進歩と呼んでいいのだろう。遅遅とした歩みであっても。問題は中国語のネイティブスピーカーが私の口にする中国語をすんなり理解してくれるかどうかだ。自信がない。韓国語なら語彙さえ知っていれば、何とか先方に分かってもらえる自信がないこともない。これが中国語と韓国語の最大の相違点だろう。

I'm a coffee person.(私はコーヒー党です)

20190115-1547527744.jpg 神戸で赤ワインを飲み過ぎたせいか、福岡に戻ってからもしばし「余韻」いや「酔韻」が残っていたのか(酔韻という語などないが)コンビニの酒類の棚をじっくり見る羽目に。それで焼酎に比べても破格に安いチリ産の赤ワインを買い求めてしまった。まあ週末ぐらいは自宅で少しは嗜んでも、お袋や神様も大目に見てくれるだろうと自分を説き伏せた。私がこれほど容易に説き伏せることができるのは自分自身ぐらいだ。
 普段は酒を飲まない分、コーヒーをよく飲む。妹がコーヒーメーカーをプレゼントしてくれて以来、特に飲むようになった。ただ、このところずっと、自分で淹れて飲むコーヒーがあまり美味くないと感じていた。コンビニで買い求める一杯百円のコーヒーの方が美味い。それでもせっかくのプレゼントを無駄にしたくないのでコーヒーの粉をせっせと買ってきて飲んでいた。
 それで思った。専門店からちょっと高価なコーヒー豆を購入して、自分で挽いたらどうだろう。少しはましな味のコーヒーになるのではないか。まずはコーヒー豆を挽く器具を買わなくては。専門店をのぞいたら、手動の豆を挽く器具を見つけた。可愛い器具だ。一人で飲むには十分だろう。消費税入れて3,888円。同じ店で200グラム1,274円の豆を購入して挽いてみた。やはりコンビニで買っていたのとはちょっと味が異なるようだ。これなら十分いける。喫茶店のコーヒーを考えれば、これぐらいの出費は何でもない。
                  ◇
 韓国のドラマにまたはまっている。といってもこれは期限付きだ。来週半ばで最終回を迎えることが分かっているからだ。このドラマは以前に何回か目にしていた。正確に表現すればチャンネルを走らせている時、「瞬間的に」目にしていたというべきだろう。当然のことながら、筋立てとか登場人物の関係とかは全然分からない。それを探る手立てはあるのだが、そこまで熱心にはなれない。
 つい数日前に全121回のこのドラマ「明日も晴れ」(原題:내일도 맑음)が110数回を超え、あと数回で終幕を迎えることに気づいた。それなら何とか「付き合う」ことも可能だ。それで本腰を入れて見始めた。すでに何度かこのブログで書いているが、韓国のドラマは登場人物が善人、悪人と見事なまでに類型化されている。英語だとstereotyped と表現するのだろう。「固定観念にとらわれた」というネガティブな語彙と言える。
 そういうドラマに121回も付き合うのは耐えられないが、残り数回に至れば話は別だ。粗筋は想像力で推測する。そもそも目的は生きた韓国語の学習。さて上記のドラマでは長年生き別れになっていた母娘が困難を乗り越えてお互いの存在を知り、その邪魔をしていた憎っくき肉親の悪巧みが暴かれる筋立てのようだ。最後はめでたし、めでたしになるのが必定。例えれば、「水戸黄門」の最終場面のようなものだ。
 余談を一つ。ドラマの中で年老いた母親が不祥事をした娘をしかり、体を激しく叩く場面があった。日本のドラマではこういう場面はあまり見ないような気がする。最近レスリング競技から勇退を表明した著名な女子選手が会見の場に駆けつけた母親と握手する光景をテレビで見た。これが韓国だったら、握手ではなく熱くハグしていただろうなあと思った。

いつ以来 雪見て思う 来し方も

20190108-1546918345.jpg 謹賀新年。
 年末から富山・魚津、京都・亀岡を訪ねた。魚津では東京で酒とギャンブルに溺れていた頃にお世話になったスナックのママさんの家で正月を迎えさせてもらった。隣家の親戚の人たちも加わり、大変心地良いひとときを過ごすことができた。隣家のLちゃんは可愛い中学生の娘さんに成長していた。英語の手ほどきをしてあげようと願っていたが、うまくかわされてしまった。(東京で酒とギャンブルに溺れていた頃と書いたが、仕事はきちんとやっていた。今の石部金吉の暮らしぶりから思えば、そのような日々だったということ)
 亀岡では兄夫婦に歓待された。久しく会っていなかった甥っ子の長男とも顔を合わせた。すっかり頼もしい好男子になっており、嬉しく思った。
兵庫・芦屋ではこれも一年ぶりに子羊の群れ教会に足を運び、礼拝した。礼拝後、牧師の奥様であるH子さんと昼食をご一緒させて頂いた。心が洗われるひとときとなった。
 最後の夜は神戸で旧知の英語関係者との懇親会。語学学習の楽しさについて大いに語り合った。集まったのは私を含めて5人で、私が一番の若輩者。大晦日以来の連日の飲酒でさすがにもう控えようかとも思っていたが、一年ぶりの再会を祝さざるを得ない。飲み放題だったこともあり、U先生が所望された赤ワインを一緒にしこたま飲ませてもらった。美味かった。飲酒も当分はこれが最後。思い残すことはない!
                 ◇
 富山から魚津に向かうローカル路線の電車から久しぶりの雪景色を見ていて、一句ひねりたくなった。あれこれ苦悩の末に次の作に落ち着いた。駄作か。
 いつ以来 雪見て思う 来し方も
                 ◇
 神戸のホテルをチャックアウトして帰福の途に就いた折、フロントに地元紙が置いてあったので、新幹線の中で拾い読みした。地元のニュースを報じた頁を読んでいて、おやっとしばし手がとまった記事が幾つかあった。まさしく「あった」だった。
 例えば、次の記事。——神戸を拠点に活動する空手の「〇〇会」の寒稽古が6日、須磨区の須磨海岸であった。—— 読売新聞ならば、このような文章が「あった」で終わることはない。おそらく「寒稽古が6日、〇〇で行われた」となるだろう。「あった」でも何ら問題はない。意味は同じだ。字数では「あった」は3文字、「行われた」は4文字。「あった」の方が1文字スペースを稼げる。
 ただ、私は「あった」という表現より「行われた」の方を選択したい。読売新聞記者時代にこういう表現をしてきたこともあるが、「行われた」ではあまりにもありきたり、画一的な印象を与えるので、場合によっては「参加者〇〇人が汗を流した」「寒さを一蹴した」などと工夫を凝らした表現を心がけるようにしていた。
 故郷の宮崎に戻り、地元の宮日新聞をすると、ローカル色の濃い記事では「あった」という表現をよく目にするので、いつも複雑な思いで読んでいる。全国の地方紙が雑報的な記事では末尾の表現を「統一」しているのかもしれない。

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