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December 2020
新年快乐!
- 2020-12-31 (Thu)
- 総合
2020年最後のブログ。多くの人たちがコロナ禍の忌むべき2020年が早く過ぎ去り、来る2021年が打って変わって輝かしい一年となることを心より祈っていることだろう。そうあって欲しいと私も祈り、願う。
2020年を見送るに際し、心に浮かぶことを記しておきたい。コロナ禍がこれほどの災いをもたらすとは年初には思いもしなかった。ただ個人的には今年は一度も風邪をひかず、熱を出すこともなかった。虚弱体質の私は例年、二度か三度は熱を出し、寝込んでいたような気がする。平熱は35.7度。だから、風邪かなと危ぶみ、体温を測って36度台だと、やばっと思ったりする。36度台の後半になるといよいよ危険信号だ。そんな私だが今年は一度も体温計を手にしたことがなかったような気がする。熱があると意識したことがないからだ。
油断大敵は承知している。記憶する限り、私が一番熱を出しやすいのは2月、3月。平熱が低いからちょっとでも熱を出すとうなされる。深夜に寝ている、いや寝付けない時によく見る悪夢というか幻覚は思い出したくもない。来春も風邪をひかなければ私にとっては画期的なことだ。加油!파이팅!頑張ろう!
年も押し迫ってイギリスの友人からクリスマスプレゼントがようやく届いた。おそらくコロナ禍で到着が遅れたのだろう。韓国・ソウルの友人にもプレゼントを送っていたが、昨年はほどなく送られてきたEmailが来ず、少し案じていた。それが昨日、届いた。嬉しかったのは、私がプレゼントに添えていた韓国語の手紙をほめてくれたこと。彼のEmailは韓国語で書かれていた。辞書の助けを借りはしたが、苦労することなく読むことができた。すぐに韓国語で返信したかったが、こちらがハングルでEmailを送ると、向こうではなぜか文字化けしてしまうのが悲しい。
今年はパソコンの前で過ごす時間が格段に多かった。過去にはパソコンはネットで海外のニュースをチェックして英語教室の題材を探したり、ブログを書いたり、友人・知人とのメールのやり取りなどで向き合うのが大半だった。今年はパソコンを開き、アメバテレビと呼ばれるネットの無料テレビで結構な時間を過ごさせてもらった。将棋のあらゆるタイトル戦が最初から最後まで見ることができるとは信じられなかった。麻雀のゲームも見放題。韓国語のドラマも常時流れており、時に「つまみ食い」してリスニング力の鍛錬に活用させてもらった。YouTubeでも実にさまざまな番組が流れていた。時間がいくらあってもたりゃしないというものだ。私のお気に入りのアメリカのコメディアン、Stephen Colbert氏の The Late Show もたっぷり楽しんだ。
例年この時期には水仕事から手の甲や指の荒れに悩まされた。肌荒れで痛いと思うこともよくあった。それが今年は洗剤が直接手に触れないように留意したためか、酷い荒れに苦しむことはなかった。皮膚科の軟膏の他、妹が送ってくれた宮崎の椿油も役立ったような気がしている。ささいなことだが、私にはとてもありがたい。あ、忘れていた。浴槽に垂らす木酢液にもずっとお世話になっている。
皆様、良いお年を! Happy New Year! 새해 복 많이 받으세요! 新年快乐!
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play it forward ?!
- 2020-12-28 (Mon)
- 総合
コロナウイルスに振り回された2020年も間もなく暮れようとしている。スカイプで何とか続けてきた月2回の英語教室も昨日、今年最後の講座を無事終えた。最後だけは年明けの講座のための小説のコピーを手渡したいこともあり、天神のカフェで対面で実施した。生徒はわずか2人だが、教え甲斐は20人分ぐらいありそう。
偶然だったのだが、今年これまで読み進めてきていたルイス・キャロルの名作“Alice’s Adventures in Wonderland” を最後の教室で読み終えることができた。私は過去に何度か通読した作品だったが、最初からじっくり読み込んで初めて、作家が真骨頂とする言葉遊びの奥深さを知った。言葉遊び、英語ではpun。これを「駄洒落」と解することも可能なのだろう。私らの年配の男が時にかます「親自虐」いや「親父ギャグ」とはいささか趣が異なる高尚な言葉遊びの世界だ。一読した時に例えば fainting in coilsがpainting in oilsを意味するとは恥ずかしながら気づかなかった。
年明けからは私の好きなサマセット・モームの短篇に挑戦する予定だが、改めて読みたい作品は数多い。かつて教えた大学でこのような授業ができたら楽しかっただろうにと思う。
英語教室を終えると、バスに乗り急いで帰宅した。昨年もそうだったが、中央競馬の有馬記念の日だったからだ。昨年のブログでは次のように記している。
私は馬券を場外やネットで購入することから足を洗って久しいが、有馬記念は特別な思いでレースを見る。一年の締め括りぐらいは馬券をちょっと買ってみたいと思わないでもない。それでも自分だったら、この馬を中心にしてあれとあれとあれを二三着候補に馬券を買うかな、ぐらいのことは頭の中でシミュレーションはする。推理するだけならただで済む。今年最後の英語教室を終えた後、急いで自宅に戻り、有馬記念のレースを観戦した。私の念頭にあった馬は全然ダメだった。評論家・予想屋の圧倒的大多数が絶対視していたダントツ一番人気の4歳牝馬は掲示板にも載らない9着に惨敗した。中山競馬場では群衆が絶叫し、ため息が漏れたことだろう。
今年の有馬記念は一番人気の馬が実力を発揮して勝利した。私が勝つと予想していた馬は直線で失速してブービーに終わった。自分に課した戒めを破り、実際に馬券をネットで購入していたら、大泣きしていたことだろう。やはり競馬は馬券を買わずに予想だけしていれば、こんなに楽しいレジャーはないと思う。もう一つ言わせもらえれば、ギャンブルで過去に大敗し続けた悲惨な過去がある人は(私もその一人であるが)、大逆転の大勝ちをして負け額を少しでも減らしたいなどと思わず、例えば、遠い未来の分までギャンブルを楽しんだのだと思えばいい。そう考えた時点から5年、10年、20年ギャンブルに手を染めなければ、その負け額を5で割り、10で割り、20で割っていけば、年間の負け額は着実に減っていく。英語で自分が過去に受けた親切な行為を他の人に返していく行為を pay it forward と呼ぶが、私はこの表現を無理矢理に借用してplay it forward と勝手に呼んでいる。この考え方は説得力もなく、論理的でもないことは承知しているが、私はこれで十分「納得」している。
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レンタルファミリー業?
- 2020-12-24 (Thu)
- 総合
アフリカの特派員時代からずっと使ってきていたカセットテープレコーダーが遂に動かなくなったと前項で書いた。ひょっとしてまだ修理可能ではと一縷の望みを抱いてメーカーのお客様相談センターに電話してみた。優良製品を世に出しているのだからメーカー名を書いてもいいだろう。ソニー社製だ。
結論から書くと私が愛用してきた製品はもう今は製造しておらず、修理は不可能とのこと。私のテープレコーダーは1998年に製造開始ということを知った。ということは発売開始直後に購入したとしても20年ちょっとの使用期間となる。それでも十分もったと高評価に値するだろう。今ではソニーも小型のカセットテープレコーダーは発売しておらず、メモリーカードレコーダーが主力とか。次に買うとすればそれか。
◇
ネットで目にした海外のニュースで最近目にとまったのはだいぶ以前に読んだ記憶が残っている日本社会の話題が実は「フェイク」だったと指摘した記事だった。アメリカのThe New Republicという雑誌の記事の見出しは How The New Yorker Fell Into the “Weird Japan” Trap となっていた。あの高級なニューヨーカー誌が「奇妙な日本」の罠にかかり、真実とは言い難い話題を報じていたというものだ。
実は私はこの記事を以前(2018年?)にネットで読んだ時に、眉唾ものではないかと感じていた。記事は日本でいわゆるレンタルファミリー業(rent-a-family industry)というサービス業があり、例えば子供に父親が欲しいと願うシングルマザーに一定時間、父親を提供するとか、家族が欲しいと欲する高齢の独身男性に妻や娘を提供する、いわば「家族ごっこ」の場が持てるサービスが存在するというものだった。日本では一人で暮らす独身男性やシングルマザーが多いことを背景にこうしたレンタル業が成立していると報じていた。
私はこの記事を読んだ時、家族をレンタルしてまで「孤独」を癒やしてもらいたいと思う人々はあまりいないのではないか、それが「商売」として認知されているとの扱いは誤報と大差ないのではないかといぶかしく思った。ただ、それ以上の興味は覚えず、ほぼ忘れかけていた。ところが、The New Republicはニューヨーカー誌に登場する三人の中心人物は実名を偽り、成りすましだったことを指摘した。いわゆる「やらせ」だったという次第だ。ニューヨーカー誌は事実でない記述があったことは認めたが、記事の取り消しまではせず、こうしたレンタルファミリー業が日本には存在するとの認識を示している。何とも不可解極まりなく、ニューヨーカー誌の報道倫理に不信の念を抱かざるを得ない。
CNNやBBCでもそうだが、私が日本にまつわる話題を読む時に気になるのは、欧米とは異質の日本ではこんなこと、あんなことがあるんですよ、といった「風変わりな国、ジャパン」を紹介しようとする意図が時として垣間見えることだ。風変わりなことは日本に限らず、どの国、地域にもあることであり、受けを狙っただけの興味本位の報道は自らを貶めるだけだろう。どこかの国の大統領の手垢のついた常套句を使えば、“fake news” と断じざるを得ない。もっともあの大統領が自ら放っている “fake news” に比べれば「罪の度合い」は遙かに微々たるものであろうが・・・。
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私の脳もバッテリー切れ?
- 2020-12-21 (Mon)
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アフリカの特派員時代からずっと使ってきていたカセットテープレコーダーが遂に動かなくなった。30年以上も貢献してくれたのだから十分役目を果たし、寿命を迎えたと言えるだろう。修理が可能かどうか分からないし、修理が可能でも、新品を購入した方が安くつくかもしれない。昨今の電機製品は大概がそうだ。もう部品を製造しておらず、修理が不可能なケースも多い。
そう思い、近くの量販店に出向き、新しいカセットテープレコーダーを買い求めた。あまりめぼしいものはなかった。どうも今ではボイスレコーダーというものが主流のようだ。いや、それも今は古くなりつつあるのかもしれない。私はこういう機器にはすっかり疎くなってしまった。アナログ人間だ。確か少し前にNHKラジオの英会話講座で「私はデジタルには疎いんです」という意味合いで、“I’m not really a digital person.” というような表現が流れていた。そうかそういう表現もありか。これは自己紹介の場などで使えそうだと思い、脳裏にメモ(take notes)した。“Even handling a smartphone is a tough work for me.”
それで5000円台のカセットテープレコーダーを購入した。もっと高いものでも良かったのだが、そういう類の商品がなかった。ラジオの機能もあり、直接録音できるようになっていたが、肝心のラジオの受信があまり良くない。それでこれまで同様、スマホのラジオをそばに置いて録音する。スマホのラジオは雑音フリーで聴けるから大変ありがたい。
しばらく聞いていたら、録音した講座の雑音が酷くなり始め、やがて全く動かなくなった。電池を替えてみた。しばらく動いていたが、また雑音が気になり始めた。電池はまだそう使っていないような気がする。電池の残量を測定するバッテリーテスターを購入して測ってみた。針が緑のゾーンに振れるとgood、黄色は weak、赤は replace と表示されている。赤のゾーンに針が落ち着けば、電池を取り替えろというわけだ。私が測定する限り、針は緑のゾーンにまで振れている。不思議だ。この後、量販店の親切な店員さんと色々やり取りがあり、結論から書くと、私のテスターの使い方が間違っていたことが判明。私は単3電池ではなくボタン電池のところで測定していた。道理で針が緑に振れていたわけだ。単3電池で測ると赤のゾーンから脱することはなかった。バッテリーがなかった。
やはり知らないということは悲しいかなだ。私は新しく購入したカセットテープレコーダーが欠陥品ではないかと案じていたが、そうではなかった。電池の消耗が激しいようなので充電式電池2本と充電器(単3、単4用)も新たに購入した。これで中国語と韓国語の学習継続には万全の体制だ(と願う)。
今年は中国語は確実に力をつけたかと思っている。公民館講座でネイティブの中国語話者から教わっていることが大きいようだ。韓国語の方はあまり自信がない。韓国語もNHKラジオの初級講座はしっかり受講しているが、ハードルがそもそもそう高いものではない。まあ、次のような語尾表現がなんとなく理解できるようになったことは嬉しいと考えている。講座で出てきた文章だ。「~거든요」で「~なんですよね」と軽く理由、事情を伝える。
모래 괴국해야 되 거든요.(あさって帰国しなくてはならないんですよ)。末尾の「거든요」は以前の私は理解に苦しんだ表現だ。今は何となく理解できる(ような気がしている)。
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YouTubeで観た銀鏡夜神楽
- 2020-12-15 (Tue)
- 総合
前日に触れた話題の続き。私の故郷、宮崎県西都市の銀鏡地区での夜神楽奉納。14日夜からほぼ夜通し、パソコンの前に釘付けとなった。まさか福岡でYouTubeの生中継を通し、銀鏡夜神楽を観ることができるとは思いもしなかった。コロナ禍がもたらした苦肉の策だが、私は親しい友人・知人にこのライブ中継をメール等で連絡し、興味を覚えれば是非観て欲しいと伝えた。銀鏡のような山深い地に一生足を運ぶことのないだろう人たちが銀鏡神楽を少しでも記憶の端に留めてくれたならと願う。
私は神楽が舞われる前の午後4時過ぎからYouTubeを観たが、福岡が薄暗くなり始めても銀鏡神社の境内はまだ明るかった。宮崎県が南の地であることを再認識した。あまりこういうことは書きたくないのだが、銀鏡は世に言う限界集落に数えられる地区。近年では地元の会社、かぐらの里食品の奮闘で若い人の雇用も増えつつあるとの朗報も耳にするが。いずれにせよ、銀鏡地区の住民、出身者の精神的拠り所となっているのがこの夜神楽だ。山村留学生の若者を祝子(ほうり)と呼ばれる舞い手に加えて命脈を保ち続けている。
私は銀鏡夜神楽の笛太鼓の音を聞くだけで懐かしさで胸が一杯になる。子供の頃には親からもらった小遣いを手に境内のおもちゃの屋台店をのぞくのが楽しみだった。もう60年近い昔の話だ。今から考えればたわいないおもちゃだったのだが、子供心には華やいだ気分に浸れた。神楽の独特の笛太鼓の音を耳にするだけでそうした思い出が脳裏に去来する。私のように銀鏡を去って異郷に暮らす者には毎年12月14日の夜にだけ夜通し舞われる神楽は(今は亡き)両親や故郷との絆に思いを馳せるよすがだと思う。
ところで夜神楽を現地で観るのはそう楽なことではない。宮崎県内とはいえ、山間部の冬は冷える。雪こそ降らないものの深夜にはかじかむような寒さとなる。境内に数カ所大きなドラム缶が置かれ、その中で木々を燃やし、見物客は暖を取れるようになっているが、それでも寒かった。さすがに徹夜まではしなかったが、それでも翌日の未明までは付き合った。今回は自宅で風呂上がりにガスストーブでぬくぬくしながら、パソコンの画面に向き合った。平日は断酒を原則としているが、今宵は現地で神楽を観ている気分に浸るため、焼酎をちびりちびりやった。こんな「快適」な夜神楽見物は初めてか。
YouTubeの映像が綺麗だったこともあり、神楽の舞いに魅了された。実際に現地で観ると、見物客も少なくなく、舞台近くに立つことができないと細部の舞いをじっくりと観ることはできない。昨夜は舞い手の顔の表情まで観察できた。私にとっては地元に残った同級生や地区の先輩など懐かしい顔に接することができて嬉しかった。一夜明けた15日には本殿祭での舞いも堪能できた。これもYouTubeでしか味わえないものだろう。
銀鏡神社を囲む山並みの美しさにも目を奪われた。故郷に帰る度に思うことであるが、山の緑が輝いている。自分はなんと美しい地で育ったことかと思う。限界集落であれ、何であれ、銀鏡の地で育ったことを誇らしく思う。
とここまで記して、最後の演目、寸劇のような「ししとぎり」が始まった。今年は大勢の見物客がいないのでなんか妙な印象。それでも老夫婦に扮した村人の言葉がマイクを通してよく聞こえた。心地よい米良弁。地区外の人には理解するのは難儀だったろう。
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I'm loving this hotpot.
- 2020-12-14 (Mon)
- 総合
師走。まだ厳寒というほどではないが、夜寝ている時に寒くて目が覚めることがある。押し入れから掛け布団を出せば済む話だが、根がものぐさなので毛布を身体に巻き付け何とか眠りを貪っている。
寒くなると鍋物が欲しくなる。自分でできる鍋物はしれているのでたまに食堂をのぞくと鍋物を注文する。よく出かけているスーパーに隣接して食堂が何軒か店を構えている。私が利用しているのは焼き魚定食からカレー、ラーメン、たこ焼き・・・とほぼ何でもできるお店。私がこの店で注文するのはほぼ決まっている。もつ鍋だ。値段はリーズナブルな780円。旨い。うどんやご飯も少し入っており、私は汁の最後の一滴まで飲み干している。
残念なのはこのお店が今月20日でお店を畳むこと。コロナ禍は関係ない。スーパーや電機量販店が入ったビルの所有者がビルの立て替えを決めたからだ。どうもマンションか何かに建て替えるらしい。それで店子の食堂も閉めざるを得なくなった。私はこれを知って以来、通う頻度を増やしている。気さくな店主夫妻とは挨拶を交わす仲。年明けからは夫婦の地元、宇美町で営業するとか。宇美町がどこにあるのかも私は知らない。そう近くはないようだ。致し方ない。散策がてら、これからは電車で時々、もつ鍋を食べに足を運ぼうかと今考えている。
◇
NHKラジオ。毎朝、韓国語と中国語の講座に続いて英語の講座が流れる。聴くともなく聞いている。先週、次のような表現が放送された。友人と再会してその喜びをスマホで撮影し、旧友たちにその写真をSNSで送った後の会話。“Oh, look. Our classmates are posting comments and are liking our picture.” という発言が流れた。学校英語ではlove とか like といった状態動詞は基本的に現在進行形にはできませんよという指導を思い出した。だが、現実には昨今、このような表現をよく目にも耳にもする。有名なファストフードのCMでは “I’m loving it.” という常套句が流れていたような。今でも流れているか知らないが・・。
likeやloveのような状態動詞をあえて進行形にすることで、私は今まさに○○が大好きなのよ、はまっているのよ、ということが伝えられるのか。あまり杓子定規に考えるのはよくないようだ。
◇
今日は12月14日。手帳には「泉岳寺義士祭」と記されている。赤穂浪士の討ち入りの夜だ。私の古里、宮崎県西都市の寒村、銀鏡では夜神楽の奉納日だ。この日夕刻から翌15日昼過ぎにかけ夜通し、神楽が神様に奉納される。今冬はコロナ禍のため、観客をシャットアウトして舞われるとの連絡が入った。それで史上初めて、YouTubeで生中継されるとの由。そのアドレスは次の通り。
https://www.kanko-miyazaki.jp/event/2020/shiromijinjya.html
徹夜で観て欲しいとは申しません。限界集落で山村留学生の若者の力を借りて何とか存続している郷土の神楽。ぜひ、のぞいてやってくださいませ! 見ものは15日昼ごろの最後の演目「ししとぎり」だが、猪を追う老夫婦の会話を地区外の人が理解するのは無理かな?
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この机と椅子「ザイコゥです!」
- 2020-12-09 (Wed)
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書斎と呼ぶにはお粗末だが、一応、仕事に使っている部屋に一枚板の大きいテーブルと本棚兼用の机を置いている。本棚兼用の机の上は手紙やら書類やらが山積みとなり、椅子に座って仕事をする気にはなれない。大テーブルもプリンターやら書籍やらなんやらと置いてあり、ノートパソコンを開くスペースがない。それでこれまでは肘掛けの付いた椅子にアイロンかけ用の板をかけ、板の上にノートパソコンを置き、窮屈な姿勢で仕事をしてきた。
年末だし、今冬は遠出することもない。従って書き物机と座り心地のいい椅子を買い求めたいと思うようになった。近くの大きな電気店の家具売り場に気に入ったものを見つけた。それが昨日届いた。さすがに使い勝手がいい。なぜもっと早く購入しなかったのだろう。
他のものは「断捨離」を少しずつ進めているのに、ここで敢えて所有物を増やすことには葛藤を覚えなくもない。だが、一日のうちかなりの時間を過ごす書き物机。やはり、使い勝手の快適なものと接していたい。この書き物机も背もたれのある椅子もキャスターが付いており、何だか嬉しい。小人はかくのごとく、身近な些事に喜びを見いだすらしい。
◇
韓国語。NHKの初級講座で以下のようなやり取りが出てきた。日本語で記すと、A「これと同じ時計が欲しいのですが」B「それは今在庫がないんですけど」。韓国語では在庫は「チェゴ」(재고)というのを初めて知った。そして思った。「最高!」は確か「チェゴ」と言うよな。同じ発音? いや、「最高」の「チェゴ」(최고)は日本語にはない激音という息を強く吐く「チェ」だった。「在庫」は穏やかに発生する平音かな?。辞書でスペリングを確認して私の「見立て」が正しいことを知り、嬉しかった。
なにしろ、中国語の講座もそうしているのだが、テキストを購入せずに、耳から聞いた音をメモ帳に書いて講座に付き合っている。15分の講座の間にスペリングが分からなかったり、すっかり忘れている語が少なくない。初めて出合う語だったらなお苦労する。
こんな時によく思うのは、激音の語を平音で発声したら、韓国人は奇異に思うのだろうか。文脈からそう問題なく理解してくれるのではないか。これは実際に韓国人に尋ねてみたいが、独学の身だとそうもいかない。ネットで検索してもこうした疑問に懇切丁寧に応じてくれるものはない。
スポーツのヒーローインタビューの場などでよく耳にする「最高です!」という表現。これを外国人選手が間違えて「在庫です!」と叫んだとしても、状況(文脈)から聴衆は「ああ、この選手は『最高です!』と言っているんだな」と思うだろう。発音がちょっと乱れているけど、まあ、分からないことはないやなと寛大に考えるのではないか。韓国語ではこうしたことは許してもらえないのだろうか、と私は素朴な疑問を抱えてしまう。
敬愛する芦屋市拠点のキリスト教伝道師の教えを時々ネットで聴いている。あるとき、教会で彼の部屋をノックする音が聞こえたので、“Come in.” と答えたという。彼はアメリカ暮らしが長かった。だが、誰も入ってこない。後でノックした人に「なぜ入って来なかったのか」と聞くと、「だって仮眠中」という返答だったじゃないですかと言われたという。この人の説教はユーモアがあるから好きだ。
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台湾小説『次の夜明けに』
- 2020-12-07 (Mon)
- 総合
コロナ禍で最近足を運んでいなかった出版社・書肆侃侃房を先週訪れた。代表の田島安江さんたちと歓談し、帰途に書肆侃侃房から最近刊行された小説を数冊頂いた。どれもアジアの隣国の作家の手になる作品だ。
帰宅後に最初に手にしたのは台湾の新世代作家の一人、徐嘉澤氏の小説『次の夜明けに』(三須祐介訳)。著者の名前は日本語読みでは「じょ・かたく」。1977年台湾・高雄に生まれ、今も高雄の特殊教育学校で教鞭を執りながら、作家活動を続けていると紹介されている。本邦初訳という作品、面白くて一気に読んだ。
作品は台湾が日本の植民地支配を経て、中国本土からやって来た国民党政権の圧政を経験し、民主化闘争が実りのときを迎える歴史の流れの中、とある家族の物語が淡々と描かれている。民主化闘争に身を投じ、投獄され、廃人となる父親(祖父)の姿はある意味、人の営みの無慈悲さを語ってもいるようだ。男として生まれたものの普通の男の子のような興味関心は抱けず、他の男子生徒から残忍ないじめを受ける主人公も登場する。子供とはいえ、人が人に対しいかに残忍な存在となるのか読者の胸を打つ。
主人公が後年、同性愛者として成長し、心を許したパートナーやその他の行きずりのボーイフレンドたちとセックスにふけるシーンも乾いたタッチで描かれる。そのくだりが私にはどうも理解ができなかった。中国語(台湾語)ではもっと分かりやすい文章だったのかもしれないが、邦訳では(私には)分かりづらかった。
終わりに近く次の既述があった。「多くの人にとって、安定した生活と心のよりどころを得ることこそが重要なのだ。自分の故郷、そして自分の土地、そこに生まれ、そしてそこに骨をうずめる。天の理に従い、身を固めきちんと仕事に勤しめばそれでよいのだ。けれども大きな怪物の腕が空から降ってきたら、それを防ぎ止めるすべはない。財閥と県政府は、幅広く企業誘致をするということを口実に、・・・」。現実は容赦ないということか。
物語は2011年の東北大震災のエピソードも交えながら、幸せを願って真摯に生きる一族の姿で終幕となる。台湾国内の政治的事情はよく知らないが、昨今の香港情勢を考えると、複雑な心境にもなる。中国語の独学を始めて以来、私は中国語と台湾に魅せられている。あの親日的な台湾を訪れて、台湾のことが好きになれない人はまずいないだろう。
この作品を読んでいて、台湾が日本に比べ、性的少数者であるLGBTの権利とか同性愛者の結婚などに対する認識がかなり進んでいることが推察できた。同性愛者。中国語では「同性恋者」と書くようだ。発音はtóng xìng liàn zhěであり、乱暴にカタカナ表記すると「トンシンリエンジョ」。私が今、公民館の中国語講座で学んでいる教科書では次のような説明が載っていた。「“同志”という語は時代の変化につれて現在では同性愛の代名詞になりました」とある。私が使っている中日辞典で「同志」と引くと、「志を同じくする人」とあり、同性愛者という意味合いは掲載されていない。
中国では今では「同志」と言えば、「志を同じくする人」ではなく、「同性愛者」を意味するということか。言葉はどこの国であれ、時代の変遷で意味合いが変化していく好例だろう。
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余韻不気味な "The Lottery"
- 2020-12-02 (Wed)
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来年からの毎月2回の英語教室の新しい教材探しのために、積ん読状態だった “50 Great Short Stories” という英書をゆっくり読んでいる。読後の余韻が不気味な作品に遭遇した。
英語教室の教材としてはうってつけだと思うが、読まなければ良かったと後悔する人もいるかもしれない。ホラーでも怪奇小説でもないが、読み終えた後、なんだこの小説はと・・。
“The Lottery” という短篇。著者はアメリカ人作家の Shirley Jackson(1920-65)。1949年に発表された作品のようだ。淡々とした書き出し。The morning of June 27th was clear and sunny, with the fresh warmth of a full-summer day; the flowers were blossoming profusely and the grass was richly green. The people of the village began to gather in the square, between the post office and the bank, around ten o’clock; …
何の変哲もないアメリカの田舎の村の描写だ。読者はこの村がどこにあるのかということは最後まで分からない。村の人口は300人ほどで家長以下全員が6月27日に村の広場に集合する。表題から村人総出のくじ引き大会があり、村人たちはくじに当たることを楽しみにしているのかと思って読み進めると、どうもそういう雰囲気ではない。
くじ引き大会の主宰者は村の長老といった感じのサマーズ氏。広場に古ぼけた黒い箱が運び込まれる。中にくじが入っている。サマーズ氏はアルファベット順に村人の名前を呼び上げ、家長すなわち父親たちが箱の中に手を入れ、白い紙を取り出す。紙は折り畳まれており、サマーズ氏は最後に合図するまで開かないように念を押す。もっとも誰もそれは心得ている。見守る主婦の一人が去年のくじ引きはつい先週だったような気がするわと言うと、隣の主婦が「月日の経つのは本当に早いわ」(”Time sure goes fast.”)と返す。「他の村々ではこのくじ引きを辞めようという話が出ているようだ」と村人が年寄りの老人に語りかけると、老人は「そういう連中は全くの阿呆どもだ。昔は6月にくじを引き、それから豊作がやって来る、と言ったものだ」と意に介さない。
さて、村人の沈黙が流れる中、男衆はそれぞれのくじを開ける。当たったのは誰? やがてビル・ハッチンソンという男が当たりくじを引いたことが判明する。それからハッチンソン一家の子供3人を含む全員が再びくじを引くことになる。ビルの妻で子供たちの母親でもあるテスィーが再三、くじ引きはフェアでなかった、夫のビルは十分な時間を与えられていなかったと訴えるが、サマーズ氏ははねつける。夫のビルも「つべこべ言うな」とたしなめる。この辺りから異様な雰囲気が伝わってくる。
子供たちやビルが引いたくじは外れであり、黒点が書かれた当たりくじを引いたのはテスィーだった。サマーズ氏は「さあ、手っ取り早く片付けよう」(“Let’s finish quickly.”)と村人に呼びかける。村人たちは手に手に石を構え、テスィーに迫る。テスィーはまだ「フェアではないわよ」と叫んでいるが・・・。これから何が起ころうとしているのか、読者にもようやく分かる。(この短篇はネットでも読むことが可能なようだ。関心あれば、どうぞ!)
米大統領選。トランプ大統領はいまだに「開票作業に不正があった。本来なら私が圧倒的に再選されていたはずだ」と譲らない。その主張に理解を示す人々も少なくないようだ。“The Lottery” が描く不条理の世界は今なお健在? まさか?!
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