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October 2018

中国ははるか先を歩いていた!?

 前回の項で書いていたチベット出身作家の読書会。残念ながら、読書会に参加できなかった。日曜の朝、ちんたらして新聞を読んだり、テレビを見たりしていたら、開始時間に間に合わなくなった。一期一会の機会を逸してしまい、恥じ入るばかりだ。
 図書館から借りた単行本の『雪を待つ』の末尾には中国の作家の小説の翻訳本がいろいろと紹介してあった。中国に関連する時事本の類は時折読んでいるが、中国人作家の小説はほとんど読んでいない。それで手頃な本をこれまた図書館から借りて読むことにした。『雪を待つ』との出合いを少しでも「益」あるものとするためにも。
 その本は『中国新鋭作家短編小説選 9人の隣人たちの声』(勉誠出版・桑島道夫編)。正直な印象はちょっと期待外れだった。タイトルから分かるように、中国で活躍する若手作家9人の短編を並べた本だが、「これは面白い!」と思って読み進めたものは少なかった。偉そうな物言いを許してもらえば、翻訳の粗さが目立つ作品も幾つかあった。中国語から日本語への翻訳は漢字を共有しているだけに、逆に難しい側面もあるのだろうかと思ったりした。中国語の漢字を見ておおよその意味が分かるだけに、翻訳語彙の推敲が疎かになるとか。
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 韓国語のNHK講座「まいにちハングル講座」は昨年4-9月の講座の再放送であり、基礎の基礎から説明してくれるので有難く拝聴している。先週の講座で次の文章が紹介されていた。Aが「やっぱりだめだったんですか」と尋ねる。Bは「はい、タイミングが悪かったです」と答える。Bの返事は、「네,타이밍이나빴어요.」。「タイミング」を韓国語で敢えてカタカナ表記すると「タイミン」(타이밍)となる。韓国語の方が英語の原音により近いかと思う。最後の音は日本語のように「グ」とはっきり言ってはいけない鼻音だ。NHKのテキストでは上記の文章をカタカナ表記してあり、「ネ、タイミンイナパッソヨ」。「タイミン」に続く「イ」(이)は日本語では「が」に当たる助詞だ。
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 書店で『日韓 理解への道』(中公文庫)を購入。日韓の著名な有識者の座談会を書き記した本で、末尾に掲載されていた司馬遼太郎の「私的断片史」に興味深い一節があった。
 「中国文明のふしぎさは、紀元前三世紀ごろの戦国期に、事や物を見る人間の精神も社会意識も、ヨーロッパが十五、六世紀以後に獲得したものをすでに持っていたということである。言いかえれば、川が逆に流れるように、近代が紀元前にあった。時代がくだるにつれて停頓してゆき、逆に古代的様相を示したのではないかと思えるほどにふしぎな文明である。
 中国が紀元前において人間の精神がすでに〝近代〟であったころ、日本は文明からはるかに遠く、縄文時代という、主として採集をもって暮らしとしていたひとびとの居住地域だった。そこへ水稲をもつひとびとがやってきて、文化が一変し、米という便利な食物を得たことで人口も増えた。この弥生式といわれる稲作文化をもってきたひとびとが、朝鮮からきたのか、長江下流(江南地方)からきたのか、あるいは雲南の地からいきなりきたのか、それとも三つながら前後してきたのか、私にはよくわからない。要するに、稲作の適地である日本列島にほうぼうからきた。

チベット小説『雪を待つ』

20181023-1540260765.jpg 催眠剤代わりの書物を探そうとしていたら、恰好のものを見つけた。お世話になっている出版社が海外の作家を招いた読書会を月末に計画しており、参加を誘われた。招かれた作家はチベットの作家。それなら作品の一つぐらいは読んでおくべと思ったからだ。
 作家の名前はラシャムジャ。奥書にlha byams rgyal というアルファベット表記もあるが、これがラシャムジャという発音となるとは到底想像できない。拉先加という簡体字表記も添えられている。1977年にチベット(中国青海省)に生まれ、北京の中央民族大学にてチベット学を修めた作家。チベット文学を代表する若手の注目株と紹介されている。2012年に刊行された長編小説『雪を待つ』(勉誠出版・星泉訳)を手にした。
 「それはある雪の朝のことだった」という語り手(主人公)の幼児の頃の回想で始まる。主人公はマルナン村という寒村の村長の息子。訳者の解説によると、「一九八〇年代に著者が少年時代を過ごした故郷の様子が細部に至るまで細かく描写されている」。私は読んでいて自分自身の子供の頃を思い出すシーンが幾つかあった。例えば、村に初めてテレビがやってきたときの描写。村長は村一番のやり手だからテレビを最初に購入したのだが、従って夜毎に村人たちが語り手の家を訪れ、テレビの画面に釘付けになった。連日の賑わいに辟易した語り手は村人から「入場料」を取ることを思いつき、これが功を奏して、一家にはほどなく元通りの静かな暮らしが戻った。
 私の家は富裕なわけではなかったが、親父がテレビを一早く購入した昭和30年代、近所の人たちが夜になると我が家にやって来て賑わったことを思い出した。
 頭脳明晰な語り手は村を出て、町にある中学、高校を経て都会の大学に進学する。もちろん村ではただ一人の栄誉だ。だが、結果的に村を遠く離れることになり、家を継いで欲しいという両親の思いとは隔たった人生を歩むことになる。そして恋愛結婚。新婦の父親は政府の役人をしている有力者。結婚式には新郎の出身の村からは誰も招かれない。新婦は都会育ちのチベット人で「今や自分の母語もろくに話せない」。二人はやがてお互いに離婚を口にするようになる。冒頭の雪のシーンから二十数年経た今、語り手は都会の暮らしに倦み、幼馴染とも縁遠くなった故郷を懐かしく思い、都会では見ることのない雪を待ちわびる。
 語り手が妻と口論する場面で次のような言葉がやり取りされる。「故郷の山と川はきれいだったなあ」「故郷、故郷って、そんなに故郷がいいなら、故郷に帰ればいいじゃない」「故郷ってものがない君が気の毒だよ」。著者とも親しい訳者の解説によると、この作品に描かれているのどかな田園風景は著者のチベットの故郷からもほとんどが既に失われてしまったという。著者の後書きを読むと、著者は(当時)三歳の息子のために、自分自身の故郷を舞台にした小説を書いておきたかったのだという。都会で生まれ、都会で育つ息子は自分の故郷のように懐かしむ場所も振り返る場所もないからだとか。
 著者は「今は故郷を捨て去る時代である」とも後書きで憂えている。私も宮崎の山里に生まれ、自分なりに一生懸命に生きてきたつもりだが、ふと我に返り、足元を見回すと、過疎の故郷は「捨て去られ」つつある。世代も国も異なるが、故郷の喪失感は似たようなものらしい。『雪を待つ』を読みながら、幾度となく自分の来し方に思いを馳せた。

Trumpism(トランプ主義)?

 最近、寝つきが悪くなった感じだ。晩酌を欠かさない時にはまずなかったことだ。深夜を待たず、崩れるように寝入っていた。途中でまた目覚めることもあったが。寝つきが悪いと、つい、焼酎でもあおっていればなあとぼやきたくなることもある。それで翌日、コンビニで焼酎やウイスキーの小瓶などを見かけると、ついつい手を伸ばしたくなる。
 眠れなければ、スマホのNHKラジオの「らじる・らじる」をクリックしてしばし耳を傾ける。「聴き逃し」を利用すれば、前週の放送を聞けるのだが、お目当てのお笑い番組が聞けることは稀で空振りに終わることが多い。気が向けば、語学講座を選択することもあるが、そこまではさすがに・・・。
 何か小説の類を枕元に用意して置いた方が良さそうだ。以前にはそうしていたが、語学の独学に取り組むようになって以来、なぜか遠ざかっていた。もっともそれより、寝つきが悪い方が問題だ。ストレスが皆無に近い気ままな生活を送っているから、体が睡眠を必要としていないのだろうか。まさかそんなことはあるまい、と思うが・・・。
                  ◇
 米CNNをネットで読んでいて、見出しに手がとまった。“These 14 words are the only ones that matter to Trump”(トランプに意味あるのは以下の14語だけ)という見出しの記事。トランプ米大統領がCBS放送のインタビュー番組に出演した際の内容を紹介・分析している。トランプ大統領は先に最高裁への判事指名に当たり、自身が白羽の矢を立てた人物に過去の性的暴行疑惑が生じた際に、暴行を告発した大学教授の女性の発言を揶揄したことでも批判を受けた。番組のキャスターが大統領、あなたは彼女がまるで嘘をついているかのように振る舞った、その点をどうお考えですか、と再三詰問されると、トランプ氏は全然意に介していないと応じた。それが以下の14語の発言。
 “I’m not gonna get into it because we won. It doesn’t matter. We won.”(それについてはもういいではないか。我々は勝利したんだから。もうどうでもいいことだ。我々は勝ったんだから)。渦中の人物は野党民主党の猛反対を乗り越え、最高裁判事に就任した。トランプ氏は最高裁人事を乗り切ったことを「勝利」と豪語しているのだ。
 I’m not gonna で始まる14語にトランプ氏の人生哲学、言わばTrumpism(トランプ主義)の枢要が凝縮されているとCNNのベテラン記者は以下のように解説している。“He is the living, breathing epitome of the old cliché that winning isn’t everything, it’s the only thing.”(勝利がすべてなのではない、勝利が唯一のものだという決まり文句がある。彼はこの手垢のついた決まり文句をまさに地で行く人物だ)
 この後に続く文章も凄い。凄いというのはトランプ大統領の単純極まる考え方だ。彼が2015年12月にワシントンポスト紙に語った発言だとか。“My whole life is about winning. I always win. I win at golf. I’m a club champion many times at different clubs. I win at golf. I can sink the three-footer on the 18th hole when others can’t. My whole life is about winning. I don’t lose often. I almost never lose.”
 こういう人物が世界をリードしているかと思うと少し怖い。いや大いに怖い。

長寿(longevity)

 NHKラジオ第二放送の語学講座が新しいクールに入ったことを前項で書いた。講座によっては5年前に初めて放送された講座もある。5年前というとだいぶ昔の気がするが、語学講座では古く感じることは全然ないようだ。そうした再放送であっても、初めて受講する講座であれば改めて気づかされることも多々あるから嬉しい。
 例えば、韓国語の「レベルアップ ハングル講座」。初放送は2013年10月で、今月から3か月放送される講座だ。これは上級者を念頭に置いた講座で、初受講の私にはついていけないところが多いが、「発音のコツ」を紹介するコーナーは大いに参考になっている。昨日の講座ではテキストに次のようなことが書かれていた。韓国語に特有の平音、激音、濃音の違いを説明したくだり。「日本人が初声として『ㄱ』を発音すると、だいたい『ㅋ』に聞こえます。理由として考えられるのは、息が強いということです。『ㅋ』にならないよう、息をおさえてゆっくり発音しながら、『ㄱ』の音に慣れましょう」。
 私はこれまで激音の名に恥じないよう、『ㅋ』を息を強く吐きながら発音していた。留意すべきは激音ではなく、むしろ息を出さないように発音する平音の『ㄱ』だったということに初めて気づかされた次第だ。
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20181010-1539130090.jpg 自分が年を重ねてくると、高齢者にまつわる話題は興味を覚え、以前は読まないような記事でも熱心に読むようになる。ニューヨークタイムズ紙をネットでスクロールしていて、次の見出しの記事を目にした。“The World’s Oldest Barber Is 107 and Still Cutting Hair Full Time” え、107歳でもまだ現役、それもフルタイムの床屋さんがいるのか?
 ニューヨークの外れにある理髪店に勤務するアンソニー・マンシネッリ氏。イタリアのナポリの近くで1911年に生まれ、家族とともに8歳の時にアメリカに移住。11歳の頃から床屋で働き始め、12歳でお客の髪を切るようになった。以来、ずっと理髪師として勤務し続けている。アメリカには定年がなく本人が健康で働く意欲がある限り、仕事を続けることができる社会であることは承知していたが、それにしても凄い。マンシネッリ氏を雇用している女性店主は「彼は病欠することもなく、お客のどんな要望にも応えて仕事をこなすことができる」と称賛。彼の驚異的な年齢を聞きつけて、マスコミや一般からお店へ問い合わせの電話が絶えることはなく、「私が彼のために働いているようなもの」とも。
 マンシネッリ氏は14年前に70年連れ添った奥さんを亡くして以降、一人暮らしで、買い物や料理・洗濯も自分でやっている。長寿と健康の秘訣をことあるごとに人々に聞かれるが、特段のことはなく、仕事を続けている限り、充足感を覚え、それが活力になっているのだとか。タバコはやらないし、お酒も深酒をすることはない。運動に熱心なわけでもないが、ただ好物のパスタは薄味が好きで、太らないように気をつけているらしい。
 107歳となった今も週に5日、お昼12時から午後8時までお店に立ち、お客の髪を切っており、20歳代の若者でもくたくたになる激務を淡々とこなす日々。お客の中には曽祖父まで遡り、4世代にわたる顧客もいるとか。いやはや恐るべし、マンシネッリ氏。ぜひとも、その長寿・健康にあやかりたいお人だ!

ぼやきたくないが・・・

 早朝、うつらうつらしていたら、宮崎の郷里の妹から携帯に電話が入った。寝ぼけまなこで電話に出ると、台風がもたらした雨の影響かと思われるが、郷里の県道の路肩が崩落し、そこを車で通りかかっていた集落の人が行方不明になっているとの由。地元の銀鏡神社の宮司のN君だ。50幾つかのその人は私よりずっと年下で、親しくは知らないが、何度か言葉を交わしたことがある。なんでその人がそんな事故に巻き込まれなければいけないのかという思いが最初に頭に浮かんだ。過疎の田舎はますます寂しくなるばかりだ。
 確か最近似たような思いをしたなあと思いつつ、このブログをスクロールしてみると、今年3月下旬に、同じ郷里出身の後輩のK君が自殺したということを書いている。彼も個人的には知らないが、彼の高齢の母親は知っており、50歳を超えているはずのK君がなぜ自死を選択したのかと気が滅入ったことを記している。それでK君の死を悼んで台所の隅に放っておいた焼酎の残りをコップで2杯あおったことも。
 ならば、宮司のN君にも敬意を表して飲むしかない。コンビニで焼酎の200ml瓶を買ってきて厳かに頂いた。合掌!
                 ◇
 日本のプロ野球はいよいよ大詰めを迎えている。いるが、やはりアメリカの大リーグと比較すると、気の抜けたビールを飲まされているかのような気分に陥ってしまう。私は以前にもこのブログで書いている記憶があるので、今さら繰り返したくないのだが、あえてまたきちんと記しておきたい。大リーグでは数日前からナリーグ、アリーグともにプレーオフに入り、最終のワールドシリーズを目指す白熱の試合が繰り広げられている。今日はアリーグのチャンピオンを決める前前段階のプレーオフ第2戦でニューヨークヤンキースの田中将大投手が力投し、宿敵、ボストンレッドソックスとの対戦成績を1勝1敗の五分に戻した。
 あの広大なアメリカを舞台にナリーグ、アリーグの総計30チームが年間162試合を戦い、同じ日にきれいにペナントレースを終了させる。翻って我が日本では最終盤に来ても残り試合に10試合以上の差があることもしばしば。だから優勝チームが確定してプレーオフが目前に迫っても消化試合がそちこちで行われる始末。これはプロ野球機構の「怠慢」だと思う。もし、プロ野球の人気を脅かすプロスポーツが誕生すればこのような体たらくは一掃されるのではないか。だが、現実にはまだ日本にはそのようなスポーツはない。サッカー人気はワールドカップの年には一気に燃え盛るが、それが終われば四年後までしぼんでしまう。またぼやき節になってしまった。そもそも、勝率5割にも満たない借金チームがなぜプレーオフに進出できるのか。そのチームがペナントレースを圧勝した優勝チームを破って日本シリーズに進出するような事態になれば、これは笑うしかない。嘲りの笑いだ。
                  ◇
 世はいよいよ神無月(10月)。NHKラジオ第二放送の語学講座も新しいクールに入った。私がこつこつと独学している中国語と韓国語の講座も新しいクールに入り、ありがたいことに以前の再放送が再び流されている(日本語としておかしい?)。
 耳を傾けるのが2度目、3度目になれば、劣等生の私でもさすがに理解度が違う!

ライダーカップをまた堪能!

20181001-1538393680.jpg 台湾から帰国後、多分風邪で熱を出し、寝込んでしまった。病院できちんと薬をもらって数日間おとなしくしていた。台湾をさるき回った疲れもあったのだろうか。体力の衰えは否めない。少しく落ち込んでいる時に、台湾出発前に受けていた年一回の恒例の定期健診の結果が相次いで郵送されてきた。胃がん、大腸がん、肺がんのいずれも異常なしとの診断だった。頑健とは呼べないだろうが、還暦過ぎても健康な身体に生んでくれたお袋に感謝したい。
 さあ、体調も戻ったし、語学の学習にまた熱心に励むぞ!と思っていたら、ケーブルテレビが「ライダーカップ」を大会開催の3日間、フル実況生中継するとの由。あのライダーカップを最初から最後まで観ることができるのか?観ないわけにはいかない。
 気がついたら金曜日夕刻から月曜未明までたっぷり3日間、付き合わされてしまった。スポーツのイベントにこんなにはまってしまったのは久しぶりだ。ゴルフ好きは結構いるので、日本のスポーツ新聞でもそれなりに紹介されているのだろう。競馬の馬券購入をやめて以来、スポーツ新聞の類は一切読まなくなったので確認できないが。
 ライダーカップは2年に1回、アメリカとヨーロッパで交互に実施される。前回はアメリカで行われ、米チームが勝利した。今年はヨーロッパのチームがパリを舞台に圧勝し、雪辱を果たした。日本の男子ゴルフでは到底味わえない欧米トッププロたちの熟練の一打、華麗な妙技をリアルタイムで味わえたのはゴルフ好き、スポーツ好きの私には至福の3日間だった。一昨年の今頃、このブログで何か書いているではと思い、スクロールしてみると、確かに書いていた。「ライダーカップに思う」と題していた。以下抜粋を紹介すると————。
 ライダーカップの生中継を見ていてなんだかなあと思ったことを記しておきたい。それはアメリカのギャラリーの異様なまでの自国選手への応援だ。ヨーロッパで行われる時にはヨーロッパの開催国の人々がヨーロッパチームに声援を送る。しかし、今回の米大会のような熱狂的な声援まではなかったように思う。それほどアメリカの観衆の自国チームに対する声援は凄まじかった。対戦相手を威圧するような度が過ぎた声援は「紳士のスポーツ」(gentlemen’s sport)と呼ばれるゴルフにはふさわしくない。日曜朝は午前5時だか6時だかに疲れ果ててしまったのと、見ていて(聞いていて)不快に思うほどの「USA」の大合唱に嫌気がさして、いつの間にか寝入ってしまった。ライダーカップのギャラリーの熱狂はともかく、アメリカ国民の愛国心はあの9・11テロ以来、ますます燃え盛っているように見える。傲岸不遜の大富豪が主要政党の大統領候補にまで上り詰めるという異常事態も「同根」であるという気がしないでもない。
 今回の大会は全くその逆だった。欧州各国から足を運んだと思われる大ギャラリーはヨーロッパのプロが好プレーを見せる度に、「ヨーロップ」と叫んでいた。アメリカのプロには時にブーイングを浴びせ、彼らがミスショットでもしようものなら、歓喜の拍手。これはさすがに前回の大会でもなかったような気がする。前回と今回、「背景」が異なるのは、傲岸不遜の大富豪が大統領候補から大統領の座に上り詰めていることだ。「アメリカファースト」を掲げるあの大統領への反感もあってか、ヨーロップの大合唱には敵意に染まった棘があるように思えてならなかった。いや、それはともかくゴルフ自体は頗る面白かった!

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