第五詩集

息の無言歌

「詩集 息の無言歌」
山本まこと

四六判変形、並製、126ページ 
定価:本体2,000円+税
ISBN978-4-86385-071-2 C0092

WEBでの本の購入はこちらより
Amazon

著者プロフィール

山本まこと(やまもと・まこと)
1945年佐世保生まれ。大学中退。
所属詩誌:「あるるかん」「水盤」
既刊詩集:「その日、と書いて」(2008) 「鳥の日」(2009)
     「不都合な旅」(2009) 「当座の光の中で」(2010)

もくじ


 イマジン  
 ひとりよがりのレクイエム  
 眩暈  
 断種  
 逆光遊戯  
 まるで戦時の  
 息の無言歌  
 瞑目はまだ訪れず  
 犬  
 不死  
 黙礼  
 8・1・9  
 水の嘶き  
 小景  
 その土地の交響  


 断章歌 1 ~ 39  
                                 

息の無言歌

蠟燭の焔の中の黒い炎
に焼かれているのはどんな時間か
一瞬光っただけの飛翔の痕跡を知ってはいても
鳥が運んだ信頼の木の実が発火するまで
地上に降りてはこない空
そのように誰もが応えようとはしないのだ

鉱物にも似た霜の列柱が軋んで
あの息の断崖から身を投げるもの
B級ホラーの電動ノコギリなんか論外だが
きっと見てはならぬもの
でも、あってはならぬ息の苦しさを知ったから
すこしだけ私は私でありたくなくて
暗黒の胞衣を食い破る
性急なしんじつなんかありはしないと

であるなら
いっそ罪なら
影の糞尿にまみれても
罪という卑小な名辞を裂き
舌を裂いてうずくまる言の葉の辺境
液状の心に明日は都合のいい知恵であり過ぎる

息が息を囲み
掻き毟り
息の星座が激しく収縮する
眠ったままではいられず
「これは一体何なのだ
ここはどこ?」
「イキが苦しい
先生タノム」
「マコト君
お願いだ
どうかしてくれ」
そう読めた紙の上のたまらなく痙攣し
薄い血に迷った文字はそのままに
息に疲れて殺気立つ

満ちれば欠ける血の月齢も
緑濃い赤ちゃん酸素に嬲られて
のたうつカニューラを引きちぎり
狂うにはもう遅く
ひたすら春を待っていたひとの荘厳を
かまわない
不能の秤にかけるのだ
求めても位置はなく
それでも恐怖のような記憶の円熟があるはずだから

苦しみの混濁を糧として
苦しむことがついに無意識の微笑みであるような
そんな偉大な木はどこなのだ
あやかしの影差す精神の稀薄を抱いて
エンシュア・リキッドを飲み
ガシガシと金平糖を噛み砕き
そこひのような夕日の向こう
行き違いの
息気違いの避難民を乗せて透明な方舟を見ていたひと
百合と蜜蜂のデリカシーを愛したばっかりに
そいつに手ひどく復讐されて
いや、そういうことでもなかったか

息が息の中に鬼を見つけ
だから〈鬼ころし〉なんて火酒もあったりするが
古典的に酔わせて追っ払うしかないのだろうか
石化した肺の陰影は
凍てついて箸も立たぬ粥のよう
手の当てようもなく
手を当てるしかなかった馬鹿さ加減の
吊るされ呆けた無為の穴という穴には
片輪の犬猫ばかりが投げ込まれ
それでも歯のある眠りをこじあけながら、ひとは
健康な蹶起を願っていたのではなかったか
不在であるために幾度もよみがえる鳥たちの調和を破ってさ

戦争には行かなかったひとのうろんな戦後
七本の助骨を切除され
不意の陥没は陥没自体の暗黒のバラの電流で充たすしかない
そんな覚悟の知恵で生き延びた矜持を知らぬなら
この貧しくも老い得た肉体に触れてはならぬと
苦海に生まれたプランクトンの発光を
信じるしかなかったひとよ
思い出すのだ
愚行に狂った子を問いつめることはせず
ただ安価なイコンにだってあるような沈黙を泣いて
ためらうこともなく
はげしく許したあなたの孤独
それはひとつの奇蹟でもあったと
かけがえのない悲嘆を思うのだ

すると
息の避難民はどこからきて
どこへ行くのか
ただ問うためにきゃあ腐れの肉をまとった私は
忘れられた廃墟の麦を踏んで
火の色をした雪に灼かれながら
寒く重い膝の形而上学を打ち据える

ドイツ、ブロッケン山の妖怪のことは知らない
知っているのはあけぼの印のカニ缶の
その来迎図もどきの商標に過ぎず
どんな高僧の精神だって
卑俗な知恵にすり替わる
世間とはそういうものか
夢の中では
傷ついた覚醒の王水がこぼれたが
「HELP!  HELP!
WOLF!」
大正生まれのひとが習った最初の英語は
そうであったと聞いたのだ

だが、耳の中のカミナリとは
呪われた息のことではなかったか
生き延びるための不全の網を繕い
心願の魚族を漁れば
もはや誰のものでもない光と水の黙劇はしたたって
あなたはこの地上を駆け足だ

そうだった
手元の辞書には
〈苦しむ〉、〈苦しませる〉の隣りに
〈クルス〉とあった
それがまっ直ぐな魂の秩序だとでもいうように
私はまだいけない夢を見ているのだろうか
凍った蓮華蜜を熱いミルクで溶かす
すると間違いのような春がやってくるのだが
夢の高度を保てぬ者には苦しむことの自由さえも訪れまい
酷薄な信頼はありふれた血の義務に変わって当然なのだ

あの日
何かが告げられて
果てのない日のつらさ
いや、ひととしての蛆の不安にまみれるために
畏まった空の梢から降りてくる鳥語の吃音なら信じようと思った日
そこにない影すらめくられ
鳥肌立って
だが、告げられたのは
石を抱えたあと出しじゃんけんの
本当という奇妙な罠に落ちたちいさな言葉
もうそろそろという言葉

シジフォスを裏返しても磔にしても
べつの呼吸法は見つからず
その息が漂着するうらめしい憤怒の使徒さえ立ち寄らぬ冬の孤島
いない母に似て腰の曲がった老婆が
影の悪胤のようなものを貝の柄杓で掬っていたという
それが最後の夢であれ
名を忘れてなお母親を呼ぶ迷子のように
貧しくとも充たされていた空と野の時代の
おおきな息を思い出せ
息は自分でするもの
整えるもの
わかりきった心の残酷は鏡を押し倒し
乱反射する光の中で
塩のように固まることなく時間は去った
あとは黒い口唇の女みたいな悲しみが
妣たちの乳で飼われるあの孤島の猿を呼ぶだろう
死を見張るため
死に物狂いで
そう、死に物狂いでね

関連書籍

「詩集 不都合な旅」