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September 2012

人様のことは言えないものの

 イングランドを旅していて、アメリカほどには肥満の著しい人はそうは見かけないような気がする。気がするだけの話かもしれない。いや、それでもやはり、日本に比べれば男女ともに太っている人を格段に目にする。プチ肥満気味の私がここでは涼しい気分で暮らすことができる。今回の旅でジーンズのベルトが「一穴」ずれたとしても、そう気にはならないことが何よりの証拠だ。
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 地元の新聞紙上でも時に英国人の肥満傾向に警告を促す記事を目にしている。
 7月下旬には「ザ・タイムズ」紙で、 “How on earth did we become so lazy?” (一体なぜ我々はかくも怠惰になってしまったのか?)と題する特集記事が掲載されていた。The British are couch potatoes who rarely exercise and are among the world’s most unfit people.(英国人はカウチポテトであり、ほとんど運動することもなく、今や世界で最も不健康な国民である)と嘆いていた。「カウチポテト」とは「ポテトチップを食べながら長時間座ってあるいは横になってテレビを見ている人」のことだ。
 特集記事はさまざまな統計の数字を紹介しながら、英国人が今やアメリカ人を凌ぎ、世界に冠たる「怠惰な国民」になっていることを憂えていた。ある研究機関の調査では、速足で歩くなどの軽微な運動を一日少なくとも30分、一週間にして5日間行っているかどうかで、その国の国民のいわば「怠惰指数」を割り出している。指数が低いほど、普段から体を動かすことを意識している健康志向の国民が多いことを示す。
 この「怠惰指数」が低い国はギリシア(16%)、オランダ(18%)、カナダ(34%)などの国々で、アメリカでさえ41%の数字に留まっていた。英国はイタリア(55%)やトルコ(56%)を上回る実に63%の高率を記録。
 英国の主婦に関して言えば、便利な電化製品の普及でかつては忙しかった日々の清掃、台所仕事などが楽になったお蔭で、例えば1950年代にウエストサイズが28インチ(約70センチ)だった中年の女性ウエストのサイズは今や34インチ(約85センチ)に膨らんだとも述べている。記事はテレビを見る時間を減らすこと、電話を取る時には立って電話を取るようにすること、散歩など普段から体を動かす生活習慣を心がけることなどを訴えていた。
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 この国のご婦人たちがスタイルを気にしていないかと言えば、もちろんそんなことはなく、スーパーやコンビニの雑誌売り場にはファッションやスタイルなどとともに、ダイエットの成功例、健康な食生活を紹介した雑誌であふれ返っている。そうした雑誌の一つは「肥満は乳がんや腸がん、子宮がんのもと」と警告する記事を掲載していた。その記事では例えば腸がんに関して「英国では年間1万7000人が肥満ゆえの腸がんに罹患している」という報告例も紹介していた。他人事ではない。帰国後は再び納豆、豆腐、味噌汁という本来の食生活に戻ろう。
 (写真は上が、ザ・タイムズ紙の特集記事。下が、スーパーに並ぶファッションやスタイル、食生活の雑誌)

“at the end of the day”

 日本はまだ残暑が続いているのかどうか。ここイングランドは朝夕めっきり冷え込んできたような気がする。時に「おおさむ!」という感じだ。「おおさむ!」と言えば、昨年のアメリカの旅で毎日のように “Awesome!” という表現を耳にしていたことは「アメリカをさるく」ブログで紹介した。そんなに “awesome” とも思えない状況で、彼らはこのような賛辞を口にしていた。なぜだか分からないが、“Awesome!” という表現はこちらの人はほとんど使わないような印象だ。
 イングランドでよく耳にする表現を以下に記したい。あくまでも私の個人的印象だ。まず、“Absolutely!” という表現。知り合った人が前夜に劇を観に行ったとして、翌日劇はどうだった?と尋ねたとする。“How was it? Did you like it?” と。返ってくる言葉は “Oh, absolutely!” というものだ。あるいはゲストハウスで面白そうな本を目にしたので、宿の主人に “May I read this book for a while?” と尋ねたとする。返ってくる言葉は “Absolutely. Go ahead.” という許可の言葉だ。
 単に “Yes.” で済ませられる状況で、“Absolutely” という表現が返ってくる。「さあ、お好きにどうぞ!」というわけだから、そういう応対をされて悪い気持ちは全然しない。ただ、この「アブソリュートリー」がもうめったやたら「登場」するのだ。“absolutely fabulous” とか “absolutely acceptable” などと形容詞と一緒の表現まで含めたら、普段の生活で耳にする頻度はさらに増大する。ここまで「ありふれた」表現になると、「絶対に」「まったく」という意味合いは薄れてしまい、そのうちに “absolutely” は “yes” と大差ない肯定的表現とされるかもしれないなどと思ってしまう。
 “at the end of the day” (結局のところ)というイディオムもよく耳にする。私はこのイディオムが好きでこれまで自分でも結構使っていた。この表現は何だかリズム感がいいなとも思っていた。こちらに来てBBCの「radio 4」を聴いていて、記者やインタビューを受けている人の口からこの表現が出ない日はないのではと思うくらいしょっちゅう耳にしている。
 ケンブリッジで馴染みになったカフェの店の人と語らっていて、私が“at the end of the day” という言い回しをラジオや新聞、日常会話でよく耳目にしていると話したら、店の人は「私はその表現が大嫌いなんですよね。そういう表現を耳にすると、引きたくなるわ」と言う。なぜ、そんなに毛嫌いするのか今一つ理解できなかったが、要するに「独善的」「手垢」のついた表現ということかもしれない。私たちの会話を聞いていたお客さんが「私もその表現は嫌いです。私は誰かが “At the end of the day …” と話し始めたら、“It gets dark.” と茶茶を入れてますよ」と口をはさんだ。「一日の終わりには 暗くなる」という次第だ。なるほど、これは面白い。とはいえ、ある程度気心の知れた間柄でないと、こういう合いの手は入れにくいだろう。
 まあ、私は “At the end of the day I’m here to listen to people, not to make fun of them.” であるし、もし “Are you enjoying staying here in England?” とでも尋ねられることがあれば、“Oh, Absolutely.” と答えることにしている。

クリームティー

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 英国滞在も残り少なくなった。あと執筆を予定している作家は3人。もっと多くの作家を取り上げるべきなのだろうが、私の知力、財力ではこのあたりが限界だ。
 先週末はシェイクスピアの故郷、ストラッドフォード・アポン・エイボン(Stratford upon Avon)を訪れた。やけに長ったらしい名前の地だ。シェイクスピアがなければただの平凡なイングランド中部の町に過ぎないようなところだったが、さすがにシェイクスピア。ここも多くの観光客で賑わっていた。今回の旅でずっと感じていることだが、どこに行っても、中国人観光客の多さに驚く。文字通り、物見遊山の風情である。
 クリームティー(cream tea)について少し触れたい。ストラッドフォード・アポン・エイボンでも評判の店があったので、そこでクリームティーを味わった。値段は4.95£(約700円)。これまでも何度か食していたが、これまでで一番美味いと思った。お腹が空いていたせいもあるかもしれない。
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 クリームティーに関しては素朴な疑問がある。濃縮クリーム(clotted cream)とジャムをたっぷり塗って食べるスコーン(平らで丸いパンケーキ)が二個も付いてくるクリームティーを午後の3時から4時ごろ食すると、夕食の食欲が失せてしまうのではないかという疑問だ。アフタヌーンティー(afternoon tea)となると、これにサンドイッチまで付いてくる。先述の店では値段が9.95£に跳ね上がっていた。胃袋の小さい人ならこれでほぼ満たされるのではないか。
 ロンドン近郊に住むミドルクラスの主婦の方と話していたら、彼女は普段の生活でクリームティーやアフタヌーンティーの類を食することはない。特別の祝いごととかある時にホテルやレストランでそうしたティーを楽しむことはあるとのことだった。従って、普段の生活は朝食、ランチ(サンドイッチなど)、夕食ときちんと一日3食で、午後に適宜ティーかコーヒーを飲む程度。朝食にしても週末を除き、いわゆるボリュームたっぷりのイングリッシュブレックファーストを食することはまれで、シリアルやトーストなどのあっさりした食事で済ませているとか。それで合点が行った。
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 ちなみに、食事の呼称で、私はディナー(dinner)と聞くと、どうしても夕食(supper)を想起してしまう。ところが、彼女によると、ミドルクラスより所得の少ないワーキングクラスの人々はランチのことをディナーと呼ぶとか。「お昼時にランチを意味して、“I take my dinner.” などと言う人がいたら、その人はワーキングクラス(出身)の人です」と語っていた。ミドルクラス以上ではランチのことをディナーと呼ぶことはまずないらしい。
 私は食い意地が張っているから、クリームティーぐらいでは満足しないが、それでも午後の「中途半端」な時間に胃袋を満たすと、勝手が狂ってしまい、夜中にスーパーでビールとつまみをいつもより余計に買い込み、翌朝、何だかなあという気分で目覚めることになる。「慣れない」ことはしない方がいいようだ。
 (写真は上から、ストラッドフォード・アポン・エイボンのカフェのクリームティー。その看板。サセックス州ライで以前に味わったクリームティー)

ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)④

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 アイルランドにジョイスにまつわる記念館がダブリンの近くにあることを知った。あまり気乗りはしなかったが、あてにしていた、ジョイスを専門にしている大学の教授が休暇に入り会えなかったこともあり、その記念館に足を運んだ。
 ダブリンから列車で南に向かい約30分。サンディコーブ(Sandycove)という町に目指すジェイムズ・ジョイス・タワーがあった。下車した駅からそのタワーへ向かう海沿いの歩道が好天もあり、気持ちのいい散策路だった。 
 タワーの近くの浜辺では泳いでいる人の姿も見える。こちらに来て泳ぐ人の姿を見かけるのは初めて。もう海水は泳ぐには冷た過ぎるのでは? 歩いている地元の人に尋ねると、「そう。もう泳ぐには適していない。でも、好きな人は年中泳いでいる」との由。
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 タワーはアイルランドが大英帝国の支配下にあった19世紀にフランスのナポレオン皇帝との戦争に備えて建造された円形砲塔の砦跡だ。兵器の近代化に伴い、歴史的遺物となり、ジョイスは彼の友人がこの砦に住んでいたこともあり、1904年9月9日からここで6泊している。もっとも悪夢を見た友人が夜中に銃を自分に向かって発砲したため、あきれ果てたジョイスは慌ただしく砦から立ち去るのだが、この訪問が縁となって1962年以降、彼のゆかりの品々を集めた記念館が開設されているのだという。
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 1922年に発表された代表作 “Ulysses” の書き出しはこのタワーから始まっている。1941年1月13日に死亡した直後に採取された作家のデスマスクがある一室では、ジョイスが好きだったギター、ベスト、ネクタイなども展示されていた。案内役の地元在住のボランティアの女性は「ジョイスはおしゃれ(dapper)な人だったと聞いています。ギターの下にネクタイがあるでしょう。あれは(数少ない友人の)サミュエル・ベケット(アイルランド出身の劇作家)のプレゼントです。私はベケットの遠縁に当たります」と誇らしそうに語った。
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 狭い螺旋階段を上り、タワーの屋上に出る。いい見晴らしだ。ジョイスもこの屋上から景観を楽しんだのだろうか。彼はタワー訪問の1か月後にアイルランドを去り、ヨーロッパに旅立つ。ジョイスの作品は総じてアイルランドが舞台だ。それだけ故国への思いが深いと推察されるのだが、彼は後年アイルランドで暮らすことはなかった。アイルランド出身の作家の記念館ではジョイスについて、「言語や宗教、国籍といった事柄はジョイスにとって自分の魂の自由を奪うものとして映っていた」(Language, religion and nationality were seen by Joyce as nets cast at his soul.)と紹介していた。
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 タワーを出て、サンディコーブの駅に近いワインカフェで休憩。ここには不思議とダブリンの重苦しい雰囲気はない。海辺に近いからだろうか。タワーでボランティアをしていた案内役の女性の言葉を思い出す。「国内の景気が悪くて大変なんですよ。将来どうなるのか、怯えている(frightened)人が多いのです」。私のダブリン再訪の喜びが湿りがちだったのはそういう事情もある。
 (写真は上から、ジョイス・タワーへの歩道。ほぼ中央に円形砲塔のタワーが見える。展示品。デスマスクも。ジョイスが使った寝室。タワー屋上からの眺め。帰途に駅の近くのカフェでブランチ。気分がいいとワインを傾けたくなる)

ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)③

 ダブリン市内にあるジェイムズ・ジョイス・センター。住宅街の一角にあり、注意して歩かないと通り過ぎてしまいそうな記念館だ。作家が実際にここに居住していたわけではない。ありがたいのはセンターを基点にした有料のガイド・ツアーが随時催されていること。私は “Dubliners” ゆかりの場所を歩くツアーに参加した。
 私が参加したグループを案内してくれたのは、ライラ・クロフォードさん。アイルランド人かと思っていたら、アメリカ人だった。アメリカの大学を卒業した後、ダブリンに研究のためやってきたという。
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 まず、少年ジョイスが学んだ中等学校に当たるベルベデールカレッジのビルを外から見た後、“Dubliners” では“The Boarding House” として描かれるモデルとなる建物まで歩く。今は空き家となっていた。「ジョイスはこの時、近くに住んでいて、ボーディングハウスを見ながら、学校に通っていたのでしょう」とライラさん。そうしたゆかりがある建物とはとても見えない。ツアーに一緒に参加していたイタリア人女性で高校の英語教師のフランチェスカさんが「何ともったいない。ジョイスは20世紀の最も偉大な作家の一人。せめてそうした表示だけでもして、文化財として保護していくべきだわ」と彼女は憤った。
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 グレシャムホテルまで歩いた。“The Dead” でガブリエルとグレタの夫妻が一夜を過ごす高級ホテルだ。ライラさんは “Dubliners” の本を開き、「私は“Dubliners” の中では“The Dead” が一番好きです。雪が舞うのをガブリエルが一人ホテルの窓から眺める最後のシーンの描写が特にいいですね」と語り、その文章を読み上げた(注)。
 1時間半ほどのツアーの最終地点はトリニティカレッジ(TCD)。「トリニティは当時、プロテスタントの学生が通う大学でしたから、カトリックのジョイスはユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(UCD)に進学しました。そういう事情があり、彼はTCDにはずっと嫌悪感を抱いていたようです」とライラさんは説明した。
 ツアーが終わった後名残惜しいので、近くのパブで地元のギネスビールを飲みながら歓談。ジョイス文学、特に “Dubliners” に特徴的な「ひらめき」(epiphany)について、ライラさんの話に耳を傾けた。「エピファニー」とは、何気ない観察から突然、物事の本質が見えてくることを指す表現で、“A Painful Case” で登場する独身の男や “The Dead” でのガブリエルの「気づき」が「エピファニー」の典型的例だという。
 ジョイスはどういう人物だったのでしょうかね、気難しそうに見えますが、とライラさんに尋ねてみる。「尊大な(arrogant)印象の人物だったと聞いています。でも、あれほどの文才に恵まれていたわけですから、誰だってそうなるのではないでしょうか」
 余談になるが、フランチェスカさんはイタリアの高校生が「英語を熱心に勉強しないので困っています」と話していた。ヨーロッパの若者は誰でも一通り英語を話せると思いがちだが、実際はそうでもないようだ。そう言えばゴールウェイ沖のアラン島でイタリアの若者グループと出会い、「ぶつ切り」の英単語で少し語らったが、彼らは驚くほど英語ができなかった。英語に苦しむのは我々日本人だけではないようだ。
 (写真は上が、“Dubliners” ゆかりの場所を歩くツアーで、右の女性が案内してくれたライラさん。下は、小編 “The Dead” に出てくるグレシャムホテルの前)

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ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)②

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 “A Painful Case” では次のような文章が出てきて、はっとさせられた。これは30代後半の謹厳実直な勤め人がたまたま年齢の近い人妻と知り合いになり、人妻は男にほのかな恋心を抱く(ようになる)お話だ。だが、この男は “every bond is a bond to sorrow”(すべての関係は悲哀に終わる)という考えの面白みに欠ける性格であり、「その気」はない。二人の関係は何の進展も見せず、男の申し出で突然終止符を打つ。男は自宅で次のようなメモ書きをする。
 Love between man and man is impossible because there must not be sexual intercourse and friendship between man and woman is impossible because there must be sexual intercourse.(男と男の愛情は不可能である。なぜなら、二人の間には性行為があり得ないからだ。男と女の友情も不可能である。二人の間には性行為がなければならないからだ)
 突然の「別れ」から4年の歳月が流れる。男は従前と変わりない「無機質」な生活を続けている。ある日、新聞で鉄道事故死の記事を見て愕然とする。あの人妻が事故死していたからだ。「この2年ほど妻はどうも落ち着きがなかった」という旦那の証言や「最近はお酒の度が過ぎるようになっていた」という娘の証言も掲載されていた。男は自分が歩んできた人生の空しさ、寂寥感に初めて思い至る。私も似たようなものだ。
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 “Eveline” でもそうだったが、少々気が滅入ったのは、この作品の小編はこのような登場人物の無力感に満ちているからだ。英語だと paralysis とでも表現するのだろうか。
 “Dubliners” の中で一番引き合いに出されるのは最後の “The Dead” のようだ(注1)。
 伯母の自宅で催されたクリスマスのダンスパーティーに出かけた大学で文学を教えるガブリエルはそこで歌われたアイルランド民謡に妻のグレタがひどく反応するのに気づく。その理由を問いただすと、妻はゴールウェイで育った少女時代、その歌は仲の良かった男の子がよく口ずさんでいた歌だったと告白する。嫉妬に駆られたガブリエルが二人の仲を邪推すると、グレタはいいえ、彼は病気をこじらせて死んでしまったわ。まだ17歳の若さだったのよ。私がゴールウェイを去り、ダブリンに発つ前日に、雨の中、弱った体を引きずるように私に会うために家の前まで来たの。そんなことができる体ではなかったのに。私が殺したようなものよ、と語る。初めて聞く妻の、いや少年の「純愛」にガブリエルは言葉を失う・・・。
 当時の悲しさを思い出し、泣き崩れたグレタが横たわるベッドの上で、ガブリエルはかつて感じたことがないほど、グレタのことを愛おしく思う。女性に対してそのように感じたことはそれまでなかった。「これこそ愛というものに違いない」と彼は思う。それと同時に、ガブリエルには生きとし生ける者がやがて黄泉の国に旅立つ宿命であることにも思いを馳せる。小編のタイトルでもある“The Dead” と現実の世界との境界線がなくなった混沌とした意識の中で、ガブリエルはグレタに思いを寄せた少年がそぼ降る雨の中、木の下に立っている光景も一瞬垣間見たような気がする。そうしたことが淡々とした力強い筆致で綴られている(注2)。
 (写真は上が、ダブリン市内にある作家の記念館のようなジョイス・センター。下は展示ルームの一つで、作家が困窮の中で代表作 “Ulysses” を執筆したパリの寝室?が再現されていた)

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ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)①

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 ダブリンを初めて訪ねた1990年代半ば。ダブリン市内の目抜き通りを貫通するリフィー川の上から河岸を眺め、ああ、ジョイスの “Dubliners” (邦訳『ダブリン市民』)の世界に遂に来たんだという感慨に浸った。今回の再訪ではもうそうした感慨は起きなかった。
 学生時代にジェイムズ・ジョイスの “Dubliners” を講義で読んだ記憶がおぼろげにある。おぼろげだ。今回の旅でこれを取り上げようと思い、ロンドンに到着後、古書店で改めて “Dubliners” を買い求め、ゆっくり頁を繰っていったが、初めて読むのと「大差」ないほどそれぞれの物語の筋を忘れていた。
 ジョイスは1882年ダブリンの生まれ。1914年に刊行されたこの作品はジョイスにとって最初の本格的小説だ。作家が育ったダブリンを舞台に、取り立ててどうということもない多様な「市民」の暮らしぶりや思いが淡々とした筆致で描かれている。何となく気の滅入るようなお話が続く。
 例えば、“Eveline” というとても短い章。母親に死なれ、一家を切り盛りする19歳の少女、エブリンが登場する。切り詰めた生活を余儀なくされているエブリンだが、最近ボーイフレンドが出来た。フランクという名の船乗りをしている好青年。彼はアルゼンチンのブエノスアイレスに落ち着く計画であり、彼女にそこで一緒に暮らそうと誘う。彼のことが好きになったエブリンは誘いに応じる。だが、船が出港する直前に彼女はダブリンを後にすることを頑なに拒否し立ち尽くす。あれほど、新しい生活に憧れていたのに。
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 この章は次のような文章で終わっている。She set her white face to him, passive, like a helpless animal. Her eyes gave him no sign of love or farewell or recognition.(エブリンは彼の顔をじっと見つめた。追い詰められた動物が浮かべる、活力など失せてしまった表情で。彼女の表情のどこを探しても、彼のことを認識しているとは思えず、彼に対する愛情とか別離の悲しさとかいったものもうかがうことはできなかった)
 読者は彼女の土壇場での心変わりの理由を推察するしかない。エブリンは父親と年の近い兄弟のハリーの他に、まだ手のかかる二人の弟(妹)がいて、日々、この二人に食べさせ、学校に送り出すのはひとえに彼女の仕事だった。次のように述べられている。
 Strange that it should come that very night to remind her of the promise to her mother, her promise to keep the home together as long as she could.(エブリンには不思議としか思えなかったのであるが、ダブリンを後にしようとしたまさにその夜に、母親と交わした約束が彼女の脳裏をかすめたのだ。自分が生きている限り、残された家族の面倒をきちんと見るという約束だ)
 自分の幸せの前に家族、それも弟や妹の幸せを優先しなくてはならない長女の責務。これは古今東西同様か。親元を離れた高校時代に姉に世話をしてもらって、そのことなど露顧みることなく、のほほんと生きてきた私はこうした文章に出合うと手がとまる。
 (写真は上が、ダブリン中心部にあるジョイスの像。観光客が像の前で記念撮影する光景を何度も見かけた。1990年の建立とか。下はリフィー川。博多・中洲を流れている川を少し思い出した。中洲のような河岸の屋台村はないものの)

ファミン・シップ

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 アイルランドでニューロス(New Ross)を訪れたのは、ここの観光名所である「ファミン・シップ」(famine ship)を見たかったからだ。「飢餓船」とでも訳すのだろうか。
 「ファミン・シップ」とは19世紀中葉にアイルランドを襲った「ポテト飢饉」に苦しんだ人々が、アメリカやカナダなどの新天地に最後の望みを託して旅立った船のことだ。「棺桶船」という呼称もある。アイルランドの農民にとって唯一無二の食糧だったジャガイモが疫病にやられ、彼らは未曽有の食糧危機に瀕した。飢餓が深刻だった1845年から10年間で200万人以上が国を後にしたと見られ、こうした人々の移動や大量の餓死、病死などでアイルランドは当時の全人口(約800万人)がほぼ半減したと言われる。
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 アイルランド東南部にある町、ニューロスもそうした飢餓民がアメリカやカナダ、英国、オーストラリアなどへ出港した町。町を流れるバーロー川に当時多くの住民を北米に送り出した「ファミン・シップ」の船が復元されていた。「ダンブローディ号」(Dunbrody)。移民の歴史の一端を紹介した記念館も併設されている。
 ダンブローディ号は1845年にカナダで建造された。1846年から1851年にかけ、多くの住民をアメリカとカナダに運んだ。当時はニューロスを出て4週間から6週間で北米の港に到着していたという。通常乗客は176人程度だったが、飢餓がピークを迎えた1847年には313人を乗せて出港したこともあったと記されていた。
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 見学会の船中では当時の乗客の2人にふん装した地元の女性2人が登場して過酷な「航海の模様」を語ってくれた。一人はsteerage と呼ばれる劣悪な3等船室に5人の子供を連れて乗船した夫人。もう一人は1等船室に乗っていた子供二人のいる夫人。どちらもアメリカの土を踏むことなく航海中に死亡したことだけは判明している。彼女たちの子供たちがその後どういう人生を歩んだかは不明。3等船客は手にする食糧も乏しく、甲板に出られる機会はほとんどなく、吐しゃ物や汚物の臭いに耐えながら、暗い船倉で日々を過ごさざるを得なかった。そうした過酷な航海が船倉の展示品で再現されていた。
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 ここの記念館ではアイルランド出身のアメリカ人を顕彰する制度を2010年にスタートさせたばかり。アイルランドの地を引くアメリカ人は全米に4千万人とも言われる。著名なアイリッシュの人々の写真が掲げられ、ビデオも流されていた。自動車王、ヘンリー・フォード(1863-1947)やケネディ大統領(1917-1963)などそうそうたる人物の写真が並んでいる。ケネディ大統領について言えば、彼の曾祖父がニューロスから1848年にボストンを目指して出港している。ケネディ大統領が暗殺される5か月前の1963年6月にニューロスの近くにある曾祖父の故郷を訪れ、ニューロスの埠頭で地元の聴衆に語りかけたスピーチがビデオで流されていた。“When my great-grandfather left here to become a cooper in East Boston, he carried nothing with him except two things: a strong religious faith and a strong desire for liberty.” (私の曾祖父は東ボストンで酒屋を営むに至るのですが、ここを後にした時、彼はわずか二つのもの以外何も持ち合わせていませんでした。強い宗教上の信仰と自由を求める強い思いの二つです)と語っている。
 (写真は上から、「ダンブローディ号」。その復元船の中でアメリカへの航海の模様を「再現」して語る記念館の女性。記念館に展示されているケネディ・ファミリーの写真)

ジェイン・オースティン(Jane Austen)④

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 今回の旅でtubeと呼ばれるロンドンの地下鉄の駅を歩いていて、ベストセラー本のペーパーバック版を告知する大きな宣伝ポスターが目に入った。どうも、ジェイン・オースティンに関係のある作品らしい。気になったので、書店で購入した。P.D.ジェイムズ(P.D. James)女史が書いた “Death Comes to Pemberley”という小説だ。2011年の刊行。読み進めていくうちに、これは“Pride and Prejudice” の「続編」であることが分かった。しかも推理小説仕立てになっている。筆者のジェイムズ女史は1920年8月生まれとあるから、92歳の作家だ。
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 ジェイムズ女史の物語は1803年10月14日午前11時、エリザベスがダーシーと結婚して嫁いだダービーシャー州のペンバリーから始まる。
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 例えば次のような文章(注1)で、当時のイングランドの上流社会の様子が紹介してある。フィッツウィリアム大佐が今は子爵の位置にあり、彼が結婚する女性はその結果、子爵夫人となることができるのに比べ、アルベストン氏はたかだか男爵に過ぎない。他の人ならこの事実をとても重要と見なすのであろうが、ジェインには何の意味も持たなかった。
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 さらに次のような文章(注2)もある。イングランドの平和と秩序は紳士階級の人々が良き地主、主人として、彼らの奉公人に配慮してあげ、貧しき者たちに支援の手を差し伸べてやり、治安判事として常に、それぞれのコミュニティーの平和と秩序を維持するのに全力で取り組むか否かに左右されるのである。もし、フランスの貴族階級の人々がイングランドを手本としていたならば、革命など起きなかったことであろうに。
 オースティンが“Pride and Prejudice” を発表した時、イングランドはフランスと百年戦争にあった。彼女の作品にはそうした時代的背景があまり出てこないことが時に批判的に指摘される。“Death Comes to Pemberley” では次のような記述がある。The war with France, declared the previous May, was already producing unrest and poverty; the cost of bread had risen and the harvest was poor. (前年の5月にフランスとの戦争が宣言されたことにより、イングランドの治安と貧困はさらに悪化していた。パンの値段は上がり、穀物の収穫も細っていた)
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 それにしても、オースティンの原作でもこのジェイムズ女史の続編でも、一人だけ手酷く描かれる人物が一人いる。ジェインやエリザベスの末妹、リディアだ。たいして器量がいいとも思えず、わがままで思慮に欠け、家族や親類、他人にかける迷惑など顧みない、実にあきれ返るような人物に描かれている。現実にこういう女性に巡り合ったら、辟易するだろう。続編では彼女は夫のウィカムとともに最後はアメリカの新大陸に活路を求めてイングランドを後にすることになる。アメリカで彼女の血を引く末裔の娘たちが跋扈していることを想像しただけで気が滅入った。第一、アメリカに対して失礼のような。フィクションとはいえ。大きなお世話か。
 (写真は上から、威容を誇るウィンチェスター大聖堂。大聖堂の床に葬られたオースティンのお墓。作家であることを示す文言はなく、後年、彼女が作家として人々に慕われたことを記す真鍮の額や記念のステンドグラスが設けられた。“Death Comes to Pemberley”のペーパーバック発売を告知したポスター)

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ジェイン・オースティン(Jane Austen)③

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 オースティンは1775年にイングランド南部のハンプシャー州の生まれ。父親は牧師。時代も地域も異なるが、エミリー・ブロンテのことを想起してしまう。ブロンテよりは長く生きたものの、オースティンも41歳の若さで病没している。ブロンテは不治の病だった結核だったが、オースティンの死因ははっきりとは分かっていない。兄弟6人の他に、姉が一人いて、この2歳上の姉のカサンドラととても仲が良かった。“Pride and Prejudice” のジェインとエリザベスのような関係だったようだ。
 父親が退職し、やがて死去したことから、オースティンは1809年に母親やカサンドラ、親しい女性の友人の四人で故郷に近いチョートンのコテッジに転居。裕福な家に養子に出た兄の一人の尽力があった。このコテッジで1809年から死去する直前の1817年まで暮らしている。この家で暮らした幸福な8年間は彼女にとって作家としても実りある期間だった。この家でオースティンは既に草稿を書いていた“Pride and Prejudice” “Sense and Sensibility” を仕上げた。
 記念館となっているコテッジを訪れた。展示品の中で最も印象に残っているのは、オースティンが死去する3か月ほど前にしたためたという遺言(注1)だ。実にきれいな筆記体で、私もそう苦労することなく読むことができた。作家の穏やかな(そうとしか思われない)人柄が伝わってくるような文字だ。
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 記念館に勤務するアナリー・タレントさんによると、1949年に創設された記念館には年間4万人もの訪問者があるという。アナリーさんはここを訪れる児童・生徒への教育活動を業務としている。「年長の子供たちはオースティンが描く世界を興味深くとらえています。特に女生徒たちにとっては女性の自由が束縛されていた当時の状況に共鳴できる部分があるようです。作品の登場人物にしても、例えば、『高慢と偏見』で登場する、エリザベスたちにとっては恥ずかしい言動にでるベネット夫人など、自分たちや友人たちの母親を思い浮かべる生徒も少なくないようです。『いるいる、こんな母親!』と」
 アナリーさんから記念館を訪れる生徒に配布される作家理解の資料を頂いた。オースティンが生きたイングランドの時代背景や、仕事に就く機会のなかった女性にとって結婚という手段以外に幸福の場をつかむことが不可能だった社会状況などが説明してある。オースティンが属したのはいわゆる gentility と呼ばれる階層。私の電子英和辞書には「上流階級の身分」とある。頂いた資料では gentilityは「中流・上流階級」と定義してあり、さらに次のような主旨のことが記してある。「イングランドの大多数の人々は当時衣食住を満たすのに苦労していて、オースティンの六つの作品ではそうした苦労がしのばれる記述は多くはありません」(注2)。オースティン一家は裕福とは言えなかったものの、多くの同時代の人々に比べれば、恵まれた人生を歩むことができたのだ。
 (写真は上が、オースティンの記念館で来訪者に説明に当たる地元住民のボランティアの女性2人。作家の作品を読み込んでおり、作家への敬愛の念がうかがえた。下が、展示してある、オースティンがしたためた遺言)

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ジェイン・オースティン(Jane Austen)②

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 順序が逆になった。物語の軸となるのはイングランドの田舎町に住む年頃の5人娘を抱えた中流層のベネット家。父親のベネット氏は読書が好きで、あまり、世の中の些事には関わりたくない人物。母親のベネット夫人はおしゃべり好きであまり好印象を抱かせる女性ではない。彼女の関心事は5人の娘を一日でも早く、自分たちより暮らし向きのいい上流階級の青年に嫁がせることにある。
 近くの空き家を独身の貴族、ビングリー氏が借り受けたことから、ベネット夫人はこの貴族に娘の誰か一人、できれば長女のジェインを嫁がせるべく奔走する。ビングリー氏は幸い人格的にも好人物のようだ。小説は冒頭から、次のような警句に近い文章で始まる。
 It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife. (資産のある男が独身であれば、次に求めるのが人生の伴侶であることは、世の中で等しく認知された真実である)
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 イングランドで19世紀初頭に暮らした母親たちが皆ベネット夫人のように考え、行動したかは知る由もないが、いやはや、どうして彼女のような母親からジェインや二女のエリザベスのような素敵な娘が生まれたのだろうと思ってしまう。もっとも、世の中を見渡してみると、案外、そういうものらしい(と私は納得せざるを得ないが)。
 ベネット夫人の思惑は別にして、ビングリー氏は期待通り、ジェインと恋に落ちる。ところが、ビングリー氏の友人でより資産家のダーシー卿はエリザベスたちには「高慢」と映り、忌み嫌われるようになる。彼女たちはダーシー卿より身分は低いが幼馴染の美男子のウィカムからあれこれ、卿の悪口を聞かされたからだ。実はそうした悪口は全くのでたらめで、非は信頼を裏切ったウィカムにこそあることをエリザベスたちは後に知る。ウィカムはベネット家の末娘でわがまま放題に育ったリディアと駆け落ちする。ベネット家にとって「恥辱」となるこの事件もダーシー卿が「尻拭い」を厭わず、エリザベスたちは危機から救われる。このこともあって、エリザベスはダーシー卿への愛を深めていく。
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 紆余曲折あってジェインとビングリーは最後に結ばれる。ダーシー卿も当初、エリザベスたちに抱いていたのが「偏見」であることを悟り、二人は書名の「高慢」と「偏見」から「解放」され、華燭の典に向かう。万事めでたしだ。
 エリザベスとダーシー卿がお互いの愛を確認した後、ダーシー卿が彼女に告白する「処世訓」も興味深い。自分は両親から家名に恥じないように生きることを諭されてきたとして、自分が正しいと思うことをしている限り、他人の心持には特段配慮する必要がないこと、常に頭に入れて置かなければならないのは家族のことであり、そのためには利己的で横柄であっても構わないこと、家族以外の世界は無視しても構わないこと・・・。彼はこうした「信条」で28歳に至るまで生きてきて、エリザベスに出会って始めてそうした考えかたが間違っていたことを悟ったと告白する(注)。
 (写真は上から、チョートンに残るオースティンが暮らした家の記念館。母親と姉、友人の4人でいつも囲んでいた食卓。オースティンが小説を執筆した小さい机)

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ジェイン・オースティン(Jane Austen)①

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 アイルランドを出て、再びイングランドに戻った。ロスレアというフェリー港から午後9時出港の船に乗り、日が替わった午前零時半ごろ、対岸のウェールズのフェリー港に接岸。船を降りた地点にある駅で未明の列車を待ち、2回乗り換えて、午前8時過ぎにイングランドのウインチェスター(Winchester)に到着した。旅費は思ったより安く、48ユーロ(約4700円)。列車の乗り換えもあり、ほとんど寝ることができなかったが、1夜分ホテル代が浮いたと思えば悪くない。さすがに疲れ果てたが。
 ウィンチェスターに来たのは、ジェイン・オースティンのゆかりの地だから。オースティンは1775年に生まれ、41歳の若さで1817年にウィンチェスターで病没している。オースティンが生涯のほぼ最後の8年間を暮らしたのがウィンチェスターの近くにあるチョートン(Chawton)という村。私がオースティンについても書くつもりだと言うと、イングランドで出会った人は誰もが「おお、あなたはそれではチョートンに行くのですね。素敵な地ですよ」と口をそろえた。それなら、ぜひ行かなくては!
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 ウィンチェスターに着いて、バス停まで歩き、チョートンに向かうバスに乗った。近くと書いたが、そう近くはなかった。バスで40分ほどの距離。着いたところは標識がなければ、たどり着くのに難儀しそうなところだった。あるのは車が通るだけの舗装された道と畑というか草原。標識に沿って歩き、目指す“Jane Austen’s House Museum” という記念館に着いた。観光客に人気の地のようで、国内外から家族連れや団体旅行の人々で結構賑わっていた。
 オースティンはいくつかの代表作があるが、私が取り上げるのは “Pride and Prejudice” (邦訳『高慢と偏見』)。作家サマセット・モームはこの小説を高く評価して「世界十大小説」の一つに選んでいる。夏目漱石は『文学論』の中で「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」と絶賛している。
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 私は正直に告白すると、オースティンの作品は書店で買い求めたことはあるが、最後まで読んだことはない(かと思う)。今回の旅の直前、実はたまたま使っていた電子辞書の中に入っていた「世界文学100作品」に “Pride and Prejudice” が含まれていて、時間のある時に読み進めた。実に面白かった。こんな女性に出会えば、誰でも恋に落ちるのではと思ったのは、ベネット家の次女のヒロイン、エリザベスだ。19世紀初頭のイングランドにこのような自立的な女性がいたとは。日本は江戸時代真っただ中である。
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 物語の後半に、彼女が自分より社会的地位がはるかに高位のレディー・キャサリンに対し、臆することなく自分の意見を述べるシーンがある(注)。水戸黄門のテレビドラマなら、商家の娘が身分の高い武家階級のご婦人に意見するようなものだろうか。今日に至るまで、この作品が世界中で多くの読者を魅了している一因なのだろう。
 (写真は上から、ロスレア港からケルト海を望む。ウィンチェスターの街。チョートンにあるオースティンが住んでいた家で今では記念館への道順を示す道路標識)

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久しぶりのゴルフ

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 日本を発つ前から傷んでいた左肩の調子がだいぶ良くなった。皆から言われた通り、「五十肩」は自然の治癒を待つしかなかったようだ。毎朝(夕)シャワーを浴びながら、熱い湯を左肩に打たせ、肩をぐるぐる回し、一日も早い回復を願っていた。
 車の助手席に乗った時、これまでは左後部に下がっているシートベルトを右手で引き下ろしていたが、今では左腕を後ろにひねって何とかベルトを引き下ろすことができるようになった。これなら、ゴルフもできるのではと思い、シャドースィングをしてみる。両手で軽くグリップを作り、トップの位置まで体をひねってみる。まだ、少し左肩に違和感があるものの、そう痛みなく、スィングできるようだ。
 そろそろ、ゴルフをしても大丈夫かなと思い、ダブリンから南下、投宿したニューロス(New Ross)という町にあるB&Bのご夫婦に相談してみた。「近くに私のような者でもプレーさせてくれるゴルフ場はないでしょうか」。「あら、あなた、ゴルフなさるの。私たちがメンバーのゴルフ場でプレーできるわよ」と話はスムーズに展開。好天の土曜日にメンバーのコンペが終了した午後4時からプレーさせてもらえることになった。
 この日のために、荷物となるのは承知の上で、購入した真っ新のゴルフシューズだけはビニール袋に下げて移動し続けていた。クラブはレンタルするつもりだった。そうしたら、宿の奥様は「主人のクラブを貸してあげる。プレー代も私たちのゲストということで無料になるはずだから」との由。アイルランドの人は本当に人間良しだ。お言葉に甘えて、無料でプレーさせてもらった。ありがたや。
 同伴プレーヤーはご夫婦の友人の60歳代の女性。ゴルフをするのは五十肩を患う前の昨年8月、アメリカはミズーリ州の田舎町でのプレー以来。曲がりなりにも一生懸命、取材の旅を続けてきたのだから、神様がご褒美にいいゴルフをさせてくれるのでは、真っ直ぐのボールを打たせてくれるのではと密かに期待していたが、「曲がっただ、右に左に曲がっただ。芝生をざっくり掘っただよ」と吉幾三の歌のように、散々のゴルフだった。同伴のキャシーもあまり調子が良くなく、お互い慰め合いながらの3時間半だった。
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 まあ、贅沢は言えない。アイルランドで週末にのんびりワンラウンド回れただけで御の字とすべきだろう。しかも、無料。ああ、あと一つ「余禄」があった。途中のフェアウェイで狐が現れたのだ。どうも、人間というか、ゴルファーに慣れているのか、近くに寄って行っても、逃げ出さない。こちらの顔をじっと見つめる。食べ物を欲しがっているような印象を受けた。野生の狐をこんなに間近に見たのは初めてだ。キャシーは「実に立派な尾っぽね」とさすが、女性ならではの鑑賞をしていた。
 翌日曜朝、B&Bの同宿のアメリカ人夫妻二組から「ゴルフいかがでしたか」と尋ねられた。この宿で偶然見つけたゴルフにまつわる警句を紹介した小冊子にあった言葉、独身の私にとっては肩身が狭くなる言葉を引用して答えると大爆笑だった。
 “Golf is like marriage — it looks so easy to those who haven’t tried it.”
 (写真は、久しぶりのゴルフを楽しんだニューロスのゴルフ場。そこで出会った狐君)

オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)④

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 先に書いたアイルランド出身の作家を紹介したダブリン市内の記念館のワイルドのコーナーでは、次のような文章が掲示されていた。
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 Unlike his fellow-countrymen, Wilde never took Ireland as his subject and for that reason is usually classed as an English writer. As Yeats noted, however, it was Wilde’s Irishness witch made English society a foreign country to him; he introduced himself to it as a subversive element and a rebel against its conventions.(同胞たちと異なり、ワイルドはアイルランドを作品のテーマとして取り上げることはなかった。このため、彼は通常、イングランドの作家として扱われている。しかしながら、イェイツが指摘したように、ワイルドはアイルランドの特質を身に付けていたからこそ、イングランドの社会は彼にとって異国になったのであり、彼はイングランドの社会をかく乱し、イングランドの慣習に異を唱える存在となったのだ)
 アイルランドの若者はワイルドの作品をどう評価しているのだろうか。ダブリンにあるアイルランド最古の名門大学、トリニティカレッジ(TCD)のキャンパスを訪れた。ワイルドがオックスフォード大に進む前に学んだ大学でもある。
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 TCDで文学を教え、ワイルド作品に詳しいジャラース・キリーン准教授に話を聞いた。
「今の学生はワイルドをどう見ているのでしょうか?」
「講義でワイルドの作品を取り上げると好評です。“The Picture of Dorian Gray” とか “The Importance of Being Earnest” が人気です。他の作品はそうでもありません。学生たちはワイルドのウィティシズム(機知)だけでなく、セレブな面に惹かれているとも言えます。彼がどういう作品を書いたかというよりも、彼が一世を風靡する話題の人物であったという側面です」 
 「彼はアイルランドの作家として見なされているのでしょうか?」
 「近年はそうです。以前は英国の作家と見られていました。彼がアイルランドを取り上げた作品はありませんので」
 「W.B.イェイツはワイルドのアイリッシュネス(アイルランド人としての特質)を指摘していますね」
 「ワイルドはダブリンのカトリック教の家庭に生まれました。母親はアイルランドの独立を求める筋金入りのナショナリストでした。ワイルド自身はTCDの後、オックスフォードに進み、すぐにアイリッシュなまりの英語ではなく、イングランド人のように英語を話すようになります。彼の人生は同性愛志向を含め、常に二重性をはらんでいました。ただ同性愛志向はビクトリア時代のイングランドでは珍しいことではありませんでした。ワイルドが他と異なったのは、我々には理解し難いことなのですが、最後の局面で自分の同性愛をあたかも正当化するように振る舞ったことです。クィンズベリー侯爵を相手取った信じ難い告訴に出たのはまさにそうとしか考えられません」
 (写真は上から、ワイルドも学んだダブリンの名門大、トリニティカレッジのキャンパス。ここも北米を含めた観光客で賑わっていた。キリーン准教授。今関心を抱いているのは『ドラキュラ』で知られるアイルランド人作家のブラム・ストーカーだと語っていた)

オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)③

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 “The Picture of Dorian Gray” を読んでいて、気づくのはJapanese という単語が幾度となく出てくるのだ。物語の筋に絡むわけでもなく、日本あるいは日本人がどうのこうのというわけではない。扇子であったり、和紙であったり、机であったりするだけのことなのだが・・・。
 ひょっとしたら、ワイルドは日本文化に殊の外、関心があったのではないかなどと思っていた。そうしたら、この疑問点に「答えて」くれるワイルドの伝記に出合った。いや、正確には作家の妻、コンスタンス夫人の人生をたどった伝記だ。“Constance The Tragic and Scandalous Life of Mrs Oscar Wilde” という書名で、2011年に刊行されたばかり。
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 この伝記本で夫婦ともども日本の文化に大いなる関心を抱いていたことを知った。殊に興味深く読んだのは、コンスタンス夫人が友人の詩人、W.B.イェイツから聞いた日本の動物画にまつわる伝承が “Dorian Gray” の「下敷き」になっているのではという指摘だ。詩人が語ったのは、お寺の壁に描かれた馬が夜中に絵から飛び出し、田んぼを駆け回り、夜明けまえに壁に戻るのだが、早朝に寺を訪れた人が頭上からしずくが垂れてくるので、不思議に思って見上げると、しずくは壁に描かれた馬の体から落ちてきていた、というお話。このお話を夫人から聞いたワイルドが、肖像画が「命」を宿し、描かれた本人に代わり年を取っていくという構想を得たのではと、伝記の著者、フラニー・モイル氏は述べている。私はネズミが絵から抜け出す左甚五郎の落語を思い出した。
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 伝記本はワイルドとコンスタンス夫人がお互いに一目惚れで恋に落ち、新婚しばらくの間は蜜月だったが、結婚2年後の1886年に夫人が二人目の子供(男子)を生んだころから隔たりが生じるようになっていく、つまり、ワイルドが男色に走って行く経緯を詳述している。劇作家としては “An Ideal Husband”(邦訳『理想の夫』)など人気作を相次いで発表し、ロンドンではまさに「時の人」となるのだが。
 ワイルドが「転落」していく大きな要因となるのは、16歳年下のアルフレッド・ダグラス卿との出会いだ。二人の深い仲はダグラス卿の父親、クィンズベリー侯爵の知るところとなり、激怒した侯爵との間で告訴合戦となる。ワイルドにとってはどう見ても「勝ち目」のない無謀な告訴であり、1895年、彼は敗訴後に、卑猥な行為を繰り返していたとして逮捕、投獄される。1897年に釈放され、フランスに逃げ出す。
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 コンスタンス夫人は夫の逮捕後、子供二人を連れて、欧州各国を転々として、ワイルドからホランドへと名字を変え、親類や友人たちの援助で生きていく。釈放後のワイルドは子供たちと会うことを切望したが、子供たちとも夫人とも再会することなく、1900年に失意のうちにフランスで他界している。(夫人はその前の1898年にイタリアで病死)
 (写真は上から、ダブリン市内の公園に設置されているワイルドの像。人気の観光スポットとなっているようだった。1997年10月、ワイルドにとっては孫にあたる作家、マーリン・ホランド氏により除幕されたと刻まれている。下は、ゴールウェイの中心街でも見かけたワイルド像=左)

オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)②

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 ドリアンは画家のバジルの渾身の力作である自分の肖像画を見て、初めて、自分の美しさに気づく。そして、その美しさが未来永劫に続くことを願う。願う余りに、自分の肖像画に嫉妬心さえ抱いてしまう。この辺りはいくら何でもちょっと信じがたいのだが。
 彼は次のようにつぶやく。“How sad it is! I shall grow old, and horrible, and dreadful. But this picture will remain always young. It will never be older than this particular day of June … If it were only the other way! If it were I who was to be always young, and the picture that was to grow old! For that—for that—I would give everything! Yes, there is nothing in the whole world I would not give! I would give my soul for that!”(何と悲しいことだろうか。僕は年を取り、醜く、おぞましくなる一方だというのに、この絵はいつまでも若々しく、今日の6月のこの日以降、年を重ねることは一日たりとないのだ。ああ、もし逆だったら! 常に若々しくいられるのが僕であり、年を取っていくのが肖像画だったら! そのため、そのためだったら、僕はすべてを捧げてもいい! そう、この世に僕が惜しむものなど何もない! そのためだったら、僕の魂を投げ出したって構わない)
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 こうしてドリアンは自らの魂を悪魔に売り渡し、永遠の若さを手にする。老い込んでいくのは肖像画であり、彼自身はずっと、二十歳前の少年の若さを保つ。ヘンリー卿の手ほどきで身に付けていく快楽的、自堕落な生活の醜さが肖像画には確実に「反映」されていく。それを恥じ入るドリアンは肖像画を人目に付かない部屋に隠す。
  ただ、一つありうるかなと思ったことがある。場末の劇場でかかるシェイクスピア劇でヒロインを演じる乙女のシビルの変化だ。貧しい家に育った彼女だが、その美しさ、瑞々しさで彼女がジュリエットやロザリンドを演じると、それまで騒ぎ立てていた観客が水を打ったように静まり返る。しかし、ドリアンに言い寄られ、恋するようになったシビルは普通の少女になってしまう。演技は並み以下となり、観客からはブーイングの嵐。失望を隠せないドリアンに捨てられ、彼女はこの世をはかなみ、自ら命を絶つ。恋するようになったがために、少女がそれまでの神秘的な魅力を失うのはあり得ない話ではないだろう。
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 20年の歳月が流れる。放縦な生活にもかかわらず、ドリアンは若さを保ったまま。さすがのヘンリー卿も若さを保つ秘訣を教えてくれとドリアンにささやく。「私と君とはたかだか10歳の年の開きしかないではないか」と(注)。ある日、疎遠になっていたバジルがドリアンの元を訪れ、噂で耳にした生活態度を諌める。激怒したドリアンいはバジルを殺害。肖像画はいよいよ醜く、血さえしたたるように変貌する。ドリアンは考え方を改め、更生して生きることを決意する。考え方を改めたのだから、あの肖像画も醜悪な表情が消えているのではないか。肖像画をのぞいて見ると、醜悪さにはさらに拍車が・・・。
 絶望の淵に立たされたドリアンは肖像画を「無き者」にしようと刃を突き立てる。悲鳴とともに息絶えるのは肖像画ではなく、ドリアンだった。彼は召し使いたちが指輪で確認をせざるを得ないほど、その容貌は醜く変わり果てていた。肖像画は20年前の美少年そのままに戻っていた。
 (写真は上から、ダブリンにあるアイルランド出身の作家の記念館。玄関階段に座っているのは見学に訪れたドイツの若者グループ。下が、記念館に展示されていたワイルドのコーナー。ワイルドを描いた珍しいスケッチも)

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オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)①

 ダブリンを訪れ、中心部を散策していたら、ゲイトシアター(Gate Theatre)で運よくオスカー・ワイルドの戯曲がかかっていた。“A Woman of No Importance” という劇だ。月曜夕刻に窓口で切符を求めようとしたら、満席だという。開演直前なら、キャンセル待ちがでるかもという人気だった。キャンセル待ちが実り、潜り込むことができた。爆笑の連続の喜劇だった。
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 ロンドンで勤務していた1990年代、ウエストエンドでも彼の劇をいくつか観た。いずれの劇も大盛況で、ビクトリア時代の優美な女性の服装、登場人物のウィットに富んだ台詞のやり取りに魅了された。例えば、“The Importance of Being Earnest” (邦訳『真面目が肝心』)では、中年のマダムが孤児として育った青年に向かって、“To lose one parent, Mr Worthing, may be regarded as a misfortune; to lose both looks like carelessness.” (片親を失うことは運が悪いと言えるかもしれませんわ。でも、両親ともに失うというのは不注意としか思えませんことよ)と「諌める」シーンでは劇場がどっと笑いに包まれた。こういう台詞のやり取りを「軽妙洒脱」とでも呼ぶのだろう。
 ワイルドはイングランドを舞台に活躍するので英国の作家として扱うべきかもしれないが、ダブリン生まれであり、やはり、ダブリンで彼の作品に触れたいと考えていた。
 取り上げるのはずっと以前に読んだ小説 “The Picture of Dorian Gray”(邦訳『ドリアン・グレイの肖像』)。ダブリンに到着してすぐに、“Dorian Gray” を古書店で買い求めた。幸い、これまでこのブログで紹介した他の作家の作品に比べれば、これは実に平易な英語で分かりやすい。日本人にも読みやすい長さに収まっているのもいい。
 作品の主要登場人物は「絶世の美少年」と呼びたくなるほどに描かれている若者、ドリアン・グレイ。その彼を「豊饒」「放縦」の生活に誘惑するヘンリー卿。これまでヘンリー卿はドリアンよりずっと年上かと思っていたが、再読してみて、わずか10歳の年の開きしかないことが分かり、少し意外だった。
 世間知らずのドリアンはヘンリー卿のアイロニーに富んだ語りに翻弄され、結果的に人の道を逸れ、奈落の底に沈んでいく。作家自身が歩んだ同性愛での逮捕、投獄という経歴を知っている我々読者としてはドリアンの転落に作家の末路を重ねることになるのだが、ワイルドの人生哲学、人生観はヘンリー卿によって「代弁」されている。
 この作品が発表されたのは1891年。1854年生まれのワイルドは30代後半、作家として英気に満ちていたころだろう。この時ワイルドは美貌のコンスタンス夫人と結婚していたが、このころには自身の中にある同性愛志向を抑えきれず、ドリアンのような美少年との密会にいそしんでいたことも分かっている。それは作品の冒頭から察することができる。ヘンリー卿はドリアンの肖像画を描いている画家のバジル邸で、ドリアンと出会うのだが、彼はその二人に向かい、「現代人は勇気がない。もっと自己の特質を自由に追い求める人生を歩むべきだ」という主旨のことを言い放つ(注)。
 (写真は、ダブリンの宿の近くのパブ。毎夜、アイリッシュミュージックで遅くまでにぎわう)

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アラン島

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 ゴールウェイに到着した翌日の土曜日、楽しみにしていたところを目指した。沖合に浮かぶアラン島(Aran Islands)という名の島だ。正確には三つの島から成り、私が訪ねたのは最も大きいイニシュモア島。といっても、自転車で一周できるような小さな島だ。
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 私は写真でよく見た大西洋に面した切り立った断崖絶壁が見たかった。アイルランドは19世紀のポテト飢饉などでアメリカに多くの移民を送り出した国。アラン島の絶壁に立てば、そうした厳しい歴史の一端が垣間見えはしないかと思っていた。
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 フェリーに揺られること約50分、下船した後、さて、どうしたものかと思案。帰りのフェリーは午後4時出港。4時間半ほどの時間がたっぷりある。レンタル自転車店があったので、そこで10ユーロ払って借りる。自転車に乗るのは昨年秋、ヘミングウェイゆかりの地で訪ねたフロリダ州キーウエスト以来だ。そんなことを思い出しながら、絶壁に向かう。ゴールウェイを出た時は曇り空だったが、気持ちのいい天気になった。口笛の一つも吹きたくなるような心境だ。途中、アザラシが憩う岸辺があり、そこでアメリカ人の観光客としばし歓談。丁度いい機会だ。お互いの姿を交互にデジカメで撮影し合う。
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 1時間ほどゆっくり自転車をこいでようやく断崖絶壁の地にたどり着いた。「ダン・アンガス」(アンガスの砦)と呼ばれる古い遺跡であることを知った。高所恐怖症の私はとても断崖のふちまで進めなかったが、強風にあおられながら、へっぴり腰で何とか数枚撮影した。来て良かった! 
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 前日の夜、B&Bの宿にあったアイルランドの観光本のアラン島の欄を読んでいたら、イニシュモア島の住民は900人程度、多い時には1日に2千人の観光客が島を訪れると記されていた。アラン島では土地がやせているので、石灰岩を砕いた土に海藻や家畜の糞をまぜ、長年の歳月をかけて土壌をこしらえてきたとも。その大切な土が強風で飛ばされないようにしているのが、大小さまざまな石を積み上げて作った石垣だ。長々と連なる石垣に守られた区画の中では雑草や草花が茂り、牛馬がのんびり草を食んでいた。
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 アラン島は手縫いのアランセーターも有名。断崖の入り口にセーターを売っている店があり、そこをのぞいたら、店主の婦人が手縫いをしていた。私の顔を見て、「コンニチハ」と日本語で言う。私がよく日本人だと分かりましたね。ぴんときたよ。日本人客は多いからね。そうですか。今日は私の他にはあまりいないようですよ。今日はね。いやあ、のんびりしていていいですね。私は日本の田舎育ちだから、こういうところは大好きなんですよ。あら、そうかい。でも、あたいら、食っていかなくちゃならないからね。こうやってセーター編んでお客に買ってもらって始めて食っていけるんだよ・・・。おおよそこんな会話が続いた。
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 申し訳ないので、秋の深まりに備え、頭からかぶる鉢巻のような耳当てを8ユーロで購入。あのお、お願いがあるんですが。編んでいるところを撮らせてもらえませんか? あら、やだ。今日は地味な服装だし。とかなんとか言いながら、何枚も撮らせてくれた。アラン島は人柄もいい。
 (写真は上から、観光客で賑わうゴールウェイの中心街。波しぶきをあげ、アラン島へ。こんな感じの石垣が連なる。牛もいれば、馬も。頭をなでてもらいたいのか、石垣から頭を突き出して動かない馬。馬の気持ちが分かれば、馬券も当たるのだが。自転車に乗れば気持ちも若返る。「ダン・アンガス」の断崖絶壁。そこで記念撮影する観光客。セーター店の婦人)

ダブリン再訪

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 ベルファストを離れて南下、アイルランドの首都ダブリンを訪れている。ロンドン勤務時代、ここも幾度か足を運んだ地だ。なぜか、性にあっているように感じていた。
 ダブリンを訪問した時の思い出で印象に残っていること。橋の上からリフィー川の流れや街並みを眺めていて、妙に寂しい都市だなと思ったこと。知り合った地元の人とイングランド人の堅苦しさを遡上に盛り上がったこと。夜中のパブでギネスとアイリッシュミュージックを気分良く楽しんでいたら、常連と思われる地元の酔客の一人がイングランド人の観光客の若者に理不尽に絡み始めたこと。
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 最後にダブリンを訪れたのがいつだったか覚えていない。当時のメアリー・ロビンソン大統領が訪日されるのを前に単独会見ができることになり、ダブリンの大統領府でインタビューした記憶がある。今、パソコンで検索するとどうも1995年のようだ。情けないことにどういう話を聞いたのか、どういう記事を書いたのか、全く記憶にない。
 久しぶりに再訪したダブリンも記憶に重なる部分が少ない。トラム(路面電車)が走っているのには驚いた。1990年代にはなかったと思う。市内の中心部、オコンネル通りに「スパイア」(Spire)と呼ばれる尖塔が建てられていたのにも目を見張った。2002年の建設で高さ約121メートルのステンレス鋼鉄製とか。
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 さて、ここではアイルランドを代表する作家、英語で書かれた文学の巨匠の一人、ジェイムズ・ジョイスの足跡を追いたいと思っている。波乱に富んだ一生を送ったダブリン生まれの個性的な作家、オスカー・ワイルドについても少し書くつもりだ。
 と思っていたら、投宿したB&Bの受付の人が「週末は一杯だから、他所を探してくださいね。それにこの週末は宿代が跳ね上がりますよ」とのたまう。ロンドンでも金土の週末に宿代が少し高くなるのは普通だが、レートを聞いて驚いた。アイルランドはユーロ圏の国だからユーロ決済だが、水曜にチェックインした時は一泊40ユーロ(約3900円)だったこのB&Bは金土は3倍の120ユーロだという。冗談は良子さん(私の亡き母親)! それでなくとも、私の部屋はトイレ臭がどこからか漂ってきて、居心地がすこぶる悪い。
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 この週末、ダブリンの宿泊レートが跳ね上がっているのは、アメリカの大学チームがやってきて、土曜日にアメリカンフットボールの試合が催されるためだと聞いた。新聞やテレビではこのゲームのためだけで、アメリカから3万5千人の観光客がダブリンを訪れていると盛んに報じていた。景気の悪いアイルランド経済にはありがたい話ではある。
 そういう事情で金土は到着したばかりのダブリンから逃げ出すことにした。特段行くあてもない。いや、あった。以前からアイルランドの西岸はとても美しいところだと聞いていた。この国を訪れる機会など私にはもう二度とないだろう。だったら、西に行ってみよう。という次第でゴールウェイ(Galway)まで足を延ばすことにした。B&Bから徒歩で行ける距離のバスセンターに行き、ゴールウェイまでの往復チケットを買い求める。19ユーロとリーズナブルな値段。約3時間半の旅程だという。
 (写真は上から、ダブリンの繁華街。スパイアを望む。その基幹部分。トラム)

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