July 2012
D.H.ローレンス(D.H. Lawrence)①
- 2012-07-31 (Tue)
- 総合
ローレンスと言えば、やはり、学生時代に読んだ『チャタレー夫人の恋人』を思い浮かべる。今はどうか知らないが、かつては大学で英語科を専攻すれば、必ず出合った作品だった。新聞社のロンドン支局勤務時代にフリンジの劇場で小劇団が上演した劇を観たことがある。作中人物が全裸になって熱演していた。ギャラリーはさすがに少しざわついたが、猥褻感がなく、すぐに静かになり、劇に見入っていた。
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今回の旅では1913年に刊行された代表作の一つ、“Sons and Lovers” (邦訳『息子たちと恋人たち』)を取り上げたい。作家の自伝的要素が色濃い作品だ。
ローレンスは1885年にノッティンガムに近いイーストウッド(Eastwood)で炭鉱夫の一家に五人兄妹の三男として生まれた。高校卒業後、地元で事務員やロンドンの小学校で代用教員などの仕事に従事するが、教職の資格を取得したノッティンガム大学の恩師の元を1912年に訪ね、その妻フリーダと恋に落ちる。ローレンスは3人の子供を捨てたフリーダと彼女の母国ドイツに駆け落ちする。ローレンス最愛の母親は1910年にすでに死去していた。結婚後はアメリカやメキシコ、ヨーロッパなど世界各地を旅して多くの作品を発表。作家の名を不動にした ”Lady Chatterley’s Lover” 刊行2年後の1930年、44歳の若さでフランスで病没。
“Sons and Lovers” は故郷をモデルにした炭鉱町が舞台となっている。炭鉱夫の父親ウォルター・モレルは気はいいものの大酒飲みで稼ぎもそう良くない。美貌のモレル夫人(ガートルード)はピューリタンの家庭で育ち、プライドが高く、宗教的にも厳格。子供は生まれたばかりの男の赤ちゃんを含めて2男1女(その後3男1女に)。
母親と息子たちの愛情は読んでいて圧倒される。母親は長男のウィリアムを溺愛し、彼が巣立つと、二男のポールに愛情をそそぐ。このポールは絵心のある芸術家肌の若者で、作家の「分身」であることが分かる。ウィリアムもポールも母親に深い思慕の念を抱いて育つ。子供たちは酒飲みで母親に対して時に暴力を振るう父親に対しては何ら愛情を覚えず、ポールに至っては敵意すら感じて育つ。父親が炭鉱事故で不帰の人になってくれればいいと祈るような殺伐とした関係にまで悪化する。
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長男のウィリアムは母親の愛情一杯に体格も良い好男子に育つが、注目すべきは二男ポールと母親との関係。14歳になったポールは学校教育を修了し、働くことを余儀なくされるが、生来の人見知りの性格ゆえに、世間との「接触」におびえる。母親に「何になりたいと思っているの?」(”What do you want to be?”)と尋ねられて、”Anything.”(何でもいいよ)と答えるしかないほど、これといった望みはなかった。母親は当然、「そんなの答えではないわ」(”That is no answer.”)と一蹴する。ポールは実は自宅近くでそこそこのお給料がもらえる仕事にありつければ、父親が死去した後に母親と一緒にずっと暮らしていきたい、その程度の将来像を描いているような母親思いの少年だったのだ。
(写真は上が、作家の父親が働いていた故郷イーストウッド近くの炭鉱跡。下は、作家ゆかりのノッティンガム大学で運よく開催中のローレンスの生涯を紹介する展示会)
ノッティンガムに
- 2012-07-30 (Mon)
- 総合
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オリンピックの「喧騒」をよそに、ハートフォードシャーから再び北上した。列車で1時間40分の旅。ノッティンガム(Nottingham)にいる。イングランド中北部に位置するが、地元の人々の説明ではイースト・ミッドランド(East Midland)の都市となる。
街の中をトラム(tram)と呼ばれる路面電車が走っている。初めての都市や町ではとにかく街を歩いてみるしかない。私は方向感覚が途方もなく悪いので難儀するのだが、それでも歩いているうちに何となく「土地勘」みたいなものが生じてくる。
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ノッティンガムの中心部は私が投宿したB&Bからなだらかに下っている。バスも通っているが、歩いて行けない距離ではない。街のど真ん中辺りで子供たちの歓声が聞こえてきた。眺めると「浜辺」がある。「ああ、これがB&Bのご主人が言っていたビーチだな」とすぐに合点が行った。広場の一角に砂を入れ、浜辺が人工的に作られている。子供たちには楽しい夏の思い出となるのだろう。なんでも、数年前から始まったイベントで、7月下旬から約1か月間設けられる「浜辺」とか。
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すぐ近くで人だかりがしたので近づいて見ると、“Gay Pride” というプラカードが見える。ゲイ(同性愛)の人たちだ。平和的なデモ行進のようだ。地元テレビ局のクルーの人たちが色々注文を付けて撮影していた。保守的な英国でもゲイの人々の権利が段々認められるようになっており、英国国教会でもゲイの司祭が新聞紙上で持論を展開している。
ノッティンガムに来たのは、ここにゆかりの深い作家がいるからだ。『チャタレー夫人の恋人』の作者で知られるDHローレンス。私ははるか昔の学生時代に興奮しながら読んだような記憶がある。作家の故郷ぐらいは見てみたいと思っていた。
B&Bのご主人と話していたら、「ロビンフッド」(Robin Hood)もノッティンガムですよ、みたいなことを言う。ああ、そんな物語もあったなと思い出した。ノッティンガム・キャッスルという博物館に行けば、ロビンフッドの展示もあるという。これも、十分、歩いて行ける距離だ。散歩がてらに出かけた。
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ロビンフッドは実在したのか? 学者の間でもさまざまな見解があり、まだ、論争を呼んでいることを知った。当局からは疎まれたロビンフッドが貧しい人々に金品を与え、「義賊的存在」だったことから、今に至るまでロマンをかきたてる人物であるようだ。14世紀の書物に書かれたロビンフッドにまつわる文章が展示されていたが、私は逆立ちしても理解できない。オリンピックだからというわけではないが、これでも高校時代は器械体操部に属していて、逆立ち(倒立)は得意だった。参考までにその文章を以下に記してみる。
“If I shulde deye bi this day me liste noughte to loke
I can nought perfily my paternoster as the prest it syngeth
but I can rymes of Robyn hood and randolph erle of chestre
ac neither of owre lorde ne of owre lady
the leste that Evere was made” (現代英語訳は続きで)
(写真は上から、ノッティンガムの中心部。人工のビーチ。デモ行進を前にたたずむゲイの人々。ノッティンガム・キャッスル博物館にあるロビンフッドの像)
E.M.フォースター(E. M. Forster)④
- 2012-07-28 (Sat)
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フォースターは母子家庭で育ったものの、裕福な伯母の遺産もあり、経済的にはとても恵まれて成長した。ケンブリッジ大学に進み、卒業後も定職に就かずとも、生活することができた。大学で彼はリベラルな思想を「開花」することができたようだ。ヴァージニア・ウルフの項で述べたボヘミアン的な「ブルームズベリーグループ」にも参画している。
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生涯を独身で通した彼はゲイだった。彼は生涯の後半は母校のケンブリッジ大学のキングズカレッジ(King’s College)で終身名誉特別研究員(an honorary lifetime fellowship)として暮らしている。キングズカレッジのアーカイブ(文書保管所)には作家に関する貴重な文献が残されている。数日間そこに通って彼が書いた回想録などに目を通していたら、職員の人が一冊の伝記本を手渡してくれた。2010年に刊行された “Great Unrecorded History: A New Life of E.M. Forster” (著者Wendy Moffat)という伝記本だった。
この伝記で、フォースターにとって、自分がゲイであるという事実が彼の作家としての生涯に大きな「足枷」となっていたことが理解できた。英国でゲイの作家と言うと、オスカー・ワイルドのことが頭に浮かぶ。1895年に同性愛の罪で逮捕され、華やかな人生は破綻する。この事件後、多くのゲイ志向の人たちが私生活をベールで覆って暮らす。
フォースターもそうした一人だ。彼の場合の悲劇は、ゲイであることを隠さなくてはならないことから、無限にあったと思われる「創作意欲」が損なわれたのではないかと推量されることだ。彼のそうした苦悩は死去した1970年の翌年に発表された “Maurice” で明らかにされているが、上記の伝記によると、フォースターは生前、日記の中で次のように慨嘆していたと言われる。“I should have been a more famous writer if I had written or rather published more, but sex has prevented the latter…” Adding, “When I am 85 how annoyed I am with Society for wasting my time by making homosexuality criminal.” (「私はもっと作品を書いていれば、いや、書いたものを発表できていれば、もっと有名な作家となっていただろう。しかしながら、性のため、書いたものを発表することができなかったのだ」。さらに続けて「私は85歳になった時、つくづく嫌気が差したのだ。この社会は、同性愛を犯罪とすることで私の時間を何と浪費させたことか」と)
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今では英国でゲイであることで、作家や芸術家が迫害される時代ではない。アメリカもしかりだ。テネシー・ウィリアムズは自分がゲイであることで、「黒人や社会的少数派の人々に対する優しい視点」を身に付けたことを、昨年のアメリカの旅で知ったが、フォースターには「百害あって一利なし」だったのか。前項で紹介したフォースターを慕う人々の集まりThe Friends of the Forster Countyのホームページには、作家は疎外感を感じていたからこそ、世の中や同胞を冷徹に洞察できる、作家としての大切な素養に恵まれたのではないかと書かれている(注)。それは「代償」として高かったのか、低かったのか。フォースターは「途方もないほど高過ぎた」と答えるのではないか。
(写真は、ケンブリッジ大学の中でも観光客が目立つキングズカレッジ。作家が終身名誉特別研究員として暮らしたキングズカレッジの二階の部屋は写真中央辺りとか)
E.M.フォースター(E. M. Forster)③
- 2012-07-26 (Thu)
- 総合
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フォースターは1879年に中流の家庭に生まれている。建築家の父親は彼の誕生後ほどなく亡くなり、一人っ子の彼は母親や伯母たちの愛情を一身に受けて育つ。4歳時の1883年に母親に連れられてスティーヴニジの一軒家ルークス・ネストに越して来た。1993年に再び転居するまでの10年間をここで暮らす。自然の中で、地元で育った年上のメイドや庭師の男の子などと遊び回り、彼の生涯で最も幸福な時期を過ごしたことは終生の思い出となったようだ。
この一帯が住宅化の危機に立った時、それを阻止する運動の支援を求められた作家は1946年にBBCラジオで次のように訴えている。“I was brought up as a boy…in a district which I still think the loveliest in England.”(私は今でもなおイングランドで最も美しいと思っている地方で少年期を過ごした)。作家の訴えで、スティーヴニジ中で北の端に位置するこの一帯は「フォースター・カントリー」として知られるようになる。
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フォースターがそこまで惚れ込んだ一角、特にルークス・ネストをぜひ見てみたいものだと思っていたら、あるつてでその家を訪れる機会を手にした。
現在ルークス・ネストに住んでいるのはアン・ニューマンさん。彼女がネブワースのB&Bまで車で迎えに来てくれた。一緒にいるのは、フォースター・カントリーの保護活動(注)に長く取り組み、フォースターに関する著書もある地元在住の作家、マーガレット・アッシュビーさん。二人の案内でゆかりの場所を案内してもらった。
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スティーヴニジの旧市街を通る。スティーヴニジは作品の中では「ヒルトン」と表記されている。「主な建物はフォースターが暮らした当時とほぼ変わっていません。当時は一帯は畑や丘の田園地帯でした。フォースターが暮らした当時、人口は3000人を上回った程度でしょうかしら。今は約8万人が住む町です」とマーガレットさんはため息をつく。
聖ニコラス教会。スティーヴニジで最も古い建物だ。この辺りまで来ると静寂さが漂う。1997年にマーガレットさんたちが建立した石碑がある。“Howards End” の冒頭に記されている有名な表現 “Only connect …” という言葉が刻まれている。何と何をコネクトするのだろうか。人それぞれの「解釈」が可能な文言だ。
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ルークス・ネストに到着。正直に書くと、「え? こんなに小さい家?」という印象を抱く。それは多分に先日、エマ・トンプソン主演のあの映画をDVDで観たばかりということもある。こちらで知り合った人が「参考になれば」と貸してくれたのだ。その映像が頭に残っていた。「あの映画はここではなく、コッツウォルズ(Cotswolds)で撮影されました。この家は機材を持ち込んでの撮影には小さ過ぎたのです。それに、周辺の交通事情で騒音が撮影には不向きとされたのです」とマーガレットさんが説明してくれた。なるほど。
アンさんがこの家を購入したのは1993年。転居先を探していて、この家に決めた時はそのゆかりは知らなかったとか。時に作家のファンが訪ねて来ることもあるという。
(写真は上から、聖ニコラス教会。墓地に立つ “Only connect …” の石碑。左がマーガレットさん、右がアンさん。そこから眺めたフォースター・カントリー。現在はアンさんが住むルークス・ネスト)
E.M.フォースター(E. M. Forster)②
- 2012-07-26 (Thu)
- 総合
小説は後半に入って面白くなる。レオナード・バストという青年が現れる。彼はシューレーゲル家やウィルコックス家のような裕福な家柄ではない。文学や音楽を愛でて、何とかgentlefolk(身分ある人々)と呼ばれる階層の人たちの仲間入りをしたいともがいている。作家は次のように述べている。 Some are born cultured; the rest had better go in for whatever comes easy. To see life steadily and to see it whole was not for the likes of him.(ある者たちは教養豊かな世界に生まれ、他の者たちは手が届く範囲のもので満足せざるを得ないように世の中はできているのだ。心穏やかにかつ全きものとして人生を眺めることなど彼のような生まれの者には望めないことであった)
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古今東西の真実であろうが、この国、特にイングランドではそうした社会階層的な「隔絶」が顕著なような気がする。今でもだ。乱暴な言い方を許してもらえれば、チャールズ・ディケンズの一連の小説が今もなお、多くの英国民に人気のある一因だと私は思っている。
マーガレットに魅力を感じるのは、彼女が自分たちの暮らしが成り立っているのは単に親から受け継いだお金があるからであることを認識していることだ。彼女は金持ちなのにそうではないと装う上流階級の人々の偽善に我慢がならない。また、29歳で独身の自分自身は働いていないが、大学卒業後の仕事探しに消極的な弟に向かって言う。「しっかりしなさい。女性だってやがて、社会に出て働く時代がやって来ると思うわ。100年前に女性にとって『結婚していない』ということが世間ではとても衝撃的だったように、『働いていない』ということがそれと同様に受けとめられる時代が来ると思う」と。彼女、いや作家の指摘した通りの社会になっている。
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マーガレットはウィルコックス家の母親ルースと仲良くなる。マーガレットと3人の成人した子供たちの母親は年齢も考え方も大きな差異があるのだが。ルースは第一 “I sometimes think that it is wise to leave action and discussion to men.”(私は議論や行動は殿方にまかせておけばいいと思うことが多いのよ)と語るような女性だった。
そのルースがこよなく愛したのが書名になっている Howards End と呼ばれる屋敷だ。これはフォースターが少年期を過ごした家がモデルになっている。ハートフォードシャーのスティーヴニジの北にその家が今も残っている。本当の名称は Rooks Nest。カラスの多い場所だったのだろうか。次のような記述がある。Their hours were ruled, not by a London office, but by the movements of the crops and the sun... But they kept to the life of daylight. They are England’s hope. Clumsily they carry forward the torch of the sun, until such time as the nation sees fit to take it up. (この辺りでは一日の時間の流れはロンドンのオフィスと異なり、収穫や太陽の動きによって決められていた。人々は日光とともに暮らしていた。彼らはイングランドの希望だ。彼らがまず日光の最初の益を受け、続いて都市部に住む人々の営みが始まるのだ)。私の田舎の暮らしもほぼそんな感じだ。共感を覚えざるを得ない。
(写真は、ペタンクというゲームに興じるネブワースの人たち。パブに夕食を食べに出かけたら、パブの隣のグラウンドでプレーしていて、フランス発祥のこのスポーツのルールを解説してもらった。話が弾み、ビールも一杯ご馳走になった)
E.M.フォースター(E. M. Forster)①
- 2012-07-25 (Wed)
- 総合
この作家は私の今回の旅の予定には入っていなかった。名前ぐらいは耳にしたことはあったが、その作品を読んだことはなかった。新聞社のロンドン支局勤務だった1990年代にエマ・トンプソンとアンソニー・ホプキンスの主演で代表作とも言える “Howards End” (邦訳『ハワーズ・エンド』)が映画化され、話題になっていたことをおぼろげながら記憶している程度だった。
ロンドン到着後に再会したイングランド人の友人と話をしていたら、「フォースターは取り上げないのですか。『ハワーズ・エンド』はいい作品ですよ」と言われた。何となく気になり、書店でその代表作を買い求め、「難儀」しながら読んでみた。
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“Howards End” は1910年の刊行。ハートフォードシャーにある「ハワーズ・エンド」と呼ばれる古い屋敷を巡り、シューレーゲル家のリベラルなマーガレット、ヘレン姉妹とウィルコックス家の保守的なヘンリー、ルース夫妻、その子供たちが展開する恋や疑念、愛の物語を織り成していく物語だ。
小説の冒頭近く、ふと手がとまる場面がある。マーガレットが今住んでいる大都会のロンドンについて思うシーンである。正確に言うと、ロンドンの鉄道についての思いだ。
Like many others who have lived long in a great capital, she had strong feelings about the various railway termini. They are our gates to the glorious and the unknown. Through them we pass out into adventure and sunshine, to them, alas! we return…. And he is a chilly Londoner who does not endow his stations with some personality, and extend to them, however shyly, the emotions of fear and love.(大いなる首都に長く住んだ多くの人がそうであるように、彼女はロンドンのさまざまな終着駅について強い思いを抱いていた。終着駅は栄光や未知の世界への門戸である。終着駅を通って我々は冒険と陽光を求めて旅立ち、そして嗚呼、再び戻って来るのである。<中略>そうした終着駅に思い入れや、どんなにささやかであっても、なにがしかの不安や愛着を感じないようなロンドンっ子は心の冷ややかな人である)
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さらに次のような文章が続く。To Margaret—I hope that it will not set the reader against her—the station of King’s Cross had always suggested Infinity…. If you think this ridiculous, remember that it is not Margaret who is telling you about it; and …(マーガレットにとって、キングズクロス駅はいつそこに行っても、無限の世界を感じる駅だった。もし読者のあなたがこういう表現を馬鹿げているとお考えになったとしても、彼女に反感を抱かないで欲しい。あなたにこう語りかけているのはマーガレットではないことを忘れないで欲しい・・・)
私が読んだ本の作家紹介の文章では、この小説は “Who shall inherit England?” (イングランドを継承するのは誰か)という大きな問題をはらんだ物語らしいが、それでこの「茶目っ気」だ。まるで落語家が古典を語る合間に「素」の顔を見せているみたいな。
(写真上は、ロンドンのターミナル駅の一つ、リバプールストリート駅の構内。下はキングズクロス駅近く)
ハートフォードシャーに
- 2012-07-24 (Tue)
- 総合
ケンブリッジから電車で南下、ハートフォードシャーのネブワース(Knebworth)という村に来ている。ロンドンの北約50キロのところにある村で、ロンドンに少し近づいた感じだ。明日から書く予定のE.M.フォースターにゆかりの深いスティーヴニジ(Stevenage)という町に隣接している。
ネブワースでも一泊35ポンド(約4900円)のB&Bに投宿した。ケンブリッジのB&Bも同じ値段だったが、朝食は付いていなかった。といっても、私はあのイングリッシュブレックファーストには少々食傷気味。だから、朝食付きでなくとも一向に構わない。ケンブリッジでは少し歩いたところにあるカフェの常連となり、朝食と昼食を一緒にしたブランチとしてコーヒーにクロワッサン2個を食していた。
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さて、イングランドはここ数日、これまでの雨天、曇天がうそのような晴れやかな日々が続いている。気温も摂氏27度前後あるようだ。湿度が比較的低いから、日本のような不快感はあまりない。すがすがしい。ケンブリッジからスティーブニジに向かう電車の中も座席の窓の上部が少しだけ開けられるようになっており、これさえ開けていれば、心地よい風が吹き抜けて来る。この好天がいつまで続くか分からないが、ロンドン五輪でやって来る選手や関係者、観光客の人々には嬉しい限りだろう。
先週は読書にいそしむ予定であったが、ほとんどできなかった。テレビの前に釘付けとなっていた。ゴルフの全英オープンが開催されていたからだ。何しろ、この大会はThe British Open と呼ばずに、単に The Open と呼ばれるくらいに、伝統と格式を誇るメジャーの中のメジャーである。ゴルフ好きの私には木曜から日曜まで丸4日間、BBCが朝から晩まで放送する生中継で「至福」のひと時を過ごした。最終ラウンドの日曜夕刻にはロンドンで参加したい集まりがあり、出かけたロンドンのパブで実況を見ていて、14番ホールで首位にいるアダム・スコット(豪州)がバーディーを決め、2位以下に4差を付けた時点で「勝負あった」と思い、集まりに出かけた。
深夜遅くにケンブリッジの宿に戻り、パソコンを開いて、アーニー・エルス(南アフリカ)が大逆転で優勝していることを知り、驚いた。一夜明けた23日の「ザ・タイムズ」紙ではスポーツ史に残るスコットの choke と報じていた。スポーツの世界で言う「チョウク」とは勝利を目前にした選手やチームが土壇場でとんでもない失態、失敗を演じ、ほぼ手中にしていた栄光をふいにすることを意味する。日本語では「プレッシャーに弱い」と評される類のものだ。
タイムズ紙は次のようにスコット選手の自滅を憐れんでいた。 The word “choke” is among the most despised in the sporting lexicon, yet, sad to say, it is one that will now be associated with this most naturally gifted of players. (choke という言葉はスポーツ選手の間では最も忌み嫌われている表現だが、悲しいかな、これからはこの言葉が数多くいる選手の中でも最も才能に恵まれたこの選手=スコット=に付きまとうことになるだろう)
(写真は、スティーヴニジの広場。好天もあり、噴水の場所で家族連れが群がっていた)
ジョセフ・コンラッド(Joseph Conrad)④
- 2012-07-21 (Sat)
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“The Secret Agent” は作家が1920年に書いた「序文」で明らかにしているように、1894年2月に起きたグリニッジ天文台の爆破テロ未遂事件を下敷きにしている。この事件はフランス人のアナキストによる犯行だった。コンラッドは書いている。アナキストが大衆の悲惨な生活や人々の善良さに付け入り、愚かな破壊行為に出る欺瞞が我慢できなかったと。That was what made for me its philosophical pretences so unpardonable.(私はそういう哲学的な見せかけを許し難く思ったのだ)
コンラッドは十代後半の1875年から20年近くの歳月を船乗りとして海の上で過ごした。見習いから船長の地位にまで上り詰めた。“Heart of Darkness” (邦訳『闇の奥』)など多くの名作が船乗りとしての経験から生み出されている。カンタベリー博物館の展示では、コンラッドは背丈は低いが頑健な体で船乗りの雰囲気が漂っており、港の近くで彼に会えば誰もが彼が船長であることを疑わなかったであろうと紹介している。しかし、同時にまた彼の目をよく見れば、彼が芸術家の目をしていることに気づいたであろうとも。
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コンラッドを含めた19世紀末から20世紀初頭の英文学に詳しいマックス・サウンダース教授をロンドンのキングズカレッジに訪ねて、話を聞かせてもらった。
「コンラッドを英文学のドストエフスキーと見る向きもあるのですか?」
「彼は自分の出自からスラブ系の作家とかロシア文学的作品を英語で書いているというような安易な区分けをされるのを嫌いました。ドストエフスキーに擬せられるのも快くは思わなかったと思います。彼はむしろ、フローベールやモーパッサンのような簡潔で引き締まった文体の文学を目指していました」
「今の学生たちにはコンラッドの作品はどう映っているのでしょうか?」
「私の学生時代と異なり、あまり、読んでいるとは言えません。学生たちに教える立場から言えば、問題は今の学生たちには彼の文学がとても古い価値観や社会を描いているように見えていることです。アメリカの9.11テロで“The Secret Agent” は少し人気が回復した感じはありますが。それより以前に起きたユナボマー事件では、逮捕された容疑者が“The Secret Agent” を愛読書にしていたという話も有名ですしね(注)」
「コンラッドが生きた時代はどういう時代だったのでしょうか」
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「彼はフォード・マダックス・フォードという作家と親しく付き合い、一緒に新しい文体の作品を構築しようとします。彼の友人、ヘンリー・ジェイムズもそうです。ヴァージニア・ウルフもそうです。思えば、彼らが住んだイングランド南部は今は古めいて見える地方ですが、20世紀の初頭、進取の気概に富んでいたのです。彼らは物語を読者に語る新しい方法を手探りで見つけ出そうとしていました。モダニズムと呼ばれるものです。この時代の作品は今も輝きを失っていません。私はこのモダニズム時代の文学を研究するのが好きで研究テーマにしています」
(写真上は、インタビューに応じるサウンダース教授。下は、ケンブリッジは欧州からの英語学習の高校生で大賑わい。バス停で出くわしたフランスの少女たちと仲良くなろうとスペインの少年が英語で懸命に話しかけていた)
ジョセフ・コンラッド(Joseph Conrad)③
- 2012-07-20 (Fri)
- 総合
ヴァーロックは妻のウィニーと妻の弟スティービーとの三人暮らし。この弟はいわゆる知的障害者で、行く末を案じる姉は弟をこよなく愛している。ヴァーロックもスティービーとの同居を厭わず、その点で夫人は夫に深く感謝している。そうした平穏な暮らしが7年ほど続いた後、「異変」が起きた。ある日のこと、帰宅したヴァーロックは明らかに憔悴しきっていた。妻も夫の異変に気付く。そこに一人の男が訪ねてくる。ポルノショップのいつもの顧客でもなく、ヴァーロックの裏の顔とも関連のない、夫人がこれまで見たこともない男だ。グリニッジ天文台でその日朝発生したばかりの爆弾テロ未遂事件にヴァーロックが関係していることを覚知した警察幹部の来訪だった。
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この時点で読者は何が起きたか分かっている。ウラジミール一等書記官から求められたグリニッジ天文台の爆破をヴァーロックは試みたのだ。爆弾はプロフェッサーと呼ばれる爆弾製造を専門とする男から入手する。ヴァーロックは爆弾を天文台に置く役目を義弟のスティービーに担わせる。スティービーは義兄を敬愛しているので、義兄から言われたこと何でも喜んで引き受ける従順な少年だった。ところが、スティービーは最寄りの駅から天文台に向かう途中、不運にも転倒したため、爆弾が爆発。彼は木端微塵に爆死する。彼が着ていた上着のかけらが現場から見つかり、そこにはヴァーロックの店の住所が記されていたことから、ヴァーロックの事件への関与が判明する。知的障害者の弟がどこで行方不明になっても、店の住所が分かれば、弟は必ず、自分の元に戻ってくるという姉の願いから、スティービーの上着には住所が記されていた。
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ウィニーはやがてこの爆弾テロ未遂事件により、スティービーが爆死したことを知る。ヴァーロックの目的や政治的背景など彼女には何の意味ももたない。彼女にとって大事な事実は、不憫な弟がもはやこの世にいないこと、その弟を結果的に「殺害」したのは夫であるということだ。茫然自失の果てに、ウィニーは抑えようのない憎しみを夫に対して抱く。妻の激怒に全然気づかないヴァーロックは自分がこれから2年間は投獄されるであろうこと、その間は店の切り盛りをしっかりやって欲しいことなどを妻に語りかける。スティービーには悪いことをしたが、ほかに誰もあれをやってくれる者を見つけることができなかったのだ、あれは本当に事故だった、スティービーは交通事故に遭ったようなものだとも。ウィニーには何の慰めともならない空しい言い訳だ。ソファーに横たわるヴァーロックは妻に声をかける。「ここにおいでよ」。ウィニーは誘われるように近づく。その手にはさきほどまで夫が食事に使っていたナイフが握られて・・・。
小説は、女たらしのオスィピンを頼りに逃亡を図ったウィニーの末路を含め、あっけない幕切れとなる。最終幕でプロフェッサーとオスィピンとのやり取りが興味深い(注)。
(写真は上が、グリニッジに遊覧船で向かうため、テムズ川沿いのエンバンクメント駅に行くと、近くの公園でアメリカ・ヴァージニア州から来た高校生たちが管楽器の演奏を披露していた。下は、演奏を聴きながら食べたブランチの「寿司弁当」。「レインボースシ」という名前が付いており、味噌汁を付けて約1100円。味はまあまあだった)
ジョセフ・コンラッド(Joseph Conrad)②
- 2012-07-19 (Thu)
- 総合
ヴァーロックと大使館のウラジミール一等書記官とのやりとりが興味深い。一等書記官はヴァーロックが全然「任務」を果たしていない、怠惰極まりないと非難する。「イングランドを覚醒させる必要がある。イングランドの愚鈍なブルジョア階級は彼らの敵が暗躍しつつあることを全く認識していない。イングランドの中産階級は愚かである。彼らを覚醒させ、彼らの敵を取り締まる必要性を認識させる必要がある」と。ウラジミールにとって帝政ロシアを維持していくには、帝政打倒を目指している反体制派を一掃する必要があった。イングランドの人々をロシアの反体制派摘発に向かわせる必要があった。
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必要なのは、行動だ。ヴァーロックが食い込んでいるアナーキストたちをけしかけ、イングランドの社会構造の土台を揺るがす行動だ。ブルジョア、中産階級を震撼させる最も効果的な行動は何か。それは「天文学」(astronomy)をターゲットにするテロだ。ウラジミール一等書記官はグリニッジ天文台(Royal Greenwich Observatory)を破壊することを求める。“The whole civilized world has heard of Greenwich. The very boot blacks in the basement of Charing Cross Station know something of it.”(文明社会に住む人々であればグリニッジ天文台のことは耳にしたことがあるだろう。チャーリングクロス駅の地下の靴磨きの黒人だってそれぐらいは知っている)
ヴァーロックの家はテロリストや同調者たちが集う場となっていることが分かる。メンバーは、今は仮出獄許可状で自由の身となっているミカエリスや、ドクターと呼ばれる元医学生で女たらしのアレクサンダー・オスィピン、自分自身をテロリストと呼ぶ歯の抜けた老人カール・ユントなど。ミカエリスは私有財産に基づく現在の経済社会が早晩、プロレタリアートによる革命などで自壊すると信じている。これに対し、ユントが言う。
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“I have always dreamed of a band of men absolute in their resolve to discard all scruples in the choice of means, strong enough to give themselves frankly the name of destroyers, and free from the taint of that resigned pessimism which rots the world. No pity for anything on earth, including themselves, and death enlisted for good and all in the service of humanity—that’s what I would have liked to see.”(「私は、手段が何であれ良心の呵責など捨てる強い決意を抱き、面前で破壊者と罵倒されようと歯牙にもかけない強さを持ち、世界を腐敗させる悲観主義に毒されることもない、そんな男たちが登場することを夢見てきた。自分たち自身を含め、地球上のあらゆるものに手加減することなく、死ぬことを選択することは善であり、人類に広く貢献すると信じる、そんな一群の男たちが現れるのを見てみたいと考えてきた」)
このくだりを読んでいて、爆死することで天国が約束されていると信じて自爆テロ行為に走る現代のイスラム教徒の若者のことが頭に浮かんだ。彼らには無垢の人々の命を奪うことへの罪悪感はない。小説ではさらに上記の登場人物たちの独善性が描かれる。(注)
(写真は上が、グリニッジの玄関「ディスカバリー・グリニッジ・センター」。旧グリニッジ王立天文台は一時閉鎖中で近寄ることができなかった。下は、近くのテムズ川で威容を見せるイギリス海軍の揚陸艦「オーシャン」。オリンピック期間中、警備に当たるヘリや海兵隊の基地となる)
ジョセフ・コンラッド(Joseph Conrad)①
- 2012-07-18 (Wed)
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英国は今、間近に迫ったロンドンオリンピックの警備・治安対策の不手際がメディアを賑わせている。警備を担当する民間警備会社の要員が足りないことが最近になって判明し、軍兵士や警察官を急遽動員する緊急事態になっているからだ。
五輪を控えたこの時期にぜひ取り上げたいと考えていたのが、ジョセフ・コンラッドが1907年に刊行した小説 “The Secret Agent” (邦訳『密偵』)だ。コンラッドは1857年に当時のロシア領(現在のポーランド)で生まれ、英国に帰化した。その重厚な文体などから「英語のドストエフスキー」との評もある作家だ。アフリカに親しんだ私にはアフリカを舞台にした作品 “Heart of Darkness” (邦訳『闇の奥』)が印象に残っている。
“The Secret Agent” を最初に読んだのはいつだったか良く覚えていない。アメリカが標的になったあの2001年の9・11の前だったか後だったか。どちらにしても、最初に読んだ時は現代の時代との差異あるいは類似点を特に意識して読んだとは思えない。今回、この旅にこの本を含めようと再読して驚いた。私が再読した原書の序文は、現代のテロ問題の専門家が書いていた。専門家はその中で、この小説の「現代性」を指摘し、小説に描かれている内容はあの9・11テロと比較すべくもないが、犯行に関わる人物、及び周辺にうごめく関係者の心理状態や背後関係の描写は、21世紀の現在のテロリズムを考察する上でも大いに参考になる書と称賛していたからだ。100年前に刊行された小説がだ。
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その専門家の見解は概ね次のようなものだった。宗教対立を背景にした「聖戦」であれ、人種的少数派の決起であれ、現実にテロに身を投じる実行犯にはそれぞれの生い立ちがあり、家族がある。テロ組織がテロの実行犯としてリクルートするのは社会からの疎外感を抱いていたり、生きがいを見出せない若者たちだ。社会がより豊かになるにつれ、脆弱性も増している。“The Secret Agent” ではそうした側面が良く描かれており、現代に住む我々は疎外感を抱いた人々が社会に牙をむく危険性を十分認識して生きなくてはならないと。
作品の冒頭に描かれるのはロンドンのうらぶれた通りにある商店。普通の商店ではない。客がコートの襟を立てて入店してくるようなポルノショップだ。私も覚えがあるようなないような。商店主は太った中年男のアドルフ・ヴァーロック。だが、彼には裏の顔があり、とある大使館、いやはっきり言えば、当時の帝政ロシアの大使館に極秘の諜報員として雇われている。本文中では ‘agent provocateur’ と表現されている。私が買った原書には末尾に注が付いており、それには以下のように記されていた。
(French) an agent planted by the police whose purpose is to provoke the infiltrated group into overt criminal activity. ({フランス語}反政府グループなどの組織に入り込み、彼らを犯罪に煽り立てるように警察に雇われた秘密情報員)
(写真は上が、ロンドンの新聞が報じているロンドン五輪の警備対策問題。「雨降って地固まる」になればいいのだが。確かに「雨」だけはうんざりするほど降り続けている。ケント州のカンタベリー博物館に設けられていたコンラッドのコーナーで見かけたコンラッドの胸像。ケント州で暮らしたコンラッドはカンタベリーの墓地で眠っている)
4万9千語のギャッツビー劇
- 2012-07-17 (Tue)
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ケンブリッジに移動したばかりだが、ロンドンでぜひ観たいと思っていた劇がそろそろ最終公演を迎えることを知っていたので、ウエストエンドの劇場街に向かった。
ノエル・カワード劇場で公演されていた “Gatz” だ。あの “The Great Gatsby”(邦訳『偉大なるギャッツビー』)(注)の「劇場版」だ。凄いのは、原作4万9千語の「一言一句」をすべて舞台で「読み上げる」公演だったこと。昨年アメリカを旅していた時、この劇のことは知っていたが、ニューヨーク(NY)での公演は既に終了していた。
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劇団はNYを本拠地とするユニークな名称の Elevator Repair Service(ERS)。「エレベーター修理業務」と訳すわけにもいかないから、「エレベーターリペアサービス」か。
公演開始は午後2時半。終了するのは午後10時45分。途中1時間半の夕食休憩、2回の小休憩が入るものの、「拘束時間」で言えば8時間に及ぶ長さだ。演じるのも大変だろうが、観る方もスタミナが必要。
ロンドンに到着した直後に、主演の語り手の青年ニックを演じるスコット・シェパード氏のインタビュー記事を読んでいた。彼はこの小説をすべて暗記しているという。確かに暗記していないと、あれだけスムーズに「読み上げる」ことはできないだろう。劇はシェパード氏が演じる会社員の男が出社して、仕事に入る前に机の上で目にした古びた小説を何気なく読み始めるところから始まる。男は次第に小説に熱中していき、遅れて登場する同僚たちも小説の中の登場人物たちとなって、小説が描く物語を織り成していく。
ERSによると、当初、原作に「手を入れる」ことも考えたが、フィッツジェラルドの名作はそうした「介入」を厳然と拒むほど完成しており、原作を「生」で聴衆に「提供」する策を選択したのだという。
物語の舞台は第一次大戦を経た1920年代のアメリカ。ジャズエイジとも称され、アメリカが未曽有の繁栄に酔った時代だ。そうした時代の「お金さえあれば」「自分さえ良ければ」といった雰囲気が、原作に沿った役者の巧みな演技で醸し出されていた。例えば、ニックが恋心を抱いていた自己中心的な女性、ジョーダンに「君の運転はひど過ぎる。もっと注意深く運転するか、さもなければ運転はあきらめなさい」と諭す場面。ジョーダンは「心配ご無用。事故を起こすには二人の軽率なドライバーが必要よ。私と異なり、他の人たちは注意深く運転しているから」と一蹴する。こうした愚かな無責任さは21世紀の今も、アメリカのみならず多くの国々を傷ませている病巣かもしれない。
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私のような英語のノン・ネイティブには大変疲れた劇だったが、終演時には劇場内には公演に「耐え抜いた」喜びがあふれていた。きちんと三度のカーテンコールで出演者の熱演をねぎらった。日本の名作でこのような公演が可能なのはどの作品だろうかと私は思っていた。「こころ」とか「明暗」とかの夏目漱石の作品ならば十分、こうした鑑賞にも耐えられるのではないだろうかなどと。
(写真は上が、公演が始まる前は結構好天だった。下が、公演が終わり外に出ると、例によって肌寒く小雨がぱらついていた)
ケンブリッジ着
- 2012-07-16 (Mon)
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イングランド南部の旅をひとまず終え、ロンドンに戻った、と書きたいところだが、オリンピックを控えて、ロンドン周辺のホテルやゲストハウス(B&B)の値段が跳ね上がっていそうなので、北に向かい、ケンブリッジに来ている。
「来てしまった」というのが正直なところだ。ずっと昔に一度だけ訪ねたことがあり、ロンドンからそう遠くない印象があったのだが、思ったほど近くはなかった。特急列車に乗ればロンドンから50分足らずの距離だから、東京なら八王子のような「感覚」だが、往復切符が約20ポンド(約2800円)。毎日この列車代でロンドンに向かう気にはなれない。
ロンドン周辺のホテルは極端なケースだと、比較的安い一泊90ポンドのホテルでも、オリンピック期間前後は2倍になるとかの話も耳にしていた。私が到着以来、常宿にしていたロンドン郊外の町、ヘイズ(Hays)にあるゲストハウス(一泊45ポンド)では、愛想のそう良くない経営者のマダムが「オリンピックが近づいたら、宿代上げるよ。いくらにするかはこれから考える。値段が上がるのはうちだけではないから、あんたはその間、田舎でも旅していた方が得策ってもんだ」といった感じのことをのたまっていた。
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そんなわけでネットで安宿を検索していて、ケンブリッジまで「来てしまった」。まあ、毎日ロンドンに行くわけでもないし、読まなくてはならない本もあるから少しの間、ここを「足場」としよう。そう思っていたら、近く書く予定の作家がここケンブリッジに深い縁のあることを知った。「これもProvidence(神のお導き)かも」と考え始めている。
第一、ケンブリッジと言えば、オックスフォードと並ぶイングランド屈指の文教の都市だ。ヴァージニア・ウルフの項で紹介したボヘミアン的雰囲気の知的集団「ブルームズベリー・グループ」もケンブリッジ大学の卒業生が中核だった。
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振り返って、イングランド南部の旅はこれまでほとんど接したことのない英国の姿を見ることができて実りあるものだった。誤解を恐れずに書けば、イングランド南部は圧倒的に白人のイングリッシュの人たちが住む地域だった。黒人やアジア系、北アフリカ系の人たちを見かけることは稀だった。ロンドンやその周辺と大きく異なる点だ。例えば、ヘイズでは町を歩けば、大多数の住民は黒人やインドを中心としてアジア系、北アフリカ系のいわゆる「マイノリティー」(社会的少数派)の人々だ。同じ国とは思えないほど目にする光景が異なっている。
ヘイズではそうした多様なイングランド人、あるいはその一歩手前の移民の人たちが一見「穏やか」に暮らしている。微妙な「住み分け」がなされているのかもしれない。当然のことながら、人種間の確執・軋轢はあるだろう。しかし、英国がヨーロッパ大陸の国々に比べれば、途上国からの移民への排斥の動きがそう激しくない国であることも事実だ。それは極右の政党がこの国で台頭していないことを見ても理解できる。もちろん、表面の穏やかさの下に危険な「マグマ」は潜んでいるのだろう。私はまだ今回の旅ではそうした「マグマ」にはまだ接していないが。
(写真は上から、オリンピックが近づき、一段と活気付いた感のあるロンドンのビクトリアステーション。ケンブリッジ中心部の公園。ケンブリッジの観光名所、ケンブリッジ大学のキングズカレッジのチャペル正門)
ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)④
- 2012-07-13 (Fri)
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“To the Lighthouse”(邦訳『灯台へ』)に出てくるラムゼー夫人は美しい女性だ。モデルとなったヴァージニアの母親もそうだったのだろう。ラムゼー氏の弟子は、自分が会った中で最も美しい女性であると考えていると述べられている。夫人がこの時、齢50を超え、8人の子供(現実には7人)を生んだ女性であるにもかかわらずだ。
長編とは言えない小説だが、これも読破するのに少し苦労した。これといった出来事が起きるわけではない。「意識の流れ」の手法で、登場人物の心理状態が淡々と綴られていく物語だ。しかも、そうした「語り手」が次々に変わっていくから、整理するのが「忙しい」。冒頭の灯台行きは結局天候が悪くジェイムズ少年の夢は叶わない。それから第一次大戦をはさみ10年ほどの歳月が流れる。ラムゼー夫人は急死したこと。長男のアンドルーはヨーロッパ戦線で戦死、長女のプルーも結婚後、出産で死亡したことなどが明らかにされる。そして再び、灯台を臨む別荘に生き残った登場人物が集う。
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登場人物の一人、リリーはラムゼー氏やジェイムズたちが灯台を目指し波に揺られている間、ラムゼー夫人がいなくなり寂しい別荘で夫人のことを回想しながら、10年前に完成することのできなかった絵画のキャンバスに向かっている。彼女の視線の先にはあのころの夫人が佇んでいる。リリーは夫人がもはや口を利くことができない世界に行ってしまったことを嬉しくさえ感じる。人間関係ってそもそも何だろうか。我々は一体誰であり、我々が感じていることを理解することは可能なのだろうか。どれだけ相手と親しくなったとしても、お互いを理解することがそもそもありうることなのだろうか・・・。
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リリーも今や44歳。キャンバスに向かいながら、物思いにふける。人生の意味って何だろう。知りたかったのはただそれだけの単純な疑問だった。年を経るごとにより身近になった疑問だが、啓示が現れることはなかった。そんなものが人に現れることはこれまでもなかったのだろう。リリーはラムゼー夫人がかつて語った言葉を思い出す。”Life stand still here.”(ここでは時の流れが止まっているのよ)。そう、今ここには空を流れる雲も風に揺れる木の葉も心を不安にさせるものではない。リリーは「奥様(ラムゼー夫人)、奥様」と叫びながら、夫人に感謝の念を捧げる・・・。
小説の中で英国の料理に関する「自虐的」な記述(注)があって印象に残っている。ヴァージニアは実際に会っていたとしたなら、ユーモアあふれる女性ではと思ったりもした。
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モンクスハウスには車でも行けるが、私はルイスからウーズ川(River Ouse)に沿った散策路を歩いた。時折ジョギングしている数人の地元の人とすれ違うほかは、風の強い「孤独」な小道がずっと続いた。1時間半ほど歩いて、ようやく到着。ウーズ川はヴァージニアが持病とも言える「精神病」を憂えて、59歳の若さで入水した川である。このところの雨のせいか、決して澄んだ水とは呼べなかったが、水量豊かな川の流れだった。
(写真は上から、ルイスからモンクスハウスへの散策路の光景。流れる川はウーズ川。気持ちの良い散策が楽しめたが、案内標識が皆無なので、途中から正しい右折路を見つけるのに一苦労。右折すると、牛の群れと出くわした。ここまで来ればもう少し先が目的地)
ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)③
- 2012-07-11 (Wed)
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ヴァージニアが姉のヴァネッサに抱いた思慕の念がすさまじい。ヴァージニアは夫のレオナルド(批評家)も敬愛しているが、「ヴァネッサの最初の子供は私」と考えるほど、わずか二つ年長の姉を母親のように慕っていた。
この二人の濃密な関係は二人が育った時代背景、家庭環境を含めて考える必要があるようだ。当時は女子が男子と同じように高等教育を受けるのはまだ時期尚早の時代であり、二人は兄(弟)のトビーがケンブリッジ大学で教育を受けるのを忸怩とした思いで見守ったとある。また、厳格で自己中心的な父親に対する強烈な反感もあり、特に繊細なヴァージニアには姉の庇護がオアシスのような癒しだったと言われている。
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1927年に刊行された代表作の一つで、自伝的要素の強い小説と言われる作品 “To the Lighthouse”(邦訳『灯台へ』)を読んでみた。
小説の舞台はスコットランドのスカイ島。冒頭のシーンは灯台を望むラムゼー家の別荘で、ラムゼー夫人と6歳になる男の子供、ジェイムズとの会話から始まる。明日が好天だったら、灯台に行けることでしょうよ、と夫人はジェイムズに語る。ジェイムズはこの灯台行きをずっと楽しみにしていたようだ。しかし、続いて登場する父親の哲学者のラムゼー氏は、いや、天気は悪いだろうから、灯台行きは無理だと水を差す。ジェイムズは自分が今もし斧や火かき棒でも手にしていたなら、父親を刺し殺すのにと心の中で思う。父親とジェイムズを始めとする子供たちのただならぬ緊張した関係がうかがえる。
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実人生でのヴァージニアの同性愛志向もよく指摘されている。確かに、彼女は結婚後に深く愛して、親しく付き合った女性が数人いたようである。だが、彼女が夫の元を去ることはなかった。この点については、私はジェイン・ダン氏が1990年に著したヴァネッサとヴァージニアの伝記本 “A Very Close Conspiracy Vanessa Bell and Virginia Woolf” の見解を採りたいと思う。次のような記述がある。
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Vanessa was so central to her life, so closely implicated in her survival, that Virginia never managed to separate fully from her. It is against this emotional background – the hunger for the absent mother, the vesting of all her passionate feelings in Vanessa, the longing to become one again with the beloved – that Virginia’s relationships with other women must be placed. (ヴァネッサはヴァージニアの人生にとって中枢を占める存在だった。自分が生存する上で欠かせない存在だった。ヴァネッサなしに彼女の人生はあり得なかった。ヴァージニアが母親に代わる愛情の対象を渇望したこと、ヴァネッサがかつてそのような対象であったこと、彼女が最愛の人と一体化したいという憧れを抱き続けたことは、こうしたヴァージニアの感情的傾向を背景に考える必要がある。ヴァージニアのその後の同性との関係はそういった観点からとらえられるべきである)
(写真は、ヴァージニアが暮らしたモンクスハウス。落ち着いた雰囲気のリビングルーム。彼女の寝室。大きな窓から温もりのある陽光が差し込んでくる明るい部屋だった。姉のヴァネッサがヴァージニアを描いた肖像画。1912年の制作)
ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)②
- 2012-07-11 (Wed)
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ヴァージニアとヴァネッサ。二人の写真を眺めてみる。二人とも美人である。周囲の見立ては2歳年下のヴァージニアの方がより美人だったということになっていて、特に才気煥発のヴァージニアには初対面の男たちはたちまち魅了されたらしい。
父親は『英国人名事典』の執筆で知られた歴史家、作家。母親も名家の出で、ともに再婚、ヴァネッサとヴァージニアは二人の再婚後にできた4人兄弟(姉妹)の長女、次女として誕生。二人が再婚する前に兄が二人、姉が二人いた。ヴァージニアから見れば、二人の義兄とは10歳以上も年齢が離れており、彼女は少女時代にこの兄たちから生涯忘れることのできない性的凌辱を受けていることが明らかになっている。憂いを含んだ眼差しはこうした体験に起因するのかもしれないと私は思ったりした。
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文学に造詣の深い血筋で、ヴァージニアは文学に走ったが、ヴァネッサは絵画に志した。最愛の母親の次に、厳格な父親を失い、1904年に二人はずっと育ってきたロンドンの賑やかなケンジントン地区からブルームズベリー地区の新居に引っ越す。この新居に二人の姉妹の間にいた長男のトビーのケンブリッジ大学の友人たちが毎週木曜日夜に集うようになり、ブルームズベリー・グループが誕生した。ボヘミアン的雰囲気の集まりで、男の多くは当時の社会ではタブーとされていたゲイ(同性愛)志向だった。
最初に訪ねたチャールストンは残念ながら、内部は写真撮影厳禁。時間が経過した今、何を見たのかさえ、記憶があやふやになる。この家はヴァネッサと夫のクライブとの間にできた幼子2人に、ヴァネッサの恋人のダンカン・グラント(画家)、その二人の間で生まれた娘も一緒に住み、グループの多くの仲間が寄居するようになった。
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チャールストンを見学しながら、ここのかつての住人たちの人間関係が複雑で頭を悩ましていると、親切な係りの人が “Bloomsbury relationship tree” という一枚の紙をくれた。主要人物の夫婦、親子、友人、恋人、ゲイの相関関係が網羅してある。ヴァネッサは夫公認でダンカンに惚れ切っていた。ゲイのダンカンを手元に引きとめるために、ヴァネッサはあえて、彼のゲイの恋人もこの家で同宿することも厭わなかったという。
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ヴァネッサは夫のクライブとの関係を維持したまま、終生、ダンカンへの恋心を貫いており、その点では一途な女性だったのだろう。ヴァネッサがダンカンとともにこのファームハウスでキャンバスに向かっているひと時はヴァージニアが嫉妬するほど、仲睦まじき二人だったようだ。二人が壁画を手がけた少し遠くのベーリック教会にも足を運んだ。第二次大戦中の1940年代に二人が手がけた壁画だ。村の小さい教会で、入場自由。誰に気兼ねすることもなく、というか、ひっそりした教会内には誰もおらず、心行くまで石膏ボードに描かれた壁画を堪能した。イングランド本土がドイツ軍の爆撃にさらされている大戦中にこうした壁画が描かれ、教会堂に掲げられたのは、さすが英国と言うべきか。
(写真は上から、チャールストンでの相関関係を示した紙。ベーリック教会。ヴァネッサが描いた「受胎告知」の壁画。マリアのモデルは自身の娘。続いて「キリスト降誕」の壁画。背景に地元の風景、登場人物も地元の村人たちをモデルにしているユニークさだ)
ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)①
- 2012-07-10 (Tue)
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イギリス文学を語る上でヴァージニア・ウルフを抜きにしてはいけないのだろう。1882年にロンドンに生まれ、1941年に病苦により自死を選んでいる。彼女は姉の画家ヴァネッサ・ベルとともに、20世紀初めに英国で話題となったボヘミアン的雰囲気の「ブルームズベリー・グループ」の中心的人物だった。
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「ブルームズベリー・グループ」(Bloomsbury group)。私の電子百科事典には「1907年ごろから30年ごろまで主知的傾向の強いケンブリッジ大学出身者を中心とする作家、芸術家たちのグループで、ロンドンの高級住宅地であるブルームズベリーにあるヴァネッサとヴァージニア姉妹の家に集ったことに由来する呼称」と紹介されている。
初期のブルームズベリー・グループはヴァネッサの結婚、転居や第一次大戦の勃発などがあり「自然解消」するが、ヴァネッサとヴァージニアがやがてイングランド南部エセックス州に本拠地を移したこともあり、エセックス州の片田舎が後期のブルームズベリー・グループの「拠り所」となる。
私は今、そのエセックス州の小都市ルイス(Lewes)に来ている。ルイス近郊にブルームズベリー・グループにまつわる幾つかのゆかりの場所がある。
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まず一つはチャールストン(Charleston)と呼ばれるファームハウス(農家)だ。この家はヴァネッサが恋人の画家、ダンカン・グラントと住んでいた。この家がエセックスでのブルームズベリー・グループの拠点となった。ヴァネッサが転居してきたのは1916年。もともと妹のヴァージニアが近くに転居してきていて、これなら姉は絶対気に入るはずと目をつけた家だった。1916年と言えば、英国は第一次大戦真っ最中。ダンカンは「良心的兵役拒否」(conscientious objection)から農作業従事を余儀なくされ、それに打って付けの農村だった。
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事実、ヴァネッサはここが気に入り、1961年に死去するまでこの家に住み続けている。現在は独立組織のチャールストン・トラストが管理する歴史的建造物となっている。
もう一つはモンクスハウス(Monks House)と呼ばれる、ヴァージニアが暮らした家。(実際の発音に従えば、「マンクス・ハウス」と記すべきかもしれない)。ヴァージニアもこの家で生涯を過ごしている。この家は全国組織のナショナル・トラストの管理下に置かれている。二つの家は車があれば、たいした距離ではないだろう。ヴァージニアは気が向けば気ままに姉のところに歩いて行ったのではと思われる。私はルイスのB&Bからからチャールストンには路線バスで、モンクスハウスにはウーズ川(River Ouse)に沿った散策路を歩いて訪ねた。
二つの家を訪ねて、姉妹がこの家を好んだ理由はすぐに理解できた。今なお、都市部の喧騒からは程遠い静寂さに包まれた家だ。この地でそれぞれ、姉のヴァネッサは絵画に、妹のヴァージニアは小説執筆に専念できたのだろう。
(写真は上から、何だか伸びやかなルイスの街。週末の広場でキリスト教会の人たちがチャリティー活動で歌を披露していた。チャールストンのファームハウスの外観と庭園)
バイオダイナミック農場
- 2012-07-08 (Sun)
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ドーチェスターから西に路線バスで約30分走ったところにあるウインターボーン・アッバスという名の村にあるゲストハウスでこの数日間寝起きした。雨模様の天気が続き、ドーセットの名高い丘陵の景観を楽しむといった風情ではなかった。
幸いなるかな、明日でお別れという日にゲストハウス近くの農場を訪れる機会に恵まれた。近くのパブで毎夜、ギネスビールと食事をしていた折、農場を営む夫妻に出会った。イアンとデニース。私と同じ世代ということもあって、話が弾んだ。「暇があったら、農場にお出でなさい」と誘われた。翌日はドーセットに来て以来、初めて晴れの天気。
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イアン夫妻は15年以上、 “biodynamic farming” と呼ばれる究極の有機農法で農場を手がけている。農薬や肥料といったものは一切使用しない。自然が含んでいる栄養素、治癒力を最大限に生かして農作物を作り、家畜を養うのだという。「スーパーの棚に並んでいる肉類をごらんなさい。まるでベルトコンベアーで出て来た車や電化製品の部品のようだ。家畜も劣悪な環境で飼育されている。そうした肉が美味いわけがない」とイアンは力説する。
イアンは農場経営に乗り出す前はロンドンでその名を知られた美容師だった。デニースはインテリアデザイナーだった。普段自分たちが口にしている肉類のまずさに思い至り、これなら、自分たちで理想とする農場を経営しようということになった。
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ドーセット州で営む農場は80エーカー(32ヘクタール)。牛や豚、羊などを飼育している。肥料は家畜の糞に選別した草をまぜ、1年間放置して「醸成」する。「ブタを例に取れば、普通の農場では約4か月の飼育で食肉として供されている。私の農場では2年間ゆっくり時間をかけて飼育する。ストレスをかけないよう広いスペースでのびのびと飼育する」とイアン。
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彼はこの独特の農場経営をドイツの著名な思想家、ルドルフ・シュタイナーの教えから学び、実践している。「現代社会の大量生産、便利さ志向は間違っていると確信している。簡素に生きた先人や自然界から学べることは沢山ある。天空から大地からバイタリティーを得て、それをまた自然界に戻す」とも語り、彼はバイタリティーという言葉を何度も強調した。お土産に農場のブタから作ったソーセージと鶏卵2個をいただいた。「これを食べれば、他のソーセージとの味の違いが分かるはず。これでイングリッシュブレックファーストにすれば、一日働くエネルギーが漲るから」と二人に言われた。
お土産をナップザックに入れ、ゲストハウスに歩いて「帰宅」。約1時間10分の歩き。この一帯は何しろ、道が狭く、歩道もない。対向してくる車にはねられないよう気をつけながら歩いた。いや、日本もそうだが、田舎を歩くのは気分が晴れる。天気さえ良ければ。
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ドーセットを去る朝、行きつけのパブに出かけ、前日お願いしていた、「持参」のソーセージと鶏卵を使ったイングリッシュブレックファーストを食した。なるほど、ソーセージは風味があり、歯応え十分の味わいだった。
(写真は上から、農場の牛。イアンとデニース。農場がある村には道路から少し横道に入ると、こんな滝も。こういった感じの丘陵がずっと広がっていた。特製イングリッシュブレックファースト)
トマス・ハーディ (Thomas Hardy) ④
- 2012-07-07 (Sat)
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ドーセット郡博物館の展示で気づいたのは、ハーディが自分の本分を小説家としてよりも詩人と見なしていたことだ。ハーディは次のように語っていると紹介されていた。
“In verse is concentrated the essence of all imaginative and emotional literature.” (詩においてこそ、すべての創造的かつ心を動かす文学の真髄が宿っている)
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トマス・ハーディ協会の会長であるトニー・フィンチャムさんに話を聞く機会があった。フィンチャムさんはハーディに関する著書もあり、ケント州で開業医をしている。
「彼は小説だけでなく、多くの詩も書いているのですね?」
「その通りです。彼は英国人の中でも19世紀の偉大な小説家として見なされていますが、実は偉大な詩人でもあるのです。生涯で900編以上の詩を書いています。彼の詩は一つをのぞいて1900年以降に発表されていますから、彼は20世紀の偉大な詩人とも呼べると思います」
「小説と詩という二つの異なる分野で業績を残しているわけですね」
「そういうことです。そういう作家は数少ないと思います。彼はもともと詩作に専念したかった。だけど、最初の作品が全然評価されず、見切りをつけました。それなら、小説で稼ごうと。1890年代に書いた小説『テス』や『日陰者ジュード』がヒットし、経済的余裕ができて始めて本来の詩作に励むことができるようになったのです。英国でも多くの人が彼を小説家として記憶していますが、彼の詩は現実には後世の多くの詩人に多大なる影響を及ぼしています」
「彼は二度結婚していますが、子供はいませんね」
「そうですね。彼は長男として生まれ、妹が二人に弟が一人いましたが、母親は子供たちに結婚などしないで、兄弟と姉妹が男女二組のペアになって仲良く暮らすように勧めたそうです。その教えを守ったのか、妹弟は一生独身で通しました。トマスだけが母の教えに背いたことになります。結果として、作家の直系の子孫はいないということです」
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ハーディの詩の「触り」でも味わおうと、博物館で手頃な詩集を買い求め、読んでみた。私はどうも詩は苦手で、ほとんど詩集というものを手にしたことがない。言葉を「凝縮」した世界が私の能力を超えていると思えてならない。だが、ハーディの詩は平易な表現で読みやすいと感じた。例えば “One We Knew” と題された詩。この詩は少年ハーディが一歳年下の妹と暖炉に座り、祖母が語る昔話に耳を傾けた時のことを描いた詩であるという。祖母の話に聞き入る兄妹の光景が目に浮かぶようだ。ハーディはドーセット地方の「歴史」への関心と「語り」の魅力をこの祖母から受け継いだのだろう。
その詩は「続き」の欄で紹介。きれいに脚韻がある詩だ。自分の力量の及ばないことは承知の上で、俄仕立ての拙訳も掲載。
(写真は上から、ハーディが1885年から死去するまで暮らした家。マックス・ゲイト(Max Gate)と呼ばれ、ナショナル・トラストの管理する歴史的建造物として、一般公開されている。リビングルーム。暖炉と上の鏡は当時のままだとか)
トマス・ハーディ (Thomas Hardy) ③
- 2012-07-05 (Thu)
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クリムが地元の子供たちの教育に尽力したいという気持ちはしかし、村人たちにはあまり歓迎されなかったようだ。エグドン・ヒースで汗を流す農家の人々は “Ah, There’s too much of that sending to school in these days! It only does harm.”(近頃では子供たちを学校にやるのが流行っているようだが、困ったものだ。害になるだけのこった!)と嘆くばかり。ヨーブライト夫人にしても息子が田舎でくすぶるよりもパリで成功してくれることを望んでいた。田舎の教育なんてものは大学にまかせておけばいいと諭す。これに対し、クリムは答える。“Never, mother. They cannot find it out, because their teachers don’t come in contact with the class which demands such a system.”(母さん、違うよ。大学なんてものには僕らのことは分からないよ。大学の教師なんて教育が必要なここらの社会階級の人たちに会うなんてことないんだから)
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教区の学校などできちんと教育を受けていたとはいえ、高等教育からは無縁の世界で生きた作家の洞察なのだろう。「一隅を照らす」ことを欲するクリムの考え方に共感を覚えるのは私だけではないだろう。
主要登場人物は既述のように6人に過ぎない。そのうち、3人がきわめて不幸な死を迎える。ヨーブライト夫人は息子のクリムとユスタシアの結婚を境に息子夫婦と疎遠になり、最後には自ら息子夫婦の家に出向いて和解を模索するが、それも果たせず、ヒースに棲む毒蛇にかまれて失意のうちに他界する。ユスタシアは最後にはワイルディープと駆け落ちすることを企図するが、漆黒の夜、川にはまり死亡する。ワイルディープとクリムも彼女を助けようと後を追い、クリムだけが助かる。助かったクリムは巡回布教師となって生きる。悲劇を描いた小説と言うべきなのであろうが、私はなぜか爽やかな読後感を覚えた。
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ところで、ドーチェスターに着いて以来、足を運んでみたいと思っていた場所があった。ハーディが惚れ込んだエグドン・ヒースだ。何人かの人に尋ねてみたが、どうも答えがあやふや。ようやっと、作家が生まれたコテッジがある地だということを知った。作家の生家はドーチェスター中心部から東に向かう。バスの便もなく、歩いて行こうかと思ったが、かなりの距離があること、それにドーチェスターは到着以来、ずっと雨模様の日々。それで致し方なくタクシーに乗って向かった。車窓から見る限り、途中から歩道が消えた。車道にしても、対向車とすれ違うのに一苦労するほど狭い道だった。これはいくら何でも徒歩には無理だ。タクシー代金は約7ポンド(約千円)。
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また蛇足が長くなった。作家の生家は一見に値した。1800年建築の二階建てのひっそりした古民家がそのまま残っていた。この家もナショナル・トラスト(National Trust)が管理する歴史的建築物の一つ。ハーディはこの家で34歳まで暮らした。彼がこよなく愛したエグドン・ヒースが二階の小窓から見える。ボランティアのガイドによると、第一次大戦後の植林運動で高木がそびえ、かつてのヒースとはだいぶ趣が異なるという。それでも、手垢に染まっていない自然と家族の温もりの中、作家がのびのびと創作の芽を育んだことが十分伝わってきた。
(写真は上から、作家の生家。暖炉のあるリビングルーム。玄関前のガーデン。エグドン・ヒースのモデルとなった生家の裏手に広がるヒース)
トマス・ハーディ (Thomas Hardy) ②
- 2012-07-04 (Wed)
- 総合
ハーディが作品の「下地」としたのは、彼がその生涯の大半を過ごした現実のドーセット州というよりも、アングロサクソンが築いていた「ウェセックス」(Wessex)という名の古代の王国だったようだ。地名も微妙に異なる。“The Return of the Native” ではドーチェスターはキャスターブリッジ(Casterbridge)とされている。
ドーセット郡博物館(Dorset County Museum)を訪れると、ハーディの生涯の一端に触れることができる。彼は石工を生業としていた家の長男として誕生。特段裕福な家庭ではなかったが、お話好きの祖母や教育熱心な母親の愛情を受けて育てられる。教区の学校に通い、文才を芽吹かせていったのだろう。成長後は建築の仕事に就き、ロンドンで修業もしているが、作家で独り立ちすることを目標とする。
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ビクトリア時代の保守的な社会の風潮は“The Return of the Native” にも良く表れている。純朴な乙女のトマシンが自分を慕う一途な青年ヴェンに対し、彼の恋心をやんわりとしかしきっぱり拒絶する返信の文面が象徴的だ。
“Another reason is my aunt. She would not, I know, agree to it, even if I wished to have you. She likes you very well, but she will want me to look a little higher than a small dairy-farmer, and marry a professional man.”(もう一つの理由は私の伯母です。もし私があなたのことを愛していて一緒になりたいと願ったとしても、伯母は間違いなく反対することが私には分かります。伯母はあなたのことがとても好きですよ。でも、私の結婚相手には小さな酪農夫ではなく、社会的ランクがもう少し上の知的な職業に就いている人を伯母は望んでいるんです)
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これに対し、プライドが高く、エグドン・ヒースでの田舎暮らしが嫌でたまらないユスタシアは自由奔放な少女だ。移り気な青年のワイルディープをもてあそんでいたかと思えば、パリ帰りの好青年クリムに好感を抱く。彼女にとっては、パリ帰りの男は ”a man coming from heaven.”(天から降りて来た人)のように映っていた。19世紀後半の時点でフランスの首都はすでに「花の都」であったようだ。
ところで、サリンジャーの ”The Catcher in the Rye” (邦訳『ライムギ畑でつかまえて』) にユスタシアのことが出てくる。主人公の少年ホールデンは彼女に「好感」を抱いていた。いや、作家サリンジャーがと表現すべきか。モームの『人間の絆』はいい作品だ。だが、モームに電話をかけて話してみたいとは思わない。ハーディ老とは電話で語っていいと思う。ユスタシアも気に入っている・・・などと述べられている(注)。
クリムもユスタシアの美しさに一目惚れする。相思相愛で結婚するものの、二人の間にはやがて溝が広がっていく。ユスタシアはクリムとの結婚でパリでの華やかな生活を手にしたと誤解したからだ。クリムはパリに戻ることは考えておらず、エグドン・ヒースの地元で貧しい村人たちに教育を授けることを目指していることを知り、彼女は落胆する。この落胆が次から次に悲劇を生んでいく。
(写真は、博物館のハーディにまつわる展示品。展示物の中央の女性は作家の最初の妻、その右は2番目の妻。作家が使った書斎も移されていた)
トマス・ハーディ (Thomas Hardy) ①
- 2012-07-04 (Wed)
- 総合
ハーディは1840年の生まれ。英国が世界に君臨したビクトリア時代とぴったり重なる作家だ。1878年に発表された代表作の一つ、“The Return of the Native”(邦訳『帰郷』)を取り上げてみたい。
作品の舞台はイングランド南岸のドーセット州。この本を手にした時はドーセット州がどこにあるか明確には知らなかった。1993年からほぼ3年間、新聞社のロンドン支局に勤務していたとはいえ、英国内をゆっくり旅する機会には恵まれなかった。新聞社の海外支局勤務はだいたいそんなものだ。今回の旅で初めてドーセット州に足を踏み入れた。
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冒頭の章でドーセット州にあるエグドン・ヒース(Egdon Heath)はえも言われぬ幻想的な地であることがつづられている。ヒースは辞書を引くと、「英国の荒野に自生するツツジ科の灌木(かんぼく)の一群」と出ている。私はスコットランドで目にしたことがあるが、イングランド南部でも風物詩的な植生らしい。何しろこのヒースは “the final overthrow” という最後の変化を待つだけの究極的な地らしいのだ。次のような記述がある。
The great inviolate place had an ancient permanence which the sea cannot claim. Who can say of a particular sea that it is old? Distilled by the sun, kneaded by the moon, it is renewed in a year, in a day, or in an hour. The sea changed, the fields changed, the rivers, the villages, and the people changed, yet Egdon remained.(その偉大なる神聖な土地は海洋が主張することのできない古代から続く永続性を有していた。一体誰がどの海洋であれ、その海の古さを証明できよう。海は太陽によって照らされ、月によって見守られ、一年ごとにいや、一日で、いや一時間で真新しいものにされる。海は変わってきた。畑も変わってきた。川もしかり。村もしかり。そこに住む人々も変わってきた。しかしながら、エグドンはずっと同じまま現在に至るのだ)
東日本大震災を目の当たりにした我々日本人には異を唱えたくなる記述だが、ハーディが心の底からこの地を愛していたことが、この一節からだけでも良く分かる。
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この小説も正直読破するのに骨が折れた。主要登場人物は、①エグドン・ヒースに住む上品なヨーブライト夫人②夫人の一人息子でパリ帰りの颯爽とした好青年のクリム③祖父と一緒にエグドン・ヒースに住む気位の高い美少女のユスタシア④クリムのいとこで今はヨーブライト夫人と一緒に暮らす純朴な少女のトマシン⑤トマシンと結婚するもののユスタシアが忘れられない移り気な青年のワイルディープ⑥トマシンに恋心を抱き続け、彼女が危機的局面に直面する度に救いの手を差し伸べる寡黙な青年のヴェンの6人だ。
ヴェンはreddleman として登場する。この言葉に戸惑った。普通の辞書には載っていない。赤褐色の顔料であるreddle「代しゃ」を行商した人のことらしい。羊が交配したことを知るために雄羊の下腹にこの顔料を塗った。交配が行われれば、雌羊の臀部にはこの顔料が付着して、そうでない雌羊と区別できたからだ。農家を回り、行商するうちに自分の着衣を含め、全身頭からつま先まで真っ赤になったので、子供たちには当時、恐怖の対象であったらしい。母親たちは行儀の悪い子供たちに “The reddleman is coming for you!” と言って戒めたと述べられている。イングランド版「なまはげ」か。
(写真は上が、作家の常設展のコーナーがあるドーセット郡博物館の外観。下が、ドーチェスターの街角に立つハーディ像)
ドーチェスター
- 2012-07-03 (Tue)
- 総合
ライからルイスという地を経由して、ドーセット州の州都ドーチェスター(Dorchester)という都市に移動した。ここでドーセット州を舞台にした作品で知られるトマス・ハーディを取り上げるつもりだ。宿はどうにかネットと電話で私にとってぎりぎりの値のゲストハウス(B&B)を見つけることができた。
エセックス州のルイスを出て、約4時間の列車の旅でドーチェスターに到着。とりあえず、ハーディの常設展示がある博物館(Dorchester County Museum)に足を運ぶ。ライで出会った人々には「ドーチェスターに行けば、ハーディだらけのはず。彼らにとってはとても大切な郷土の英雄だから」というニュアンスのようなことを耳にしていた。確かに博物館の展示品や職員の対応などから、ハーディに対する敬意が強くうかがえた。
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生憎この日の天候は雨。しかも肌寒い。半袖のポロシャツだけでは風邪を引きそう。イングランドはこの時期になっても寒暖の差が激しい。初夏と思えば、急に肌寒くなる。今年は特に天候不順とか。さて、夕刻も近づいたので、とりあえず、宿に向かわなくては。聞いていた通り、31番のバスを探し、運転手にバス停を告げて、往復の切符を買い求める。何気なく、「遠いですか」と尋ねると、運転手は「いや、そんなには」という感じの返答だった。
これが遠かった。時間にして30分。住宅街を過ぎて、緑が鮮やかな丘陵地帯を走り続ける。私の郷里に帰ったような感じだった。ここも例によって車内でバス停の表示も案内もない。運転手が私には告げてくれそうな雰囲気ではあったが、果たして。時間の経過とともに、少し不安になっていた。隣の席には年配のご婦人が座っていた。少し声をかけるのをためらっていた。途中で私がさすがに戸惑いを独り言で口にすると、彼女は「心配しないで。あなたの停留所はもう少し先だから」と言う。しまった。もう少し早くから話しかけていたら良かった。
「ゲストハウスに向かっているのですが、いや、こんなに遠いとは思っていなかったもので」「私たち地元の者には何でもない距離ですよ」「いや、私は田舎の出ですから、こんな道は慣れています。むしろ、懐かしいという気にもなっていました」「そうですか。今日は雨模様ですが、晴れていると、とても気持ちのいい道ですよ」「いや、全くその通りでしょ。これから数日間、この辺りに滞在しますので、晴れる日が楽しみです」
上記のような言葉を交わしていたら、ようやく、目指すゲストハウスに到着。初老の夫婦が営んでいるゲストハウスの印象だ。ご主人は私がハーディが目的でドーチェスターを訪れたと知ると、幾つかの古い地図や写真集を取り出して来て、色々と説明してくれる。
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この近辺は小さな村のことゆえ、食事ができるところはすぐ近くにあるパブが一軒だけ。ドーセットの羊がメニューにあった。エセックス州でも車窓からよく羊の群れを見かけた。注文してみる。これがなかなか美味かった。添えてある野菜、ポテトも良かった。値段は安くはなかったが、それでも、英国の「食文化」は確実に向上していると思った次第だ。
(写真は上から、ドーセット州のゲストハウス。パブで食したラム料理)
バトルの古跡
- 2012-07-01 (Sun)
- 総合
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ライ(Rye)から列車でバトル(Battle)という町を日帰りで訪ねた。途中のヘイスティングス(Hastings)駅で乗り換えもあったので時間にして約1時間10分。
ここは一度は訪ねたいと思っていた。その名が示す通り、ここでイングランドの歴史には大きな意味を持つバトルがあった。1066年の「ヘイスティングスの戦い」(Battle of Hastings)。英国人にとってはこの1066年という数字はとても大切な年らしい。 北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドのハロルド王に戦いを挑み、ハロルド王の軍を撃破、イングランドの君主となった。「ノルマン・コンクェスト」と呼ばれる歴史的な事件だ。これにより、イングランドのアングロサクソン時代は終焉し、北欧を「源流」とするノルマン朝が幕を開ける。
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と、私は電子辞書に収蔵されている百科事典をのぞきながら、この項を記しているが、アングロサクソンからノルマンといった辺りは、理解するのは容易ではない。「口をアングリ、思考はサクソウ、気は全然、ノルマン」といった感じだ。百科事典によると、懺悔王とも称されたイングランドのエドワード王が嫡子なく没し、義弟のハロルドが新王となったのだが、同じく血縁関係にあるウィリアムはエドワードもハロルドもかつて自分に王位を約束していたと主張して、イングランドに攻め入ったとか。
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戦いが繰り広げられたバトルの地には征服王(Conqueror)とも称されるウィリアムがその後、カトリック教のバトル寺院(Battle Abbey)を建立。寺院はその後、ヘンリー8世によるカトリック排斥の命を受け解体と相成ったが、修道院などの古跡が古戦場とともに人気の観光スポットとなっている。英語(日本語)の解説テープが聞ける受話器を耳に古跡や古戦場を歩くことができる。ほぼ1千年前、弓矢や鉄剣などで壮絶な戦いが繰り広げられた戦地は今は草木が茂るなだらかな丘にしか見えない。
数千人の両軍兵士らが衝突した戦いは10月14日のわずか1日で終了。北フランスから海峡を越えてきたウィリアム公の軍を、自国で迎え撃つハロルド王が有利な持久戦で臨めば、戦いはハロルド王側が勝利を収めていた可能性もあったと、解説のテープは説いていた。ハンサムで勇猛、臣下の人気もあったハロルド国王の欠点は「性急な」(rash)ところであり、これが最後に災いしたとも。ハロルド王は矢を目に受け、あえなく戦死。
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いずれにせよ、イングランドの歴史はこの日を境に大きく変転。支配者階級の言語はノルマンなまりのフランス語であり、当然のことながら、英語も少なからぬ影響を受けたのだろう。古跡のショップで購入した小冊子の歴史滑稽本では「ノルマン・コンクェストはいいことであった。なぜなら、この時以来、イングランドは二度と征服されることがなく、一流の国となることができたからだ」とイングランド人ならではのユーモアで解説していた。(The Norman Conquest was a Good Thing, as from this time onwards England stopped being conquered and thus was able to become top nation.)
(写真は上から、バトルの町の通り。バトル寺院の古跡、古戦場への入り口。古戦場の跡。かつて教会堂や祭壇があった場所。小学生のグループが見学に訪れていた)







