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英国・アイルランドをさるく

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 「英国・アイルランドをさるく」のブログは終了しました。これから次の新しいブログ「さるくは小休止でござる」を時折アップしたいと考えています。

旅の終わりに

 英国とアイルランドをさるく旅もこれで終わり。ビザがまもなく切れるし、お金のこともある。今回は帰りの飛行機のチケットも日本を発つ前に予約してあった。納豆に味噌汁の朝食も恋しい。この辺りが潮時だろう。今この最終稿をヒースロー空港のロビーでアップしている。
 本当なら、もっとカバーしたい作家もいた。書きたい話題もあった。機会があれば、折を見て紹介したいとは考えている。
 本日(水曜)朝、「ベースキャンプ」にしていたケンブリッジのゲストハウスを出た時、雨上がりですがすがしい感じだった。この程度ならイングランドの秋も悪くないが、これから冷え込んでいくのだろう。夏本番のころは夜10時近くまで明るかったが、このごろは夕刻の6時過ぎには夕闇が迫っている。
 とにもかくにも5か月と少し、陳腐な表現だが、今回の旅もあっという間に過ぎたような気がする。この歳(58歳)になると、何だか、月日の経つのがとても速いような感じだ。同年輩の人には共通する思いだろうか。
 アフリカ、アメリカに続き、英国とアイルランドを訪ね歩き、本人はこれで結構満足している。新聞記者としての「卒業レポート」を書き終えたような心境だ。大学の「卒業論文」と異なり、他から審査されることがないので気は楽だ。
 それにしても、英国を代表するイングランドを中心に歩いて、この国がかくもバラエティーに富んでいることに驚いている。英国は面積では日本と大差ない。イングランドだけなら、当然日本よりさらに小さい国となる。それでも、行く先々で目にした自然の景観、街のたたずまいは優雅で目を見張るものがあった。まさに、ロンドンだけでイングランドを英国を語るなかれである。街のいたるところに日本では考えられないような古い石造り、煉瓦造りの建物が残り、今も一般の商家、住家として機能していた。石造り、煉瓦造りと木造ゆえの差異なのか、地震の少ない国ゆえの差異なのかと羨ましく思ったりもした。
 これで私の海外をさるく旅は終わり。来春からは何か仕事を探して、新しいことにチャレンジするつもりだ。仕事があればの話だが。なければ、宮崎の田舎に引きこもり、野良作業でも手伝って糊口を潤そうかとも考えている。「イソップ物語」で言えば、キリギリスのような人生を歩んできた身としては、秋風が身に染みる。秋風と言えば、11月を前に戻りたかったのはもう一つの理由がある。これまでの旅では冬のど真ん中に帰国していた。虚弱体質の身には寒さがこたえた。風邪にも悩まされた。私は四季の中で「人恋しくなる」秋が一番好きだ。3年連続で日本の素晴らしい秋をやり過ごしたくなかった。
 さあ、これで九州に帰ろう。知力、財力はともかく、気力、体力は有り余っている。また皆さんとこの欄でお目にかかることを願って、ひとまず、休止符を打ちたい。頭の中ではなぜか、「アサンテ・サナ」(asante sana)と「クワヘリ」(kwaheri)というスワヒリ語が浮かんでいる。「ありがとう」と「さようなら」を意味する言葉だ。アサンテ・サナ そして クワヘリ!

ウエストエンド

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 今回の旅で楽しみの一つはウエストエンド(West End)の観劇だった。
 一番好きなのは、ストレートプレイ(straight play)と呼ばれる「歌唱のない一般的な舞台演劇」だ。ウエストエンドでは世界一長く公演しているストレートプレイがある。アガサ・クリスティの推理劇「マウストラップ」(The Mousetrap)。ロンドン勤務時代には日本から友人知人が来ると、この劇を観に連れて行った。久しぶりだったので、粗筋は覚えていたものの、細部は忘れていて、肝心の犯人の目星も怪しいものだった。1952年11月初演というから、延々60年続いていることになる。この辺りは日本の演劇界が逆立ちしてもかなわないかと思う。ただ、一つ気になったのは、役者の演技がかつてほど冴えていなかったような気がしてならなかったことだ。修業中の代役(understudy)のせい?
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 「ブラッドブラザーズ」(Blood Brothers)も何回観たか分からない。これは粗筋も良く覚えているし、特段再び観ようとは思っていなかった。しかし、新聞の劇場欄を読んでいて、10月末でロングランのこのミュージカルが終止符を打つと書いてあった。驚くとともに、それなら、せっかくの機会だから最後の公演を観ておかなくては!
 ロンドン五輪の影響でウエストエンドの劇場はこの夏の客足が落ち込んだともどこかで読んだような気もする。ウエストエンドの一角にあるフェニックスシアターに足を運んだ。
 公演が終わりに近いこともあってか、劇場はほぼ満席のようだった。私の前には地元の高校生ぐらいの年齢の少年少女が大勢座っていた。「ドラマ」の授業の一環で来たとのことで、公演中にノートにメモ書きのボールペンを走らせる少女もいた。
 この劇は、1960-80年代のイングランドが背景になっており、生後すぐに生き別れになった双子の若者及び周辺の人々の悲劇を描いている。貧困ゆえに母親は双子の一人、エディーをメイドとして働いていた裕福な家の子供のいない夫人に、請われるままに「譲渡」する。夫人はこの子供が生みの親やもう一人の双子、ミッキーと出会わないように腐心するが、運命のいたずらか、行く先々で二人の双子は出会ってしまい、意気投合、真相を知らないまま、ブラッドブラザーズ(同志)としての誓いを立てる。エディーは大学に進み、公務員となる。ミッキーはエディーも良く知る幼馴染のリンダと結婚はするものの、犯罪に手を貸したことから転落の人生を歩む。ミッキーは何とか立ち直ろうとあがき、エディーも陰ながらリンダを通して手助けする。エディーの善意をリンダ目当てと誤解したミッキーはエディーの職場に乗り込み、銃を向ける。そこに駆けつけた母親が狼狽の果てに、二人は実の双子だと告げる。結果は無残にも・・・。
 私の前に座っていた女子高生たちはハンカチを濡らしながら観ていた。いつも以上の盛大なカーテンコールだった。これだけ多くの人たちに受けている劇がなぜ終演となるのか? ふと思った。失業や不況、閉塞感は今も英国や欧州全体を覆う大きな問題だ。この劇が訴えている問題の深刻さは何ら変わりはない。劇場にわざわざ足を運ばなくても、それは日々体験していること。客足が鈍っていたのは何も、ロンドン五輪の影響だけでないのかもしれないと思った次第だ。
 (写真は上が、「マウストラップ」の劇場。下が、「ブラッドブラザーズ」の劇場)

サマセット・モーム(Somerset Maugham)④

 モームは1965年に没している。もう少しで92歳の誕生日を迎えるところだった。ロンドンでチャーチル元首相のクレメンタイン夫人を描いた一人芝居を観ていて、チャーチルとモームは生年、没年が全く同じであることに驚いた。二人は面識もあり、前項で紹介した伝記本ではこの二人が仲良く一緒にくつろいでいる写真が掲載されていた。だが、二人の人生には決定的な相違点があった。世界の歴史に名を残す宰相が「自分の人生で最も輝かしい業績は私の妻に結婚を承諾させたことだ」と語るほどの愛妻家だったのに対し、モームの結婚生活は最初からあまり愛情といったものは感じられず、ほどなく作家にとってシリー夫人が憎悪、嫌悪の対象としか見えなくなっていったことだ。
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 モームはすったもんだの末に1929年にシリー夫人と離婚。再び先述の伝記を引用すると、モームは別れた妻について次のように語っていたという。 “She made my life utter hell,” he would say, bitterly referring to Syrie as an “abandoned liar” and the “tart who ruined my life”, and describing her as “[opening] her mouth as wide as a brothel door” in her constant demands for money.(「彼女は私の人生を全くもって地獄にした」とモームはよく語った。彼女のことを「嘘つきの尻軽女」とか「私の人生を駄目にした売春婦」などと口汚く呼ぶこともあった。彼女が常にお金を要求するさまを「彼女の口は売春宿のドアのよう」と表現することもあった)。凄まじい表現だ。愛情のかけらも感じられない。
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 モームは一人娘のライザを可愛がるが、最晩年は秘書も絡んだ財産争いで彼女と醜い法廷闘争を繰り広げる。長年の愛人でもあった秘書が年老いた作家を自由に操った可能性が強いが、世間の評判はこの法廷闘争でがた落ちとなる。文壇の友人たちも彼の元を去って行く。伝記本には最後のロンドン訪問、モームが居住していた南仏からロンドンを訪れ、お気に入りの高級会員制クラブ「ギャリック・クラブ」を訪れた時のことが書かれている。彼が一階のバーに入っていくと、居合わせた全員がピタッと話をやめ、すぐに何人かのメンバーはこれ見よがしにバーから立ち去った。モームは打ちのめされたという。
 私はモームについて、専門家の見解を聞こうと努力はしてみたつもりであるが、不運にもそういう人には巡り合えなかった。大学などでモームのことを研究しているのは稀なのか。彼は生前の文壇でもあまり重く見られることはなかったようである。同時代で言えば、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフたちの方がはるかに脚光を浴びた。それは本人が一番認識していたようでもあるが。
 といっても、彼の影響を受けた作家がいないわけではない。ジョージ・オーウェルはモームを尊敬していたと伝えられる。モームの1世代後に生まれたオーウェルの伝記を読んでいたら、彼がモームの「無駄をそぎ落とした文体」と「語りの力」に引きつけられていたという文章(注1)があった。モームが最も得意とした分野は短編小説。娼婦を善導しようとした宣教師はなぜ自死を選んだのか? 娼婦が大団円で “You men! You filthy, dirty pigs! You’re all the same, all of you. Pigs! Pigs!” と叫ぶ “Rain”(邦訳『雨』)は誰もが認める傑作短編小説だ。私もきっとピッグの一人だろう。
 (写真は上が、モームのキングススクール時代の写真。図書室に展示されていた。イスに座っているグループの右から2番目の少年がモーム。ロンドン・ウエストエンドにある「ギャリック・クラブ」。メンバーの紹介がなければ中に入れない高級クラブ)

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サマセット・モーム(Somerset Maugham)③

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 少年モームはやがてウイッツタブルを離れ、カンタベリーにあるキングススクールに寄宿して学ぶようになる。この学校生活も辛かったようだ。先に述べた「吃音症」ゆえに級友たちや時には教師からもいじめのような扱いを受けていた。興味深いのは、後年そのモームが母校に対する篤志家となって学校施設の改善に尽力していることだ。
 カンタベリー大聖堂を仰ぐキングススクールを訪れた。モームがこの学校に寄宿した時は男子校だったが、今では男女共学となり、13歳から18歳の約800人の生徒が学んでいる。日本で言えば、中学と高校が一緒になったような学校で、この国では紛らわしいがパブリックスクールと呼ばれる私立学校だ。裕福な家庭の子供たちが多い印象を受けた。
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 相手をしてくれたのはスクールの図書館で記録係の仕事をしているピーター・ヘンダーソンさん。古い校舎の二階にある図書室に案内してくれた。「この図書室はモームの寄付金でできました。それだけでなく、彼は2千冊の蔵書を贈呈してくれました」。私たちが図書室に入って行った時、生徒が学習をしているところだった。突然のちん入者の私に全員、起立して敬意を表してくれた。
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 私は初めて知ったが、モームは第二次大戦後にはこの学校の理事となり、学校の熱心な後援者となっていた。「モームは確かに学校生活を満喫したとは言えないでしょう。でも、彼が慕った校長もいて、すべてが暗い日々ではありませんでした。だから、彼は死去後に、希望に沿って彼の灰は当時の慕った校長が住んでいた家の前のこの庭にまかれました」
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 私がモームをテーマに卒論を書いた時、モームの同性愛疑惑についても言及したような記憶がある。モームを理解する上ではキーワードだと思っていた。今回の旅で格好の伝記に遭遇した。2009年に刊行された “The Secret Lives of Somerset Maugham”(Selina Hastings著)という本だ。モームが隠し通した同性愛の人生が数々の資料、多くの証言によって明らかにされている。
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 それによると、モームは一度はシリーという名の女性と結婚して、女児ライザをもうけているが、彼が愛したのは生涯を通して男だった。男の秘書は愛人でもあった。人生の後半を過ごした南仏リヴィエラや旅先で秘書を通して若い男の子を「買い求め」たりしていた。彼の親しい友人たちには周知の事実だったが、モームは自分の性的志向が世間に知られることを終生恐れた。オスカー・ワイルドが歩んだ人生が脳裏にあったことは間違いないだろう。モームが生きた時代は同性愛に対しより寛容になっていたとはいえ、成人男性の同性愛が法に触れないとされるのはモームが死去した2年後の1967年のことである。
 1938年に刊行された回顧録 “The Summing Up” (邦訳『要約すると』)に彼の恋愛感を良く示している一節(注1)がある。同性愛志向はともかく、相手を愛し、愛される人生を手にするのがいかに難しいかは多くの人が共鳴する思いだろう。最愛の母親亡き後、モームはずっと「愛の放浪者」だったような気がする。
 (写真は上から、キングススクールからカンタベリー大聖堂を望む。モームの貢献大の図書室。モームのメモ書きが見える蔵書。モームの灰がまかれた庭。それを示すプレート)

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サマセット・モーム(Somerset Maugham)②

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 モームは1874年、父親が英国大使館の顧問弁護士をしていたパリで生まれている。上に3人の兄がいたが、両親が相次いで病死したため、10歳の時にイングランド南東部ケント州のウィッツタブル(Whitstabe)という町で牧師をしていた叔父の家に一人引き取られる。叔父は陰気で面白みに欠ける人物だったようだ。叔父夫婦には子供がなく、兄たちともほぼ没交渉だったため、モームは実質一人っ子のように育った。
 ウィッツタブルはカンタベリーからバスで35分程度の距離にある。“Of Human Bondage” ではBlackstable となっている。「white」が「black」に。晩年まで思慕の情を抱き続けた母親を亡くし、見知らぬ土地で陰鬱な少年期を送ったことがうかがえる。
 そのウィッツタブルは拍子抜けするほど、モームの「足跡」は残っていなかった。少年モームが1880年代に歩いたと思われるオックスフォードストリートからハイストリート沿いには当時の建物が残ってはいたが。地元の図書館にもウィッツタブル記念館にもモーム関連の展示室やコーナーはなかった。こちらがモームの足跡を探していると知ると、パソコンや電話でいろいろ、調べてくれたが、モームのことを地元の作家が書いた小冊子を見つけた程度の収穫しかなかった。記念館のレジにいた係の婦人に「モーム関連の展示コーナーを設けたら観光客に喜ばれるかも」と話したら、真剣に耳を傾けていた。
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 少年モームが時に旅心をかきたてた北海を臨むウィッツタブルの浜辺。私がたたずんだ時は6月中旬の爽やかな時だったが、冬には寂寥感漂う浜辺になるのだろう。牡蠣の貝殻が無数にある。そう言えば、oyster と看板に書き立てたレストランを通り過ぎたような。尋ねてみると、ウィッツタブルは牡蠣や海の幸で名高い町だという。その中でもWheelersというレストランが特に有名だと聞き、のぞいてみた。ハイストリート沿いにあり、表がピンク色に塗ってあり、ドアを開けると、魚が置かれたショーケースがあり、奥にダイニングテーブルがあるレストランになっていた。家庭的な雰囲気の小さいレストランだ。
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 メニューから、12個の牡蠣(9.5ポンド)と8£のクラブケーキ(Crab Cake)を注文した。牡蠣がとても美味かった。お店の人の話によると、今の牡蠣は養殖牡蠣で、天然ものが揚がる秋口にはもっと美味しい牡蠣が食べられるとか。この店は1856年の創業というから、少年モームもこの店をのぞきこんだことぐらいはあるかもしれないと思った次第だ。ロンドンから日本人ビジネスマンがこの店に良くやって来るとも聞いた。
 「いや、これは美味い」と舌鼓を打っていたら、お店の人はが「不思議よね。昔は貧しい人たちの食べ物で、金持ちの人は見向きもしなかったなんて」と言う。そう、物の本によると、牡蠣はディケンズが活躍した19世紀には貧者の食べ物だった。女漁師たちが通りの角などでかご一杯に詰めた牡蠣を通行人に売っていたとか。貧者にとっては普段の食べ物であり、富める者にとってはフルコースに取りかかる前に、口の中を清めるために食されたと書いてある本にも出合った。モームの話ではなく、牡蠣の話になってしまった。
 (写真は上から、牡蠣殻が目立つウィッツタブルの浜辺。牡蠣で知られるレストラン。そこで食した牡蠣。評判の店だけのことはある味だった)

サマセット・モーム(Somerset Maugham)①

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 今回の旅もようやく最後の作家にたどり着いた。サマセット・モームで「打ち止め」としたい。私は学生時代にこの作家を卒論のテーマにした。なぜ彼を選んだのか。おそらく、高校時代の受験参考書に彼の随筆か何かで掲載されていて、その平易な英語表現にひかれたのではないかと思う。
 卒論ではモームの代表作 “Of Human Bondage” (邦訳『人間の絆』)のことを中心に書いた。30年以上前のことだから記憶はおぼろげだが、作品の中で幾つか印象に残っていることがあるので、その辺りのことを取り上げてみたい。
 “Of Human Bondage” はモームの自伝的小説であると言われる。1915年に発表されている。彼は1874年生まれだから40歳代を迎え、劇作家としての成功を背景に、自信に満ちていたころと推察される。物語はモームの実人生のように、両親を病気で失い孤児となった若き主人公フィリップが牧師の伯父夫婦に引き取られ、現実に失望しながらも自立していく成長の過程が綴られている。
 フィリップは叔父夫婦の希望に反し、牧師の道に進むことを拒否し、好きな絵画を学ぶためにパリに行く。ここでボヘミアン的日々を享受するようになり、人生の意味を模索する。印象に残っているのは、今で言えばメンターのような存在となる芸術家がフィリップに語る言葉だ。曰く、人生は「ペルシャ絨毯のようなものだ」。フィリップは最初意味が分からず、煩悶するが、やがて、彼が意図したところを理解する。「人生に絶対的なものはない。各自が好きなように生きればいいのだ。ペルシャ絨毯を織り成していくように、各自がそれぞれの人生を織っていけばいいだけのことだ」と。
 こうした思いに至ったところで、人生とは何ぞや、生きることとは何ぞやと問うた東洋の王様の逸話が紹介されている(注1)。この命題を課された一人の賢者が500冊の膨大な本にまとめて参上する。王様は公務に多忙でそんな量の本など読む暇はない。もっと簡潔にと命じられた賢者は20年の歳月をかけて50冊程度の本に収める。齢を重ねた王様にはこれも読破することは無理。それでさらに短くしろと賢者に命じる。再び20年が経過し、年老い、白髪となった賢者が今度は1冊の本を手にやって来る。だが、王様は死の床に就いており、1冊と言えども本を読むことなど不可能。賢者は王様に生きることの意味を一行で説明する。「人は生まれ、苦しみ、そして死んでいくのです」
 フィリップは孤児であるだけでなく、片足が不自由というハンデを背負ってこの物語に登場する。「吃音症」(stammer)の悩みを終生抱えて生きたモームのハンデは肉体的障害で表現されている。フィリップは毎夜、神様に一心に祈る。明日の朝、目覚めたら不自由な足が治っていますようにと。祈りは聞き入られず、彼は信仰、宗教と「決別」する。宗教的な束縛からの「解放」に続き、パリでの生活で人生の「無意味さ」を悟ったフィリップは至福感を味わう。偉くなろうが、人生に失敗しようが、宇宙の壮大な時の流れの中では取るに足らない。あくせくすることはない。代表作を執筆した当時のモームの人生哲学でもあったのだろう。
 (写真は、ロンドン・ウエストエンド。劇作家として大成功を収めたモームの作品はかつてここの劇場街で何作も同時に公演されるほどの人気だった)

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